愚慫空論

イノベーションについて(2)

(1)からの続き

電波時計というアイテムがあります。

電波時計(でんぱどけい)とは標準電波(日本ではJJY)を受信して誤差を自動修正する機能を持つ時計のことである。最近は様々な国々に送信局が設置されている。

標準電波は、原子時計を使い、正確な周波数と正確な時刻の情報を放送(位相も合わせた正確な変調)している。
標準電波を放送する無線局は、日本の法律においては「標準周波数局」という名称で分類される(電波法施行規則第4条28項)。日本の標準周波数報時局は、独立行政法人情報通信研究機構が運用するJJYである。


この送信局から送られてくる信号を、電波時計に内蔵された受信機が一定時間ごとに読み取り(読取間隔は機種ごとにそれぞれ異なる)、自動的に時刻を合わせている。このため、電波時計では電波が正常に受信できる環境に限り、時刻合わせなどの手間を省きつつ、秒単位で正確な時刻を知ることができる。
(Wikipediaより)


標準電波が受信できるという条件がつきますが、それさえ満たせば、電波時計はほぼ“完全”な時計だといえるでしょう。“完全”とは「時間の並列性」を完全に表現している、という意味です。

この電波時計の出現はひとつのイノベーションです。もちろん、それは「小さなイノベーション」です。ただ私は、この“小さな”イノベーションの意義は結構大きなものがあるのかもしれません。

前回、私は「時間の並列性」を「大きなイノベーション」だと言いました。人間は、時計という道具の“見方”を修得する過程で「時間の並列性」を「想定」するようになる。この「想定」はプラトンが言ったところの「イデア」とできるかもしれませんが、そうした「想定」が普遍化することが「大きなイノベーション」なんだということでした。

電波時計の出現の意義は、その「想定」をほぼ完全に“実証した”ことあります。

すでに「時間の並列性」は実証されているという人もいるでしょう。確かにそうです。TVやラジオ等の放送は正確に時刻通りですし、NTTの時報(117)に電話をすれば正確な時刻を知ることができる。“正確な時刻を知ることができる”というのと“「時間の並列性」が実証されている”というのとは、ほぼ同義です。ただ、時計という観点から厳密にみると、これまでの時計は人間が時折手動で時間合せをする必要があった。つまり“実証されている”というより“実証させていた”わけです。「時間の並列性」という「想定」に沿って。ところが電波時計には手動の時間合せが不要です。不要になってはじめて“実証されている”ということができるようになった。単に時間合わせが不要になって便利になった、というだけではないのです。

しかし、それでも不思議に思われるかもしれません。“実証されている”といったって、電波時計はもともと人間が作ったもの。電波時計を作ることで人間が“実証させている”ことに変わりはないのではないか。だから、便利になったという以上の意義はないのではないか、と。

そう。“実証されている”とか“実証させている”なんてのは言葉遊びに過ぎません。もともと「時間の並列性」と時計との関係は「自作自演」とでもいうべきもの。電波時計は、その「自作自演」を完成させたということなのです。
(もっとも、すでに「自作自演」は完成していたと思っている人には電波時計はあまり意味はありません。“駄目押し”くらいの意義でしょう。たぶん、そのような人の方が多いような気はします。)

モモ では、「自作自演」が完成したというのはどういう意義をもつのか。

それは、「不定時法の世界」が単なる「ファンタジー」になったということです。

続きます。

コメント

連想を

僕も単なる感想、いや連想を。(^o^)

僕は、ヒトの可塑性は相当なものだと思ってるんです。
だから、その可塑性を大いに信頼し、大いに期待しようと思ってます。
というか、そう決めてます。(^o^)

20歳のときに、鹿児島から東京まで、野宿をしながら2ヶ月くらいかけて歩いたことがあるのですが、とても面白かったのは、1ヶ月くらいしたときに、感覚が完全に逆転したことです。

こちらはずっと外で生活し、朝が来れば歩き出し、自分の都合で適宜行動が決まり、夜が来るまでに寝床を確保し、暗くなれば寝る。
人々の日常とは関わりますが、その影響を蒙ることはほとんどありません。

そんな「日常」を続けていると、ちょうど1ヶ月くらいした頃から、住む家があって そこを基点に営まれる家庭や仕事といった僕らの(というか当時は「人々の」)「普通の日常」が、とても奇妙なものとして感じられてしまうようになったんです。
あの人たちは、なんであんなヘンな毎日を送っているのだろう? くらいの勢いの皮膚感覚のズレでした。

20年間ずっと その「普通の日常」の中で暮らしていたのに、たった1ヶ月のことで、それが「ヘンだ」とあからさまに感じるようになっちゃった。
人間の感覚というのは、すごいもんだな・・と驚いた記憶が、今でもまざまざと思い出されます。

