愚慫空論

日本も「理知的」になるしかないのか

MIYADAI.com Blog の記事(5/18)を読んでみた。

『「どう生きるのか」という本当の問いに向き合うとき』

・・・原発にはコスト的にもリスク的にも環境的にも合理性や妥当性がないこと––は原子力ムラの専門家ならば全員すでに知っている。ならば、なぜ原発推進政策が止まらないのか。原子力ムラの元住民が教えてくれた。「今さらやめられない」からである。
・・・・・・
 今さらやめられない。これは単なる権益への執着を意味するものではない。実存や関係性に関わる意識を含むと解するべきである。やめようと言ったら、自らに矜恃を与える役割、役割を与えてくれる組織行動を否定することになり、自らの立つ瀬がなくなると意識されるのだ。
・・・・・・
 オーソドックスな社会学者なら、ここに宗教社会学的な背景の差異を見出す。・・・

この文章で宮台氏は4つのキーワードを提示し、糾弾する。

  〈悪い心の習慣〉
  〈悪い共同体〉
  〈過剰依存〉
  〈思考停止〉

では、日本人はいつから〈悪い心の習慣〉を持ち始め、〈悪い共同体〉を営み始めたのか。

 明治以降の日本は欧米に追いつき、追い越すことを恒に目標においてきた。この「目標」は戦後においても変わることはなかった。明治になると日本は欧米から技術、政治システム、文化などを輸入しはじめる。もっとも、政治、社会システムの領域では「日本的」ということが強調されもしたが、全体としては近代化の方向が模索されたことに変わりはない。
 とすると近代化とは何であったのだろうか。それは多岐にわたる変化の集合である。第一に国民国家の形成があった。国民国家とはそれまでの地域連合体としての国家を否定し、人々を国民という個人の変え、この個人を国家システムのもとで統合管理する国家システムのことである。第二に市民社会の形成がある。個人を基礎とする社会の創造である。第三に資本主義的な市場経済の形成があった。さらにこれらの動きを促進するために、科学的であることや合理的であることに依存する精神を確立する必要があったし、歴史は進歩しつづけるのだという「共同幻想」を定着させる必要もあった。
 明治維新以降の時代とは、このような壮大な変革にむけて日本が舵を切った時代でもあった。
 この変革にとって大きな壁になっていたのは、日本における共同体の存在である。後の詳しく述べるように、日本は共同体は自然と人間の共同体として、生の世界と死の世界を統合した共同体として、さらに自然信仰、神仏信仰と一体化された共同体として形成されていた。ここは進歩よりも永遠の循環を大事にする精神があり、合理的な理解よりも非合理な諒解に納得する精神があった。人々は共同体と共に生きる個人であり、共同体こそ自分たちの生きる「小宇宙」であると感じてた。
 それは間違いなく、近代化の前にそびえる壁だったのである。たとえ廃藩置県をおこない、国家システムを整備したとしても、そもそも人々に国民意識を持たせること自体が、つまり自分は日本人だと意識させること自体が、容易ではなかった。実際には国民意識は日清、日露のふたつの戦争をへてその確立に成功していくが、日本から共同体をほぼ一掃するのは戦後の高度成長の終焉まで待たなければならなかったといってもよい。 

内山節氏のこの記述に従うならば、日本人の〈悪い心の習慣〉は“自然と人間の共同体”の終焉とともに始まったことになる。ということは、日本の〈悪い共同体〉とは、その構成員から〈自然〉が抜けてしまったものを指すことになるだろう。

原子力ムラの構成員の中に〈自然〉が入っているはずのないことは、誰にも容易に想像がつく。
日本の共同体の終焉と日本人の〈悪い心の習慣〉とが比例していることは、次の2つの現象とも合致する。それは、

 1.時代が進むにつれ〈悪い心の習慣〉が蔓延るようになり、
    「平時」のシステムへの〈依存〉と〈思考停止〉が進んでいること。
 2.国家システムを運営するエリートほど〈悪い心の習慣〉を身につけてしまっていること。

