愚慫空論

「無垢な子ども」を想定してみる

東電社員の子どもによる投書が波紋を呼ぶ、ということがあったらしい。

『悪いのは東電ですか、政府ですか、それとも国民ですか悪いのは東電ですか、
   東電少年の「投書」で大激論』(現代ビジネス)


リンクは貼ったが、別に読んでみる必要はないと思う。子どもの無垢な視線が事の本質を鋭くえぐり出すことはままあるが、これは子どもの稚拙な意見に過ぎない。

私たちには「子どもは無垢」という憑依がある。ゆえに、子どもの発言には真剣に耳を傾けてみるという習慣がある。これは好ましい習慣だと思うが、しかし本当に子どもが無垢であるかどうかは別問題。東電少年は無垢とはいえない。取り上げたのは、「東電少年」というシチュエーションを拝借したかっただけのことである。
(「東電少年」がわからない方は、リンク先を1ページだけご覧になっていただきたい。)

もし、東電少年が無垢だったとした、どんな意見を発したろうか。

「ぼくの父親は東電社員です。東電は福島の原発事故で、世界中の人たちに迷惑をかけています。東電は悪いです。だから、ぼくもみなさんに謝りたいと思います。」

東京電力社員の子どもは学校でイジメに遭うということがあるそうである。子どもに責任はないから、イジメは理不尽だという意見に私も賛成する。これは反対のしようがない。だが同時に、イジメに遭うのは仕方がないとも思う。アタマでは容認はしないが、ココロではどこかで容認している。そもそもの原因は東電の理不尽な行いにある。アタマでは、東電と社員の区別はつけることができる。社員と子どもの区別はなおのことである。が、同時に、東電が理不尽に利益を上げ、子どももその 恩恵に浴しているという事実をアタマは把握している。ココロは、その2つを都合良く切り離すことを容易にはできない。フクシマの子どもたちを思うと、なおさら出来ない。仮に私が「イジメはだめ」と子どもたちに諭さなければならない立場にあったとしら、私は自分のココロに嘘をつかなければならなくなる。「イジメはだめ」という言葉にココロは伴わないだろうし、子どもたちはそれを見抜くだろう。

(ついでに言うならば、ココロが伴わないのは、「東電の利益」を自身も欲しているからである。もし「東電少年」が東電社員の子どもではなく、下請け協力会社非正規雇用者の子どもだったら、アタマとココロの乖離はずっと小さくなるだろう。)

だが、「東電少年」が本当に無垢であったとしたならば、私はアタマとココロの乖離を維持できなくなるだろうと予感する。

冷静に考えるならば、「無垢な東電少年」の言葉は、「現実の東電少年」の稚拙な主張以上に戯言だと言わざるを得ない。もとより子どもに責任はない。それは子どもの責任能力がないからである。責任能力のない者に責任の追及のしようがない。だから子どもの謝罪は無意味である。〈この世〉の論理に則るならば、「子どもは出しゃばるな!」と応えるのが正しい。

が、本当にその対応が正しいのか。これは分かれ目である。正しいとも言えるし、誤っているとも言える。判断する決定的な材料は、「無垢」を受け取るそれぞれのココロにしかない。

『再度〈強い絆〉と〈あの世〉について』を読んで頂いた方には、私が何を言いたいのか察して頂けると思う。「無垢」とは〈あの世〉の論理なのである。

今から2000年以上前、現在のパレスチナで十字架に磔になったひとりの人物がいた。その人は「無垢」な神の子であり、それゆえに何の罪もないにも関わらず、〈この世〉の人々の罪を背負って敢えて十字架に磔になった、と想定されている

その人物が訴えたのは「赦し」であった。彼の訴えがココロに響くのは、〈この世〉の罪を背負うべく〈あの世〉から降臨してきたと信じられているためである。それに比較すれば力はかなり劣るが、「無垢な子ども」にも同様の力がある。子どもは〈あの世〉の存在である。

コメント

激しく同意。

>もとより子どもに責任はない。それは子どもの責任能力がないからである。責任能力のない者に責任の追及のしようがない。だから子どもの謝罪は無意味である。〈この世〉の論理に則るならば、「子どもは出しゃばるな!」と応えるのが正しい。

んだんだ。
デモで中学生が「ふるさと」を歌うのもいいが、子どもの声をやたらと取り上げるのはいかがなものかと思ってきました。

なんか子どもに大便、、じゃなくて代弁させてる感じでヤな感じなの。大人が大人自身の言葉で語れと。自分たちの責任として。

みみずさん、こんばんは。

もともとの投書は「子ども新聞」へのものだったらしいのですがね。その範囲に留まっていればよかったのですが、なぜか「大人新聞」にも取り上げられてしまった。「子どもは出しゃばるな!」ならば「大人新聞」で取り上げるのが間違いです。たとえそのつもりがなくても“代弁させてるヤな感じ”はどうしても出てきてしまいます。

「子どもの声」を大切にしなければならないのは言うまでもないことですが、それは責任がないのに責任を背負わされるから。子どもの「責任の無さ」に大人が向き合うために。

自分が子供だった時を忘れている大人たち

原発村の巧妙な宣伝記事ですね。
紹介されている記事を読みましたが本当に情けないし腹立たしい。
これは東電社員の子供ではなくて、『東電社員の子供』を名乗る東電社員からの投稿の可能性が一番高いでしょう。
『子供の無垢な視線』どころが『大人の邪悪な悪企み』ですよ。
あるいは大人の言葉を鸚鵡返しで喋る『小憎らしい悪がき』かも知れないが、大人が子供を装っていると見るべきでしょう。
大人でない、普通の子供なら『突然ですが』などと言葉の最初に言い出さないのですよ。
皆さんは御自分が子供だった時のことを完全には覚えていず、『過去の事実』ではなくて『こうであって欲しい』との願望を優先しているから『子供は嘘をつかない』とか『悪いことはしない』『無垢である』などと勘違いしているのです。
事実は正反対ですよ。
羞恥心や責任感などを明確に自覚している子供を連想してください。そんなものは大人に比べれば極小数。
他人を思いやる心が有る子供、自分を相対化して見れる子供などは、大人とは大違いで極少数の例外でしか無い事実に気がつくべきです。
自分のことしか考えず、恥じも外聞もない。判断は大人等権威有る存在に丸投げしているのが子供の真の姿であり、大人から比べれば決定的に劣った存在で有るにも拘らず自分よりもっと弱い存在の子供に対しては実に残酷であるのです。
無垢な子供は神話であり事実ではない。
長い時間と努力でやっと社会性の有る大人が出来上がるのであり、その逆ではない。
疎開先では都会者は例外なく苛められるんだが家財が機銃掃射で失い着たきりすずめ誰よりも貧乏、隣の家では餓死者まで出るような有様でも親の受け売りで何も知らないくせに『アカ』であるとしてイジメを行うのが子供であり、そのために私は自分がまだ小さかった時から子供が大嫌いだったのですよ。
それにしても不思議ですね。
昔は大人は子供よりもすべての面で優れていていと考えるのが常識であったのです。
この大事な原理原則が如何も此の頃は揺らいでいる様ですね。
>『「子どもの声」を大切にしなければならないのは言うまでもないことです』は絶対に間違いですよ。
本当に子供の声を大切にしたら如何なるか想像してみて下さい。
とんでもないことになりますよ。
昔の常識である『子どもを大切にしなければならないのは言うまでもないことです』と、
『子供の声』ではなくて、『子ども自身』や『大人の声(判断)』こそ大切であり、大人は正しく自分の責任を自覚しないと駄目でしょう。

