愚慫空論

『虚構の効用』

社会的な生き物である人間には、絆を生みだす能力はデフォルトで備わっている。
と、同時に、虚構を生みだす能力もデフォルトで備わっている。

虚構の基本的な特性は、絆を変質させること。

虚構の根っこは、たぶん所有にある。
所有は見方を変えれば呪縛。

強い絆のなかに虚構が入り込む。
強い絆のなかでは、所有は共有へと形を変えていこうとする。
所有が呪縛であるなら共有は二重呪縛。ダブルバインド。
そして呪縛が引き起こすのがハラスメント。

濃密な絆のなかで育まれる感情は愛憎。
純粋な絆は愛。
呪縛に変質してしまった絆は憎。

また虚構には、強い絆を弱い絆へと変質させてしまう作用もある。
愛憎が絡む強い絆を切断し、弱い絆で結びなおす。
弱い絆の仲立ちをするのも虚構。
強い絆である所有を断ち切り、他の者の所有へと移転させる。
これは虚構の切断作用なくしてはできないこと。

愛憎が入り交じった強い絆に絡め取られた人間は、虚構による切断を望むようになる。

強い絆を弱い絆へと変質させる虚構は、複数の要素から構成される。
すなわち、システム。
システムが全域化すると、社会のあらゆる絆が弱い絆へと置き換えられてしまう。

強い絆は生命力を育む。
弱い絆は生命力を育むことができない。
個々の人間の生命力を育むことが出来なくなった社会は衰退していく。


では、虚構は排すべきものなのか。

極力排すべきという思考が、中国では老荘思想となった。
虚構の際を見極め「虚構の効用」を引き出すべきという思想は、儒教となった。
「虚構の効用」を引き出す能力を儒教では徳といい、徳のある人物を君子といった。
「徳」とは、弱い絆を強い絆へと再置換する能力。

「徳」を発揮させるのは大きな生命力が必要とされる。
が、生命力を育むのは強い絆。
だから儒教では、始原の絆、親子関係が重視されることになる。

ただ、儒教はのちに儒学となり、生命力と「徳」を育む体系全体が虚構へと堕ちた。
そうなると、体系全体が生命力を抑圧するものへと変質してしまう。
今の日本も、そのような体系に変質しつつあるように感じる。

コメント

GWもおわります

が、なかなか新たなエントリーは立てれないでいます。
が、「サラエボの花」は観ました。
そして、ずっと考えてはいます。
文章としてまとまればエントリーしますが、なかなかまとまりません。

サラエボの女の親子は純粋な絆で描かれるのは「愛」。
サラエボ人(○○人)という虚構による絆は弱い絆なんだろうと考えています。ときにナショナリズムという強い絆にもなりますが、いずれにしてもシステムにより呪縛された「愛」「憎」かな。
如何せん物語の始まりが「民族浄化」という醜悪な虚構、醜悪な絆。

でもいずれの虚構も「心」のような気がしています。

サラエボの女は醜悪な絆に苦しみながら、純粋な絆を貫くというところでしょうか。日本語の「牧歌的」と意訳するのはちょっと無理があります。ほとんど通じないでしょう。

ワタシの思索では、さらにいろいろな要素が入り乱れています。全てを織り込んだ「サラエボの女」感想録エントリーを3日前から書いてますが挫折しそうです。

とりあえず、TB的エントリー感謝。

GWは終わりました

・毒多さん

そうですか『サラエボの花』、ご覧になりましたか。

毒多さんの「心の蠢き」がどういった言葉になって表れるのか、楽しみにしていますね。

日本語の「牧歌的」と意訳するのはちょっと無理があります。ほとんど通じないでしょう。

そりゃそうです。『サラエボの花』が「牧歌的」で意味を為すのは、『dr.stoneflyの戯れ言』のなかの1エントリーの中においてのみで、極めて局所的。「言葉の流れ」のなかでたまたま表れた現象に過ぎないんです。それ以上のものに解釈を拡大しようとすると、途端に破綻します。

