愚慫空論

不安を引き受ける日本人

宗純さんの記事が面白い。

『日本人の皆さん、少しは怒りましょう』(逝きし世の面影)

『韓国の中央日報日本語版』

07月26日付け中央日報日本語版に、『日本人の皆さん、少しは怒りましょう』と題する皮肉たっぷりのコラムが書かれている。
記事では、
『日本政府はセシウム汚染最大許容値を牛肉1キロ当たり500ベクレルに決めた。 ドイツなど欧州国家(成人8ベクレル、子ども4ベクレル)に比べてなんと62-125倍も高い。
どう考えても非正常的だ。
さらに今回の『セシウム牛肉』からは最高4350ベクレルのセシウムが検出された。
土下座して国民に謝罪しても気がすまないほどのことだ。
ところが日本政府は高姿勢だった。 『長期間ずっとセシウム牛肉を食べない限り健康に影響はない』という言葉ばかり繰り返した。
原発周辺の稲わら一つきちんと管理できないにもかかわらずだ。
実におかしな国だ。』
『さらに理解できないことがある。
それは日本の国民だ。
飲食店・スーパー・給食を通して自分または子どもの口にセシウム牛肉が入ったというのに怒らない。
各メディアのサイトをチェックしたが、畜産農家や消費者の抗議デモがあったという記事は1件もなかった。
これほどになると非正常的というよりも非常識的だ。』
『国民が「これは間違っている」と怒らないため、政府が怠慢になり、勝手に隠蔽するのだ。
それでも我慢して政府の言う通り忠実に節電して汗を流す日本人をそばで見ているとやるせない。』
『・・牽制装置が作動していないからだ。 国民の怖さを知らないのだ。』
『・・韓国国民も覚醒しなければならないが、実体が明らかなセシウム牛肉を食べてもネズミが死んだかのように静かな日本国民はもっと大きな問題だ。 「日本人の皆さん、 少しは怒りましょう」。』


読んで、笑ってしまった。まことにごもっとも。

そして、笑ったあとに思った。なぜ笑ったのか、韓国人は訝しく思うだろうな、と。いや、日本人でもさすがに笑うのまでは訝しく感じるか?

日本人はなぜ怒らないのか? 不安を社会へと転化しないから。この性質は、震災直後に世界中から賞賛を浴びた、「秩序正しい」行動と同じ行動原理による。日本人は、不安は個人で引き受けるものだと思っている。だから、社会へは表明しない。不安の社会への表明は、怒りになったり悲嘆になったりするが、どちらも日本人の「美学」からは反する。

日本人が怒るときもある。それは世論が怒ったとき。マスメディアが怒ったとき。全部が全部ではないが、かなりの人が同調して怒る。この場合の怒りは、不安の表出ではない。逆で、世間から取り残されるという不安を解消するために怒る。怒っている自分に安心するために怒る。放射線被曝の問題では、マスメディアは不安を煽ってはいるが、怒ってはいない。だから日本人は怒らない。

