愚慫空論

〈学〉と〈術〉

他人に、その人にとって未知の目的地への到達方法を教えるには、2つの方法がある。 ひとつは、地図を提示する方法。現在地と目的地の場所を地図上で示し、目的地へ至る経路を解説する。 もうひとつが道順を教える方法だ。どれだけ行ったら右、目印を見つけたら左、というやり方。 〈学〉は地図法、〈術〉は道順法に相当すると考えてよい。

〈学〉も〈術〉も、どちらも絶対的な真理へ至るための方法論である。〈あの世〉と繋がる〈強い絆〉を取り結ぶための方法論。

内田樹氏が次のように言っている。

 なんと言っても、メディアの威信を最終的に担保するのは、それが発信する情報の「知的な価値」です。古めかしい言い方をあえて使わせてもらえば、「その情報にアクセスすることによって、世界の成り立ちについての理解が深まるかどうか」。それによってメディアの価値は最終的には決定される。


この文章は「マスメディアの嘘と演技」という一節の中のものであるから、メディア=ジャーナリズム、すなわち〈この世〉の現象と解するのがいいだろう。だが、内田氏のこの文章は、メディアを〈あの世〉からの情報も含めたあらゆる情報伝達媒体と解しても十分意味が通る。そう考えれば、「世界」とは、人間の関わる〈社会〉のことではなく、〈この世〉と〈あの世〉を含んだ〈世界〉だと捉えることもできる。〈世界〉がどのように成り立っているかを絶対的に把握したいと欲するならば、〈あの世〉へのアクセスは欠かせない。〈学〉も〈術〉も、「価値ある情報」へのアクセス手段である。

〈学〉と〈術〉の、どちらが優れているかという問いを立てることはできるだろうが、その問いに答えることには意味があるようには思えない。ただ、世界の趨勢としては、現在は前者が優勢なのは間違いない。それは〈学〉が西洋文明の方法だからだが、といって〈学〉が西洋文明の専売特許というわけでもない。イスラームもインドも中国も伝統的に〈学〉を重視する。対して日本文明は〈術〉が主流だと言ってよいと思う。

世界の先進国であるということになっている日本でも、もちろん〈学〉は盛んではある。〈学〉が繁栄度が文明国であるかどうかの規準でもあり、日本は一応、その規準をクリアしていると見なされてはいる。しかし、日本は〈学〉を〈強い絆〉とする伝統を取り入れるところへまで至っているとは言えそうにない。

日本は他の文明国から見ると、非常に不可解な国であるとはよく言われることだ。表向き高度な文明が発達しているにも関わらず、文明国らしからぬ振る舞いをする。それはフクシマの原発事故への国としての対応を見れば明らかで、原発を実現できるだけの技術力があるにも関わらず、原発の危険性を直視することができない。自身の問題として捉えることができない。学者ですらそうなのだ。

これは〈術〉を棄て、〈学〉に走った日本の悲劇である。他文明のような〈学〉の伝統を取り入れられたならいいが、それができないまま〈術〉を棄ててしまった。現在の日本の民は、根無し草だ。たとえ人間がひ弱な葦でしかないにしても、その根はしっかり大地に根付いているものだ。現在、多くの日本人はひ弱な葦ですらないのかもしれない。

 かつて山奥のある村でこんな話を聞いたことがある。明治時代に入ると日本は欧米の近代技術を導入するために、おおくの外国人技師を招いた。そのなかには土木系の技師として山間地に滞在する者もいた。この山奥の村にも外国人がしばらく滞在した。「ところが」、という伝承がこの村には残っている。「当時の村人は、キツネやタヌキやムジナにだまされながら暮らしていた。それが村のありふれた日常だった。それなのに外国人たちは、けっして動物にだまされることはなかった」
 いまなら動物にだまされた方が不思議に思われるかもしれないが、、当時のこの村の人たちにとっては、だまされない方が不思議だったのである。だから「外国人はだまされなかった」という「事件」が不思議なはなしとしてその後も語り継がれた。
 同じ場所にいても同じ現象は起こらなかったのである。おそらくその理由は、その人を包み込んでいる世界が違うから、なのであろう。・・・


〈世界〉が違えば、同一の客観的事象から異なる精神現象が起こる。〈あの世〉へ繋がるアプローチする方法として〈学〉が採用されるか〈術〉になるのかは、それぞれの〈世界〉の在りように拠るのではないだろうか。

日本人の〈世界〉は、〈あの世〉と〈この世〉の境界線がはっきりしていない。混在してしてしまっている。同じ〈世界〉のなかで次元の異なる空間が混ざり合ってしまっていては、〈世界〉の地図など作ることができるはずもない。そういった〈世界〉にアプローチして「意味ある情報」を取り出してくるための方法論は、どうしても〈術〉ということになってしまう。地図のない〈世界〉では、どうしても道順法に拠るしかない。

〈あの世〉と〈この世〉とが明瞭に区分できない〈世界〉観は、日本人の宗教観にも反映されている。日本人は決して無信仰ではない。しかし無宗教ではあるかもしれない。宗教が教義と信仰で成り立つのだとすると、地図に相当する教義を作成できない〈世界〉に棲む日本人が無宗教になるのは当然のことだ。「トイレの神さま」は素直に受け入れる一方で、イエスを神に、ムハンマドを預言者に定義する教義は受け付けないのが一般的な日本人の宗教的態度である。

内山節氏から聞いた話では、1965年あたりを境に日本人は急速にキツネにだまされることがなくなっていったという。私は2005年頃に和歌山で、近所の人がキツネにだまされたという「事件」に遭遇しているが、それは確かに「事件」だった。周りの老人たちはみな“いまどき珍しい”と言ったものだった。キツネにだまされるという現象が日本人の混淆〈世界〉ゆえであるとするならば、それがなくなったということは〈世界〉が変容していったのだと考えてよいだろう。日本人の〈世界〉から〈あの世〉は急速に消滅していき、「価値ある情報」にアクセスするための〈術〉も用いられることがなくなっていった。

フクシマの事故でも明らかになったことだが、現在の日本人は「安心」を求める傾向が甚だ強い。「安心」を追い求め、不安な情報からは耳を塞ぎ、不安情報を発信する者を非難する。思うに、こうした傾向が生じるのは「価値ある情報」にアクセスすることをしなくなったためだ。〈世界〉の成り立ちを知らず〈社会〉の中だけで生きている者は、〈社会〉に強く依存する。〈社会〉が大きく動揺してしまったときには、為す術がなくなる。現在の日本国の権力者は〈社会〉の動揺につけ込んでさらなる搾取を謀ろうとするクズどもが大半だが、彼らがそのように行動するのも不安ゆえにであろう。市民はそれに気がつきつつも、行動を起こせないでいるのも不安ゆえに。不安の乗り越えて進むことができなくなってしまっている。

コメント

なっとく

こんにちは。
なんかすごくなっとくしました。
細かいことはあいかわらず解りませんが、なっとくしました。
語彙がないのでまともなレスできないですがなっとくしました。
地図好きのわたしは、子どもたちに「地図」を渡したいのかも…とおもいました。

。すぺーすのいどさん、コメントありがとうございます。

わけわからないエントリーの多い私ですが、これは特にわけわからんだろうなぁ、と思っていたので...、嬉しいです。

感じていただけた、というふうに解釈しておきます。ありがとうございます。

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