そんなこんなで、僕はヒトの可塑性には大いに期待していいと、積極的に思ってるんですね。
まぁ、よくも悪くも・・ですけど。(^o^)

よからぬ連想(^_^;

・アキラさん

20歳のときに、鹿児島から東京まで、

ほほう、面白いことをなさったんですね。
申し訳ないんですけど、そのお話からよからぬ連想をしてしまいました。スタンリー・キューブリックの『フルメタルジャケット』という映画なんですけどね。前半の、海兵隊訓練所で新兵が受ける過酷な訓練の場面なんかが出てきてしまいました.....

あの新兵たちは、アキラさんとは違って、感覚がズレていくことを拒んでいたんでしょう。だから、精神に変調を来す者も現れた。

あのような映画を観て、感覚のズレを拒むのは当然だと誰もが思うでしょう。私も今ここでその「当然」を云々するつもりはないんですけどね。ただ、人間は大きな可塑性を持っていると同時に、自身の可塑性を拒否することもできる。

そんな連想をしたからといって、私はアキラさんの可塑性への期待に不同意というわけではない。大いに賛同します。ただ現代社会では、そうした可塑性はどうしても「カルト」とか「洗脳」といったような否定的な雰囲気で語られがち。『フルメタルジャケット』が出てきたのも、そういった引っかかりがあってのことでしょう、きっと。また、だからこそ、私もアキラさん同様に「決めて」いて、こんなエントリーをあげたりしているわけですけれども。

RE:よからぬ連想(^_^;

はい、愚樵さんの仰ってること、分かります。
ホント、よくも悪くも、ですね。

何かこのへんのことは、例の「血肉化」のことと僕の中では絡んでいるようです。
ヒトの可塑性は抵抗不可能で、必ず変わっちゃうじゃないですか。
意志(自我、脳)が自身の可塑性を拒否しても、確実になにがしかの影響を受けて変化せざるを得ない。
それなりの変化をした先で拒否してるわけで。
しかも、その変化は不可逆。

で、「脳の血肉化」のことを思うわけです。
僕の「みんなの日常 ヘンだよね?」感覚もそうですが、そのように変化してしまっても、東京に到着して、また普段の生活に戻って暮らしていると、(もうこちらの変化は覚えていないのですが)おそらく2週間もしないうちに、「普通の日常」がフツーだという感覚に変化しちゃう(った)んですよね。
これもまた、ヒトのスゴい可塑性のなせる業で。

そうして、歩いていたときのリアルな皮膚感覚はどんどん薄れていって、終いにはあまりよく(リアルには)思い出せなくなったりするわけですが、けれども「まざまざと思い出され」たりもするわけで。
これは、当時の「感じ」が「脳の血肉化」を起こしてるわけですよね、おそらく。
身体的な「血肉化」じゃないように思うのです。

逆に、身体的な「血肉化」を「血肉化」とし続けるためには、絶えずそのための刺激を与え続けなければならない。
あるいは、肉体的な「変形」が必要。
どこかのコメント欄で でしたか、愚樵さんが「記憶」の話をされましたよね?
「脳の血肉化」というのは、そういう意味での血肉化、
あるいは、そういう意味での(効率のよい)「変化してしまうことへの拒否」だったりするのかな?とか思ったりします。

まとまりのないコメントで、ごめんなさい。 (^_^;)

そうなんですよね

・アキラさん

そうなんですよね、可塑性には逆らえない。たぶん、それは生命というものの在り方に根ざしているものなのでしょうね。

実は私もアキラさんと同様に「血肉化」そして「赦し」のことを考えてました。毒多さんのところには
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-216.html
をTBしたのですが、あとから
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-318.html
も思い出したりして。どうしてもここらは繋がります。

毒多さんのところで私は「血肉化のリセット」と言いましたけど、アキラさんの体験もそれじゃないかと感じます。

そうして、歩いていたときのリアルな皮膚感覚はどんどん薄れていって、終いにはあまりよく(リアルには)思い出せなくなったりするわけですが、けれども「まざまざと思い出され」たりもするわけで。

「リセット」と言ったって忘却の彼方へ消えてしまうわけではない(リセットは不適切な語句だったかな?)。人格の一部として取り込まれるとでも言えばいいのか、自分という「器」を形作る糧になるというか、そんな感じですよね。「血肉化のリセット」によって起こるそうした現象が「脳の血肉化」なんだろうと。

