愚慫空論

日本人の劣化と民主主義

内田樹氏の『ネット上の発言の劣化について』が議論を呼んでいるようだ。

私の理解力では内田氏が何を言いたいのかよくわかりかねる部分もある。だから、当たっているかどうかは自身がないが、同じような内容の文章をつい最近、読んだような気がする。

『反原発vs.原発維持 単線的な2項対立を乗り越え、社会の「総リスク」を減らす視点で議論をしよう』
 ――ジャーナリスト(恵泉女学園大学教授) 武田徹:ダイアモンド・オンライン


内田氏はきっと、原発のことだけを指して言っているわけではないと仰せになるだろう。だが、昨今の状況から主に原子力にまつわることであると言ってもそう外れてはいないだろうし、「劣化」は「単線的な二項対立」だろうし、「言論の自由という原理」もその目的はと考えると「社会の総リスクを減らす」としてまず、よかろう。

内田氏の方はよくわからないところもあるが、武田氏の主張は私にもわかりやすい。「単線的二項対立」は褒められたものではない。乗り越えられなければならない。が、単純に「単線的二項対立」は良くないものなのか。私は素朴に疑問を持っている。いや、それどころか、「単線的二項対立」こそが民主主義国家日本に決定的に足りないものなのではないか、と思っている。

民主主義という制度の基盤にあるのが「単線的二項対立」である。だいたい議会制民主主義というものが戦争の代替物なのである。戦争は「単線的二項対立」のもっとも端的に表れであるし、民主主義はその端的な表れを避けるために代替物。代替物という表現が悪ければ知恵と言い換えてもいいが、根幹に「単線的二項対立」があることには変わりはない。確かにそれは乗り越えなければならないものだが、乗り越えるよりも先にまず基盤が盤石でないことには始まらない。日本は、幸か不幸か、この基盤が盤石とは到底言えそうにない。「和を以て貴しとなす」お国柄。



「オープンで公正・客観的・正確な議論をし結論を出す習慣を日本人自身が身につけるべき」
「日本の会議は、自民党も民主党も、絶対に多数決をしない」
「自民党ではどうしても意見がまとまらない場合、反対者に欠席してもらって全会一致ということにしてしまう。民主党は結すらとらない」
「民主主義というものを理解していない」

そんな日本で「単線的二項対立」が可視化されることは、それは一方では「劣化」ではあるのだけれども、民主主義を根付かせるという方向性では良きことなのかもしれない。社会が進歩してゆく過程というわけだ。

 『進歩する社会は平等ではない』(月明飛錫)

マスメディアが凋落し、その他のメディアが存在感を高め、ソーシャルメディアが普及していくなかで、磯崎氏のようにポジティブな側面を見る人は少数派で、ネガティブな利用の仕方をしてしまう人が出てきているのかもしれない。幸いなことにソーシャルメディアの金銭的コストは低いので、貧富の差がそのまま格差になることはないが、情報に対する認識の格差が、この差を生じさせることになるのだろう。そして、いま情報の階層化、あるいは情報格差が生じるのは、社会が進むにあたって避けられない段階なのではないかと思う。

それを是正するための啓蒙活動は必要になると思うけれど、自分の発信する情報の価値について吟味したほうが、プラスのフィードバックがもたらされるという認識が広がれば、それが広まっていくのではないだろうか。

人間は「折り合い」を重ねながら生きていくものだ。「折り合う力」こそが生命力といってもいいかもしれない。「単線的二項対立」が呪詛になるのは「折り合い」を阻害するがゆえに、である。人間には、自らの生命力を発揮するため、「存在しないもの」とさえも折り合うことができる。そうした能力を備えている。

『「存在しないもの」との折り合いのつけ方について』(内田樹の研究室) 

