愚慫空論

『漂流少女』

今日は読書感想文。

漂流少女 夜の街に居場所を求めて漂流少女 夜の街に居場所を求めて
(2010/07/26)
橘ジュン

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図書館へ立ち寄ったら、たまたま目に留まりました。この手のタイトルは私は普段スルーするのですけど、なぜか読んでみようという気になってしまいました。

簡単な内容紹介を amazon から引っ張ってきますと、

内容紹介
援助交際、ネットカフェ暮らし、OD(薬物過剰摂取)……。 新宿歌舞伎町、渋谷センター街。著者は夜の街を漂流する少女たちに声をかけ、誰にも言えなかった不安や、どうすることもできない現実に耳を傾ける。 そこで語られた、少女たちの日常とは!? “危うい少女たち”の現状を知らせる渾身の1冊!

著者について
ライター。『VOICES』編集長。10代の終わり、レディスチームのリーダーとして取材を受けたことをきっかけに、エッセイの執筆、ビデオ・レポーターなどの活動を開始。2006年、フリーペーパー『VOICESマガジン』を創刊。家族・傷・友人関係などをテーマに、10代へ向けた記事と肉声を編み、街で配布。これまで少女たちを中心に3000人以上から話を聞きとり、その声を伝えつづけてきた。 2009年、NPO法人bond-PROJECTを設立。女性向けネットカフェ「MELT」を拠点に、活動をさらに広げている。


これだけでも、本の内容はだいたい想像できるでしょう。“危うい少女たち”の“やりきれない話”です。

“やりきれない話”というと、話の向きは不条理な社会への批判ということになりがち。この本の中にも、そういた要素はあります。でも、読後の感想は、“やりきれなさ”への同情が正義感を刺激し、不情理への怒りを駆り立てる――といったものではないんです。感情は、怒りとは別の方向へ向く。

なぜそんな感じになるかというと、それは橘ジュンという著者がライターだからでしょう。ジャーナリストではない。少女たちを「取材対象」と見なして“一線を引いて”接して情報を得、その情報から社会の不情理を浮き彫りにする、といったような書き方はされていない。少女たちは橘ジュンという人間を映す鏡であって、ライターとして書き出しているのは、鏡に映った自分自身という感じなんです。

だから、と言っていいのかどうかわかりませんが、私はこの本の中に写し取られている少女たちに、生命力を感じてしまう。それは、素直で生き生きしたものではありません。屈折して萎れてしまいそうな“危うい”生命力です。でも、確かにそこには生命がある。危ういからこそ生命を感じる、いや、危うさの裏にある図太い生命力を感じると言えばいいのかもしれません。

少女たちはさまざまな不情理のなかにいます。醒めた見方をすれば、彼女たちは自分で不情理を選択した、と言えなくもない。その面は確かにあります。でも、だから愚かなのかというと、そうとも言い切れないような気もする。というのは、彼女たちはそのことを識っているフシがあるのです。自身を愚かだと識っていて、受け止めている。だから不情理に怒りを向けない。ある意味、自立していると言っていいかもしれない。でも、社会の不情理な力は巨大で、確実に少女たちを蝕んでいる。そこはやはり、“やりきれない”と感じます。

妙な感想かもしれませんが、私の読後の率直な感想は“もったいない”でした。なにがもったいないのか、それは図太い生命力が活かされていないことが、です。こうした生命力は「受け止める力」がとても大きい。実際、少女たちは男どもの薄汚い欲情を受け止めている。不情理なのは、彼女たちが受け止めるたびに、その「力」が削り取られている感があること。それが非常にもったいない。

あるんです。受け止めるたびに「力」を豊かにしてゆく「やり方」は。そして、その「やり方」はだれもが識っているはず。でも、容易に忘れる。人間は“頭の良い”生き物のようですが、それが災いします。知識を習得するのと引き替えに、もともとの「やり方」を忘れていってしまう。不情理はそうしたところから生まれてくる。

