愚慫空論

再度〈強い絆〉と〈あの世〉について

〈あの世〉とは、一般に死後の世界だと解釈される。それは間違いではないが、イコールでもない。生前の世界にも〈あの世〉は存在している。・・・・・・

前エントリーでは〈あの世〉について簡単に書いたが、もう少し説明が必要だと感じるので、当エントリーで付け加えておくことにする。その説明をするのにちょうどおあつらえむきな記事が日経ビジネスオンラインに出ていたので、その紹介から。

『放射能ストレスで前進する女と、立ち止まる男』
      ~1歩を踏み出せば、異なる風景が見えてくる

 目に見えない恐怖への“不安”が、未知なる将来への “決断”へと変わり始めた。母親たちが、「我が子」を守るために、家も、仕事も捨てて、新たな生活へと動き始めたという。
 「妻は仕事を辞めて引っ越そうと言い出した。僕の実家の近くに引っ越して、そこで新しい仕事を見つけてほしいと言うんです。今からあの田舎に帰って何をするって言うのか。我が家は家庭崩壊寸前です」


妻が見ているのは「我が子」という〈あの世〉の存在である。対して、夫が見ているのは〈この世〉。不安と対峙したときに「一歩」を踏み出せるかどうかは、〈あの世〉との回路である〈強い絆〉があるかどうかで決まる。〈強い絆〉があれば、家や仕事といった〈この世〉のしがらみを断つことができる。

前エントリーでも記したように、社会で生きていくには〈弱い絆〉は必要。だから〈弱い絆〉を断ち切ることが良いことかどうかは簡単に判断はできない。“決断”がきっかけで社会の中の「すべり台」を滑り落ちていく可能性がないではない。今の日本社会では、その可能性はかなり高いと言わざるを得ない。しかし、これらはすべて〈この世〉のことである。〈あの世〉としっかり繋がっている者は、判断基準が異なってくる。

 仕事を変える、ということは、ある意味、今の自分を形作っている属性のすべてを変えるということでもある。会社、肩書、収入……。そういった基本属性と呼ばれるもの、すべてだ。「変える」は、「それらを捨てる」ことでもある。そのことに男性は戸惑っていたのだろう。


子どもは〈あの世〉の存在である。親もまた同じ。子どもは未来を生きるであろうし、親は過去を生きてきた。〈この世〉とは〈我〉が存在しない時空であるから、過去や未来は〈あの世〉に他ならない。が、それだけではない。〈私〉が存続していても〈あの世〉には出会うことはできる。

子供を産んだ瞬間から女性は変わる

 つまり、何と言うか、女の人って、多かれ少なかれ、子供を産んだ瞬間から、それまで自分では考えもしなかった生き方、あるいは自分1人では「どうやったって無理」と信じていた生き方を歩き始めているんじゃないだろうか。いかなる不安も、ためらいも、産んだ瞬間に、“変える覚悟”に変わるんだと思うのだ。


強い絆であれ弱い絆であれ、絆はそもそも主観である。だから、女性がすべて産んだ瞬間に変わるとは言えない。「産まない」男は変わらないとも言えない。ただ、女性にそういった傾向があるとは、言えるかもしれない。

“変える覚悟”に変わった〈私〉は、変わる以前の〈私〉と同じ〈私〉ではある。しかし、同じ〈我〉ではない。生きている限り〈私〉は変わらない。が、〈我〉は変わる。“男子三日会わざれば刮目して見よ”という諺もある。この諺が含意するのは、「男子」とは“変える覚悟”を持つ者、つまり〈我〉は変わると識る者だということ。〈我〉が変われば〈この世〉はもはや〈この世〉ではない。

(“男子三日...”は中国の諺だが、あちらの倫理観では親が〈強い絆〉として重視される。孝は忠よりも重い。対して日本では、子どもの方が〈強い絆〉として重視される傾向がある。“変える覚悟”を持つ者が日本では「母」になり中国では「男子」になるのは、その傾向の違いからくるのであろう。男性原理的 or 女性原理的。)


