愚慫空論

『街場のメディア論』を読んでみた

私は最初、この本を図書館で借りて読んだ。読み終わった後、2冊購入することを決めた。1冊は自分の本棚に飾るために。もう1冊は、高校生の姪っ子に読んでもらうために。

高校一年生の姪には、まだこの本全部を読みこなすのは難しいかもしれない。大学生を相手の講義が元の本だから。だが、『第一講 キャリアは他人のためのもの』は、読めるだろうし読んでもらいたいと思った。これからキャリアを積み上げていく彼女に、キャリアとは何か、何のために勉強しなければならないのかを考えてもらうのに、絶好の文章だから。おそらく彼女も、おそらく彼女も、キャリアを積み上げるのは自分自身のためとごく「常識的」に思っているだろうから。

私のこのような行動は読者として至極まっとうな行動であると、内田氏は評価してくださるに違いない。内田氏によると「読者=購買者」ではない。私が2冊買うのは、たまたまであるに過ぎない。たまたま、贈与したい相手が2人(自分と姪)いたというだけのこと。

 著作物は書き手から読み手への「贈り物」です。だから、贈り物を受け取った側は、それがもたらした恩恵に対して敬意と感謝を示す。それが現代の出版ビジネスモデルでは「印税」というかたちで表現される。けれども、それはオリジネイターに対する敬意がたまたま貨幣のかたちを借りて示されたものだと僕は考えたい。すばらしい作品を創り上げて、読者に快楽をもたらした功績に対しては、読者は「ありがとう」と言いたい気持ちになる。言わなければ済まないような気持ちになる。とりあえず、それはいくばくかの貨幣のかたちを取ってオリジネイターに向けて返礼される。
 作物の価値は、贈与が行われた後になってはじめて生じる。だから、それをどうやって贈与と嘉納が淀みなく進むようなシステムを整備するか。それが最優先の課題になります。


本書における内田氏の主張を乱暴にまとめてしまえば、「メディアの不調(=知性の不調)の原因は、情報を商品として扱うことにある」であり、「情報は、贈り物である」になる。そこから導かれる結論は、「贈り物は知性を活性化させる」。この構図は、第一講の『キャリアは他人のためのもの』と同じであり、電子書籍への批判として提示される「本棚の理論」とも同じ。本棚に本を並べるという行為は、「自身への贈与をディスプレイする」ことに他ならないわけだから。

 これまで繰り返し書いてきたように、どのような事態も、それを「贈り物」だと考える人間の前では脅威的なものにはなりえません。みずからを被贈与者であると思いなす人闇の前では、どのような「わけのわからない状況」も、そこから最大限の「価値」を引き出そうとする人間的努力を起動することができるからです。
 今遭遇している前代未聞の事態を、「自分宛ての贈り物」だと思いなして、にこやかに、かつあふれるほどの好奇心を以てそれを迎え入れることのできる人間だけが、危機を生き延びることができる。現実から眼をそらしたり、くよくよ後悔したり、「誰のせいだ」と他責的な言葉づかいで現状を語ったり、まだ起きていないことについてあれこれ取り越し苦労をしたりしている人間には、残念ながら、この激動の時機を生き延びるチャンスはあまりないと思います。


ここで言われる「今遭遇している前代未聞の事態」とは、本書の範囲内で狭く捉えると「出版業界の危機」なのだけれども、内田氏が言わんとしているのは、それだけのことでなかろう。そして、フクシマ後に生存する私たちにとっては、この言葉は非常の重くのしかかってくる。事故ばかりではなく、事故後の「知性の不調」を嫌というほど思い知らされたからでもある。

私たち人類が、原子力を使うに至るほど繁栄したのは、交易のおかげだと言ってよいだろう。なかでも、交易の中の一形態である商取引が大きな役割を果した。もちろん、メディア業界も同じだ。それはたまたまではない。歴史の必然だった。が、その必然は必然的に限界を露呈し始めた。前エントリーで持ち出したガンディーの言葉をここでも提示してみよう。