知識に乏しい者たちは、乏しいがゆえに不情理の中へと絡め取られてゆきます。『漂流少女』は、そうした不情理の一断面だと思いました。

コメント

tbありがとう。

あいつはこの手の話が好きだろう、とTB弾を発射していただいただろうと思うのがですが、図星です。

>危うさの裏にある図太い生命力を感じる
この話全体がそうなのですが、思い出したのがある種の青カンのオッサンらです。
それにしても普通に生活しているなかでは「図太い生命力」を他者に感じることはあまりありませんよね。こりゃ「社会」に一程は保護されているから「図太い生命力」を発揮せずに済むのだろうか? じゃ「図太い生命力」が感じられるのと感じられないのは、いずれが幸せなのか? 個人的には「感じるほうが幸せ」だと思うんです。
不条理というのは「社会」前提の不条理でそれが「図太い生命力」とはお友達関係にあるとさえ思えます。

ただ青カンのおっさんらは「不条理を受けるほど」生命力が強くなっていく気がしますが、漂流少女たちはダメですね。やっぱり削ぎ取られている気がします。

>受け止めるたびに「力」を豊かにしてゆく「やり方」は。そして、その「やり方」はだれもが識っているはず。

誰でもしってる? なんだろうなぁ?解んないなぁ?
ただ、著者で不条理ゆえにレディース(これ女暴走族ですよね)のヘッドにいた方が、漂流少女からの言葉を受けるたびに豊かになっているのは解ります。

そうです、狙い撃ち(笑)

・毒多さん

コメントありがとうございます。

そうです、このエントリーは毒多さんのために書いた、というのは言い過ぎですが、毒多さんとの付き合いがなければ書かなかったのは間違いありません。

思い出したのがある種の青カンのオッサンらです。

私も重なっていました、オッサンらと。んでもって、著者と毒多さんも。相手にどのように接していたか、という部分で。

それにしても普通に生活しているなかでは「図太い生命力」を他者に感じることはあまりありませんよね

いえ、そこは私は違うんです。(現在が違うんですが)普通に生活しているなかで「図太い生命力」を他者に感じることが多い。

「図太い生命力」を感じるところ。それは「辺境」といっていいのかもしれません。社会の辺境部。いや、都市文明の辺境部かな。

漂流少女たちの生息域も、それから青カンたちの生息域も、都市の中に出来上がった「辺境」なのでしょう。

漂流少女たちはダメですね。やっぱり削ぎ取られている気がします

その理由はたったひとつ。彼女たちが「商品」だからです。「辺境」にいながら「商品」として取り扱われるし、自身でもそのように取り扱う。

私たちは生命を「商品」として取り扱ってはいけないことを識っているはずです。

繋がる

おはようございます。

おう、そうそうこの著者とワタシはある面にている(「本当に」豊かになっているかどうかは別として…)。で、ある種の違和感を感じながら、、、、。これ前に雨宮処凛のときに書いた、そのネタが「〈商品〉になってしまう」のではないか?という違和感かもしれないな。もしくは世間では「商品」として扱われてしまうかもしれない、という危惧。ほんとは全然「ネタ」ではないんだけどね。

>「図太い生命力」を感じるところ。それは「辺境」といっていいのかもしれません。

これは愚樵さんの生活環境が辺境とうことですか(笑)?
ワタシが感じることがないというのは、今ワタシが(辺境ではない)「社会のなか」、(辺境ではない)「都市文明のなか」にいるからかもしれない。ただ、これも視点なんですよね「辺境ではない〈なか〉」においても、辺境はいくらでもある。この漂流少女しかり、青カンしかり。見えるか?、見えないか?、さらに「図太い生命力」が見えてくるかどうか? これは見ようとするか?どうかかもしれません。辺境、不条理のなかにいても、やっぱり「図太い生命力」を感じない人もいる。

辺境、不条理といえば、例の事故で亡くなった障害者A君の母もそうですね。A君の母も訪れた不条理から「図太い生命力」の隣にたっている。なのにその生命力あまりを感じない。いや感じないわけではないが、なにか引っかかる。それは生命を「商品」(=保険)と混同してしまっているからかもしれない。ワタシのなかではここに繋がりました。

ツッコミ(笑)

・毒多さん

そのネタが「〈商品〉になってしまう」のではないか?という違和感かもしれないな。

ここ、面白いですね。ちょっとツッコミを入れさせていただきます( ̄ー ̄)

