愚慫空論

百姓道

今回は、「光るナス」のアキラさんの記事をお借りするところから始めます。

光るナス『体の影響(野口先生語録)』

そういうように、不平になる原因はたいてい体にくっついていて、体の中にある働きが閊えると不平に感じるのです。 体の中の力を抑えてしまって、何かしたくてイライラしているのを我慢して抑えていると、いろいろなことが不満になってくる。

子供に不平や不満がある場合に、そういうことがあるのだと思って探す人があるけれども、そうではなくてそういう体があるのだとそう思って探すとわりに早く解決が着きます。

☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆

整体の学びが進んでくると、僕らの日常生活というのは、こういう体にくっついたところでしか営まれてないんだな~ってことが、だんだんよく分かってきます。

(下線by愚樵)

整体入門
野口整体の徒でいらっしゃるアキラさんにとって、関心の軸は身体なんでしょう。この記事もそうした視点から書かれています。「体にくっついたところ」という表現もそうした視点から出てきていると考えられます。

そんなふうに考えると、おのずと思い起こされるのが私自身の関心の軸です。私はその軸をアキラさんのように明確に答えることはできないのですけれども、樵であることが軸に近いところにあるのは間違いない。ただ私は、樵そのものではないとはずっと以前から感じてもいる。たぶん、樵は何かへ「道」でしかない。では、その何かとは――と考えると、出てくるのが「百姓」という言葉です。

百姓(ひゃくしょう / ひゃくせい / おおみたから)とは、元は百(たくさん)の姓を持つ者たち、すなわち有姓階層全体を指す漢語であった。語義は時代により変化している。

・・・・・・・

日本においては当初は中国と同じ天下万民を指す語であった。しかし、古代末期以降、多様な生業に従事する特定の身分の呼称となり、具体的には支配者層が在地社会において直接把握の対象とした社会階層が百姓とされた。この階層は現実には農業経営に従事する者のみならず、商業や手工業、漁業などの経営者も包括していた。だが、中世以降次第に百姓の本分を農とすべきとする、実態とは必ずしも符合しない農本主義的理念が浸透・普及し、明治時代以降は、一般的に農民の事を指すと理解されるようになった。

日本とは何か  日本の歴史〈00〉 ・・・・・・・

近年、歴史学者の網野善彦が中世社会、近世社会における百姓身分に属する者たちが農民、山民、漁民、職人、商人などの広範な生業の従事者であったことを明らかにし、「百姓=農民」と一概にまとめた従来の歴史観に対し批判を行った。さらに今日の歴史学では西欧中心の単線的な発展段階史観が強く批判されるようになった。そのため百姓が差別的な用語であるという認識は薄まってきている。

Wikipediaより(下線by愚樵)


Wikiからの引用にもあるように、現在では一般に「百姓」というと農民のことであり、また差別的な意味合いもあります。ですが、私がいう「百姓」はそのような意味ではもちろんありません。「農民、山民、漁民、職人、商人などの広範な生業の従事者」であり、私自身もその一員であるということ。そして百姓である」ということが、私にとって「体にくっついたところ」――これがアキラさんの記事を読んで考えたことでした。


では、私はいつから「百姓である」ことを“体にくっつけ”だしたのか。そのことに“気がつき”始めたきっかけは「登山から転向」したことでした。このことはまた別の機会に話をしたいと思いますが、ここで簡単に触れておきますと、登山という行為は基本的に貴族的(支配者)のもの。そこから“転向する”ということは、被支配者 つまり百姓の側へ移るということ。私は山というフィールドでその“転向しよう”と思い、山民になろうと思ったんですね。それで樵を生業とするようになった。

樵を生業としつつ自身の「体にくっついたところ」へ意識を向けていくと、いろいろと“気がつく”ことが重なっていきます。それは、実は、私が「百姓である」であるということは、“気がつき”始めてから“体にくっつけ”だしたのではなくて、“気がつく”以前から私の「体にくっついたところ」であるということ。そして、そうやって気がつくと、それは私だけではなく周囲の者にも多かれ少なかれ“体にくっついて”いる、ということ。そういったことに“気がつく”ようになっていきました。

これはおそらく日本人の民族性というものなのでしょう。私はサラリーマンの家庭で生まれ育った人間ですが、それでも自身の知らないうちに「百姓としての心性」のようなものを吸収して成長してきた。知らないうちに吸収したわけですから「体にくっついたところ」といっても、(アキラさんのいう意味とは違いますが)間違いとはいえない。そして、それが私にだけに周囲の人たち、つまり日本人に“くっついて”いるのであるのなら、それは日本人の民族性というのだろう、と考えるわけです。

