愚慫空論

錆びついてゆく世界

今回も本を紹介するところから始めたいと思います。 松岡正剛著『誰も知らない世界と日本のまちがい』です。前回『銃・病原菌・鉄』の続きという位置づけです。イギリス・エリザベス一世以降の近代が取り上げられています。

◆「まちがい」「老化」「錆び」

本書は『17歳のための世界と日本の見方』の続編という位置づけになっています。ですから本書も“17歳のため”ということになるのでしょうけど、17歳に読みとける本だとは思えません。正直、私が17歳のときにはムリだったでしょう。ですが、面白く読めたとは思います。

歴史とは、そのつどの「異質の発生」との出会いなんですね。現代を語るなら、われわれのごく近傍の歴史にも異質や異例や異人があったことを、ちゃんとみていく必要があるんじゃないでしょうか。そうすれば、うんと大きなしくみだって、じつは変なところがいろいろあることにも気がつくんではないか。そこで、近代から今日に至るまでの世界と日本の流れを大きくはタテに追いながら、そのなかでできるだけ同時代的に共通する話題や問題をヨコやナナメにつなげて話していきたいと思います。

(オビより)


このように平易な調子で、知の巨人のひとりであるセイゴウ先生がタテヨコナナメに語ってくださるわけですから、面白くないわけがない。でも、17歳の私では膨大なセイゴウ先生の知識に振り回されて終わりになったでしょう。

幸か不幸か現在の私は17歳から2.5倍ほど歳を食ってしまっています。ですから少しは食いつくことができると思います。その証しというわけでもないのですが、タイトルに少し文句を付けたい。「まちがい」はあまり良くないと思います。「まちがい」で間違いではないのですが、「まちがい」と言われてしまうとどうしても「正答」を探すことになってしまう。しかし、本書は読み進むほどになにが「正解」かわからなくなってしまいます。

最終第十一講で“日本の苗代をとりもどしたい”と「正解」らしきものの提示はあります。でも、唐突感は否めない。途中に20世紀以降の西欧のさまざま「反省」――「まちがい」への気づき――は織り込まれています。第一講のドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』に始まって、フロイトやカフカやフッサールやハイデガーだって取り上げられている。そして“知識はもう十分だ、脱構築だ、(再)編集だ”という。「編集」というのはセイゴウ先生の専門分野ですからそこへ持っていきたいのはよくわかるのですが、「まちがい」→「(再)編集」というのは、ちょっと距離がありすぎるような気もします。

私が本書を読みながら感じたのは、“異質を飲み込みながらどんどん大きくなり、どんどん錆びついてゆく世界”というものです。そう、この「錆び」とは、前エントリーでいった「エイジング」「老化」と重なります。「まちがい」「正解」に切り分けるより、「エイジング」は「成長」でも「老化(錆び)」でもあると見る見方のほうが適切なように思った。またそう見ると、「(再)編集」とは「アンチエイジング」への精神論と見ることができるでしょう。

◆剣と聖書

右の画像は、オリバー・クロムウェルの銅像です。クロムウェルといえば清教徒革命。本書にも登場します。右手に剣、左手に聖書をもった姿でイギリスの国会議事堂の前に立っているそうです。

本書は、世界が“異質を飲み込みながらどんどん大きくなり、どんどん錆びついていった”原因は、イギリスの「まちがい」によるところが大きかったといいます(ここは「まちがい」が適切でしょう。ここでの「まちがい」は「野望」の言い換えです)。その「野望」を実現させたのが、剣に象徴される技術。「野望」を「まちがい」だと気付かせなかったのが聖書。その両方を抱えた人物の像がイギリスの国会の前に立っているというのは実に象徴的です。イギリスを中心にフランスがライバルとして、のちにドイツや日本も参戦した世界の「分配」競争。後にメインプレーヤーはアメリカに移り、いままた中国へと移りつつある国際情勢ですが、その原点がこの像によって象徴されているように思います。