生命そのものを「商品」としてはいけない。奴隷はダメ、臓器売買もダメ、売春もダメ。このあたりは共通了解が得られますよね。では、労働は? これが商品にならなければ資本主義社会は成り立たない。同時に資本主義社会では労働者が「労働力」あるいは「労働」を自由に売る権利も保証される。

で、ライターという職業。売文家。情報屋といってもいい。「情報」は「労働」ですよね。ネタがなければ「情報」はできあがりませんが、ネタだけでは「情報」にはならない。ネタに「労働」が加わらなければ「情報」にはなりません。ライターは自身の「労働」の成果としての「情報」を「商品」として売る権利は当然あるわけです。

毒多さんは、ネタによっては「商品」とされてしまうことに違和感があると仰る。権利がない、とまでは言わないでしょう。でも、違和感はある。その違和感は私も共感できます。じゃあ、その違和感はどこから出てくるのか。毒多さんは、どう思われます?

それは生命を「商品」(=保険)と混同してしまっているからかもしれない

ここらへと繋がりますか?


それともうひとつ。私が“図太い”と表現したのは、“怒りとは別方向”ということなんです。不情理に怒り抗うというのも、もちろん生命力あってのもの。ですが私は、そうした在り方に“図太い”という形容詞を付けたいとは感じないんです。

不情理に対する怒りと抵抗は、正義ということが出来るでしょう。では、不情理と正義がきっぱり線引きできるかというと、ことはそんなに簡単ではない。正義は不情理の生みの親であったりもします。遺族の逸失利益を保証するのは正義のはずですが、でも、そこから不情理が生まれてくる。不情理の不情理たる所以です。

“図太い生命力”は、正義など関係なく受け止めてしまう。社会を豊かにするには、こうした「力」がどうしても必要なように私には思えるんです。

違和感への追記

なんとなく考えているのは「労働が金になるのか」「金のために労働するのか」かもしれません。今のワタシの生活のための労働は完璧に金のためです。ブログを書くという労働に「金儲け」という意識はありません。ただ、それが「金になった」としてもそれを拒否しません(笑)。青カン支援も金と関係ないところにある、しかし「金になった」としても、、、以下略

この件のライター(雨宮処凛もそう)の場合、ただ肌感覚として綴らなければならないと感じているのか? それとも、最初から「金のために」綴るのか? いずれを否定するわけでもないのですが、そんな違いです。

愚樵さんの読後感想として
>ライターとして書き出しているのは、鏡に映った自分自身という感じなんです。
これで、前者だと感じました。おそらく著者は「金のため」ではなく、綴らざる得なかったのでしょう。

ブログは贈与

・毒多さん

以前私は、ブログは贈与だと言いましたよね。つまり商品ではない。毒多さんも同感してくれたはずです。

ブログエントリーが贈与であるということは、お金のためじゃないということです。でも「お金になる」ことは否定しない。ということは、「贈与のお返しの寄付」みたいなことはあってもいい、というわけですよね。

私はブログに限らず、ネット上の情報についてはこの立場です。だから、ネット上の「値段のついた情報」は違和感を憶える。確かに、優れた情報には対価を支払うべきだと思います。でも、販売する方から価格を押しつけられるのは気にくわない。せっかくインターネットという新しい技術なのに。電子書籍にしても「対価の付け方」は旧態依然。そこが不満。

>>ライターとして書き出しているのは、鏡に映った自分自身という感じなんです。
これで、前者だと感じました。おそらく著者は「金のため」ではなく、綴らざる得なかったのでしょう。

橘ジュンさんの活動履歴をみてみても、綴らざるを得なかったという感はあります。最初『VOICES』をフリーペーパーとして世に出したということだそうですから、お金にはかなり苦労をしたでしょう。それは今も変わらないかもしれませんが。

私の持っている「金」についての違和感をもう少し書いてみますと、それは“最終的にお金”になってしまう、ということなんです。それしか選択肢がないということろ。売れてお金にならなければ、次へと続いていかないという現実。そして売れてしまえば「商品」とみなされてしまう。

とても気持ちが悪いです。

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