愚慫空論

来訪者撃退法

昨日、ちょっとした来訪者がありました。

10時頃でしたか、日向ぼっこしながら本を読んでいると、玄関でチャイムを鳴らす音がしたんです。妻が応対に出たんですけど、誰かなと思って覗いてみると、見知らぬ中年の女性がふたり立っていました。ピンと来て、私も出た。そしたらやっぱり、そうでした。「ものみの塔」の人たち。

今日は、このときの話。といっても、勧誘を受けた話ではないんです。ものみの塔の人たちは勧誘のために訪ねてきたのでしょうけども、私は彼女らの話を聞かなかったんです。勧誘を受ける気はなかったから。といって邪険に追い返すのも悪い。彼らは善意で訪ねてきてくれているんだから。その善意は、こちらからしてみ れば迷惑というところがないではないけども、邪険に応対するのは気の毒です。だから、彼女らの話を聞かないために、私の方から積極的に話をしまし た。彼らの善意に対して、私も「善意」で迎え撃ってやろうというわけです(笑)

だいたい以下のような話をしました。

*******************************

「私はキリスト教とか聖書といったたぐいの話は好きです。若い頃から関心があって、一時は真剣に入信しようと思ったこともあります。でも、やっぱりちょっと違うんです。深く接するほど違うと感じるようになっていった。自分はやっぱり日本人だと思うようになっていったんです。」

「聖書の教えに日本人も西洋人もない、と言われるのはわかります。あそこで述べられている知恵は、本物だと私も思います。だから関心もある。聖書が嘘か誠かというようなことではないんです。本物を教わるのに、唯一絶対神という感じではないんです。本物はすべてひとりの神様に由来するというような感じはしないんです。」

「例えば「自然の恵み」です。一粒の種から大きな収穫が得られますよね。まさに恵みです。本物ですよね。あなた方はそれを「神の恵み」だと言います。でも、それがちょっと違うんです。「恵み」は神様からのもの、というんじゃない。「恵み」は神そのものだと感じるんですね。神が一粒の種を育てて私たちに恵むんじゃなくて、一粒の種は神だからこそ私たちの「恵み」となる。そんな感じなんです。」

「一粒ひとつぶが神さまという感じは、本物はひとつだけじゃない、ということになるわけです。」

「「神からの恵み」という考えには、神/人間/自然という階層が前提にあるわけじゃないですか。上位の神が中間である私たちに下位である自然を恵む。それが「神の恵み」ですよね。私たちよりも上位に神が存在する、という感じは私にもわかります。でも、私たちに「恵み」として現われる自然が、私たちよりも下位だという感じには納得できないんです。」

*******************************

もちろん、私ひとりが一方的に話をしたわけではありません。対話をしつつ、でも対話の主導権は私が握って、こんなような話をしたわけです。そうして、私と話をした「ものみの塔」の人たちは

「宗教って、人それぞれの生き方ですよね。」

と言ってくれました。

おふたりのこの言葉は、私の「善意」が通じたのか、それとも手に負えないと思ったから出てきたものなのか、それはわかりません。もし通じたとするなら、それはきっと、おふたりも日本人だからだろうと思いました。

右は「ものみの塔」の人たちが置いていってくれたブックレット。
それなりに面白いですよ。

コメント

個別訪問

「ものみの塔」は創価学会より理論的ですがドグマという意味では民主青年同盟と変わりません。個別訪問といういみでは新聞の勧誘とものみの塔は双璧であります。
21世紀に於いてもまだアポなし訪問をしているのは新聞勧誘員とものみの塔とテレビ局の直撃インタビューぐらいです。

その良い悪いはべつに、アポなし訪問をした経験でいうと大抵は断られます。犬には吼えられドアも開けてくれないことが殆どです。テレビだといってもいぶかしげであり愚樵さんのような方は稀です。

それより僕はインテリが作ってヤクザが売る新聞も、慈悲深き神父や教団が若い娘を洗脳して奴隷化したり、テレビが周辺住民のコメントをとれと若いディレクターに強制したりすることに強い疑問をもっています。

宗教の本質や新聞の本質、テレビの本質を全く知らないままに戸別訪問という試練は過酷です。多分セールスして失敗したか成功したかしか、命じてる方には関係ないと思います。したがって報告にはNGがつくのです。

折角の愚樵さんの貴重な話も彼女たちへの「福音?」にはなっていないと思います。それはお話の問題ではなく個別訪問というシステムの問題だと思うからです。

いい人たちではありますよね

『一粒の種は神だからこそ私たちの「恵み」となる。そんな感じなんです。』
という愚樵さんの話を
『一粒の種は神(聖霊)だからこそ私たちの「恵み」となる。そんな感じなんです。』
と受けとれば、彼ら的にもあまり問題はなかろうと思われるので、話としてはそれはそれでムリはなかったんじゃないでしょうかね。 (^o^)

