愚慫空論

『北の国から』 見てました

ここのところ、時間があるとずっと『北の国から』を観ていました。

『北の国から』については説明は必要はないでしょうが、一応、Wikipediaのリンク を貼っておきましょう。

観たのは全24話の連続ドラマから、『83冬』『84夏』『87初恋』『 89帰郷』『92巣立ち』『95秘密』『98時代』『2002遺言』のSPド ラマ。要するに全部です。観だしたら止まらなくなって、次から次へと観てしまいま した(笑)

長いドラマを通して観るのはさすがに疲れましたが、その甲斐はあったように思います。単にドラマを楽しんだ、というだけのことではなく。

もともとこのドラマは文明生活への「抵抗」という要素があります。そこを体現しているのが黒板五朗という役柄であり、物語の背景になっている美しく厳しい自然です。またその部分が『北の国から』が支持を集める理由でもあるでしょう。

チャールズ・インガルス ただ『北の国から』の「抵抗」には、どうにも締まらない感があることは否めません。『北の国から』は、アメリカのテレビドラマ『大草原の小さな家』のコンセプトを参考にしたとWikipediaに記述がありますが、あちらの父親役チャールズ・インガルスが大変に男らしくカッコイイのと比べて、五朗は泥臭くカッコ悪い。もっとも、そのカッコ悪さこそが『北の国から』の持ち味であり良さであるわけですが。

黒板五朗 五朗のカッコ悪さは逆にカッコイイのだということは、これまで私も理解していました。共感もしていました。ですが、黒板純がよくわからなかった。純もカッコ悪いのは親父と同様ですが、純のカッコ悪さはどうしようもない。五朗が徹底的にカッコ悪いとしたら、純のカッコ悪さは中途半端です。なぜ、純はそんなキャラクターなのか、五朗の徹底的なカッコ悪さを際立たせるための役柄なのか。そこのところがずっと腑に落ちずにいました。

『北の国から』は意地悪な物語です。次から次への災難が降りかかってきます。ドラマの登場人物たちは災難に翻弄されながら、またみずからも過ちを犯しながら、不幸に堕ちてしまわないように懸命に「抵抗」します。五朗は周囲の助けを得ながら、ブザマだけれどもなんとか「抵抗」して足場を確保する。が、純は「抵抗」しきれずに堕ちる。堕ちた純を五朗がこれまたブザマに足場へ引き上げる。ドラマを観る側は足場に引き上げられたところで安堵し「暖かさ」を感じるわけですが、純の中途半端が「暖かさ」の演出のためでしかないとしたら、それはいささか作為が過ぎるのではないかと考えたりもしていました。そしてそう考えてしまうと、観ていて気分が悪くなる。これまでは『北の国から』については、一方で共感しつつも、一方でそういった印象も強かった。

黒板純 しかし、今回、見方が少し変わりました。純が中途半端にカッコ悪くなければならない理由がわかったような気がしました。

つまり。純の意識は、ドラマを観ている視聴者の意識であるということです。視聴者が五朗をカッコイイと言えるのは、五朗が他人だから。もし自分の父親が五朗のようなら、どうか。カッコ悪い、恥ずかしい、という「負の意識」を必ず持つでしょう。視聴者がそれを持たずに済むのは、視聴者だからです。が、純が私たちと同じ意識を持っているとすれば、「負の意識」は持たざるを得ないはず。そして、それは純が自分自身に抱いている意識でもある。

黒板蛍 五朗は子どもたちを一途に愛した。そのことは純も蛍もわかっている。しかし、逆に言うと、それだけなんです。「一途」を示すために五朗は東京から富良野へ純と蛍を連れ帰った。五朗の「一途」は富良野の自然と一体になっている。それを子どもたちに与えた。でも、それだけしか与えられなかった。私たちはその「一途」をかけがえのないものだと思いながらも、今の社会で生きていくにはそれだけでは足らないとも思っています。だから純も(蛍も)そう思う。足りないとどこかで思う。そのことが彼らの負い目になる。「一途」がかけがえがなく大切であればあるほど、「不足」の重さがのしかかってくることになる。『北の国から』の物語はそのように組み立てられています。