原子力ムラの住民には〈自然〉はあくまで資源としてしか理解されない。が、この理解を科学的合理的とするのは原子力ムラの住民だけではない。日本の〈悪い共同体〉の住民の一般的な理解でもある。それは旧来の日本人の〈自然〉理解とは異なる。旧来の〈自然〉は「生の世界と死の世界を統合」する回路であった。「何が真理かという〈超越〉的事情」へと至る道であった。現在、その回路はほぼ切断されている。

「近代化」とは、〈自然回路〉の切断に他ならない。日本ではエリートほど〈悪い心の習慣〉を身につけてしまう理由もここにある。エリートとは高度な近代教育を修了した者だからである。言い換えれば、日本から〈古い共同体〉を一掃しようとする流れに最も適応した者。そのような者にとって「〈超越〉的事情」を斟酌することは、それまで積み上げた最適化の努力を放棄することに等しい。「自らの立つ瀬がなくなると意識される」のである。

日本において〈依存〉と〈思考停止〉が進んでしまうのは、悲しいことに怠惰のためではない。日本人はその道を選択し、勤勉に歩んできた。だからこそ日清・日露と戦争に勝利し、敗戦したとはいえ強大なアメリカと戦争することができる程度の国力を持つことも出来た。戦後も一時期は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われたこともあった。第二の敗戦と言われている現在、捉え直すべきなのは「過去の勤勉な努力」であろう。勤勉に〈回路〉を切断すべく努力してきた事実を受け止めなければならない。

その上で、「引き返す」か「今さらやめられない」かの決断をするべき時期に来ていると私は思う。もちろん原子力の話ではない。〈回路〉の話である。

〈自然回路〉へと立ち戻るか。
西洋流もしくは中華風の〈人為回路〉を確立すべく「前へ」進むか。

〈人為回路〉とは教義が確立されたいわゆる宗教である。どのような宗教であれ言葉で「規定された」教義は人為的虚構でしかないけれども、人間はその体系を信仰することで〈回路〉をつなぐことができる。この方法は都市的方法だと言える。

対して〈自然回路〉には言葉は必ずしも必要はない。「規定的な言葉」は邪魔になる。〈回路〉を確立するのは言葉にならない「声」。こちらは原始的方法である。日本は原始的方法を洗練させて珍しい文明を築いてきた。

理知的な言葉を重視しようと思うなら、「前へ」進むしかないだろう。ただし、それは数百年というオーダーの長い道程になろうだろうと私は思う。そしてその場合、日本という文明は「失われた文明」となる。日本列島に存在するのは「別の邦(くに)」になる。

また、この方法を選択するなら手本とするべき欧州は、近年(といってもここ100年くらい)徐々に〈自然回路〉へと回帰し始めているような気配もある。ニーチェが〈人為回路〉の中枢を担う宗教システムへの〈依存〉を〈思考停止〉だと糾弾したのは有名な話だし、スローフードやスローライフもニーチェと無関係ではない。だとすれば、「前へ」の選択をすることは回り道になってしまうかもしれない。

とはいえ、立ち戻ろうにも大きな障害が存在する。放射能である。

放射能は〈自然〉に人間を近寄れなくしてしまう。近寄れなくては声は聞けない。声を聞くことができなければ〈回路〉は確立されない。放射能は〈自然回路〉の確立を「物理的に」切断してしまう。宗教的な情熱は、切断されたがためにかえって高まるということはある。キリスト教の十字架やユダヤ教のディアスポラがその顕著な例(イスラム教のヒジュラも入るかもしれない)だろうが、これら「切断後の再接合(悲劇の共有)」は虚構つまり〈人為回路〉である。

宮台氏は豊かな人間関係資本を有する〈大きな社会〉を提唱する。その主張は合理的だと思うが、それが〈良い共同体〉つまり「健全な」市民社会となるためには、やはり〈回路〉が必要となる。宮台氏の〈大きな社会〉は人間だけの共同体であるから、必要とされる〈回路〉は人為のものとなる。そう考えると、(未だ現在進行中だが)「この程度」の悲劇で〈人為回路〉の形成に足る民族的トラウマとなるのか、といったような疑念も湧いて出てきてしまう。悲劇は小さいに越したことはないが、中途半端な規模だと新たな〈回路〉を確立できない――日本人の大半がクリスチャンやムスリムに改宗できればいいのだけども、そんなことはありそうもない。だから、こんな不謹慎なことを考えてしまう。

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