愚慫空論

米とぎ汁から乳酸菌溶液をつくる

米とぎ汁乳酸菌の運動が始まってから,はや3ヶ月が過ぎた.
いま,実際,百万人もの人たちが米とぎ汁の乳酸菌で豆乳ヨーグルトをつくり,
さらに,乳酸菌で浴槽を放射能ゼロ空間にして,「1時間の疎開」をしている.
これは,かつてなかった生きた乳酸菌運動であり,社会現象にもなっている.
これだけ大きな運動になれば,反動もでるし,批判や非難も湧いてくる.
なにしろ,生米を洗った水をペットボトルに入れ,発酵したら肺に吸い込め!
という,「世の常識人」から見ると,無謀きわまりない提案なのだから…,
「米を洗った汚水など雑菌で一杯だ! お前は子供を肺炎で殺す気か?!」
という非難は当然のことである.
とくに「殺菌・消毒の思想」に凝り固まった「常識人」は,非難ごうごうだ.

なぜ? どうして3ヶ月も経ってから,「米を洗った汚水など雑菌で一杯だ!」
などと言い出すのか? と怪訝(けげん)な気もするが….
殺菌・消毒が主流の世の中なのに,雑菌も含めて発酵菌を増殖させろ!
部屋の中を菌やカビ(酵母)で一杯にしよう! その菌を毎日飲もう!
というのだから,「常識人」は穏やかではないだろう.


何を隠そう、我が家では飯山式の米とぎ汁乳酸菌溶液を毎日のように製造している。もちろん、豆乳ヨーグルトも。

主犯は妻だ。3.11以降、妻もツイッターに目覚めた。といっても、ツイートはしない。私のアカウントから閲覧しているだけ。たまにリツートしたり、フォローしたりはしているようだが。
(ちなみに大のお気に入りは、。といって、信奉者ではないので、一応、念のため。)

飯山式乳酸菌培養術は、妻がネット上で“発見”した。以来、実践している。

ネット上にはこの他にも、さまざまな放射能対策の「民間療法」が蔓延している。『SPA!』という雑誌で、それらがひとまとめにされて批判されたらしいが、そういった批判はいずれ出てくるだろうと思っていた。私が見た範囲では、BLOGOSにもその手の批判記事が出ていた。

『子供を守りたい親の気持ち? 知るかそんなもの!』

こうした記事の主張は理解出来る。飯山氏がいうところの「常識人」の思考だ。乳酸菌が放射能に効くはずがない、という「常識」は私も共有する。そればかりではない。

 震災以降ということしか覚えておらず、どんな文脈だったかも忘れてしまったのだが、ツイッターで「子供を守りたい親の気持ちをないがしろにしないで」という旨のツイートを目にしたことがある。そのツイートを私は、「なるほど、ある種の人たちにとって、守りたいのは「親の気持ち」であって、あくまでも子供は気持ちを体現するための器に過ぎないのだな」と読んだ。

この指摘にも共感するところは大。守るべきは、「子どもを守りたい親の気持ち」より「子どもの健康」。そこを見誤って、神経質になってしまっている人も多いという指摘は正しいだろう。

だが、私はこうした批判には共感しない。下敷きにしている「構図」に違和感を感じるから。その構図は、こうした民間療法を採り入れる人たちは、そこへ“縋っている”のだという先入観から生じてきているように思う。

“縋る”とはつまり「依存」。短絡的に“乳酸菌が効く”と考えるのは「依存」であろう。医薬品と同列に乳酸菌を捉えるのは、私も支持しない。私が乳酸菌を支持しているのは、それが「自立」であるから。効くかどうかは判然とはしない。効くに越したことはないが、効かなかったからといって提唱した飯山氏を批判するつもりはまったくない。「自立」のために採用したのであれば、提唱者の批判はまったく筋違い。責任は自分たちで引き受けるのが筋だ。「常識」はこういった図式は排除して、「依存」を批判する。