また、「脳の血肉化」が「器」の形成に関わるというならば、それは人間の可塑性を方向付けるものでもあるということになるはずです。つまり、ランダムあるいは全方位的な変化を抑制する。私はこの「脳の血肉化」による可塑性の抑制は、生き物の「そもそものオリジナルな動き」と深い関連があるような気がしてならないんです。「脳の血肉化」を重ねることで「オリジナル」に近づいていく。

そして、こうした「オリジナル」へのアクセスを、「道」と呼んだのではないかと思うんです。「道」には主体的な「選択の自由」はありません。感覚がズレることは意識的に選択できない。可塑性は意識の支配下にはない。心臓の鼓動を意識で止められないと同様に(ただ自殺と同様、感覚がズレる環境を意識的に選択することはできますが)。「血肉化」も、そのリセットによって起こる「脳の血肉化」も、意識的には行えない。これ、どちらも生命力の発露であって、待つしかない性質のものです。信じて待つしかない。

...などと言っていると、また思い起こされるのは「予祝」の話ですが、それこそまとまりそうにないので、この辺で止めておきますか(*_*)

そうでした

そうでした、「自生的秩序」のことを失念していました。
『あとは「自(おの)ずから」複数の複雑な相関関係が最適化していく』は、まさに「自生的秩序」です。


確かに「リセット」と言うと、何となく初期化状態へ戻すみたいなニュアンスに感じますかね。
「脳の血肉化」というのは「血肉としてのアーカイブス化」ですよね、ある意味で。


>それは人間の可塑性を方向付けるものでもあるということになるはずです。
つまり、ランダムあるいは全方位的な変化を抑制する。
<
確かに仰るとおりで。
僕の生活の中に引き込んで考えると、例えば整体の型の動きの稽古などは、まさにこのことだと思われます。

で、「脳の血肉化」による可塑性の抑制が、そもそもの「オリジナル」に近づいていく方向をとるためには、もう少しからくりがありそうだと感じてるんですけど、仰っていることについては なるほど♪です。
・・と考えていて思いついたんですけど。

この「脳の血肉化」≒「アーカイブス化」にも、「足し算」と「引き算」があるように思えますね。
経験が増えていくという「方向づけ」は、通常は“足し算”の「脳の血肉化」が多いように思いますが、“引き算”の「脳の血肉化」が行われると、そもそもの「オリジナル」に近づいていく方向が出てくるように感じました。

またそのうちに、この話が続いていく何かいいきっかけなりキーワードなりが、出てきそうですね♪

そうです、それがいい

・アキラさん

「アーカイブス化」ですか、それ、いいですね。
こうやって言葉を探るのは楽しいです♪

で、「アーカイブス化」からもう少し想像の枠を広げてみると...、思い浮かんだのは落ち葉。

季節はいままさに落葉のシーズンですが、落ち葉は地面に落ちて、やがて腐葉土に。腐葉土は木々を育む栄養分となりますね。いや、木々だけではなくて、他のさまざまな生き物を育む。果実も同じですかね。

このように想像すると、「血肉化」というのは、葉を茂らすこと、実を結ぶこと。「血肉化」→「アーカイブス化」は、次なる「血肉化」へと繋がっていきながら、ネットワークを作ってゆく。それが森であり、自生的秩序ということなんでしょう。

でも、人間の場合、「血肉化」と「アーカイブス化」の連鎖が砂漠を生んでしまうことがある。いえ、今現在、砂漠化がかつてない勢いで進行中、という感じですね。

ここに「足し算」「引き算」がまず間違いなく関連しているはずです。

もう少し想像の枠を広げてみますね。私は一神教が「足し算のアーカイブス化」ではないのか、と思うんです。足し算に足し算を重ねて「教義」を築き上げていく。そうやってうずたかく積もった「アーカイブス」を「信仰」で一気に“引き算”する。資本主義がプロテスタンティズムへの宗教的情熱から生まれたというのは有名な話ですが、プロテスタンティズムが資本主義に“堕ちた”のは“引き算”がされなくなったから。私は今、「イノベーション」について考え中なんですが、「イノベーション」がまさに「足し算のアーカイブス化」なのかもしれません。

そう考えると、「イノベーション」は“信仰なき科学”とも結びついていきますね。科学から生まれた技術革新が、世界の砂漠化を進行させている。技術革新と砂漠化が深く関連しているのは、想像ではなくて事実ですよね。

落葉樹!

あぁ、落葉樹のイメージでいくといいですね♪
ちょうど1周して戻ってきた感じでもありますし。 (^o^)

イスラム教は分かりませんが、ユダヤ教やキリスト教は まさに壮大な「足し算のアーカイブス化」ですね。

一巡しました(笑)

・アキラさん

イスラームは最も完成度の高い一神教だと思います。

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