クロムウェルが清教徒、つまりプロテスタントであるということも象徴的です。今日、世界が“異質を飲み込みながらどんどん大きくなり、どんどん錆びついていく”要因になっているのは、ひとつは相変わらず武器ですが、もうひとつは聖書ではなくなっています。貨幣、すなわち資本主義です。そして定説によれば資本主義・キャピタリズムはプロテスタンティズムから生まれた。歴史に繋がりを感じずにはいられません。

繋がるといっても歴史は一筋ではありません。左手にある聖書の後継者候補は他にもあります。ダーウィニズムやマルキシズム。ナショナリズムもそうでしょう。

ダーウィニズムにしてもマルキシズムにしても、その根本にあるのは「進化」です。ナポレオンが生みだしたナショナリズムだって「進化」と無縁ではない。社会は「進化」していくものだという大前提がある。「競争」の結果としての「進化」です。それをダーウィニズムでは「淘汰」と呼び、マルキシズムでは「革命」と呼んだ。呼び方の違いだけで本質は変わらないような気がします。違いは「編集」の仕方にあるだけ。どう「編集」しようが社会に対立構図を持ち込めば、そこから「錆び」が広がってゆく。対立構図から「競争」が生まれればいずれ勝敗は決する。「進化」とは“後出しジャンケン”か“勝てば官軍”のようなものでしかありません。勝っても負けても「錆び」は生じる。マルキシズムがその「負け錆び」の典型例でしょう。

◆日本という方法

しかし、キャピタリズムやマルキシズムが「エイジング」しかもたらさないという結論に私はならないとも思います。キャピタリズムの中にもマルキシズムの中にも「アンチエイジング」へと働く要素は見出すことはできるはず。問題はやはり「編集」の仕方にあるのでしょう。対立構図へと導かない「編集」の仕方。そして、「日本という方法」はそうした編集法を編み出すのに大いに参考になる。セイゴウ先生はそのように言います。

最後に本書の「おわりに」から少し引用します。

 この数年、私はしばしば「日本流」を標榜して、グローバリズムの過ぎたる悪禍をなんとか阻んではどうかと言ってきました。かつての日本も中国の社会文化を参考にして、さまざまな制度や文物をとりいれてきましたが、そのうちの半分くらいは「日本という方法」で編集してきたんです。漢字から仮名を案出し、仏教と神祗観を習合し、儒教を国学に練りなおしました。
 それが明治以降にネーション・ステート(国民国家)の仲間入りをするようになってから、欧米諸国の「まちがい」まで定着させるようになった。日韓併合や満州国の建国はそういう勇み足でした。ナポレオンやビスマルクに憧れすぎたようです。いま、そういう過誤はなくなったでしょうか。
 むろんまだまにあいますが、本書では「苗代」を例にして、グローバリズムの導入をいったん幼若な苗にして、それから本番で植え替えるという方法があるのではないかということを最終章で提案してみました。直撒き、ちょっと待ったという提案です。


実は、私にはまだ「苗代」の比喩が今ひとつピンとこないところもあるのですが、キャピタリズムもマルキシズムも「苗代」になるということはわかりるような気がします。また考えてみれば、マルキシズムなどは“キャピタリズムを苗代にコミュニズムへと植え替える”と捉えられなくはないですし、キャピタリズムにしても“貨幣を苗代にして社会を豊かにする”と見れなくない。ところがキャピタリズムは貨幣が直播きになり、マルキシズムではそこへ「進化」の図式を持ち込ちこまれために、直撒きキャピタリズムと直撒きコミュニズムの「競争」になった。