その構図は、結果としては「自立」を妨げる方向へ作用していると私は感じるし、そこを批判したいと思う。「依存」の構造を意識せずして「依存」している方法だけを批判するのは、暗に別の「正しい方法」へ依存せよというメッセージを発することになる。『子供を守りたい親の気持ち? 知るかそんなもの!』は、まさにそういうメッセージを発しているように私は受け取る。ここにあるのは、“「殺菌・消毒の思想」に凝り固まった「常識人」”の思考だ。

ことの順序を間違えてはいけない。親の気持ちよりも子どもの健康。これは当たり前。が、これらは二者択一ではない。親の気持ちを上滑りさせずに、子どもの健康を考える。政府は当てにならない。自ら方法を探すしかない。「自立」するしかない。米とぎ汁から乳酸菌を培養するという方法は、その方法の当否はともかく、「自立」的な方法である。免疫力を高めようという目標設定の在り方も。というわけで、私は飯山式を支持する。

最後に余談だが、豆乳ヨーグルトの食べ方について。今、私が気に入っているのは梅ジャムと一緒に食べる方法だ。ヨーグルトといっても元は大豆だから、風味は豆腐に近い。なので、普通のジャムはもうひとつ合わない。が、梅ジャムはいける。我が家では紀州棲息時以来、梅ジャムを作る習慣もあってちょうどいい。あとは、黒ごまも良かった。オーソドックスには醤油だったりするが、これだと、まんま豆腐になってしまう。ま、それはそれで美味いけど。

コメント

やっぱり、コメより、ブドウだ

なるほど、コメのとぎ汁にさえすがる思い、ですか・・・
正直、振り回されてるなぁ、とは思いますが、◯◯にさえ縋る思い、という「思い」そのものを批判、軽蔑する気にはなれませんね。
飯山氏という方は「自立」のために提唱したのですか? まあそうと言えなくもないかな。では、採用した諸氏は「自立」していくのでしょうか? 自己責任でもって採用し自立できる人が多数ならばいいのですが、飯山氏のそれをマスコミが「嘘だ」と一大キャンペーンしたとしたら、採用した人も「騙された」と飯山氏を責めそうな気もします。

ところで、ワタシはコメのとぎ汁は、作る気も飲む気もありませんが、ブドウのとぎ汁、、、研ぐというより踏み汁は好きです。雑菌によって腐らせたヤツをよく呑みます。昔、知人が踏んで腐らせたヤツを呑ませてもらい、いつか自分で作りたいと思いながら、できずにいますが、あれは呑み過ぎると自立できなくなります(笑)

・毒多さん

えっと? ブドウ? 雑菌で腐ったヤツ? はいはい、そうですね。

ところで、『子供を守りたい親の気持ち?』の記事をBLOGOSは“腐った米のとぎ汁を噴霧する親”とトピックスに紹介していました。これを見て、誰か知らんが本当にバカだなと思いましたよ。腐敗と乳酸発酵の区別もつかない。ま、だからこそ「依存」になってしまうんですがね。

米とぎ汁を発行させるのもブドウを発酵させるのも、はたまた味噌を作るのもキムチを作るのも、チーズもクサヤも、とにかく自身の感覚を使って判断しなければなりません。それができなければお話にならないんです。で、自身で判断するのが「自立」の第一歩。そんでもって、そこから自身の体調を整えていく。いや、飯山氏の言説はそこに留まらず、自身でも指摘しているとおりに「トンデモ」まで行くんですが、まあ、それはそれ。そこまで含めて、自身で判断すれば良いだけの話なんです。

だから、飯山氏の意図がどこにあろうが、関係ないんですよ。自身がどのように受け取るかが問題だから。

>では、採用した諸氏は「自立」していくのでしょうか?

さて、それはわかりません。ただ、自立を促したいとは思いますよね。自立という観点から見れば効くか効かないかは二の次です。自身の判断で行動したかどうか。行動の結果を自身に感覚で判断できるか。そこが問題なんですから。

>◯◯にさえ縋る思い、という「思い」そのものを批判、軽蔑する気にはなれませんね。

「思い」そのものの批判は、私はありだと思います。建設的な方向ならば。ただし軽蔑はいけません。軽蔑になってしまうのは、別の何かに「依存」しているだけのこと。

私は、この飯山式をアキラさん提唱の野口整体の方法論と、同じ方向性のものと捉えているんです「自立」を促すための方法論として。(なんていうと、アキラさんにおこられるかな?) 

