愚慫空論

国会で泣く大臣 電車で化粧をする女性

返す返すも日本という国は、本当に平和な国だ。

少し古いニュースだが、海江田経産相が国会で泣いてしまうという事件があった。
なぜ泣いたかはよく知らないが、伝え聞くところでは、その理由は自らの境遇なのだという。

大の男が...、などというつもりはない。男だから泣いてはダメ、なんて時代遅れ。
大臣だって人間だ。公衆の前で泣いたっていい。

が、海江田大臣は、民主主義国家の大臣(という呼称はおかしいんだけど)としては失格である。
なぜなら、国会は戦場だから。海江田大臣の涙は無防備な涙。
戦場で無防備な姿を晒すのは、愚か者のすることだ。

だが、海江田大臣だけを責めるのは酷というものだろう。
だいたい、日本人は国会を銃弾の飛び交わない戦場だとは考えていない。
民主主義の基礎は闘争だということを理解していない。

その不理解はしかし、日本人の長所でもある。
日本人は潜在的に、他人を「敵」と見なさない。自己に対する脅威だと思わない。
それゆえに、他人を無視することができる。必要以上に友好的な態度をとらなくてもよい。

日本はよく「安心社会」だと言われる。対して欧米は「信頼社会」。
他人に対する信頼する度合いは、日本人に比べ欧米人の方が高いという。

それはそうだろう。他人は潜在的に「敵」なのだから。
「敵」と共存するには、友好的に振る舞るまい、「平和条約」を締結しなければならない。
「平和条約」を締結するには、相手を信頼しなければならない。

欧米において、社会とは「平和条約」を締結する「場」である。
そして民主主義は、「平和条約」締結のための仕組みであり理念。
多数決の原理と少数意見の尊重がその両輪となっている。


現在、英国では若者の大規模な暴動が大きな問題となっている。
発端は、黒人男性を警官が射殺したことにあったという。
ネットによれば、暴徒の主要メンバーは

「警察に敵意を抱くコミュニティで育ち、疎外され、様々な社会的権利を剥奪された若年層の住民」

だという。

英国は紛れもなく先進国である。にもかかわらず、この状況。日本では考えられない。
確かに近年、特に若年層を中心に社会から疎外される人々は増えてきている。
しかし。
警察に敵意を抱く、ということは社会全体に敵対意識を持っていると考えてよいだろうが、
このようなコミュニティが日本に存在するというようなことは、ちょっと想像できない。

民主主義とは、こうした「敵」と「平和条約」を結ぼうという理念であり営為である。
それは確かに尊い。だが重大な欠点もある。
他人は潜在的に「敵」であるという点だ。

翻って日本はどうか。
日本人にとって、他人は「敵」ではない。
ゆえに、社会が機能しないような非常事態であっても、日本人は秩序を守る。
いや、「秩序を守る」といった理性的行動を採るのではない。
自らの安心を確保するために、利己的に行動するだけのことだ。
緊急時には、安心を確保するために「味方」を求める。
「敵」ではないのだから、容易に「味方」になることができる。

それが平常時では、無視という行動に繋がる。
顕著な例が、電車の中で化粧をする女性。
彼女がそのように無防備な姿を晒せるのは、そこが安心できる空間だからである。
彼女は「敵」はいないと確信している。
その確信は、国会で涙を流した大臣と同じものであろう。

「敵」がいないと確信できる。これは素晴らしいことだ。
だが、残念ながら、それでは民主主義はうまく機能しない。
民主主義は「平和条約」である。
「敵」でもない者と「平和条約」を締結する者はいない。
仮に結んだとしても、それが真剣なものになるはずがない。

皮肉なことだが、日本は平和な国であるがゆえに民主主義がうまく機能しない。

コメント

おはようございます。
これぐらい解りやすく書いてもらうとありがたいですね。
ところで
>このようなコミュニティが日本に存在するというようなことは、ちょっと想像できない。
ですが、日本にもありますよ。
「釜暴」です。ひとりの労働者が警察の餌食になったというきっかけも同じですし、暴動がおきるほど溜まっているいるのも同じでしょう。
とすると寄せ場は民主主義的なのか? 支援という「敵」とは「平和条約」を結んでいたのかもしれない。でも、たまに「平和条約」以上の関係を感じることもあった気がするけどね。まあ支援側がいうことじゃないか。

村社会的な日本

短期留学や仕事で、合計4年ほどドイツ、スイス、フランスで生活した経験がありますが、スイスは少し日本と似ていると感じました。 スイスは山岳地域などがより集まって国家が形成された経緯があり、村社会的な風土が残っています。 スイス人はフランス人ドイツ人程自己主張は強くないとスイス人自身が言っていました。

そんなスイスでも、基本的に他人は決して信頼してはいけない存在であり、一般のおじさんおばさんでも「社会全体に敵対意識を持つ」意識がなければ、自分自身が押さえつけられてしまうと感じています。 2000年間殺戮を繰り返してきた恐ろしい欧米社会では、民主主義は普通の人が生きていくための政治的手段なのだと思います。