「ちょうどそれが個人を助けるのをやめて、その人の個性を蝕むところで」

「個人」を「知性」と置き換えてみてもいい。内田氏が指摘しているのは、商取引が限界を露呈して、知性を蝕み始めたということだ。ということで、「どうやって贈与と嘉納が淀みなく進むようなシステムを整備するか」が、内田氏の言葉通り、最優先の課題になる。

ところが、少なくとも本書のなかでは、そのようなシステムの話はまったく出てこない。ただ、既存のシステムに飲み込まれてしまっては生き残ることは出来ないと警告を発するだけ。これが私には不満だった。

商取引ビジネスモデルが抑制するのは、自発的な「ありがとう」である。「ありがとう」は大切だが、それだけでは経済は回らない。経済はモノを循環させるシステムだから。商取引が極大化し、社会の成員が商取引を行なうことを社会からシステマチックに要請されるようになった現代では、「ありがとう」が抑制されるのは当然の流れであり、その典型が「クレーマー」だ。 ならば考えるべきは、自発的な「ありがとう」を促成するシステムであろう。

貨幣経済システムの基軸は「価値=価格」である。価値と価格とは本来別個のものだが、別々に振る舞われてはシステムは成り立たない。システムを機能させるには価値は価格にフィックスされていなければならない。これは大前提であり、その証拠に貨幣経済システムの振る舞いを研究する経済学には、価格理論はあっても価値論はない。

価値理論の中心は市場原理だが、これは人々の欲求(需要)とモノの希少性(供給)とが均衡するところで価格が決定されるというもの。人々は個別に欲求つまり価値判断を持つが、それらは市場というメカニズムを介して社会的に、つまり個々の価値判断とは離れた場所で他律的に決定されることになる。

このようなシステムに順応する人間は、その価値判断をメカニズムが他律的に決定する価格に委ねるようになる。「価格→価値」である。一方で人間は自分の価値を高いものに設定したい欲求を持つから、自身の「価格」を高額なものにしたいと欲すると同時に、価格のつかないものに価値を見出すことがなくなってしまう。

内田氏の常々の主張は、この「価格→価値」の精神構造は知的パフォーマンスを発揮させるには甚だ具合が悪い、というものだ。というのも、それはことの順序を間違えているから。

「価値あるもの」が立ち上がるとき

 親族を形成するのも、言葉を交わすのも、財貨を交換するのも、総じてコミュニケーションとは「価値あるもの」を創出するための営みです。ことの順序を間違えないでください。
「価値あるもの」があらかじめ自存しており、所有者がしかるべき返礼を期待して他者にそれを贈与するのではありません。受け取ったものについて「返礼義務を感じる人」が出現したときにはじめて価値が生成するのです。「価値あるもの」を与えたり受け取ったりするわけではないのです。ひとりの人間が返礼義務を感じたことによって、受け取ったものが価値あるものとして事後的に立ち上がる。僕たちの住む世界はそのように構造化されています。


価値は、贈与を受け取った者が価値を発見したときに生成される。価格といったような形で予め存在しているものではない。つまり「価値→価格」でなければならない。にもかかわらず、貨幣経済システムのなかで生きる私たちは「価格→価値」という順序に順応するように要請されている。つまり、知的パフォーマンスを向上させるには「価格→価値」という環境の大きな流れのなかで、「価値→価格」の反転を行なうというアクロバットを演じる必要があるということだ。

ちなみに、イノベーションとは「価値→価格」を実践することだ。またドラッカーは、イノベーションを行なうには「真摯さ」が必要だと説いたらしいが、これは「アクロバット」に相当するだろう。「価格→価値」の大きな流れがあるからこそ、「アクロバット」が成功したときには大きな成果を生む。が、その成功は「価格→価値」の流れをさらに大きくする効果を生み、「アクロバット」をさらに難しいものにしてしまう。

ところで、情報のデジタル化が進んだ現在では、情報の価格を決定するメカニズムが揺らいできている。デジタル情報の再生産に要するコストはほぼゼロであるから、「希少性」は機能しない。これは他律的価格決定機構が破綻を来たしているということに他ならないが、こうした状況のなかでひとり著作権が、価格の他律的決定という信憑を維持しようと奮闘している。だが、破綻した事実は覆い隠しようがない。