方法としては野口整体の方がずっと高級だろうと思うのですが、その分、アクセスし難いところがある。本だけでは実体はつかみづらいし、指導を仰ぐといっても講師先生が近くにいるとは限らないし。米とぎ汁はその点、手軽ですから。先生も要りません。

(私のところからアキラさんのところへは遠くはないようですがね。富士山のあちらとこちらで。高級な方にも興味は大ありなんですが...)

内緒話

こんにちは。
僕のところ、ちょっと話がとっちらかっちゃったようになったんで、こちらで。
ここで話せそうなので、ちょっとラッキーです。
お邪魔します。 m(_ _)m

愚樵さん、あの「流れ」記事、パニクってグルグルしてる人用へのメッセージ(術)なんですから、「学」持ち出しちゃダメですよ~。 (^_^;)
・・・と密かに困っていたのでした。 (^o^)

僕が提唱している野口整体の方法論、確かに「自立」を促すために「この状況を利用している」という面があります。
けれど、一番のポイントは、気になる人たちが自ら簡易線量計で自分の住んでいる環境の線量を計って確認してみるように、自分たちの五感で確認できる具体的な「手がかり」を提示したかったんです。
それがないから、みんなパニクるだけしかないし、不安は増していく一方だし・・だと思うからです。

自分の家の前の線量がどれくらいか分からないと、不安が増すばかりですが、大ざっぱな数字でも何となくの線量が分かれば、それなりに次にどうしたらいいか、どうするべきかを考えていけます。
それと同じで、何となくその人(子ども)の体の状態を知る「手がかり」があれば、そこで感覚し判断したことを元に、それなりに次にどうしたらいいか、どうするべきかを考えていけると思うからです。

これだけの状況なのですから、不安を持たずに・・というのは逆に危ないと思います。
不安は不安で適切に持ちつつ、でも自分たちで確認できる「手がかり」をもって、暗い中を一歩一歩進んでいく。
その「手がかり」は、どこかを指し示したり、ゆくべき方向を照らし出したりはしないでしょうが、でも自身の感覚で具体的に判断できるという強みになります。

追伸です

こちらでちょっとあちらでの話の補足を。

マル激でおなじみの琉球大学の矢ヶ崎先生などの、ストロンチウムやウラン、プルトニウムといったもののβ崩壊・α崩壊の話を聞くと、その威力は脅威的なものがあります。
こんなスゴいんじゃ、1年ももたんだろう・・・と。

ところが、そこで疑問がわくわけです。
例えば骨に入って白血病に・・という話になっても、それが発症するまでに、何年、何十年とかかっているわけです。
こんなに脅威的な破壊力なのに、なんでそんなに長期間大丈夫でいるんだ?と、僕は逆にすごい不思議なんですね。

それで、今のところこんなイメージを持ってるんです。
福岡先生が仰るように、すべては入れ替わっているんだろうと思います。
放射性ストロンチウムも、一ヶ所に留まっているわけではないんじゃないかな、と思うわけです。
使用されていても、また分解され、その場でいきなり再利用されることはまぁないんじゃないかと思うので、そのまま代謝され、もう一度(腸から?)再吸収されて、別のところで使われる。

出ていかない、という場合、そういうことを繰り返しているんじゃないかなぁ・・と思うわけです。
ですから、何かの拍子に、ヒョックリそのまま外へ排出されていってもおかしくないと思うし、骨ではなくて爪などに使われれば、それで外へ出ていったりもするでしょうし。

一ヶ所に留まらずに、そういう「淀み」の中をあっちゃこっちゃグルグルしているような感じなら、発症までに相当時間がかかるような事態も、何となく分かる気もするんですよね。