子ども教

・宗純さん、おはようございます。

皆さんは御自分が子供だった時のことを完全には覚えていず、『過去の事実』ではなくて『こうであって欲しい』との願望を優先しているから『子供は嘘をつかない』とか『悪いことはしない』『無垢である』などと勘違いしているのです。

ご指摘はほぼ間違いないと思います。

私も「子どもの無垢」は「想定」あるいは「憑依」としているわけですから、宗純の仰る「勘違い」と認識が大きく異なるわけではありませんよね。

しかし、決定的な違いもあります。子どもをイエス・キリストと比較しているところからもお分かり頂けると思いますが、「子どもの無垢」は信仰の域にまで達している。そのように考えないと「東電少年」の話が成立しないのではないかと言っているわけです。

「東電少年」は大人の意見の劣化コピーでしかありません。にもかかわらず「子どもの無垢」の衣装を施せば主張は伝わる。私たちの中にはそのような「想定」がどこかにあるのではないか。そうでないなら、「子どもは出しゃばるな」で終わりだし、そして「東電少年」の黒幕がそう考えていたのなら、そもそも「東電少年」は存在しなかっただろうし、さらには、多くの人間がそのように「想定」していないなら、一般の新聞で取り上げられ反響を呼ぶというような現象も起きなかったはずなのです。

無人偵察機によるミサイル攻撃

愚樵さん、子供教とのコメントタイトルには『なるほど』と感心しますが、
この話題で一番最初に連想したのはパキスタンの部族地域や北西辺境州で今も行われているアメリカCIAによる現地武装勢力への無人機からのミサイル攻撃ですね。
攻撃される側はパキスタンの土着の原理主義者かも知れないが、実際に其処で生活している。
ところが攻撃している側は遥か10000キロ以上遠くのアメリカのオペレーションルームでコンピューターの画面を見ながらキーボードを操作しているのですよ。
絶対に自分が攻撃されない地点からテレビゲームと同じ感覚で行っている。
ところが一方は実際に頭の上に爆弾が落ちてくるわけですから、これ以上に腹立たしい話はない。
この『東電少年』の置かれている立ち位置とは、これとまったく同じで絶対安全の地点にいるのですね。
そうです。
誰も彼もが『子供は無垢』との神話を信じており、私のように本気になって『子供が悪い』などと叱るものないと知っているのですよ。
愚樵さんまでが『神話』である事実を知りながら、それでも神話を根拠として話を進めようとしている。
大間違いですよ。
何故、『神話は間違っている』との正しい原理・原則から出発しないのか。?
原発安全神話とは、冷却水の供給と電源の確保と作業員のミスが無い炉心だけでなく様々な配管が健全である等の色々な良い条件が重なった場合には成り立つ。
ところが一度暴走した時には誰にも如何しようも無い破滅的な代物であり、『安全』の対極になるのが原子力発電であったのです。
強固に安定している構造である原子を、人為的に破壊して強力な核エネルギーを得ているのですから、本来『恐ろしいことをしているのだ』との根本的な発想が必要であるが、これに真っ向から反するのがカルト宗教である原発安全神話。
『神話』を信じて疑わない段階で、それはもう破滅的な未来は有る程度の確率で確実に約束されています。
子供の無垢との神話でも有る程度は同じ原理が働くでしょう。
現代ビジネスですが、可也悪質ですよ。
先ず最初の写真が決定的に。この記事を象徴しているとは思いませんか。?
土下座して謝る東電社長と、えらそうにしている被災者の構図ですよ。
これが何を読者に期待しているかは自ずから明白です。
この記事の中で、
『原子力安全・保安院の広報担当者が語る。』として、
『よく勉強しているなと感心しました。・・・電力会社はそれを実施したに過ぎません。』
と有るから監督官庁である自分の責任を言うかと思ったら正反対。
何と、
『原発に反対する人は昔から、ずっと感情的に反対で、冷静に考えることがない。』と、驚愕、事実と違いすぎる、とんでもないことを口に出している。
未だに原発安全神話から一歩も出ていない。
ドサクサに紛れて悪質極まるデマを垂れ流すにもほどが有る。
この薄汚い悪党めが!!
『それに比べても、この小学生はよく考えています』と原発安全信者を褒め称える始末です。
これは悪質な印象操作、情報操作の典型的な例ですよ。
そもそもこの記事のそのまた元になった問題記事である3月27日付「NEWSの窓」の元毎日新聞論説委員で経済ジャーナリストの北村龍行氏が書いた「東電は人々のことを考えているか」というコラムが閲覧出来ない。
前後の日付記事は今での読めるが、これは題名さえも完璧に削除されているのですよ。

・宗純さん

論説委員で経済ジャーナリストの北村龍行氏が書いた「東電は人々のことを考えているか」というコラムが閲覧出来ない。

なるほど「東電少年」非実在の傍証というわけですね。マスゴミのやりそうなことです。

何故、『神話は間違っている』との正しい原理・原則から出発しないのか。

簡単なことです。今こそ「神話」が必要だと考えているからです。

ですが、原子力マフィアが唱える「神話」と私が唱える〈強い絆〉とを混同しないで頂きたい。「神話」を広く見れば〈強い絆〉もその範疇に入るでしょうが、〈強い絆〉は「神話」を断ち切るための基軸になるものですから。