日本では、江戸時代以降、平和が当たり前になってしまったために、他人や社会に対する警戒心が無くなってしまったのでしょう。 政治風土も長老達が勝手に政(まつりごと)を決めてよしとされる村政治であり、平和的なものです。

我が家の長女

投票して何かが変わる?と言い放って、投票に行ったこともない我が家の長女が、イギリスの暴動を見て、こんなことして何かが変わる?と言い放ちます。
世の中の仕組みをゆっくり伝えないといけませんね。
我が家の長女の意識改革から始めます。(笑)
長男の問題意識は私とそっくりなんですが。(笑)
女は苦手です。

想像できないは想像力不足(苦笑)

・毒多さん、おはようございます。

過激に表現してみる方がいいのかな(笑)

確かに釜ヶ崎や山谷はそうなのかもしれません。ですが、そこいらは言葉は悪いが「吹き溜まり」ですよね。「構造的に疎外されたコミュニティ」ではなく、「疎外された人たちが集まってできたコミュニティ」。同じようだがちょっと違う。

日本で同種なのは、いわゆる「同和」です。「解放同盟」という名が別の大臣のときに取り沙汰されましたけど、ああいったマフィアは民主主義的ではないですよね。でも、こういった形は日本のみならず世界中にある。

それからもうひとつ。思い浮かんだのは沖縄です。日本でもっとも民主主義的な民衆は沖縄県民ではないでしょうか。県民集会というと大勢の人が集まる。にもかかわらず、そちらで議論しましたよね、「牧歌的」なんです。闘争的になりきれない。かといってマフィアを組織もしない。こうした気質を無気力でだらしがないと見ること出来るし、そう捉えている人も多いでしょう。「世界標準」でみればそう見るのが妥当かもしれません。が、私はその「世界標準」にこそ異を唱えたい。「牧歌的」でいられる強さを見つめてみたい。それこそが「9条」だと思うから。

Re:村社会的な日本

・もえおじさん コメントありがとうございます。

仰るように、パックス・トクガワーナの時代が日本人に与えた影響は大きいでしょうね。

でも、日本人の平和志向はもっと根が深いような気がします。おそらくは自己確立の在り方に根ざしているのだと想像しています。他人との差異を際立たせることで確立された水平的自己と、自己を掘り下げることで確立された垂直的自己の差。

欧米社会は闘争の歴史ですが、日本だって負けていません。ムラというのは生活共同体であると同時に、軍事組織でもあった。その性格は平和な江戸時代になってもずっと保持されていた。基本的に武士は農村へは立ち入ることが出来なかった。共同体自治が基本だった。それを支えたのは武力だったんです。

ここから考えられるのは、武力の保持と平和志向は正反対のものではないということです。

例えば。日本人は奴隷制度を採用したことがありません。有史以前、それと戦前の一時期は該当しないかもしれませんが、ほぼ奴隷制度はなかったと言ってもよい。人間の間に階級があるのと、人間の外に階級を作るのとでは似ているようでも大違いです。また、朝廷も幕府も後宮を作りましたが、中国のような宦官は採用しなかった。

そう、奴隷や宦官は体制の中へ取り込まれた「敵」なんです。つまり、体制の安定による平和はかならずしも「敵」をなくすというわけではない。確かに武力による平和よりも「平和条約」によって実現される平和の方が進んでいるということはできるでしょう。しかし、そもそも「敵」がいない平和とは質が違うのです。

「変える」「変わる」の違い

・scottiさん

たいへんに興味深いお話です。

社会は「変える」ものか? それとも、「変わる」ものなのか?

娘さんは、「変わる」ものだと思っているのでしょうね。意識的にそう思っているかは別として、潜在的には。対して男性陣は「変える」ものだと思っている。意識改革なんて、まさに「変える」ですよね。

確かに今の社会は「変える」社会です。一部の者たちに都合良く変えられている。その現実を認識したときに、そこを「変える」べきと考えるのは当然の理ですし、「そんなことをして何が変わる?」と言うのは、投げやりに聞えます。実際のところもおそらくそうなんでしょう。

ただ、もうひとつ別の「実際のところ」があると思います。特に日本では、女性が変わったときに社会が「変わる」。男たちがいくら「変える」と力んでみても、実際に社会の動向を左右しているのは女性ではないでしょうか。そして、「変わる」女性たちが男性のように「変える」に変貌してきたがゆえに(例えばカツマーのように)、日本は変わってしまったのではないのか。

典型例が子どもの教育です。今の教育は「変える」教育です。子どもは自ずと「変わる」ものであり、そこを支えるのが子を「育む」ということですが、今は親の願望を「教えて」「変える」になってしまっています。その先頭を走るのは母親であり、そして、その成果が今日の日本のエリートたちの姿なのではないのでしょうか。

私は、今の日本は「変える」のか「変わる」のかの岐路に立っていると思っているのです。子どもの自然な「変わる」を阻害する放射性物質が撒き散らした社会を「変える」のか、そんな社会を作り上げてきた我々自身が「変わる」のか。

