愚慫空論

邪悪なテクノロジー

「愚鈍で邪悪な人間たち」というのは端的に「人間というもの」と言うのとほとんど同義なのである。

『浜岡原発停止について』の最後を内田樹氏はこのように締めくくった。

なんとも微妙な文章で、どう読めばよいのか戸惑う。
人間を愚鈍で邪悪と「規定」していると読もうとすると、“ほとんど”という限定が邪魔になる。
とはいうものの、“端的に”という言葉が「規定」を強く示唆してもいる。


私は、あらゆるテクノロジーはそもそも邪悪なものだと思っている。
テクノロジーとは「都合の良いもの」だからである。
人間を取り巻く環境を都合のよいものとそうでないものとに選り分け、都合のよいもののみを抽出し、都合の悪いものは「外」へ捨てる。
Technology という横文字でいくら誤魔化しても、事の本質からは逃れられない。
テクノロジーを支えている科学そのものが逃れられないことを証明してもいる。

これはテクノロジーはもともとから価値判断を内包しているということでもある。

価値判断がなければ選別もできない。
生きるために必要なものは価値あるもの。

生きるために必要なものを価値あるものと判断することは邪悪とは言えない。
人間が愚鈍で邪悪に変質してしまうのは、都合の悪いものを「外」へ捨てるときである。

環境に「外」は存在しない。
自然はすべて繋がっているからである。
「外」とは、人間が人為的に作り出すものでしかない。
つまり「外」とは意識の外、忘却するというのと同義である。

原発関係者の「想定外」が、これと同じであることはいうまでもない。


生きるために選別をしなければならない人間が、愚鈍で邪悪に変質しないための方法はひとつしかない。
「外」を作らないこと。もしくは「外」を畏れ敬うこと。
つまり信仰すること。


原子力は、「外」を作ることを強要する。
しかし、自然環境に「外」はないから、人間が作ることができるのは現実には「内」でしかない。
現実には「内」であっても、それは人間にとっては畏れ敬わねばならない「外」である。
現実に存在する「外」である。だから、忘却することはできない。

「外」へ忘却することは愚鈍であり、忘却を強要することは邪悪である。
だが忘却を禁ずることはそれ以上の邪悪である。
それは「呪い」に他ならないから。

古来から人間は、人間の後からきたものを信仰することを邪悪と見なしてきた。
「外」は人間の意識が作り出した区分けでしかないが、その存在は人類よりも先である。
そえゆえ信仰することもできた。

原子力は忘却を禁じ、後からきたものへの信仰を強要する。
邪悪なテクノロジーとしか言いようがない。

コメント

祟り神

内田さんが何かそんな話をしてたと思いますが、原子力発電って「祟り神」っぽいですよね。
供養(冷やす、閉じ込めるetc.)をなおざりにすると、確実に「祟る」。
忘却を認めず、供養を要求し続ける。

ただ、「原子力発電さん」そのものが、「そのように強要している」わけではないところがミソかと思いました。
「原子力発電さん」は、「お前がそのように在らしめさせたのだろう?」と、請われてわざわざ「降臨」するに至った、当然の帰結としてそのように「忘却を認めず、供養を要求し続ける」。

邪悪は人間の愚鈍に宿る・・という感じがします。

邪悪の効用

・アキラさん、おはようございます。

畑なんかをやってると、自分が邪悪なことをしているとよく感じます。

我々が作物と称する植物以外のものを雑草と称して、根こそぎ排除する。畑に棲む虫なんかも害虫と称して排除する。こういった行為を自分の手でやっていると、その邪悪さがよくわかります。

ただ同時に、自身の身体を使って労働することが自身の邪悪さへの贖罪といった感じも受けます。邪悪さを身体化することで「外」と「内」の線引きをなくす、とでも言えばいいでしょうか。

この感覚は木を伐っている時にもあります。人間にとっての利用価値の高い低いで選り分け、不要なものを切り捨てるという作業を、身を危険に晒して行なう。身を危険に晒すというところが大切で、もし、完全に安全な作業になってしまうと、選り分けを行なっている自身の邪悪さに感じることができなくなる。愚鈍になってしまうと思うんですよね。

邪悪を感じることで贖罪の意識が芽生え、愚鈍に堕ちることを避ける。邪悪にだって効用はあるわけです。邪悪から歩を進めれば、内外の「区分け」をなくすこともできる。

原子力の邪悪さは、どうあっても「区分け」をなくすことができないところにあります。この性質は「後から来た」というところに由来する。私たちは「区分け」をなくすことが可能なのは、区分けした「外」は私たちよりも先に存在し、私たちを生んだからです。

「外」をすべて観念的にとりまとめると創造神です。つまり「外」が先というわけです。

私は、原子力は祟り神に似ているというのもあるけれど、一神教が禁じた偶像にも似ているように感じます。そもそもあらゆる「外」は人間が作り出したものですけれども、それを視覚化具現化してしまうと、「外」が人間の外に出てしまう。偶像崇拝の禁止は「外」が人間の内側にしかないことを確認させ、その「外」を人間より先と想定することで内外の「区分け」を撤廃する回路を確保する。この回路を信仰と呼びます。

原子力は現実の問題として、この信仰の回路を断ち切ります。「区分け」をなくすると死んでしまうんですからね。信仰もへったくれもない。しかも具合の悪いことに、原子力は人間が「要請により降臨した」ということは誰の目にも明白です。

同じく祟り神として扱われる疫病なんかだと「要請により降臨した」ということは明白ではありません。もし、明白になったら大変です。悪魔とみなされてしまう。だからふつうは、「神の怒り」といった捉え方をすることで明白にすることを避ける選択をします。

原子力にはその選択は不可能なんですね。

内田さんは欧米では原発を神殿に見立てていると記していましたね。本当にそうだというのなら、ちょっと信じがたい。神殿だとすれば、悪魔の神殿でしかあり得ませんから。この愚鈍はあり得えない。

あり得ない愚鈍が現実ならば、それは愚鈍ではないという可能性を惹起してしまいます。陰謀説ですね(苦笑)。 そうでないにしても、原子力を神殿に見立てるということは、無意識的に、破滅を祈り呪いをかけているということになってしまいます。

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