愚慫空論

ガンディーの「ナイー・タリム」と「スワデーシー」

モーハンダース・カラムチャンド・ガンディー。インド独立の父。通称、マハトマ・ガンディー。マハトマとは「偉大なる魂」という意味。

ガンディーが主張したのはスワラージ(自治)の考えであったが、それは彼にとっては、たんに植民地支配からの解放だけではなく、インド人が自立と自尊心を獲得することをも意味した。「ナイー・タリム」とは、そのガンディーが提案した「新しい教育」である。

 その原則がきわめて明確だった。第1に、すべての児童教育は「母語」によること、第2に読み書きそろばんが職業性につながること、第3に教育システムが経済的に自立しうること。この3つを前提の方針にした。
 もっと画期的なのは、そもそも子供のためのシラバス(学習計画)自体が手仕事的な仕掛けで説明されているべきだとしたところだ。ガンディーは自分でもワルダーで子供のための学校をつくっていたが、そこではまさに、糸紡ぎ、手織り、大工仕事、園芸、動物の世話が先頭を走り、それらによって自分たちがこれから学ぶことの“意味”を知り、そのうえで音楽、製図、算数、公民意識、歴史の勉強、地理の自覚、科学への冒険が始まるようになっていた。
 なかでも、文字を習い始める時期を延期したことに、ガンディーの深い洞察があるように思われる。あまりに文字を最初に教えようとすると、子供たちの知的成長の自発性が損なわれるというのだ。ガンディーは自信をもってこう書いている、「文字は、子供が小麦と籾殻とを区別することをおぼえ、自分で味覚をいくぶん発達させてからのほうが、ずっとよく教えられるのです」。


私の言葉でいうと、〈学〉より先に〈術〉を、ということになる。

ガンディーは人々が「個」を確立することを求めた。「個」の確立を妨げる社会制度に身を挺して反対した。それはインド独立であり、カースト外に置かれ迫害されていた不可触民(ハリジャン)たちの解放だった。同時にガンディーは「個」を確立する方法を模索した。それが「ナイー・タリム」であり「スワデーシー」だった。

「スワデーシー」は宗主国イギリスに対抗するインド産品愛用運動だとされているが、そんな程度のものではない。機械の拒否。分業の拒否。

 ここでガンディーは「糸紡ぎ」を選んだのだ。極端にいえば、ただひとつ、「糸紡ぎ」だけを奨励したのだ。まことに驚くべき選択である。それをもってスワデーシーの原理としたのだ。
 なるほど、ガンディーの言い分では、糸紡ぎは「最も簡単で、最も安く、最も良い」し、しかも「最小の支出と組織的努力で、最大多数の村人たちに収入をもたらす」という利点があるというのだが、仮にそうだとしても、これには当然ながらいくつもの反論がありえた。
 たとえば糸紡ぎで得る収入よりもすでに高い収入のある者には、こんな方針はとうてい肯んじられないし、糸紡ぎで作るものと見かけも肌触りもそれほど変わらないものが、もっと大量にもっと容易に(ときにうんと安価に)、もっとスピーディに製造できる欧米の機械技術もあった。実際にも糸紡ぎ政策の提案には、こうした反論や無視がいくつもおこった。
 それにもかかわらずガンディーの方針は、これらの反論や不満を押しのけてでも「手製による糸紡ぎで織られたカッダル」を作り、村人たちが手にし、着用するのがいいとしたわけである。当時はそのカッダルの市場すら準備できていなかったのに。

 どんな経済学でも分業を軽視したりすることはない。分業はアダム・スミスから一貫して経済学の大前提になってきた経済の王道なのである。分業を前提にしない生産システムや流通システムなどありえないと言っていいほどだ。産業とは何かといえば、それは分業だと言ってもいいほどなのだ。でもガンディーは「自分のパンを自分で作れ」と言ったのである。これはあきらかに分業の拒否ではないか。
 このガンディー批判は当たっていなくもない。そもそもガンディーが「機械の使用」に反対していたこと自体が分業拒否だった。
 こうしたガンディーの頑迷固陋については、ガンディーにインタヴューしたチャールズ・チャップリンをさえ当惑させた。チャップリンは自由を求めるガンディーには共感も尊敬もするが、その機械に対する嫌悪にはさすがに辟易としたと感想を述べた。あのテーラー・システムによるベルトコンベア式労働を揶揄したチャップリンを当惑させたのだから、そうとうなものだ。


が、ガンディーはすべての機械に反対したわけではない。シンガーミシンの有益性を認めたりもした。

ガンディーはある記者に尋ねられて、こんなふうに答えていたのだ。その記者は、「ガンディーさん、いったい家庭がシンガーミシンを入れるのと機械化された工場とのあいだの、どこで線引きできるんですか」と問うたのである。ガンディーはこう答えた。「ちょうどそれが個人を助けるのをやめて、その人の個性を蝕むところで」と。うーん、すばらしい。