こうしてみると、これら「直撒き」はやっぱり「まちがい」と言っていいような気にもなってきます。いえ、はじめから「まちがい」で間違いはなかったんですね。

コメント

こんにちは

この記事を読んでいて、「分化」と「淘汰(自然選択)」を空想しました。
あるいは道教のことや「エントロピーの増大」みたいなことも。
それから、ある種の「美しさ」。

生物の変遷のような話を考えると、環境に余裕や余力のあるときには「分化」が起こりますよね。
今まですき間だったところに新しい営みが生まれたり、同じようなものでもさまざまなバリエーションが生まれたりします。
ところが環境に余裕がなくなってくると「淘汰(自然選択)」が起こります。
その環境に適応できるものが生き残り、適応できないものは消滅していきます。

ダーウィンに倣って言えば、そこには「オリジナルの動きから、驚くべき多様性が常に生じつつある」とは言えますが、「目的」や「意図」や「方向」のようなものが最初からあるわけではない。

それから、道教の「貪欲さ」を想いました。
日本の仏教は確かに混淆・習合の賜物ですが、日本に入ってきた時点での中国仏教も、すでに混淆・習合の賜物でした。
それは道教的な感性が、混淆・習合の権化だったから。 (^o^)
あらゆるものを飲み込んで、でも「道教」としては変わりはない。
けれども、どんどん膨らんでいくから、その足跡を追いかけようとすると、ややこしいこと極まりない。
「エントロピーの増大」的なことを感じるんです。

このエントロピーの増大みたいなことが「錆び」なんですよね、きっと。
でもそれは、「豊穣」と呼べるようなものを底支えしているのかもしれない。

そして、数学の証明や数式の「美しさ」。
僕が200%文系なので、このへんのことや感覚が全然分からないのですが、よく言われることですよね。
同じ証明問題でも、「あの証明は美しくない」みたいな。
同じことを表す数式でも、よりスッキリとした数式の方が「美しい」といった・・・。

200%文系なんですが、それでもこういう感覚は、僕もよく分かるような気がします。
ここでは、ある種のスッキリさというか、シンプルさみたいなことが「美しい」と感じられるのかもしれません。
けれどもこの「美しさ」には、ある潜在的な基準に則ったもののようにも思われます。

難しいなぁというか、悩ましいなぁと思うのは、人間自体や家族のような人間集団は「自然そのもの」ですから、ここには「目的」や「意図」や「方向」のようなものがあるわけではありませんよね。
けれども、ある程度以上の人間集団(社会)になってくると、これは目的集団的なものに変じます。
で、今の社会は、ある意味「目的集団」的なものとしてしか存立できない状態ですよね。

「自然そのもの」としての「分化」と「淘汰(自然選択)」と、目的集団的なものとしての「分化」と「淘汰」とがありそうで、そしてそれがごっちゃになって実際の物事(状況)が進んでいそうで、そこらあたりが難しいとこなのかな、と。

空想していただけましたか(^o^) 

>ある程度以上の人間集団(社会)になってくると、これは目的集団的なものに変じます。

はい。そうならざるを得ないのでしょうね。そのあたりが人間の「脳力」の限界なんでしょう。目的集団的にしないとまとまりがつかない。秩序が保てない。

でも、この「目的」ってやっぱり嘘、虚構なんですよ。そして嘘を真実だとして言いくるめるためにはより大きなエネルギーを必要とする。つまりはエントロピーが増大する。虚構の維持に要する部分を私は「錆び」だと感じています。

>「自然そのもの」としての「分化」と「淘汰(自然選択)」と、目的集団的なものとしての「分化」と「淘汰」とがありそう

私としては、前の記事は「自然そのもの」として、今回は目的集団的として、捉えたつもりなんです。自然にしていても「錆び」は生じるが、目的集団的になるともっと「錆び」の生じ方が大きくなる。「競争」をはじめると加速度的に大きくなってしまう。

今の社会に必要なのは「混沌」なのかもしれませんね。「混沌」は諍いを生みますが、目的集団的な「秩序」同士の紛争よりはずっとマシ。また「混沌」からの諍いには、それを鎮めるさまざまな知恵があったはずなんですね。でも、そんな知恵はみんな「秩序」に吸収されて失われてしまったと思う。そのあたりが美しくないと思うんです。

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