最後に“変える覚悟”を持たない者の記事をひとつ、取り上げてみよう。

『酒やタバコは放射線より恐い』(池田信夫blog part2)

この記事で示されているデータは「正しい」のだろう。しかし、あくまで〈この世〉規準でしかない。ゆえに、こういった記事は「今の自分を形作っている属性」を“変える覚悟”を持たない者には歓迎される。しかし、〈あの世〉を規準に考える者にとっては納得がいかない。

〈この世〉規準が正しいのか、それとも〈あの世〉規準を採るべきなのか、このようなことは議論をしても始まらないかもしれない。規準が違えば話は通じない。ただ、通常「立派な大人」と呼ばれるような者は〈あの世〉規準を採用している者であることは、文明国でも未開地でも変わらない普遍的事実である。

コメント

お久しぶりです。

お久しぶりです。
最近私もツイッタ三昧ですが、あれも基本的に特定の人と語る訳じゃないのでちょっと軽い。
ブログのコメント欄は主さんとガチなのでそれは真剣勝負になるのだけど…

私は完全に<あの世>の人なんだなぁ、と思いました。
最近本当に今なんか割とどうでも良いと思っています。
それでもなかなか仕事を捨てて行くわけにはいかないですけどね。
それは自分にとって今は仕事よりも地域とのつながりが重要だからという事もありますけど。

・すぺーすのいどさん、こんにちは。

私もツイッタやってますが、やっぱり肌に合わないです。“つぶやき”よりも“モノローグ”がいいみたい。どうもね、ツイッターは〈この世〉志向な感じがするんです。広く繋がるのはいいですが、弱い感じ。まさに「ソーシャル」。

私は完全に<あの世>の人なんだなぁ、と思いました。

私に言わせればすぺーすのいどさんは〈この世〉の人です。いえ、〈この世〉の人にも二種類ありましてね。〈この世〉だけの人。〈あの世〉と十分繋がっているから〈この世〉で居られる人。すぺーすのいどさんは後者のように見えます。「強い人」ですね。

私こそが〈あの世〉の人です。〈あの世〉と十分に繋がりきれず、捨てきれない。捨て切れれば〈この世〉だけになれるのですがね。それも出来ずに〈あの世〉を追いかける。だからこんな記事を書いてしまう(笑)。

すぺーすのいどさんが〈あの世〉の人だとすると、私は〈この世〉でも〈あの世〉でもないことになってしまいます。

難解

愚樵さん、こんばんは。
相変わらず愚樵さんとの問答は難解です。(笑)

ただ多分褒めて頂いていると思うので、取り敢えず、ありがとうございます。(笑)

あまりに解らないので何度か本文を読みなおしてみました。
あちゃ~(^^ゞ 自分で自分を「あの世」の人と言うなんてずいぶん傲慢だった気がしてきましたよ。

”変える覚悟”というのはとっても解る気がします。とっても大事な事です。
暴力的なものとは全く違う”強さ”を表わす言葉ですよね。
でもだから本気で”覚悟”するのは大変です。僕はまだまだヘナチョコです。
「未来」という<あの世>を想って”強く”なりたいとは思っています。

うーん(>_<)
おそらく私の想像する愚樵さんが気にしている事は<この世>の部分では違いが大きいかもしれないけど、<あの世>の部分ではあまり大差ないのではないかな?と思うのは、これまた傲慢なのでしょうか?

決して良い事では無いかもですが、最近は近々の事を案ずるのは無駄な気がして、1000年後くらいを目指して行動するのが丁度良いのかなぁなんて思っています。

すみません...(汗)

再度のコメント、ありがとうございます。

難解とはいつも言われます、ハイ。でも、多分違うんです。最近、やっと気がついてきたんですが、私の文章は「居心地が悪い」んだと思います。「難解」というのは社交辞令でしょう。

私はそんな「高度」なことを話しているつもりはないんです。どちらかと言えば平易なことです。ただ、切り口が少し異なる。平易だからこそ、通常と異なる切り方をするとかえって気持ち悪い――のではないか、と。