そんな儚いものですけど、それでいいじゃないですか。

と言いつつ、再度、「牧歌的」について話を続けてしまいますと。

次のエントリーで私は「呪い」とか「祝福」とかいう言葉を取り上げています。

男と女が交わる行為にも、呪いと祝福があるんですよね。することは同じ、結果も同じだけど、互いの関係によってそれは鈍いにも祝福にもなる。

祝福は牧歌的な感じ。呪いはその反対。

呪いは「牧歌的」を阻害します。その阻害を排除する営みはとても牧歌的じゃない。その営みの最中は。でも、その営みが落ち着くと牧歌的になる。牧歌的なところを目指して苦悶する。だから、その苦悶も含めて「牧歌的」と呼ぶ。

言葉なんて所詮は記号です。虚構です。そこを踏まえた上で、どのように「角」を伸ばしていくか。これは各々の心の問題です。角を伸ばすのだと決意すれば、どんな言葉も規定の枠からはみ出してしまいます。

規定通りの言葉しかないような「言葉の国」って、寂しいとは思いませんか?

完璧にさらばGW

仕事のない日常を忘れようと、ちょっと遊び過ぎました。そしてまた仕事のない日常がやってきて憂鬱です。さて「仕事」とは何でしょう?と思考は飛んだのですが、その命題はまたの機会にします(笑)。

「サラエボの花」エントリーはupすることができるのかなぁ? だいぶ不安です。とはいえ、何となくリンクしている気もしています。書きかけのエントリーでは、映画の主題ではなく、レイプというsexと妊娠出産、お互いを受け入れるsexと妊娠出産の違いから入ってしまいました。sex妊娠出産という事実としては同じなのに、違うと感じるのは「心」であり、つまり「虚構」であり、、、、これね、「呪い」「祝福」という言葉を聞くと、なんとなく通じる気がしています。

>規定通りの言葉しかないような「言葉の国」って、寂しいとは思いませんか?

科学的(辞書的)な言葉のやりとりは「寂しい」という批判でしょうか?(笑)
もちろんダジャレ、メタファ好きなワタシは飽き足らないのですが、極端に私的な妄想の吐露はのぞきますが(爆)、応用は楽しい。
辞書的な言葉がコミュニケーションの基本で基本しかないとすれば、コメント欄なんかのコミュニケーションの衝突は結局ここから来るのでしょうね。応用が効かない。応用が効くコミュニケーションの根底はやはり「信頼」ですか。それとも「興味」かな?
「信頼」「興味」があれば、応用がなければ楽しくないのかな? でも、基本だけでも楽しいことはありますから難しいですね。

いずれにしても、ブログのコメ欄を多くの人に晒されているということでしょう。

 

心は虚構ではない

・毒多さん

心は虚構ではありません。いえ、そういった見方も可能です。虚構が何を指すかですからね。ですが、私がここで虚構という言葉でもって指しているところに「心」は入りません。

虚構でないもの、これをなんと表現すればよいのか、適切な言葉が見つからないでいます。「虚構でないもの」とは、共有できないものだからです。「心」は共有できません。「実体」とすると共有できるイメージが入ってしまうので適切ではない。

辞書的な言葉がコミュニケーションの基本で基本

そこが本当にコミュニケーションの基本なのかは考える余地があると思っています。辞書的な言葉、判断的な言葉、つまり同じ意味が共有されている言葉。ここには共有という「核」が前提になっていて、だから「核」から広がるのは応用ということになる。

私のイメージは違うんです。たぶん、毒多さんが応用と捉えたものこそが基本であり、基本に忠実たらしめることが祝福です。「核」に留めようとすることが呪い。

音楽による交感を想像してみてください。これがはたしてコミュニケーションと呼べるのかは疑問ですが、感じあえることは事実です。感じ合えることをコミュニケーションと呼ぶとすれば、音楽コミュニケーションには言葉のそれと違って「核」はないのです。どの音がどんな意味を持つのか、共有することは不可能です。

にも関わらずコミュニケーションができるとするならば、「核」は必ずしも必要不可欠だということになります。

私はこの「核」こそが虚構のタネだと考えていますけれども。「核」があるからこそ、所有が生まれる。実体があろうがなかろうが、確固たる「核」がなければ所有は不可能ですよね。確固たる形のない「心」を所有することは、「心」の持ち主(という表現は矛盾ですが)にも不可能です。


また「信頼」というのも、改めて考え直そうと思っています。確固たる「核」との関わりという形で。

ああ、そうなの?

すでに、心を虚構に一つとしてupしちまったよ。
こりゃまた手厳しくやられるかな(笑)。

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