マフィアどもの「神話」は詰まるところ「拠らしむべし。知らしむべからず」です。崩壊した「安全神話」も現在喧伝されている「電力不足神話」も同じです。私たちはこれを断ち切って自立しなければなりませんが、そのためには正確な情報が必要。とはいえ、正確な情報は容易には手に入らないのが実情です。放射線の人体に与える影響など、未だ科学的に確たることは判明していない。一部科学者はその調査のために人体実験を行なおうとしている始末。私たちは不完全な情報のなかで決断を強いられる。

そんななかで何を基軸に決断すればいいのか。「子どもは無垢」=「子どもは無責任」でよいと私は思います。だだし、その誤用は戒めなければならない。「東電少年」は誤用の典型例です。

もうひとつの典型は、無人攻撃です。「東電少年」は無責任を装う手口ですが、こちらは免責という手口。

遠隔操縦する兵士は無責任とは言えません。兵士たちは職務に忠実なだけと反論するかもしれませんが、しかし少なくとも「内心の罪」は問われなければならない。それを免責しているのは宗純さんが仰る意味での「神話」でしょう。が、これは明らかに誤用です。〈強い絆〉としての宗教は「内心の罪」を問うためのものであって、それを免責するものでは断じてないのです。

やっぱり無理筋ですよ

可也の無理が見られます。
>『宗教は「内心の罪」を問うためのものであって、それを免責するものでは断じてないのです。』
は、事実ではない。
『そうであって欲しい』との人々の(愚樵さん)の理想か願望ではあるでしょう。
しかし、それ以上のものではありません。
現実政界の宗教とは、正反対で『宗教は内心の罪を免責するもの』ですよ。
その為に宗教が生まれたのだと言っても過言ではないでしょう。
パスカルの『人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行うことはない』との言葉は、悲しいかな今では完璧に『正しい客観的事実である』と証明されているのです。
>『「子どもは無垢」=「子どもは無責任」でよいと私は思います。だだし、その誤用は戒めなければならない。「東電少年」は誤用の典型例です。 』
も無理ですよ。
神話とは客観的事実とは何の関係も無いから『神話』な訳で、事実であるなら普通は『神話』とは呼ばないでしょう。
その意味で東電少年は神話の誤用ではなくて、それ自体が完璧な『神話そのもの』ですよ。
先ず最初の「子どもは無垢」は神話で事実でなくて願望ですが=で繋がっている「子どもは無責任」の方は愚樵さんの論理的な帰着であり、こちらの方は事実です。
ですからこの二つをイコールで結ぶべきではないのです。
イコール完全な論理的な間違いですよ。
ここがまさに、『原発安全神話』のカラクリとそっくり同じ構造であるのです。
『原発安全神話』とは原発が安全であって欲しいとの全ての人々の『願望』では有るが、現実世界の『客観的事実』とは何の関係も無い。
事実は正反対で原発とは基本的に『危険なもの』だと福島第一の事実の前に、今では誰もが気がついている。
ただ3・11が起きる前には今とは正反対で一部の例外を除けばほとんど全ての人が『原発は安全』と思っていた。(あるいは思いたいと思っていた)
『原発が安全である』とか『子供が無垢である』とは、目の前の本当の事実とは違ってはいるが(否、違っているからこそ)すべての人々の理想や願望であるので、誰であれ決して『否定』は出来ない仕組みのものなのです。
これは小説世界では良く有る、処女の聖なる売春婦を思い描くのと同じで、『素晴らしい話である』とは私も思うが現実世界の客観的事実とは違いすぎるのですよ。
残念ながら売春婦は処女でもないし聖女でもないのが現実です。
悲しいかな現実の原発は危険であるし、子供は無垢ではないが無責任な(責任能力が無い)存在であるのです。

・宗純さん

いやはや、乱暴な議論です。悪質なプロパガンダです。

原発神話のひとつに「環境にやさしい」というものがあります。これは、原子力発電が運転中に温室効果ガスを排出しないという事実だけをもって「環境にやさしい」としてしまう。放射性物質を処理できないという問題は隠蔽するのです。宗純さんもよくご存知でしょうが、この手の類のものは嘘を言うわけではないのです。都合の悪い事実を隠蔽して、都合の良い事実だけをそれがあたかも事実の全体であるかのようにいうのです。

宗純さんのコメントも、これと同じ構造をしています。

宗教が「内心の罪」を免責されるために使われてきたというのは客観的事実でしょう。それは認めます。だが、それが全てではありません。仮に百歩譲って、それが過去100%事実であったとしても、未来もそうなるとは100%言うことはできません。人間の心は物理現象のモノサシで測ることができないというのは、100%の事実ですから。

人間の心理には正常化バイアスというものがあります。日常性バイアスともいう。原発安全神話は正常化バイアスを利用したものだといえるでしょう。最初は殺人に戸惑う兵士も、行為を重ねるうちに慣れてしまう。これも正常化バイアスです。

多くの宗教はこうした正常化バイアスを打ち破る機能を持っています。クリスチャンは神の子を殺してしまったというトラウマを共有することで、日本教徒は四季の移ろいに無常を感じることで、子ども教徒は子どもに無垢を見出すことで、正常化バイアスを打破する。

ただしその機能は全方位的には働かない。正常化バイアス打破の局面は限定的であり、機能が働かない部分ではかえって正常化バイアスを強化してしまう。ここでは内心の罪を免責するように機能する。これは宗教の、というより、人間の頭脳の欠点です。真の宗教体系はこの人間の欠点を指摘しています。だから厳しいものになる。

人間の頭脳には長所もあれば欠点もある。その欠点だけを取り出してみて、それを理由に人間の頭脳の働きは害悪であると論理も、作ろうと思えばできる。しかし、それを真実だと言い張るのは馬鹿げたことです。