1000年後くらいを目指して行動するのが丁度良いのかなぁ

内田樹氏の『祈りと想像力』をお読みになりました? 同じようなことを言ってますね。

多くの人が勘違いしているが、祈りの強度は「切実さ」によるのではない。
それがめざすものの「遠さ」によって祈りは強まり、祈る人間を強めるのである。
だから、おのれの幸福を願う祈りよりも、他者の幸福を願う祈りの方が強度が高く、明日の繁栄を願う祈りよりも、百年後の繁栄を願う祈りの方が強度が高いのである。


なかなか変えることができない〈この世〉の日常に埋もれている庶民には、実際問題としては、1000年後を念頭において行動することは不可能に近い。ですが、祈ることはできますよね。

イワシの頭にでも祈ることから始めましょうよ(笑)

ども、おひさしぶりです。
このエントリーにはコメントしたいなぁ、と思ったりなんとなく躊躇したり、している間に先客が、、、ちょっと失礼しますね。

「あの世」ってのは、以前からワタシが言っている「突き抜ける」ってイメージに似ている気がしました。ただ、大きく違うのは「絆」ってとこかな。ワタシのイメージのなかでは「個人」が突き抜けるってイメージしかできてないので、絆による、ってことでイメージは違うのかもしれないな。多分ここがずっとすれ違っていたとこかもしれない。

でもね、

>私こそが〈あの世〉の人です。〈あの世〉と十分に繋がりきれず、捨てきれない。捨て切れれば〈この世〉だけになれるのですがね。それも出来ずに〈あの世〉を追いかける。

これ読んでやっぱコメしようと決心。
これ読んでて涙がでるほど笑えてきてさ。うーん、この感覚。そうそう、これこれ、ってね。やっぱ同じかもってね。
というワタシは例の事故で完全に「この世」に戻っちまいましたけどね。

・毒多さん、おはようございます。

大震災もそうですけど、やはりフクシマがもたらした衝撃には凄まじいものがありますよね。しかもまだ現在進行中。この事故は私の中にも当然、「変化」をもたらしました。もっと〈あの世〉と繋がっていなきゃ生き延びれないな、と思った。それで

>私こそが〈あの世〉の人です。〈あの世〉と十分に繋がりきれず、捨てきれない。捨て切れれば〈この世〉だけになれるのですがね。それも出来ずに〈あの世〉を追いかける。

なんて書いてしまいました。

実は、こんなことはずっと以前から自覚していたんです。18の頃からずっと。ただ自覚の在り方が変わりました。

また、この変化はなんとなく予感もしていたんです。去年の終わり頃から、今年は《動》になる、と思ってました。根拠はなにもありませんでしたけど。まさかこんな形になるとは思っていませんでしたけど。この先、どんなふうに動いていくのか、不安が8割、楽しみが2割というところです。

で。

「あの世」ってのは、以前からワタシが言っている「突き抜ける」ってイメージに似ている気がしました。ただ、大きく違うのは「絆」ってとこかな。

「突き抜ける」というのはイメージで行くと「一方通行」ですよね。他方〈絆〉は「相互通行」という感じ。この点をうまく説明する文章に最近出会ったので紹介しておきます。宮台真司の文章です(最近、ちょっとミヤダイにハマッテマス)。

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=539

『グラン・ブルー』のジャック・マイヨールとライバルのエンツォ・マイヨルカ。ふたりとも〈あの世〉を識っていたが、マイヨールは「逝ってしまった」。マイヨルカは「戻ってきた」。この「差」はなにか。実に深い問題ですよね。
(ブログの続きは、田口ランディの『生きる意味を教えてください』というタイトルの対談集にあります。興味があれば図書館ででも探してください。)

ついでにいいますと、このエントリーを書くとき、最初は日経ビジネスではなくてこちらを引用しようかと思っていたんです。でも、これだとあまりにも〈あの世〉っぽくなってしまうでしょ? 「突き抜けて」しまう(笑)。「戻ってくる」には、日経の方が適切かな、と。