では、この「足りない」ものはなにか。金か。教育か。私は教育だと思いました。それも「思想」の教育が足らなかった。

『大草原の小さな家』では、子どもたちに「思想」が教育されます。その「思想」は親からのみならず、社会全体から与えられる。チャールズ・インガルスの生き方は彼の地の「思想」に即したものとして描かれ、承認されています。その承認がチャールズをカッコよく見せる。ところが『北の国から』では、黒板五朗の生き方は社会全体の「思想」に即したものとして描かれていません。仲間うちでこそ生き方は承認されていますが、その「思想」は時代遅れのものだと否定される。また、そのことを五朗自身が知っているために、結局、子どもたちに与えられるのは「一途」だけというようなことになってしまう。『大草原の小さな家』には「思想」の継続が、『北の国から』には「思想」の断絶がある。純は、その「断絶」を象徴する存在だということなのでしょう。

もっとも、最後の『2002遺言』では、五朗の生き方は承認される方向で描かれます。それに伴って純も、「一途」だけで完結することができる五朗の本当の凄さにやっと気がつく、といったところに落ちついて物語は結ばれます。物語としてはそれでいいでしょう。ですが、『北の国から』が描いてきた「断絶」は、物語のなかでは修復する方向へ向かいましたが、現実の世界ではますます大きくなってしまっている。ここは物語のようにはいかないところです。

黒板五朗を否定した日本の「思想」は、結局のところ、日本人を統合させる方向へは働きそうにありません。この新しい「思想」は「不足」ばかりを生み出していますが、かといって「一途」なところはまったく省みませんから、「負の意識」は大きくなるばかり。純のような半端者を大量生産することになってしまっています。こんなことでよいはずはないのですが...


参考:『真面目を真面目に考えてみた』(404 Blog Not Found)

「一途」は「真面目」と同じようだが、違うんですよね。

コメント

純は半端者なのでしょうかね?
五朗さんの世代の人たちだって、みんな「五朗さん的だ」というわけではないですよね。

似たようなタイプは何人か出てきますが、基本的には「当たり前の人」ではなく「変人」として、周囲から見られてたと思います。

僕は、五朗さんは「特別」なんだと感じるんです。
むしろ純の方が「当たり前」に感じます。

で、五朗さんには「思想」の教育が足りなかった・・という愚樵さんの意見に同感です。
五朗さんの「若き日」を考えると、彼も彼が純たちに与えた生活と似たような中で育ち、同じように都会に出たんでしょう。

そして結局帰ってきて、「敢えて」以前のような生活をするわけです。
五朗さんと純の違いは、五朗さんの若き日の生活は「それしかなかった」だけど、純たちのは「ほかにもある」の中でのそれです。

僕は、五朗さんにはそもそも「敢えてしている」という自覚がなかった、あるいはとても薄かったんだろうと思うんですね。
だから、単に「一途」でしかないし、それ以上でもそれ以下でもない。

自覚のない「一途」は、贈り物としてはビミョーですよね。(^_^;)
当然、「押しつけ」になり得るわけですし、往々にして「押しつけ」「迷惑」でしかなかったりします。

この「押しつけ」をカッコいいと思えるのは、仰るとおり「自分に直接影響のない他人」だからだと、僕も思います。

僕は実は最後の2~3作は観てないので、この機会に観てみようと思ってますが、今のところ、そういう「押しつけ」をだんだん理解し受容していく純の方が、逆に大したもんだと思ったりします。(^o^)