真面目なのか不真面目なのか

愚樵さん、さっぱりわかりません。

それでは『安全である』として玄界原発再開要請をした海江田経済産業大臣の論理と五十歩百歩で、論理矛盾で何が言いたいのかが誰にも理解できないでしょう。(もうその話がしたくないのであれば『したくない』と言ってくれないと判りません)
海江田大臣は、目の前の現実(福島の事故)から出発していないで、全く別の理由で『安全で有る』と言っているので我々のように普通の市民では誰も理解出来ない。
>『いやはや、乱暴な議論です。悪質なプロパガンダです。』と有るから、てっきり東電や政府による原発安全神話のプロパガンダの話だと思ったら、
>『宗純さんのコメントも、これと同じ構造をしています。』と続いていて、これが難解というか意味不明というか、・・・キリスト教など一神教宗教に詳しいらしい愚樵さんには理解出来るかも知れませんが、到底私程度の読解力の手に負える範囲ではない。
そもそも私が何回も何回ももコメントしている内容ですが、
一貫して主張していることは唯一つの事実だけ。
『無垢な東電少年の話は東電の悪質なプロパガンダの可能性が非常に高い』
、ですよ。それ以外ではない。
行っているのは印象操作とか世論誘導のプロパガンダ論であり、これは自分のブログ『逝きし世の面影』の趣旨と一緒であり、
誰にも反論出来ない類の事実を列挙して東電の行ったらしい偽装工作を指摘しているだけなのですよ。

ところがこの記事の愚樵さんの主張は、実は別にあり記事の最初にも、
>『リンクは貼ったが、別に読んでみる必要はないと思う。子どもの無垢な視線が事の本質を鋭くえぐり出すことはままあるが、これは子どもの稚拙な意見に過ぎない』とある。
コメントでは、
>『・・ここでは内心の罪を免責するように機能する。これは宗教の、というより、人間の頭脳の欠点です。』
とあるが、これは私の主張なのですが、
続くコメントで、
>『真の宗教体系はこの人間の欠点を指摘しています。だから厳しいものになる。』<と結論付けているのですが、
何故ここでコペルニクス的に正反対の180度の大回転を行うのですか。?
この主張の前部分と後部分とをつなぐ論理的な根拠は其処にも無い。
前と後とが正反対の主張なのですから、両方を肯定されると大弱りなのです。
正反対の主張なのですから一方を肯定するなら、必ず一方を否定してくれないと、相手の真意がさっぱり判らず大弱りなのですよ。
これでは今の管政権が『安全でない』として止めた浜岡と『安全である』として再開要請した他の原発の違い(安全の根拠)を説明出来ないのに似ている。
『安全な原発』とか『真の宗教体系』とかは、理想や願望としては存在するが、
悲しいかな、そんなものは歴史的な客観的事実としては存在していないのですよ。
今までとは違う別の存在ですが、世の中に無いもの『無い』のですよ。これは空理空論の宗教論争の類ですね。


毎日新聞の今週の本棚に橋爪大三郎の『ふしぎなキリスト教』が紹介されているのですが、内容的にはもしドラ『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』のもじりで、『もしも、社会学学者がキリスト教の聖書を読んだら』みたいな話なのです。
当方の『逝きし世の面影』の宗教のカテゴリーで書いている内容に可也の部分近い(この本はずっと穏健で好意的ですが)のですが、それでもAmazonの書評欄には丸っきり創価学会を連想する★一つの敵意丸出しのキリスト教信者の悪意有るこじ付け的な書き込みが幾つも有る。
社会学的なアプローチでの思考に対しては、アレルギー反応を起こしているのですね。

・宗純さん

この主張の前部分と後部分とをつなぐ論理的な根拠は其処にも無い。

えっと。一応、「正常化バイアス」でそのあたりは繋げているつもりなのですが。

端的にいうと、私と宗純さんの違いは〈あの世〉(宗教、憑依、想定)の価値を認めるかどうかでしょう。〈この世〉(『無垢な東電少年の話は東電の悪質なプロパガンダの可能性が非常に高い』 )は認識は一致していますよね。

宗純さんは〈あの世〉的なものの価値は認めない。私は認めるんです。ただし全肯定ではない。肯定できない部分も多々ある。私は『東電少年』を、肯定できない〈あの世〉的な見方で捉えているんです。

宗純さんが私の論理を無理筋というのは、宗純さんの視線からは当然でしょう。例えるなら宗純さんはユークリッド幾何学、私は非ユークリッド。

『安全な原発』とか『真の宗教体系』とかは、理想や願望としては存在するが、
悲しいかな、そんなものは歴史的な客観的事実としては存在していないのですよ。


ええ、ですが主観的事実(←という言葉が適切かどうかはわかりませんが)としては存在した。そして、ほとんどの人間にとって大切なのは主観の方であり、これは「歴史的事実」であり「現在進行中の事実」です。私はそこを認めた上で『安全な原発』と『真の宗教体系』の間に線を引く。宗純さんはどちらもまとめてゴミ箱へ捨てるべきだ、と言っている。

宗純さんの主張は理解しますが、しかしそれでは主観がもたらす「歴史的事実」「現在進行中の事実」を見落としてしまいます。見落としているから、私が“悪質なプロパガンダ”と指摘した意味が理解できないんです。宗純さんは私が「理想」と「事実」とを混同しているように見えているのでしょうが、私からすれば宗純さんは「主張」と「事実」との区別がついていないように見える。

ユークリッドが出ましたので触れておきますと、ユークリッドは「点」を「位置をもち、部分を持たないものである」と定義しました。すなわち“真の”点には長さも大きさもない。私たちが紙の上にエンピツで点を打つとき、そこには長さも大きさもありますから、それはユークリッドの定義した点ではない。にもかかわらず、私たちは紙の上の大きさを持った点を、ユークリッドが定義した点だと見なします。現実の中に理想を見ているわけです。プラトンのイデア論だと言ってもいい。

宗純さんの論理は「客観的事実としてユークリッドの定義した点は存在しない。それは単に理想に過ぎない。ゆえに真の数学は存在しない」と言って0いるようなものです。

かったるい

お元気ですか?
なんだか、どうも「かったるくて」自ブログも更新できずにいます。
これまでは、どうにもならないな、と思いながら理想を訴えてみたり、
マヌケな権力を茶化してみたりしてきましたがどうもいけません。
この「かったるさ」、これは、これまでは心の底で「この世」にしっかり乗っかり、
ぶつくさ言いながらも「この世」に安心しきって「あの世」を語ってきた証拠なのでしょう。
現実にマジで変わっていかなくてはならなくなるとシンドすぎ、「かったるい」です。

ここの「子ども」の話は、途中までどうなることやら、と思いながら読みましたが、
ほっとして読み終えました。
ワタシは、「責任」とやかくじゃ、ねぇだろ!! と途中まで読んだわけですね。
ところが、子どもの無垢さが、あの世に繋がる、ときた。
おお、ワタシの好きな終わり方(笑)。
しかしなぁ、現実にはこの世をあの世に変えるにあたっての責任はどうすんの?、と言う事になる。
無垢でなければあの世に繋がらないのに、無垢は無責任。
きっとこの世に責任をもったまま、あの世に変えることはできない。
2000年前のあの人も、「この世的」には無茶苦茶だった。
このジレンマを人は乗り越えることができるのかな?
無垢な子どもは責任をもった時点で大人とみなされる。
責任のある大人にJCトリックスターのような行いはできない。
いやいやトリックスターはいっぱいいるけど、責任があるくせに無責任でなにより身も心も「この世」の権力者ですからね。

「かったるいなぁ」もう(笑)。

ニートな気分?