「変える」と「変わる」の差は微妙です。ですが、おそらく私たちは「変わる」人種です。そしてそれはそう簡単には変わらない。ならば何によって「変わる」のか、です。今までは「空気」によって変わってきた。ゆえにマスメディアが作る世論に引きずられてきた。安全神話も根拠のない空気でした。だが、これからは「変わる」と覚悟した者から変わってゆく。

ならば。「変わらない」という者を「変える」者に「変える」のではなくて、「変わる」覚悟を探すように問題意識の方を「変える」必要があるのでないのか。私はそんなふうに思っています。

平和条約とは挨拶程度の意味

愚樵さん、民主主義の原則に『多数決の原理と少数意見の尊重』が両輪といいながらプラス『平和条約締結』も、とは理論の先走り。
あるいは欲張りすぎです。
多くの日本人が今でも『日ソ中立条約を破って火事場泥棒云々』と主張しているのですよ。
平和条約とは都合の悪くなれば(片一方の都合で)何時でも破られる種類のものだとは日本人は、未だに気が付かない。
別の例では、日本の隣国である北朝鮮に対しては平和条約どころか、この国が日本の近くに現実に存在するとの客観的事実さえ公式には認めていません。
『北』は地域名で国家名では無いのですね。
それでは、平和条約とはそもそも何か。
外国などに旅行した人はエレベーターで乗り合わせた見知らぬ他人に必ず挨拶するアメリカ人の礼儀正しさを褒めている。
日本人同士では普通は挨拶しない。
アメリカ人が挨拶する原因は、極簡単で狭い密室で見知らぬ他人と沈黙している危険性に気が付いているからですね。
日本人のような『沈黙』には到底耐えられないのです。
相手がピストル強盗なのかと疑っているから、挨拶を行って様子を伺う(緊張感を緩和する)必要があるのです。
日本人ではそもそも危険性に気が付いていないから、大切な挨拶の必要性を感じない。
アメリカ人が礼儀正しいのではなくて、挨拶はセキュリティー上の配慮なのです。
これは国家間でも全く同じ原理が働き、セキュリティー上(安全保障上)の配慮で平和条約という名の挨拶を行う。
米朝は名目上戦争状態なので、平和条約は無いが定期的に停戦委員会などで挨拶の会合を重ねている。
ところが日本国は平和条約がセキュリティーであるとの原則が判らないので、エレベーターの狭い密室に『北』と同室しているにも係わらず、あたかも『現実には隣人(北朝鮮)は存在していない』として振舞っているのです。
相手側の北朝鮮から見ればこれ以上に公衆道徳(マナー)に反する行為は無いと日本を不愉快に感じている筈です。
この隣国を相手とせず完璧に無視する日本国の態度とは、電車の中で化粧する若い女と同じであるのですが、これに気が付いている日本人は少ない。

毒多さんの『暴動を起こす寄せ場は民主主義的なのか?』 の視点こそ、民主主義の隠されたもう一つの恐ろしい一面なのですね。
軍隊での兵士の反乱では有名な戦艦ポチョムキンの反乱など、水兵では色々歴史の残っているのですが、不思議にも陸兵は極端に少ない。
日本で唯一暴動らしきものが起きたのは第一次世界世界大戦やら対ソ干渉戦争の時代に富山の漁村の暴動が発端での米騒動なのですが、共通項は海ですね。人々は土地に縛られない、ある意味では根無し草なので、この意味では釜ヶ崎とも共通する。
民主主義の本当の意味は選挙に行くことではなくて、現在の政府に不満なら大勢が武器を持って監獄を襲撃したり、積荷のお茶を海に投げ込むなどの、『勝ち取る民主主義』のことなのです。
ところが『与えられた民主主義』が輸入された日本では、この発想は民主主義の概念の中には全くないのですね。
日本では僅かに最下層の日雇い労働者だけが理論では無理だが本能的に動物的な勘として『自らが勝ち取る民主主義』との本来の民主主義の原理を理解しているのでしょう。

事実誤認

寄せ場に関わってきて多少勉強してきた者としてひとつだけ。
戦後の寄せ場は「吹き溜まり」ではなく、「構造的に疎外されたコミュニティ」です。

・宗純さん

民主主義の原則に『多数決の原理と少数意見の尊重』が両輪といいながらプラス『平和条約締結』も、とは理論の先走り。

えっと。“プラス”とはどういうことでしょう? 私はそのように言った憶えはありませんが。

「平和条約」というのはむろん比喩で、「社会契約」とすべきなのかもしれません。ま、でも、宗純さんに「理論の先走り」という受け取ってもらえたなら是とすべきでしょうか。そのくらいのつもりで書きましたから。

・毒多さん

事実誤認とのご指摘ですが、よくわかりません。

寄せ場が「構造的に疎外されたコミュニティ」だということは、新たな部落差別だということなのでしょうか。コミュニティのなかで世代継承がなされている、と?

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