でもそれは、やっぱり身をもって(身に滲みて)経験してるからだとも思うんですね。
その意味では、五朗さんの「一途」も確かに「贈り物」たり得ているとも思うわけです。

・アキラさん

五郎が「特別」で純は「当たり前」――、はい、その通りです。そのように描かれていますね。だからこそ、私は純が半端者にならざるを得なかった、と見たわけなんです。

僕は、五朗さんにはそもそも「敢えてしている」という自覚がなかった、あるいはとても薄かったんだろうと思うんですね。

いえ、私は、これは強烈にあったと思います。最初は自分を裏切った妻への仕返しという部分も大きかっただろうし、それを五郎が自覚しているという描写もある。そして、その仕返しがある程度終わった段階で(純と蛍が富良野の暮らしに順応したところで)、純を東京へやって(母への見舞いという名目で)、東京と富良野を選択させるということも意識的にやってます。

物語の始まりのところでは、純は五郎に反撥していた。五郎の「一途」を、いえ、その頃はまだ「一途」とは言えなかったでしょう、むしろ「頑な」と言った方がいいかもしれません。純は最初、その「頑な」を拒否していた。五郎の「頑な」が「一途」に変質するのは、純が五郎を受け入れてからです。

では、この受容のきっかけになるのは何か。それは周囲の者の五郎への理解と受容なんですね。純はそこに気がつくことで、五郎を受容しはじめる。子どもは決して親だけを見ているわけではないんですね。たぶん、子どもの方がずっと周囲に敏感なんでしょう。純の受容もそこからくる。と同時に、純の半端もそこから同じところからくることになるわけです。

富良野・麓郷という小さな社会では、五郎は理解され受容されている。純は、小さな社会の理解と受容によって教育されたわけです。が、成長とともに、大きな社会の「思想」によっても教育されていく。まして純はもともと東京出身ですから、そうした「思想」教育を受け入れる素地は大きい。そしてこの「思想」は、五郎を承認しない。

『北の国から』で描き出されている純の半生は、端的に言ってしまえば「思想」とのせめぎ合いだと思うんですね。「思想」を受け入れ、「思想」を捨てていく。

学校を出た純は東京に出ます。東京で事件に巻き込まれ、事件を引き起こした末に富良野へ帰郷する。ここで東京という「思想」からは卒業する。が、帰ってきた富良野でも「思想」と対峙しなければならなくなる。やむを得ず引き受けた牧場経営に失敗して借金を背負い、富良野から羅臼へ移るわけです。このとき、純は一度「思想」に負けるんですね。(このあたりは、最後の2~3作です。)

純が富良野へ再び富良野へ帰ってくるときには、一度負けた「思想」に負けない強さを身につけています。そのきっかけになるのがやはり、五郎を強く承認する人物の登場なんです。

愚樵さんが『「思想」の教育が足りなかった』と仰るときの「思想」とは、「(東京的)新しい思想」ということでしょうか。

僕がおぼろげながらに思い出しつつ感じているのは、五郎さんには広義で言えば、思想(生きざま)もあった、教育(伝授)もあった。
ただ、その「自覚」がなかった。
そのようなことなんですね。

僕が思ってるのは、「敢えてしている」こと(生きざま)には自覚があったかもしれないけれど、「敢えてしている」ことを伝授(教育)している・・というところの自覚がなかった、希薄だったのでは? ということなのかなぁ。

ともかく、宮沢りえちゃんが出てくるあたりから、もう一度観直してみようと思います。(^o^)

純が受け入れ捨てていくのは「(東京的)新しい思想」ですね。一方、五郎が伝えられなかったのが「(麓郷的)古い思想」。『大草原』との比較でいうと、『大草原』には思想の入れ替えはない、だから「継続」。『北の国から』には入れ替えがある、だから「断絶」だといったわけです。

こういった「思想」は親だけが教育しようと思ってもなかなか上手くはいかない。社会が教育してしまう部分が大きい、と。『北の国から』の場合、「古い思想」が“古い”といのだということは、否定的ニュアンスを伴いながらも物語全体から醸し出されている。五郎は「古い」方を「敢えてしている」んだけど、でも、五郎自身「古い」ということは自覚していて、だから、伝えてはいるんだけど伝承すべきとは言えない。コンプレックスを抱いているということですね。で、そのコンプレックスは純によく伝わっている。

こういうのって、ありがちな構図だと思うんですけど。

まあ、時間があれば、見直してみてください(^_^)