・毒多さん、こんにちは。

私は基本的に元気です。ただこの一週間ほどは仕事の都合で少し日常のリズムが狂って、すこしかったるい感じ。昨日など雨休みだったのですが、PCに向かう気分になれず、借りてあった『けいおん!』のDVDなどをニヤニヤ見ながら、一日ダルに過ごしてしまいました。

この「かったるさ」、これは、これまでは心の底で「この世」にしっかり乗っかり、

ちょっと毒多さんは

なんだかニートの言い草みたいだな、と思ってしまいました。〈この世〉を「親」に、〈あの世〉を「夢」に置き換えると...(苦笑)。毒多さんはもちろん〈この世〉でニートなわけはないはずですが、〈あの世〉規準でいうとニートになってしまう? もっとも、これはかなり高次なニートですが。 評判の悪い香山リカの「反原発は引きこもりやニート」発言も、〈あの世〉規準で考えればあたっているのかもしれませんね。

ニートってなんだ「出来損ない」みたいなイメージがあります。確かに社会(この世)不適応という規準でみればそうですが、社会がおかしいと見方をすればニートの方が正常だともいえます。原発社会は正常な(〈あの世〉に繋がっている)人間から見ればどう見てもおかしい。原発推進派なんてニートにすらなれない無責任ヤロウどもです。

現実にはこの世をあの世に変えるにあたっての責任はどうすんの?

原理的に言って〈この世〉が〈あの世〉に変わることはありませんが、言いたいことはわかります。

きっとこの世に責任をもったまま、あの世に変えることはできない。

いえ、そうではないはずです。「この世に責任をもってあの世にかえる」のは、「まつりごと」の本来の役割です。「まつる」というのは〈あの世〉と繋がるということでしょう。その意味で2000年前のあの人は失格と言わざるを得ない。もっともそれは当人の責任ではありませんが。

私はジレンマはいくつも乗り越えていたと思っています。日本も、中国も、西洋も。乗り越えられなかった文明社会も多々ありますが。

社会であれ個人であれ、ジレンマを乗り越えるときは冒険です。そして冒険をするには「覚悟」が必要です。権力者でない私たち庶民は、社会がジレンマに引き裂かれようとする局面では、「覚悟」するくらいのことしかできないのかもしれませんね。

やっぱり「覚悟」なんですね。

こんばんは。よこ入り。
結局なんでも最後は「覚悟」なんですね。
そして最初も「覚悟」。
いろいろウジャウジャおこることも「覚悟」することでとりあえす整理することが出来るし、「覚悟」することで次のステップに進む事が可能になる。
でも「覚悟」自体は何を生産するわけでもない。
僕も、子ども達も、これからそう遠くない未来に「命を掛けた覚悟」をしなくては生きていけない時代になりそうな気がします。
そうか、この予感が「不安」なんですね。
そして、この「不安」にも向き合う「覚悟」が必要なんですね。それが<あの世>と<この世>のキレメを自覚するということなんでしょうかねぇ?

・すぺーすのいどさん

ええ、「覚悟」が必要なんです。

私たちは今、時代の転換点にいますよね。大震災、そしてフクシマ以降、それは明らか。その兆候は以前からいっぱいあった。リーマンショックがそうだし、リビアやエジプトの「革命」だって、その兆候だったわけでしょう。もう、既存の〈システム〉では上手く行きそうにない。その予感はますます強くなっているし、菅直人をはじめ権力者たちが陥っているのは「エリート・パニック」、崩壊しつつある〈システム〉のなかで自分たちの既得権をいかに守るか。浅ましいことこの上ない。こんな奴らに主導される〈システム〉なんて嫌だけど、そう言ったって、絡め取られてしまっている。

予感に従うならば、これから先、命懸けの生存競争が始まるでしょう。もちろん、始まらないに越したことはないんです。でも、その予感は払拭できませんよね。では、その時どうするか。 「勝ち組」を目指しますか?

〈この世〉とか〈あの世〉とかグチャグチャいってるのは、そんなのはヤだ、ということでもあるんです。生き残りたいけど、競争して周囲を蹴落として自分だけというのは切ない。そうしないでいられる「覚悟」とはなんなんだろう。何を軸にすればいいんだろう。そんなことを考えていたりするわけなんです。

ニートな気分?というよりも

おはようさんでございます。
で、「けいおん!」はおもろいのでしょうか?
ネットでは噂になっている上に、自ら率いるオサーンバンドが楽しいのでチェックしようと思っているのですが、いつも貸出中で(というか最近レンタル屋にもほとんど行く気がしないのですが、、、)。
ま、今回は愚樵さんが「おもろい」と言えば観てみることにします。
高橋留美子といい、なんとなく嗜好は似ていると思うので参考にさせてもらいます、ので、この件に関しては是非ともレスください。

嗜好が似ているといえば、前のレスで挙げられた「総スカンの香山リカ」の例のアレですが、実はワタシは面白いなぁ、と思いながら読みましたけど、如何?
全面的に賛同しているわけではないけれど、ちゅうか書き方下手だなと思う部分はあるのだけど、「ニート、引き篭もりの分析」は面白い。あれ、ニート引き篭もりの賛辞じゃん、と読みながら、まさに「これオレじゃん」と感じてしまいました。
とはいえ、引き篭もることもできず、知的追及をとことんするこもできず、ましてや二次元ゲームに走ることができず、適当に「この世」を楽しみながら、かと言って「この世」を認めるわけでもなく、、「ニート、引き篭もり」よりも中途半端野郎なのですがね。