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー) 端的に言いましょう。私は日本人の基本的な在り方は「百姓道」だと思っています。「武士道」ではない。かつて武士という階級が存在し、その階級が日本を支配していたという事実は確かにあります。武士が支配する封建制度という在り方は、かつての日本という邦(くに)の骨格だったことは間違いない。ですが、身体全体が武士に支配されていたのではない。日本という邦(くに)の豊満な身体にあたるところは、百姓が担っていた。それが日本という邦(くに)の形だった。幕末から明治前半にかけて、日本を訪れた異邦人が見出し驚いたのは、「百姓道」の日本。これもまた事実です。

「武士道」が普及したのは明治政府のプロパガンダの所為――といってよいかどうかはわかりませんが、明治政府に都合のよいものであったことは間違いないでしょう。西洋列強と張り合うためのナショナリズムとしての「武士道」です。そのナショナリズムは太平洋戦争の敗戦でひとつの結論が出、そのあとに出てきたのが「市民道」(とは一般には言いませんが)。反ナショナリズムです。

私は「武士道」も「市民道」も、まったくのデタラメだとは思いません。ですが「体にくっついたところ」とは思えない。せいぜいが「衣装」というくらいのものです。それも体にはあまり合わない衣装です。ですから、「武士道」や「市民道」に沿うべしといった議論を見るにつけ、“衣装に体を合わせろ!”と言われているような感がして仕方がない。

日本は生きにくい邦(くに)になってしまいました。私に言わせれば、この原因は合わない衣装にムリヤリ身体を合わせようとしたことです。現在TPP参加を巡っての議論が盛んですが、TPPなども私からは“衣装に身体を合わせる”行為のように見えます。“TPPは第二の開国”などと宣伝されてもいますが、単なる宣伝ではなく、本当にそうなってしまう可能性もあると思われる。「第一の開国」から衣装に身体を合わせる”ことが始まったと捉えれば「第二の開国」はその仕上げ――つまり、身体を合わせることができない者は生きていかなくてよい、という体制作りです。

コメント

ありがとうございました

引用とTB、ありがとうございました。

>「武士道」や「市民道」に沿うべしといった議論を見るにつけ、“衣装に体を合わせろ!”と言われているような感がして仕方がない。
<
これ、僕も同感です。
「市民道」も貴族的(支配者)なニュアンスがありますよね。
日本だけなのかもしれませんが。

ナショナリズム(武士道)と反ナショナリズム(市民道)の狭間で

 百姓道は、ちゃんといまでも存在していると思います。ただ、マスコミ・財界・政界が、それを知らないだけ、なんじゃないでしょうか。
 知らないから、武士道か市民道いずれかに、身体をあわせようとするし、それを他者にも強要してしまう。

 百姓道って、観念的なものではなくて、リアルな生活の中で、世間(自然)を恐れ、世間(自然)を敬い、世間(自然)と関わって生きる道ですよね。

 それはちゃんとそこにある。ただ、なかなか見えにくく、感じにくくなっているんでしょう。

こちらこそ、ありがごうございました

・アキラさん

いずれにせよ、現在の日本は、衣装の身体を合わせるか(革新)、身体に衣装を合わせるか(保守)の選択をしなければならない局面に立たされているのでしょうけれども。ただ、それにしても、自分たちの身体(体にくっついたもの)をよく知らないというのは、どうかと思いますね。

保守を選択するには自分たちの身体を知らないことにはどうしようもありませんし、革新を選択するにしても、むやみにやれば身体を壊してしまいますしね。

「市民道」も貴族的(支配者)なニュアンスがありますよね。

市民がブルジョアというのならば、貴族的なところを引き継いでいてもおかしくないはずですけど。でも日本的「市民道」が貴族的と言えるとは思えませんね。

・naokoさん

マスコミ・財界・政界が、それを知らないだけ、なんじゃないでしょうか。

田中角栄は知っていたと思います。そしてたぶん、小沢一郎も。

それはちゃんとそこにある。ただ、なかなか見えにくく、感じにくくなっているんでしょう。

はい。その原因は私は学校教育にあると思うんです。戦前のナショナリズム教育、戦後の反ナショナリズム教育のいずれも、「体にくっついたもの」を見えなくしていった。マスコミにせよ、財界にせよ、政界にせよ、主導権を握っているのは教育を修めた人たちですからね。

アタマが良くなるほど見えなくなっていくんでしょうね。

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