再吸収してしまう部分については、何となく、体的には「(宝石みたいな)とても珍しいもの」で、出されようとすると「おっとこれは大切なものだった」みたいな感じで、大事にキープされちゃったりするのかな?というような空想をしてしまうんですけどね。

・アキラさん

「学」持ち出しちゃダメですよ~ って、「学」をはじめに持ち出したのはアキラさんじゃないですか。おまけに後編の冒頭で「科学的事実」と念を押しているし。ストロンチウムについての議論も、私はアキラさんも「学」と承知でやってるんだと思ってました。

だから、「術」が使えないなぁ、は唐突な感じでした。意味しているところがすぐに理解出来なかった。頂いたこのコメントも、後出しジャンケンだろ! と思ってます。まあ、いいですけど(^_^;

まあ、それにしても、私の「胸椎七番左一側の系統」は酷かったな。バカみたい。

これは私の「美学」なのかもしれませんけど、基本的に「学」というのは危機管理に使いたいんですよね。一応、悪い方へ解釈しておく。アキラさんの記事で引っかかったのはそこのところだけだったんですがね。話が広がってしまいましたね。

が、あの程度でアキラさんの込めたメッセージ性が損なわれるかな? かえって明瞭になったんじゃないですか(笑)

アキラさんがどんなことを考え行動しようとしているか、だいたいの想像はつくつもりですし、反対するなんてのは毫もありません。「この状況を利用している面がある」といいますが、いいじゃないですか。巡り合わせというものでしょう。もっと積極的に「時代に要請されている」くらいに言ってもいいと思いますよ。

いや、愚樵さん、ホント申し訳ないです。
途中で気がついてくれないかな~~と思いながら、こちらはウルトラC級?と自画自賛したくなるような受け答えをしておりました。 (^_^;)

体についてのイメージを・・と言いながら、「学」をまずバンと出してしまうところが〈術〉たる所以でして。
実際に伝えたいのは、単なる漠たるイメージなのですが、「学」を最初に前に出すことで(特に理由なく)信頼度が増すわけです。 (^o^)
大体、「排出できないんじゃないか?」と不安でパニクってる人たちは、真面目な人が多いでしょうから。

結果的に、
《 「排出できますよ」と言っているように読めてしまいます。
 私の他にもたぶん、そのように読む者は多いと思いますよ。》
と愚樵さんも仰ってくださったので、僕の意図はかなり成功していると言っていいかなと思いました。

たとえ事実が「排出できない」という方にあったとしても、自分の中にある漠たるものが、「出ている」イメージでありつつ それを受けとるのと、「出せない」イメージでありつつ それを受けとるのでは、受けとったそのあとの結果(こころの持ちよう)が違ってくると思うんですよね。
ですから僕としては、あの記事を読んで、「あ、出ていくんだ」という(ある意味 誤解された)イメージを持ってくださるくらいが、ちょうどいいと思ってました。
何しろ、そもそも「排出できないんじゃないか?」と不安で不安でパニクってる人へ贈りたかったメッセージなのですから。

とはいえ、僕自身は、やっぱり「ひょっくり出ていってしまう」という方に賭けたいんですけどね、あくまでも。
だからこその、あの記事でもあります。

・アキラさん

ウルトラC級には、笑いました。そうだったんですか(^o^)

結果的に、
《 「排出できますよ」と言っているように読めてしまいます。


そうなんですよ。冒頭でちゃんと「わかりません」と書いてあるのに、読み進むと「ひょっとしたら、出せるかも」と思っちゃうんですよね。淡い希望を抱いてしまう。

その希望は、仰るとおり大切ですよね。でも、すがっちゃいけない。私は、不安で仕方がない人の中にはすがってくるのも多いんじゃないか、と思うんです。もしかしたらそちらの方が多いかもしれない。すがるんじゃなくて、あくまで自力で「賭ける」ですよね。が、その線引きというか、「構え」は結構難しい。まして被害者意識をなんかを持ってると。ですよね。

その当たりの理路はよくわかりますとも。

もしよかったら、またやりましょう。なんかアキラさんが何か記事を書いたら、また私が引っかき回しにいきますから(笑)

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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