中途半端といえば、「覚悟」なんかできやしない。
簡単に「覚悟」なんて言うけど(まあワタシも自ブログでは言ったのだけど)、ほんとに出来るのか?と疑問に思ってしまいます。と、この辺が「この世」にベッタリなところなんですがね。正直に言えば「脱原発だ」それで不便になるならそれも「覚悟」して、と声高に言っている多数のどれだけに覚悟があるのか、非常に懐疑的です。
だいたい「覚悟」ってなんでしょうか? 解っていて使っているのかなぁ?
なんだか解らないから言葉だけで「覚悟」って言ってるのではないでしょうか?
ぶっちゃけ「あの世」ってのも具体的になんだろうねぇ? と思ってしまいます。
というのも、ワタシはあまり覚悟をしたことがない。
一度あるといえば、パクられそうになる前に、パクられるかもしれないが、やるかどうか、と話あったときぐらいかな。
あとは想像すると、「脱サラ」して自給自足をしようとするまえの「覚悟」は想像できそう。ああ、今の生活を捨てる覚悟といえば、また一からやるのはシンドイなぁ、と感じてしまうわけで、きっと東海地震で何もかも失ってしまえば、その時覚悟してやるんだろうけど、、、、、

なんか退廃的なコメになってしまうんですよね、だからカッタルイのいのかな(笑)

けいおん!

・毒多さん

私もネットの評判を見たんですけどね。はい、面白いというか、楽しいですよ。女子高校生たちのユルイ青春物語。無責任で無垢(^_^; 「無垢」を許せるかどうかが、楽しめるかどうかの境目かな。

あれ、ニート引き篭もりの賛辞じゃん、

そのあたりは彼女の専門ですし、本当にニートを見下していたんじゃ仕事になりはしないでしょう。でも、やっぱり彼女にとって、ニートは「治療の対象」なんでしょ。つまり反原発派も治療対象だという構図になる。
この構図はどう見ても拙いでしょう。

でも、一方で

だいたい「覚悟」ってなんでしょうか? 解っていて使っているのかなぁ?

という疑念も当然のものです。事故は既に起こってしまって未だ収束の見通しがない。政府や東電の対応が劣悪なこともあって、これから先、悲惨な状況が予想されるわけですよね。そんななかで〈この世〉(政府・東電)の責任ばかりを叫んでいる人は、そう叫ぶことで「覚悟」から目を逸らしていると見えなくもない。

この構図は(いぜんそちらで指摘したことがある)死刑賛成論者の構図と似ていますよね。また「東電少年」の構図とも似ている部分がある。「無垢」を装って批判するわけです。だいたい「覚悟」のある者は「無垢」を装いません。

でもでも、これまた難しいところですが、ヤスパースの主張に拠って示した通り、反原発論者は刑法上、政治的には無罪です。反原発論者だって事実上は容認していたんじゃないかというような人もいますけど、しかし、仮に反原発を実力で実行しようとすれば刑法犯に問われるわけでしょう。それはフクシマ後の現在でも同じです。刑法犯じゃなければ有罪なんて論理は、どう考えてもおかしい。

で、無罪であるゆえに無垢である、という論理も成り立ちうる。しかし、この論理を採用する人に「覚悟」があるとは言えませんよね。

もし、東電少年が無垢だったとした、どんな意見を発したろうか。

「ぼくの父親は東電社員です。東電は福島の原発事故で、世界中の人たちに迷惑をかけています。東電は悪いです。だから、ぼくもみなさんに謝りたいと思います。」


これ、「覚悟」でしょ。無垢な「覚悟」なんです。もちろん「想定」ですけど。

毒多さんは原発事故をご子息に謝罪したと仰いましたよね。無罪なのに謝罪した。つまり「無罪ゆえに無垢」の論理を採用しなかった。私はその中に「覚悟」があると思いますよ。無垢ではないかもしれませんが(笑)

昔、山登りをしていた頃、仲間とした話を思い出しました。

雪山なんかを登山していると、局所的な難所に出くわすことがあるわけです。距離はわずかだけど、てかてかのアイスバーンになっていて、斜度もきつい。滑り落ちると間違いなく落命する。下がよく見えるわけですよ。ああ、落ちたらあそこまで行くな、って。

正攻法でいくならキチンと確保すべきなんですが、実際は、エイヤ! で行くこともある。距離もわずかだし。でも、恐怖感は強い。想像できてしまうんですよ、自分の落ちる姿が。

仲間と話したのは、そんな場面で、どういう心構えで行くかという話なんです。私はどちらかというと、

「ええい、ままよ! 落ちたら落ちたとき」

という具合に構える。これは性格ですね。もちろん、そうじゃない人もいる。

「オレは落ちない。オレは落ちない。オレは落ちない...」

と自身に暗示をかけるように念じる人もいる。と、こんな話でした。

で、「覚悟」についてなんですが、覚悟があるといえるのは、どちらか?


 一見、前者の方が覚悟があるように思えます。が、後者だってちゃんと覚悟はあるんです。覚悟がなければ恐怖感には克てない。体がすくんで難所は通過できません。

でもね、その難所が通過不可能であるなら、恐怖感に打ち克つことは「覚悟」でもなんでもない。あくまで通過できる見込みがなければダメなんです。また難所を迂回できるなら、そんなところをわざわざ通過するのも「覚悟」ではない。
(この手の覚悟が必要なのは、男が女をGETするためのパフォーマンスをするときくらいです。)

「死ぬ覚悟」というのはあります。しかし、私がここで言っている「覚悟」はその覚悟ではない。「生きる覚悟」です。山あり谷あり難所ありの「生」を生きること。

〈あの世〉とか〈強い絆〉とかいうものは、「生」の意味を明らかにするものなんですよね。

無垢なユルイ女高生を許容できるか?