ガンディーが示したこの「線引き」は、もっと大きな枠組みにも有効だと私は思う。〈学〉である。市場だって宗教だって。「ちょうどそれが個人を助けるのをやめて、その人の個性を蝕むところで」。 そのように思考の枠組みを広げてみると、リバタリアンとコミュニタリアンの対立やなども視野に入ってくるような気がする。とはいえ、これらは〈学〉の範疇内だ。少なくともそう捉えられている。が、ガンディーはその枠では捉えられそうにない。その意味で、ニーチェと同格、もしかしたらそれ以上かもしれない。ニーチェの「アンチ・クリスト」は明らかに〈学〉の枠組みを超えてはいるが、〈学〉に替わるものを示すことは出来なかった。だから観念的な「超人」といったようなものを想定することしかできなかった。対してガンディーは、具体的な経済のなかで〈学〉に対抗する「個」の在り方を指し示した。〈術〉の思想である。

(〈学〉と〈術〉という対立軸から、ガンディーとアーベンドカルの対立も読み解けるかもしれない。が、まだまだそこまで手が届かない...)

しかし、ガンディーの思想はインドでも理解されなった。現在、インドは世界のなかでもっとも経済成長著しい国へと「発展」した。インドも〈学〉の国になったということだ。いや、違う。インドだってもともとは〈学〉の国だった。それがもっと強大な〈学〉の国、大英帝国に支配されていたということだ。ガンディーは、イギリスの支配の支配から脱却するのに〈術〉を軸にしようとした。「ナイー・タリム」「スワデーシー」はその方法論だった。だが、それらは受け入れられず、独立後のインドは〈学〉の国へと戻った。

私は『ガンディーの経済学』を読み進めながら、ところどころ奇妙な既視感に捕らわれることがあった。英国-インドの支配従属関係と米国-日本の関係が重なり合うように思えたからだ。教育に関する部分を抜き出してみると、

(英統治下の)インドの教育は、知性を発達させたり、経済的進歩を達成したりするためにではなく、ただ、イギリスによる統治の安定性を維持するためだけに構想されたのである。
 マコーリー卿は、一八三五年二月二日の教育についての有名な覚書の中で、インドにおける教育政策を規定する基本原則を定めた。

我々は目下のところ、我々と我々か統治する数百万の人々の間に立つ通訳者となる階級を育成することに全力を尽くさねばならない。――それは、血と肌の色はインド人であるが、嗜好、意見、道徳や知性においてはイギリス人てあるような人々の階級である。

 この階級の人間が、ゆくゆくはイギリス人の習慣と価値を身につけるようになるためには、イギリス人の考え方と英語に慣れる必要があった。政府が関心をもつべきは、彼らに「イギリス式」教育を与えることだけであった。初等教育を大衆の間に普及させる仕事は、イギリス式教育を受けた「通訳者」に安全に託すことができたのである


アメリカ式教育を修了した「通訳者」。今の日本には履いて棄てるほどいるし、未だ年ごとに生産されてもいる。とはいえ、これらの者たちは、「アメリカの精神」まで修得することはまず、ない。それは当たり前で、日本と米国とでは「国の成り立ち」があまりに違いすぎる。修了し修得した〈学〉と歴史的な積み重ねのなかで醸成されてきた文化とのミスマッチが、日本人の「個(強い絆)」を喪失させる。哀しいことに、頑張って勉強してきた秀才ほどその傾向が強い。頑張ってしかも社会的な評価を受けているがゆえに、棄てられない。だから「個」が取り戻せない。「個」がないから不安で〈システム〉への依存を強めることになってしまう。

日本人が取り戻すべきは「個」であり〈強い絆〉だというのは何度も述べたとおりだが、ガンディーの思想は、今の日本人が必要としているものを提示しているのかもしれない。

コメント

>頑張って勉強してきた秀才ほどその傾向が強い。頑張ってしかも社会的な評価を受けているがゆえに、棄てられない。だから「個」が取り戻せない。「個」がないから不安で〈システム〉への依存を強めることになってしまう。

今の日本はまさに、こういう状態になっているのかもしれないなと思いました。
それで優秀だったはずの官僚達が、国のためではなく自分の組織だけの為に悪知恵を磨いて、
国に衰退の一途をたどらせているのかもしれませんね。

>「ちょうどそれが個人を助けるのをやめて、その人の個性を蝕むところで」

なるほど~!相手が機会で無くても当てはまりそうですね。

僕の体は既にネットに蝕まれていると思います。(>_<)
心は未だ大丈夫な気がします。

・和久希世さん

日本のエリート達は、もはや悪知恵すら働かなくなっているようですよ。

『「やらせメール」と人を無能にする組織』(日経ビジネスオンライン)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110714/221484/

・すぺーすのいどさん

心が大丈夫なら、すなわち「個」があるなら、蝕まれているということはないでしょう。ネットはある意味で社会の縮図ですが、しかし所詮はツールです。「個」から見ると国家だってツールなんです。「個」を喪失するとツールに使われますが。

私たち日本人は、「個」を確立する方法を見失っています

こんにちは。

大学の卒論で、ガンジー研究やりました。 (^o^)

「判断する手だてを自分たちの手の中に取り戻す」
21世紀のガンジー目指して、がんばろうかなぁ。

・アキラさん

おお、それはすごい。是非ともお願いしたいです。
私も応援します。

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