が、「折り合い」のマナーは文化によって異なる。日本人のマナーは「小さな折り合い」である。対して民主主義に必要なマナーは「大きな折り合い」。「小さな折り合い」は「大きな折り合い」のために棄てられなければならない。「小さな折り合い」を棄てることが「単線的二項対立」なのである。「小さな折り合い」は超越的な「折り合い」である絶対神に捧げられなけれならない。そうした態度が民主主義や言論の自由を支えている。

このように見るならば、日本人を民主主義的であれと啓蒙する態度そのものが、実は呪詛でありハラスメントなのである。何千年にもわたって日本人が培ってきた生命力の引き出し方――「小さな折り合い」――を棄てよと矯正するものなのだから。たとえその先に「大きな折り合い」があるにせよ、私たちは絶対神に帰依することはまず不可能だろう。かといって、人間が作る国家といったようなものを「折り合い」の担保にすることは危険極まりない。「折り合い」の最終的な担保は「存在しないもの」でなければならない。

結論。日本人を劣化させてきた原因は、民主主義という呪詛なのである。ネット発言の劣化は、日本人劣化がソーシャルメディアの発達によって可視化された結果に過ぎない。

コメント

実に判りやすい

内田樹氏の『ネット上の発言の劣化について』ですが、この『主張』の対象が近頃ネット世界だけに蔓延るいわゆる小林よりのりの漫画で『真実の歴史を知った』(親や世間や日教組の先生に騙された)と思っている嫌韓中の若者達なら、実に判りやすいし、誰もが納得する話ですよ。
彼らのネット上の他人を傷つけ自分自身も傷つくネットゲリラ的な匿名による悪罵の数々の不思議は、まさに宗教的な呪術であり『呪いや、たたりの一種』であるとの、判断は素晴らしく私としても何の不満も無いし全面的に賛成します。
心優しい日本の若者達は、密教的な丑の刻参りのように誰にも見られない深夜に匿名で、憎むべき相手に悪罵の限りを尽くしている。
ネットの仮想空間で、しかも匿名で誰にも見られていないから、出来るのですね。
『呪い』ですが、本当に呪いが実現する為の条件は呪う側と呪われる側の両方の協同作業が必ず必要であり、片一方(呪われる側)が無視すれば『呪い』は成立しないと、『痩せゆく男』でスティーヴン・キングは語っているが、
これはネット世界の日本の哀れで小心な極右青年の『呪い』にもぴったりと当て嵌まります。
昼間に面と向かっては絶対に出来ないのですね。
此処が似ている様で欧米キリスト教の一神教世界のネオナチなど極右とは大きく違う。
彼等は実名でネットに主張を投稿して実際に実行するのです。ノルウェーで100人を虐殺したキリスト教原理主義などとは日本の例は正反対なのです。
ところが内田樹が問題なのが論の主語に当然あるべきネットウヨとけ嫌韓中とかの文字が何処を探しても無いことですね。
普通なら忘れる筈が無いのですよ。
ですから、これは如何も、話が違うのですよ。
この内田某が取り上げているネット空間で匿名で呪いの言葉を垂れ流す哀れな連中として、密かに取り上げているのは現実のネット世界の嫌韓中ではなくて、実はそれとは縁もゆかりも無い。
内田某の考えている対象は、福島第一原発事故の現実の余りの悲惨さの影響で『脱原発』を主張している人々なのですよ。
安全神話の呪縛から原発推進のしがらみから抜け出せない政府やマスコミや原子力村の学者などに対して『非難の声を上げている』人々の当然の正しい主張を『批判や罵倒部分がある』との理由で『呪い』であると正反対に描いているのです。
これは内田樹の脳内にだけある特殊な妄想であり現実ではない。何とも主張が胡散臭く陰湿であり、卑劣。

もう一方の武田撤の主張は『単線的二項対立は褒められたものではない。乗り越えられなければならない』との主張はもっと露骨。
福島の現実を見れば誰でも感じる(今までの間違っていた原発推進)『怒り』に対して、褒められないことであると断定しているのですから、その目的は明白である。
何とかして今の原発反対の世論に水を差したいのですね。
武田撤は、あからさまに原発は安全で夢のエネルギーとは言いたくても言えないので、仕方なく、ゲリラ的に正体を隠して反原発を攻撃する卑劣で薄汚い『隠れ原発推進論』でしょうね。