こうした日本人の心性はどこからくるのか? 自己確立の在り方からくる。以前にも引用した内山節氏の主張を再掲してみる。

 伊藤整によると、欧米人は個が確立しているが日本人はそれが弱く集団主義だというのは誤りで、個の確立のされ方が違うのである。欧米の個の確立は、人間である他者に対して自己を示すかたちの個の確立になっている。簡単に述べてしまえば、私はあなたとは違うのです、というふうに自己を際立たせるのが個の確立なのである。ところが日本の個の確立は違う。日本では自己を極めることが個の確立であった。だから自己を確立しようとすると、人間としての他者はむしろどうでもよいものになり、ひたすら自分の内面を掘り下げていこうとする。自分の奥にある自分をみつめながら、自分ならではのものを確立しようとするのである。この精神の習慣が、自我をテーマに小説を書こうとしたとき、私小説という形式に作家たちを向かわせることになった。
 簡単に述べれば、伊藤整の提起はこのようなものである。かつての日本では、日本人は個の確立が弱く、それが近代化を阻害しているといわれたものだった。私もそういわれて育った世代である。だが疑問も残っていた。というのは日本の古典文学、たとえば『源氏物語』でも『枕草子』でも何でもよいのだが、を読んでみると、そこでは個の世界が展開している。『日本霊異記』には、山に入って修行をする「個」がいくらでもでてくる。『枕草子』などは、うんざりするくらいに自我の世界が書き込まれている。それに日記という形式はヨーロッパでは18世紀から発生してくるが、日本では『土佐日記』の時代から一般的なものである。日記は自分が自己をみつめるから書ける形式で、ヨーロッパでは近代的個人の形成とともに発生してくるのだが、日本では古代からありふれた形式なのである。それなのに、なぜ日本人は個が確立していないというのか。そんな疑問が私にはあった。
 その後上野村で暮らすようになり、日本の伝統的な民衆精神について考えるようになると、そこからみえてきたものは、まさに伊藤整が語ったような精神の世界であった。欧米的な個の確立を私は水平的な個の確立と呼んでいる。水平的な人間関係のなかで、個が確立されるということである。それに対して日本の個の確立は垂直的である。自己が自己を掘り下げていくように個を確立しようとする。だから個をみつめたときは水平的な、人間としての他者が消える。自己の内奥だけがみつめられるからである。


社会のなかで他人との差異を際立たせることで水平的に自己確立をする者は、不安を不正と捉える。不正を為しているのは当然社会だから、水平的「個」は社会を糾弾せずにはいられない。そういった人間からみると、日本人は「個」を確立していない、不思議で非常識な人間に映る。これは致し方ない。だが、日本人はそのような「個」の確立の仕方をしない。私が笑うのはその差を理解せずに自らの規準で判断してしまうことの滑稽さゆえにだが、笑ってはいられない部分もあって、それは当の日本人自身が自身の自己確立の仕方を忘れてしまっていること。だから、「美学」に従って個人で不安を引き受けるのはいいが、どうやって不安に対処してよいのかわからない。最悪の場合、自殺という方法を選択する。日本人は不安を解消するために共同体を作るのである。社会は〈システム〉だが、共同体はそうではない。いうなれば〈クラウド〉だ。自然を含んだ共同体という〈クラウド〉で自己確立をした者は、不安を〈クラウド〉へ帰することで「安心」を得る。心の安定、近頃では「癒し」といったりする。

このように捉えれば、日本人がマスメディアをどのように捉えているかも理解出来る。〈クラウド〉だ。だからテレビは「茶の間」なのである。あらゆる番組にタレントが出てくる。自然の美しさを伝える番組にくだらない俳優が出てきたりする。スポーツの放映にジャリタレが出しゃばる。ニュースキャスターをクイズ番組の司会者が務める。

文明国は基本的に〈システム〉型だ。欧米も中国も。韓国も、もちろん同じ。それは、〈システム〉は効率が良いからである。だが、人間という生き物は基本的に〈クラウド〉。〈クラウド〉は〈システム〉よりも効率が悪い。高い情報処理能力が要求される。日本は高度な文明を発達させながらも、基本形の〈クラウド〉志向を保持した希有な例だ。そのことを〈システム〉型の教育に適応した者ほど忘れている。和魂洋才、漢心(からごころ)と〈システム〉がしっかり分離されていたことを忘れているのだ。

コメント

日本人は、怒りの矛先と、その矛先に有効な怒り方を知っている。そして、どう怒れば、自分たちにとって最大公約の幸福を実現できるかも知っている。
その証拠に、沖縄は革新系が実に強い。2009年は圧倒的な差で民主党が勝った。食の安全を順守しようとしなかった企業は消滅へと追い込まれた。

日本人は静かに戦っている。

私に反抗的なブロガーが求める政策実現や選挙結果にはなってないのは事実だが、それは、「君たちが求めているものは、日本国民の大多数が求めているものではない」ということなのであって、そうした謙虚さが必要である。

私のコメントに反対したり嫌悪するようでは、それがまだないというのは事実である。ましてや、私のコメントを削除したり拒絶するようでは、そのブロガーは、日本国民の共感を得ることなど到底不可能である。

謙虚になれ、ブログ主よ。

わくわく44氏よ、謙虚になれ

とだけ、コメントを返しておきましょう。

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