そうですか、無垢でユルイ青春かぁ、、、ちょっと今は余裕ないかもしれないなぁ。同じ女子高生でもどっちかというとハルヒな気分なんで。あ、ハルヒてか、綾波かな、、、って我ながら意味不明だなぁ(笑)、、とにかく無垢を余裕をもって眺めている気分じゃないってことで、けいおん、は先送りかな(笑)。

リカちゃんおアレは
>治療対象、、、、だったのか!?
それで顰蹙買っていたのね、、、納得。
そうかそうかリカちゃんは精神科医で、精神科医にとって、ニート、引き篭もりは治療対象なのか、残念。ワタシが面白いと思ったのは、ニート、引き篭もりの賛美でもとより「この世」が変でニート引き篭もりが正しい行動だ、と言ったのかと思っていたから。
反原発も治療対象じゃ、ムッとされて当然だ。
でもね、アレ読んで怒っている、反原発諸氏は自分たちをニート、引き篭もりと一緒にされて怒っているんじゃないのかな? 「この世」を否定することに関しては、(リカちゃんも賛美する)ニート引き篭もりと同じなんだからいいじゃね、と思うんだけどさ。
リカちゃん自身が「この世」肯定派で、ニートをこの世に引き戻そうとしているのでは話にならないな。

原発ってのは、相当大きな問題で「この世」の核といってもいいぐらい大きな象徴だと思っているのね。つまりそれをやめちまうってのは、「この世」が根底からひっくり返るぐらいのものじゃねぇの?って思っていて、メルトアウト?はひっくり返る進行中だと思ってんだけど、そうじゃないのかな?
反原発を表明している多数は、「この世」は「この世」のまま継続してたんに原発だけがなくなると思っているのかな? どうもそう思えてしまってカッタルクなっているのかもしれないんだけど、で、やっぱり覚悟に繋がっていくことになる。

息子に謝ったのは、ツッコまれるまえに謝っとこうという大人の汚い打算です。
説明するにあたって、そういう社会をつくったのはとうさんたち大人ですか? なんて突っ込まれそうでさ(笑)。もっともうちの息子は賢いうえに優しいから、きっとそう思っても言わないんだよなぁ、爆!! 
もちろん、「ぼくもみんさんに謝りたいと思います」なんて言う訳はないけどね。
改めて眺めてみるとイヤラシイ文章(子ども)だな? この東電少年は何歳なんだろう?
こんなこと自分の息子が言ったら、ワタシはどう言うだろうね。
烈火のごとく罵るかもしれないね。
バカか、おまえ、何様のつもりなんだ!! 何が謝るんだゴラ、偉そうにしやがって、口先だけで軽々しく謝りたいなんて言うな、ボケが、、、、、(と、ここでちょっと「ボケ」はやめなさい、と嫁の横槍が入る、、笑)、、、と言うと予測。
いずれも覚悟もねぇのに、偉そうに謝るなっていうんじゃねぇ、、となりそうだね。

さて、
「これからの『覚悟』のはなしをしよう」byサンデル、、、なんちゃって。
そう、覚悟ですね。
もちろん死ぬ覚悟じゃなく生きる覚悟でしょう。
もうちょっと具体的にいうと「捨てる覚悟」かもしれない。
人はいらぬものを所持しすぎた、マジ捨てなければならない時期に来ている。
築いてきたものも考えなおして捨てなければならないものがある。
実は、この便利さ、快楽、に至るまでに多くのものを捨ててきたんだけど、覚悟もなしに捨ててきたんだよなぁ。さて別のベクトルに進まなければならない今、今度は覚悟して捨てなければならない。そんな覚悟できるんかいな?
おおいに疑問です。

「覚悟」ってなんなんでしょうね?

私の感じている「覚悟」は「受け入れる」って感じに近いかなぁ…
自分以外のもの、つまり外部の価値を「受け入れて」「呑みこんで」「消化して」…
そして一番重要なのはその結果として自分自身に「変化」をもたらす、つまり「変わる」こと。
だから本当の意味の「学び」は、「覚悟」の一つの形態なんじゃないかなと思っています。

当然「覚悟」にもレベルがあって、毎日気付かないままするような「覚悟」もあれば、めっちゃ大変な「覚悟」もあるんでしょう。
例えば毎日の食事も外部の物質を経口取得するわけで、実際危険なわけですから「覚悟」してるんですよ、慣れちゃって解んなくなってるけど。
でも食べた事のないもの食べる時とかは、ちょっと「覚悟」いりますよね。

それと「覚悟」って「生きる」方向にしか、使われないんじゃないかなぁとも思う。結果的に命を落とす事があったとしても。

・毒多さん、おはようございます。

そうですか『けいおん!』は見送りですか(^o^)

リカちゃんについては
http://ameblo.jp/anmintei/entry-10945172596.html
なんかもお読みになっていただければ。東大を批判する東大教授による辛辣な批判が展開されています。
(ついでに触れておきますと、このブログの本題である「マイケル・ジャクソンの思想」も、とっても面白いですよ。アメンバーにならなければ閲覧できませんが、お勧めです。)

反原発諸氏は自分たちをニート、引き篭もりと一緒にされて怒っているんじゃないのかな?

それはあるかも。

反原発を表明している多数は、「この世」は「この世」のまま継続してたんに原発だけがなくなると思っているのかな? どうもそう思えてしまってカッタルクなっているのかもしれないんだけど、

その疑念は、私のサヨクへの反発と同じもののような気がしますね。サヨクや反原発の主張は間違っているとは思わないけど、何か大切なものが欠けている。自分が正しいと思っている連中はそこに気がつかない。

改めて眺めてみるとイヤラシイ文章(子ども)だな? 

私が「想定」した「無垢な子ども」の方ですよね? それをイヤラシイという読みは、当たっているんですよ。「無垢な子ども」は宗教上の存在だから。だからキリストさんと並べてみたんです。

たかだか十字架に磔になったくらいで全人類の罪を背負うだと? エラソウニしやがって。本当に神の子だというのなら、十字架で磔になる必要などないだろが!」

というようなことだって言えるわけです。キケンですけど。

でも、私はそういうものの言い方はしない。なぜかというと「イエス様が罪を背負ってくださった」と信じる人はエネルギーを出すからです。エネルギーを出すからキケンでもあるわけですけど。同じように、「無垢な子ども」の謝罪は「無垢な子ども」という神話を信じる人にとってはエネルギー源になる。そういったエネルギーが私たちには必要なのではないでしょうか? ということですね。

人はいらぬものを所持しすぎた、マジ捨てなければならない時期に来ている。築いてきたものも考えなおして捨てなければならないものがある。

原発を含む核についてはそうです。あと、一部の遺伝子組み換え技術なんかについても当てはまるかもしれない。でも、大部分の「築いてきたもの」は別に棄てる必要などない。分かち合えばいいんです。

電力会社がなぜ原発に執着し発送電分離、送電網の自由化に反対するのか? 分かち合いたくないからです。政治家・官僚たちも同じです。独占して甘い汁を吸いたいから。

私たちがよくやる批判は、こういった権力者たちの心性は個人の資質に拠っているという前提に立っての個人批判ですね。でもそれは間違っている。〈システム〉の問題なんです。その〈システム〉に適応するとそうなってしまう。そうした〈システム〉に私たちは依存してしまっている。だから替えるのが容易じゃない。