3・11事故以前の原発安全神話全盛時なら滅多に見られない種類の文章ですが、安全神話が危機に瀕している現状では原発安全神話の魑魅魍魎がわんさかわんさか湧いて来ています。
ネット芸人の阪大物理学教授の菊池誠教祖は、今までどうりの相変わらずの卑劣なやり方で、長年原発安全神話を告発している広瀬隆氏を『とんでもである』と個人攻撃をして、ニセ科学を批判したつもりが、自分の薄汚いニセ科学ぶりがばればれで、告発したつもりが薮蛇でいまではエアーな御用学者の筆頭に上げられている始末です。
電波芸人の香山リカもブログで『反原発は引きこもり』と主張、およそ科学者の端くれなら恥ずかしくて書けない種類のゴミで、当然みなさんに批判され、当然の謝罪におい込まれたのですが、その謝罪の文書の支離滅裂の情けなさ過ぎる。
この香山リカがネットで袋叩きに遇うさまを見て、今回内田樹の記事が書かれた可能性が高いでしょう。

公衆便所と化したネット空間

・宗純さん、おはようございます。

内田氏があのような文章を書いたのは、香山氏とは関係ないと思います。直前に『140字の修辞学』なる記事がアップされていますが、これを読んでみると、なんとなく理由が推測できる。ツイッターで面白くないことでもあったんでしょう。

私は武田氏にしても内田氏にしても、良心的だと捉えています。いえ、事実は宗純さんの仰るとおりなのかもしれませんが、「贈与と思いなす」ということなのです。ただ、そうは思ってもこの贈与には困惑させられる。そういった趣旨の記事なのです。

というのも、両氏の贈与が「金持ちの贈与」だからです。人間は贈与を受け取ったと感じると、返礼の義務を科されます。それはいいのですが、「金持ち」からの高価な贈与は「貧乏人」にはありがた迷惑。おふたりの主張は、そういった趣なのです。

現状、ネット空間は公衆便所と化しています。宗純さんもご指摘の通りです。便所で排泄させる汚物を内田氏は「呪詛」と上品(?)に言っているだけのこと。でも、公衆便所で用を足さずに済むのは、自宅に便所がある「金持ち」だけなんですね。大半のネット住人は、共同トイレを使わざるを得ない「貧乏人」なんです。もっとも今回の内田氏は、悪いものでも食べたらしく、たまらず公衆便所に駆け込んだようですが(笑)

ネットが公衆便所と貸すのは「相手が見えない」からです。相手がいるとはわかっていても、「見えない」からいないも同然なんですね。内田氏はそこをマナーが悪いといって批判している。

とはいうものの、人間は宗教的な動物です。「存在しないもの」を想定する能力を備えている。そして「存在しないもの」が居ると想定するような場所では、用は足さない。無神論者だと公言する日本人でも、神社のなかで用を足すのは憚られるものです。(一休宗純は、お墓の前で放ったそうですが。)

が、日本人は「存在しないもの」を近くに感じる習性を持っている。遠くには感じないんです。それが欧米人との大きな違いです。アチラの人は「存在しないもの」が遠くにそびえ立っていると思っている。民主主義や言論のマナーはそこから派生したもの。だから、個々の物理現象かかる神の意志を否定する科学者も、超越神を信仰できる。科学的・客観的議論が「存在しないもの」を意識した良心的な議論になる。ところが日本人はそうはいかない。遠くの「存在しないもの」は文字通り存在しない。その上、科学が近くの「存在しないもの」を否定した。だから本当に「見えるもの」にしか敬意を示さなくなった。その結果が、ネットの公衆便所化なのです。

(「見えるもの」は「存在するもの」ではありません。念のため。)

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