著作権というものは、オリジネイターへの向けて為される返礼の受け取り窓口である。贈与には返礼する必要がある。だから、著作権は撤廃してはならない。著作権が撤廃されるとオリジネイターが知的パフォーマンスを行なう動機付けが減退する。それは社会全体の知的水準低下につながる。現在の危機的状況で、それは許容できない。

が同時に、(読者にとっては)他律的な著作権は、社会の知的水準向上を阻んでもいる。社会の知的水準はオリジネイターのみによって為されるわけではない。より重要なのはオリジネイターの贈与を受け止める多数の読者の方であろうし、端的にいうならば、オリジネイターと読者の間で為される贈与と返礼の「経済」である。内田氏の理論が正しいならば、この「経済」が活発であればあるほど、その社会の知的水準は高くなると予測できるはずだ。他律的な著作権は、読者の数の上でも質の上でも、この「経済」の発展を促進するものになっているとは到底いえない。

知的水準に関わる「経済」の源泉は、読者の自発的な「ありがとう」である。「ありがとう」の発語は価値の生成に他ならないけれども、価値だけではシステムは成り立たない。「価値=価格」でなければならない。すなわち、読者が自発的に価格を決定できるシステムでなければならない。そういったシステムが実現できれば、それは「贈与と嘉納が淀みなく進むようなシステム」になるだろう。

それは可能なはずだ。電子書籍を実現させたテクノロジーをもってすれば。実際、グーグルは実現させている。ただしグーグルの方法は、価格は他律的に決定されるという信憑からは逃れられていないし、読者は自腹を切るわけではない。また、他にもネットの世界では、自発的な価値を表現する方法は開発されてはいる。しかし、価格にまでは至っていなっていないから、「経済」にまで発展しているとは言い難い。

単純に読者が情報の価格を決定するシステムにしてしまうと、大抵の読者は情報の価格を0か、甚だ低いものに設定するだろう。そうなると「価値=価格」とならず、経済は回らない。仕掛けは必要だ。それには「特区」を作ればよい。

たとえば、ひとりの読者がある雑誌を購入したとする。その読者は、ファンであるアイドルのグラビアを見るために雑誌を購入した。そういった行動はありだし、実際に多くの者がそのような購買行動をしているはずだ。新聞でも雑誌でも、複数掲載されている情報のすべてに価値を認める人はあまりいない。できることなら自らが価値があると判断した記事に雑誌を購入した価格を支払いたいものだが、そういった仕組みはこれまではなかった。紙媒体の書籍では技術的に不可能だったからである。が、電子書籍を実現した技術をもってすれば可能なはずだ。

「特区」は、この雑誌と思えばいい。というより、Webそのものを雑誌と捉えることが可能だ。Webの中に「特区」を設定して読者は入場料を支払う。読者は入場料を価値を認めた情報に分配するという形で価格決定を行なう(詳細は過去記事を参照)。問題になるのは入場料の設定だが、これは市場によって解決されるだろう。

この方法の特長はなんといっても、読者がシステムから自発的かつ具体的な価値/価格決定を要請されるという点にある。本書によるならば、他者からの要請を引き受ける者は知的パフォーマンスを向上させる。知的能力の向上は贈与から価値を発見する能力を伸ばし、それが価格と直結し贈与者への返礼となるならば「経済」も活性化する。このシステムのなかでは「価値→価格」の機序は、アクロバットを演じなくても維持できるはずだ。

著作権も維持される。オリジネイターは価格決定権を読者に譲り渡さなければならないが、その代わりに、読者が著作権を保護してくれることになるだろう。オリジネイターは権力機構に頼る必要がなくなる。

ただ、ひとつ大きな欠点はある。それは、経済規模が拡大しないという点だ。だが、これからの時代、経済規模を拡大させることはそれほど重要なことだろうか? その答えは知的パフォーマンスを向上させれば出てくることだろう。

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