懐かしいです。

「北の国から」・・・高校時代にTV連続物の再放送が何度もやってて、さらにそれを録画して何度も貪るように見てました。中でも分校の涼子先生がすごく好きでしたね。
その後もずっぽり嵌まってて、宮沢りえ時代の前後は富良野によく通ってました。その場所に居たくて。

でも私は連続ドラマから「初恋」位までが好きですね。
「初恋」を境に黒板五郎は俗人から聖人扱いになったような気がします。
それはそれで良いんですけどね。(^^♪

・すぺーすのいどさん

富良野にまで通っていたのですか。それはそれは(*^o^*)

「初恋」を境に

ああ、あの有名な「泥のついたお札」がその象徴ですね。

それはそれで良いんですけどね

それそれ、その見方なんです。「良い」と感じるのは、観ている私たちが「他人」だからで。物語上の人物の話ではありますが、純や蛍には、その「五郎聖人」が重荷になったんだなぁ、と。

愚樵さん

前のコメントで「良い」と書いた時、私は「どーでもよい」系の意味の「良い」を書きました。

私にとって「初恋」以前と以後はまったく価値がちがい、「初恋」以後はほぼ惰性で見ていた感がありました。
でも愚樵さんの
>純や蛍には、その「五郎聖人」が重荷になった・・・
でやっとわかりました。

そうです!まったくその通りだと思います。
そこで、五郎と子どもたちの関係の描き方が変わったのです。
だから、そこからは私にとって「北の国から」はタダの物語になってしまった。
それまではきっと「北の国から」は私の一部だったのです。変なやつですがそうなんです。

蛇足ですが、「初恋」以降のキャラでは「しゅう」が一番好きですね。最終的に純がしゅうと結ばれなかったことは、このドラマの汚点だと思ってます。笑

つまんないレスなので適当に流してください。ははは
失礼しました~<m(__)m>

・すぺーすのいどさん

いいえ、適当に流すわけにはまいりません(笑)

実はこのテーマでもう一本エントリーをあげようかと思っているんです。「五郎聖人」にサジェスチョンをいただきましたので。

そこで、五郎と子どもたちの関係の描き方が変わったのです。

ええ、ええ。このあたりから「大人と子ども」の関係から「大人同士」の関係へと変化していくんですね。ただ、同じ大人同士ではないんです。五郎は「古い思想」、純や蛍は「新しい思想」をもった大人なんですね。

にもかかわらず、純や蛍にとって五郎は「聖人」です。だから“古い”といって切り捨てられなかった。私はそのことを「半端者」という表現で呼んだわけなんです。

それまではきっと「北の国から」は私の一部だったのです

ああ、なるほど。そのあたり、すぺーすのいどさんの立ち位置と重なりますね(^o^)

「初恋」以降のキャラでは「しゅう」が一番好きですね

純のお相手の中ではシュウが私は一番好きかな。レイちゃんよりも上です。シュウと別れる展開には私も腹が立ちました。倉本聰は純が嫌いに違いないと思いました(^_^;

愚樵さん

>ああ、なるほど。そのあたり、すぺーすのいどさんの立ち位置と重なりますね(^o^)

え~っ!
どうして「ああ、なるほど。」なんですか?
私の「立ち位置」って?

すぺーすのいどさんの「立ち位置」って、もっぱら「大人と子ども」なのではないのですか? 『初恋』までと聞いて、そのことが思い起こされて、“ああ、なるほど”と思った次第です。

違ってたらすみません。

ちなみに私の「立ち位置」は「子どもから大人へ」なんです。これはおそらく私に子どもがいないことが関係しています。それともうひとつ、私自身が大人になるのに、子どもの頃に背負った「重荷」からどう逃れるかという問題があって、それを今も引きずっているところがあるから。

だもので、関心は大人になってから純や蛍に向くことになる。

愚樵さん

こちらこそすいません。
ありがとうございました。

「北の国からの」オタ話できる人がなかなかいないのですごく良かったです。
これからも、よろしくお付き合いくださいね。
m(__)m

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