容易じゃないけれども、一方で私たちは「分かち合う喜び」だって知っているわけですよ。〈システム〉が上手く機能しなくなったとき、その方向へ喜びを見出そうとする人は少なからずいる。

築き上げたモノをタダ単に棄てるという禁欲的な態度は、一部の人は出来るかもしれないだろうけど、大きな流れにとなるのはまずムリ。〈システム〉の代替物とはなり得ない。が、棄てるのではなくて分かち合って、そこで喜びを見出すことが出来るような「システム」は、考えられなくはないはず。〈システム〉の基軸は「所有の喜び」なんです。それを「分かち合いの喜び」に替える。

「分かち合いの喜び」が機能するのは、〈強い絆〉のなかでなんですね。実際、此度の震災でもっとも〈強い絆〉を発揮したのは創価学会だという話もある。学会に批判的な者は池田大作記念会館なんてオゾマシイものに映りますけど、そこが物資の「分かち合い」の拠点として上手く機能したというのは事実なんです。

でも、そうした事実があるからといって、池田教に入信しようなんて勧誘はバカげているでしょう? そんな池田大作が地湧の菩薩だなんて「想定」は信じられない。

では、私たちが信じることのできる者は何なのか? 「想定」と「事実」の接点はどこにあるのか? 「子ども」はその「接点」のひとつではないのか? というのがこのエントリーの趣旨なんです。

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

だから本当の意味の「学び」は、「覚悟」の一つの形態なんじゃないかなと思っています。

「価値ある情報」を取り入れて、自身が「変わる」。そのアプローチの仕方に〈学〉と〈術〉があるんだ、という話はしましたよね。

当然「覚悟」にもレベルがあって

このレベルは絶対的なものではないと私は思っています。「覚悟」のレベルを決定づけるのが文化ではないか、と。

例えばですね、子どもを産むというのは〈術〉です。女性にしかできない〈術〉ですね。その女性が昔は、「大きくなったらお嫁さんになりたい、お母さんになりたい」といったような願望を抱くことが多かった。その願望は社会的にも承認されていた。

お嫁さんになるのもお母さんになるのも「覚悟」は必要です。もちろん子どもを産むのだって。が、その「覚悟」が「願望」となり、その願望を承認する文化があると「覚悟」のハードルは低くなる。「覚悟」とすら意識しなくなる。でもこの文化は一方で、女性の社会進出にはかなりの「覚悟」を強要した。女性が〈術〉でなく〈学〉を学び、そこから自身を「変える」ことを社会は承認しなかったんですね。でも、一旦、このことが承認されてしまうと、今度は逆に子どもを産むということが大変な「覚悟」を要する社会になってしまった。経済的に恵まれた者でしか子供を産めないというような状況になった。

女性の〈学〉への進出を阻むのもおかしいけれど、子どもを産むのに大変な「覚悟」が要るというのもおかしい。子どもの虐待増加という現象だって、おそらくは「覚悟」を要するという構造に深く関連しているでしょう。

それと「覚悟」って「生きる」方向にしか、使われないんじゃないかなぁとも思う。

それはまったく仰るとおりで、本来なら言う必要もないことなんです。でも、残念なことに個々人の「生きる」を社会が承認するとは限らない。現代は、社会の承認と個人個人の「生きる」「願望」とのミスマッチが非常に大きくなってしまっていますよね。社会というか、権力者たちはむしろ、個人の「願望」をコントロールしようと躍起になっていて、それがある程度成功を収めているという事実もある。

言う必要のないことを言わなければならないのは、このミスマッチがあるからなんです。

人のコメ欄は楽だ

おはようございます。
人のブログのコメ欄だからといって無責任に書いているわけではないのですが、なんとなく気がラクです(笑)。ちょいとリハビリ的に連投しちゃいます。

>リカちゃん
リカちゃんへの東大教授の分析批判の紹介ありがとう。
あそこまでリカちゃんにお付き合いして批判する気にはなれないけど、だいたいワタシの感性である、
>リカちゃん自身が「この世」肯定派で、ニートをこの世に引き戻そうとしているのでは話にならないな。
で終わりそうですね。
ただ一つ後出しジャンケンで言うなら、「なにが真理なんだバカが・・・」というのは、初めて読んだときに思いました。
まあ最初に世間から総スカン食らっていると聞いてからリカちゃんの原文を読んだので、総スカン食うということは何か理があるんじゃないか、ってのがワタシのなかにあって読んでいるので救ってやりたくなるんです。それと、とりあえず無条件にマイノリティ側に立つ癖があるようで、、、、爆!! 
どうやらリカちゃんは、その記事について謝ったようですね。本人が手を挙げては救いようがない。終わりです。

>棄てる
棄てるのは原発に遺伝子組換えかぁ、、、。
まあ同じことかもしれませんが、捨てなければならないのは「人間の奢り」のような気がしています。なんだか「奢りを捨てろ」なんて言い古された言葉ですが、これをマジで棄てるのは大変でしょ。机上の言葉ではなく「リアル」「本当に」に立たされた今、どうするか、ってことだと思っています。

>システム
ワタシが不勉強なのは今更いうまでもないのですが、どうもアレですね。
詳しくは言えませんが、ワタシの場合は実存主義的で、愚樵さんの説明は構造主義的な気がしますね。たしか哲学史上実存主義は構造主義にコテンパンにやっつけられたんだったけ、よく知らないけど(笑)
ほれ、ワタシはなんとなく個々が変わる(棄てる)ことでシステムが変わる、と思っているフシがある。さらにいうなら個が変わればシステムなんかどうでもいい、とどこかで思っている。で、愚樵さんは逆ですよね。システムが変われば個が変わる、、、かな?

ああ、仕事もしなきゃならないな、取り敢えずこんなとこで、、、

・毒多さん

他人様のコメント欄は気楽だって...気がつきましたか(笑) 最近、毒多さんが更新してくれないので、その気楽さが味わえないんですけど。

東大教授のリカちゃん批判は、謝罪の方が本題らしいですよ。

ワタシはなんとなく個々が変わる(棄てる)ことでシステムが変わる、と思っているフシが

個が変わることができるシステム、ですかね。

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