いずれにしても、彼らは押しつけをするわけではありませんから、(最近は以前よりも慎ましやかになってますしね)、ほかのいろいろよりは害は少ないのかなぁ・・とは思いますです。

Re:戸別訪問

・iさん

21世紀に於いてもまだアポなし訪問をしているのは新聞勧誘員とものみの塔とテレビ局の直撃インタビューぐらいです。

笑いました。ま、でも、嫌悪感でいけば、

テレビ局>>>>>>>>新聞勧誘>ものみの塔

でしょうか、私にとっては。一般的には。

宗教の本質や新聞の本質、テレビの本質を全く知らないままに戸別訪問という試練は過酷です。

ものみの塔の人たちもノルマを課せられているのでしょうか? だとしたら気の毒ですね。自業自得かもしれませんが。とはいうものの、先の訪問者からはノルマを課せられていると言った「営業臭さ」は感じられませんでしたけど。新聞勧誘は明らかに感じるし、テレビ局は経験したことはありませんが、新聞勧誘の比ではないでしょう。そのあたりが嫌悪感が低い所以です。個人対個人で対話できたと思いますから。

そう。肝要は「個対個」なんです。彼女らが「ものみの塔」というカンバンを背負っていることは知っていますが、私はそのカンバンを相手にはしたくなかっただけのことです。

いい人たちですよね

・アキラさん

『一粒の種は神(聖霊)だからこそ私たちの「恵み」となる。そんな感じなんです。』
と受けとれば、彼ら的にもあまり問題はなかろうと思われる


父と子と聖霊の「三位一体」という教理ですね。ここまでつっこんで話ができれば面白いのですけどね(笑)

「フィリオクェ問題」ってご存知ですか? キリスト教会が東西に分裂した「大シスマ」の主因となったと言われているらしいのですが。

聖霊が“父よりいずる”のか“父と子よりいずる”のかが争われた論争で、西は後者の立場を取ったらしい。東はそれでは「三位一体」が崩れると言って反対した。なぜそうなのか詳しいことはおくとして、結果として東西は分裂し、西は父・子/聖霊という階層を教理としたということらしい。「ものみの塔」は西の流れを汲むもののはずですから、突っ込んで話をすれば、やっぱり問題にはなったろうと思います。それも、キリスト教の根源的なところで。

私たち日本人がロシア文学に共感するところが多いのは、おそらくこの「東西分裂」が関わっているんですね。ロシア文学のベースは東方教会の教理はまさに

一粒の種は神(聖霊)だからこそ私たちの「恵み」となる

でしょうから。

あ、そうだ

愚樵さんのお返事を読んでいて、
「あ、そうだ。エホバの証人の人たちは三位一体の教義を否定している人たちだった」
と思い出しました。
僕の言ったようには受けとりませんね、彼らは。 (^_^;)
失礼しました。

その「一粒の種」は「神の働き」に依っている・・と(エホバの証人の方々は)思っているんじゃないかと思うので、「それは神そのものだと感じるんです」と言われても、彼らとしては「一粒の種を通して、まさに神さまがそこにいらっしゃる」的に思うんじゃないかと思ったんです。
それで、おそらくあまりムリはないんじゃないか・・と思った次第です。

キリスト教も、西と東ではずいぶん違いますし、西にしてもカトリックとプロテスタントではずいぶん違いますよね。
その中でも、どちらかというと東の方が原始キリスト教会には近いのでしょうが、それでもこれまたずいぶんと違う。

そもそも原始キリスト教会自体が、イエスの教えからずいぶん違ったものだったりするので、僕はいつも「ナザレ人イエス」と「キリスト教」の関係って、なんなんだろうなぁ?と不思議に思ったりします。 (^_^;)

エホバの証人の方々の教理は、「聖書」と「エホバ」に圧倒的な重点が置かれていて、特にイエスが最重視されてるわけでもないようなので、僕は彼らは「キリスト教」ではないと判じています。
「聖書教」だな、と。
でも、
「宗教って、人それぞれの生き方ですよね。」
と僕も思うので、それはそれ・・だと思います。

そうなんだ

・アキラさん

「ものみの塔」が三位一体の教義を否定しているなんて、はじめて知りました。思い込みで話をしてはいけませんね(^_^;

「一粒の種を通して、まさに神さまがそこにいらっしゃる」的に思うんじゃないかと思ったんです。

なるほど。逆に、私なんかはそのように言われると親近感が湧きますね、神さまに。

そもそも原始キリスト教会自体が、イエスの教えからずいぶん違ったものだったりするので

宗教なんてそんなもののはずだと思うんですがね。人それぞれとまではいかないとしても、時代や風土によって変わってくる。それを形而上の観念で縛ろうなんて、「人間の在り方」から逸脱しているように感じます。

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