愚樵さん、レスありがとうございます。

引用がグランブルーじゃなくて、日経ビジネスでよかったと思います。リアリティ度が違います。グランブルーだったらコメントしたいと思ったかどうかも分かりません。

通常あまり考えたり悩んだりしなければ「この世」がすべてでしょう。「この世」を突き抜けて「あの世」に逝ってしまう(これ2チャン風「逝ってしまう」ってのがいいイメージです)のは精神のことで体は相変わらず「この世」にある、ってことがワタシのなかの「突き抜ける」になるのかな、ずっと言ってきたことですね。(ただし、ワタシが突き抜けて逝っちゃってると感じた青カンは精神も体も「(この世のなかの)あの世」逝っちゃってたんですが、笑)

ということで、個人的なものだと感じていたわけです。もちろん全員が突き抜けてしまって「この世」そのものが「あの世」になれば、めちゃくちゃく面白いとは思いますが、今は(いくら過疎思索ブログといえども、あ、失礼wwww)「面白い(が2割)」なんて不謹慎なことは言いません、キリッ!!
しかしなぁ、チャンスではあるかもしれませんが、「絆」って要素を加味すると全員で突き抜けることができるのかな?

「この世」が「あの世」になるのかな? そりゃ2割もないでしょ。全体としては、どうしても崩壊しかけの「この世」を維持、復興したがっている気がしています。
ワタシ自身が「この世」に囚われている。

蛇足

やっぱり、なんだかすっきりと解りません。(笑
でもそれは愚樵さんのせいではないような気がします。

どくたさんとのやり取りで紹介された宮台氏の発言も読みました。

私はきっとこの話の有用性と言うか、自分にとっての必要性を感じているような気がします。
だからこそ、こうしてしつこく付きまとうのでしょう。(笑
そして私の中に入って来ては居るのですが収まる場所がない、そんな感じでしょうか?

まぁゆっくり消化していこうと思います。

・毒多さん、すぺーすのいどさん、おはようございます。

受け取り方はそれぞれ異なりますが、おふたりとも基本的に〈あの世〉の有効性は感じておられるようです。でも、すぺーすのいどさんが仰るように「収る場所がない」。

これはですね、私たちの宗教に対する「構え」の問題なんです。私たちは〈あの世〉と〈この世〉をゴッチャにするんです。対して西洋人は、キッチリ線を引く。だからちゃんと「収る場所」がある。

「収る場所がない」話の典型が、今、毒多さんところのコメント欄でやり取りされています。“私たちは加害者である”という話ですね。実は私、いささか懸念しながら眺めています。

戦後のドイツでは、ヤスパースという哲学者がドイツの戦争責任を4つに区分して整理しました。「刑法上の罪」「政治上の罪」「道徳上の罪」「形而上的な罪」です。フクシマにもこの区分は有効です。

「刑法」 政府・東電幹部・御用学者が負うべき罪
「政治」 原発賛成者が負うべき罪
「道徳」 (毒多さんのところで議論されている)子どもに対する罪
「形而上」 被災者は避難所暮らしなのに、私たちは自分の家でぬくぬくと暮らしている罪

こんな感じになるでしょうか。で、〈この世〉と〈あの世」に線を引くならば、「政治」と「道徳」の間でしょう。ということはですね、毒多さんはご自分は〈この世〉に囚われていると仰ってますが、私に言わせれば〈あの世〉の領域で悩んでいるんです。

なぜこんなことになるかというと、〈この世〉と〈あの世〉がゴッチャになっているから。もっというと〈あの世〉の領分が〈この世〉に侵食されているからです。だから「収る場所」がなくなってしまう。なぜこんなことになったのかというと、これは教育の所為だと私は思っているんですがね。

くり返しますが「収る場所」はとっても重要です。〈あの世〉はとても大切なことですが、収るべき所に収まっていないと逆に有害です。極端な場合はカルトになるし、〈あの世〉を理由に〈この世〉のことが免責されてしまったりする。

ちゃんと「収まる場所」を見つけなければなりませんね。

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