愚慫空論

「命の値段」から考えてみる

過失は許されるべきか。それとも赦されるべきか。

今回は不定時法からちょっと離れてみることにします(少しは関係あるのですけど)。

今回の元ネタはとある民事訴訟です。dr.stoneflyさんのところ村野瀬さんのところでも取り上げられています。「命の値段」という話です。
その事件は実話らしいのですが、私は実話として扱いたくない。欺瞞的かもしれませんけど、いやなんです。だから単にエントリーのネタとして扱うことにします。

事件の経緯をおふたりのエントリーからごく簡単に再構成してみます(実話とは異なるところがあるかもしれませんが、ネタですので)

・ハンデキャップを持った少年が、職員の過失により福祉施設で死亡した。
・賠償金が支払われることになったが、少年の逸失利益は保険会社により0と算定された。
・その算定に対して生命の価値は平等であるとして遺族が訴えを起こした。
 (賠償金=慰謝料+逸失利益で、慰謝料は認められている。)

逸失利益を0と算定された遺族の不満は共感できます。不満はおそらく、0とされたことよりも健常者と差をつけられたことでしょう。生命の価値は平等であるとの見地に立てば、算定の基準はどうあれ、結果としては理不尽なもの。その理は理解出来ます。

が、その理が全面的に正しいかというと、そうすんなりとはいかないことは容易に予想できます。逸失利益は生命の値段ではないという理だってそれなりに正しいと言えますし(この理と人命平等の理は裁判で争われるでしょう)、そもそも失われた生命に額の多寡にかかわらず値段を付けるという行為が誤っているという理もあるでしょう。

私がここで述べたいと思うのは、いずれの理が正しいのかといった話ではありません。

果たして遺族は許せないのか、赦せないのか。

原則として過失は許してはならないと私は考えます。理由は過失によって損害を被る者がいるからです。損害は補償されなければなりません。だから過失は許してはならない。保険という仕組みの目的は損失補填ですが、ということは、保険は過失を許さないためのものだということができます。過失を侵した者が損失を補填できない場合もあります。保険はそのような事態を防ぐ。防ぐことができなければ実質、過失を許すことになってしまう。逸失利益という考え方も過失を許さないというラインから出てきたもののはずです。

過失は許してはならないから、保険という制度が設けられた。その結果に差が生まれた。遺族はこの結果を許せないのか、赦せないのか。私は、赦せないのだと感じます。

遺族が赦せないと思うことは共感できます。が、同時にその思いを肯定的には捉えられないところもある。赦せないのは悪だとは言い切れないが、かといって善だとも言えない。善くないのです。が、善くないことを肯定するこ とに対しては、はっきりと悪だと感じます。つまり、赦せないことを正当化することは悪だと断言できる。

今回、赦せない遺族の思いを正当化しているのは人命平等という理です。ふつう、この理は善だと捉えられています。が、絶対的普遍的な善なのかは疑問です。少なくとも今回のケースに善として適用することが正しいかどうかは疑わしい。

遺族は具体的な誰かを赦せないわけではないのかもしれません。赦せない相手を強いてあげれば社会というところでしょう。逸失利益に差が生じるのは社会が歪んでいるためで、赦せないのはその歪みである――こういった論理も成り立ちえます。

しかしその論理とて、本当に社会の歪みを矯正するものかどうかは疑問です。仮に遺族の主張が認められて保険会社が算定が否定されたとします。となると、保険会社はその種の保険から撤退することも考えられます。そうなれば福祉施設は予想されるリスクに対応できなくなり、福祉施設そのものが運営が難しくなる。余計に歪みが増すのです。こういった可能性も十分考えられるし、実際、このようなことは産科医の分野で起こっています。

そうこう考えれば、相手が特定されようがされまいが、赦せないことの正当化はしてはならない悪だと考えた方がよいと思われます。そもそも赦せないことの正当化は憎悪の連鎖を生みだす基盤です。これは歴史をみれば明らかなことです。

コメント

どうも

TB感謝。
今回は(これ「は」を強調させてもらいますが、笑)、けっこうすんなり同意できます。思索の手助けをしていただいて感謝してます。と、同意や感謝だけのコメントは物足りないだろうからもうすこし、爆。

ワタシの語感では「善」は普遍的なものです。ので、

>赦せないのは悪だとは言い切れないが、かといって善だとも言えない。善くないのです。

赦す、赦せる、のは「善」というのは形而下の諸事情から離れたとこにある気がしているのですね。善悪という言葉がありますが、善の反対は悪なのだろうか? 諸事情ある形而下では善の反対は悪かもしれませんが、本来の「善」というのはそことは別の次元にある気がします。(単なる言葉の使い方のイチャモンかもしれませんが、、、)



この話、乗ります(笑)

・毒多さん

「許す」と「赦す」の違いについて、もう少し考えてみます。

・「許す」は対称的、「赦す」は非対称的

です。なぜかというと、

・「許す」は事前でも事後でもOK、「赦す」は事後でしかありえない

から。事前でも事後でもOKだということは、実は事前のさらに事前に許す許さないを線引きする「想定」があるということです。この「想定」は形而下に属するものでしょう。対して「赦す」は事前の形而下的「想定」が不可能ですから、

赦す、赦せる、の「善」というのは形而下の諸事情から離れたとこにある

というのは、その通りだと考えられます。

善の反対は悪なのだろうか?

「赦す」は善に属し、善も「赦す」と同様の性質を持っているとすると、善は事後的にしか立ち現れない非対称なものだといことになる。ならば、善の反対が悪だとは言えないということになりますね。またそうであるなら、事前の形而下的「想定」はいかなるものであれ善とは言えない、ということにもなる。“地獄への道は善意の石で敷き詰められている”ということも十分ありえるというわけです。

形而上的に善を“一なる真を求めること”だとすると、悪は“一なる真を分離すること”と定義できそうです。(「赦す」は“一なる真を求めること”、「赦さないことを正当化する」は“一なる真を分離すること”にそれぞれ当てはまりそうです。)
つまり形而上的には善と悪は対称だと言えます。ただし善は事前には立ち現れませんから、“真は事前に知ることはできない”ということになります。

なんだか辻褄が合いそうですね(^o^)

乗って頂きましたので(笑)

おはようございます。

またまた、今回「は」、小難しい話を、、、
学のないワタシには「対称」「非対称」というのがよく解らないのです。
この場合は「事前」「事(件)」「事後」としたとき、「事(件)」を中心として「事前」と「事後」が対称か非対称かという話でいいのでしょうか?
とすると、「許す」が「事(件)」が起きるまえから想定したものと、「事(件)」が起きた後の現実が同じであり、「赦す」が「事(件)」が起きる前に想定ができなく、「事(件)」が起きた後にしか在りえない、となるのでしょうか。

うーっむ、と考えてしまいます。
例えば今回の拙ブログのエントリーも、A君とその母の事例をだして思索したのも結局「赦す」ことを「事前」に考えたものですし、以前Mさんの母子殺人事件のエントリーをしたときも、「事(件)」に巻き込まれてからでは、思索もできないので巻き込まれる「前」に「赦し」を考えるべきだ、と書いた記憶があります。
「赦し」とはつまり「解放」とも考えていて、それは何かしらの「事(件)」がおきなければ獲得できないものか?そうじゃないだろ。という思いもあります。

ただ、愚樵さんが仰るのもよくわかり、拙ブログのコメ欄で黒い時計の旅さんが仰る、ワタシと愚樵さんの「赦す」の話は血肉化されてない、といわれますが、これはワタシ自身感じていて、それは「事前」だからかなぁ、とも考えています。

となると、一生「事」がない人は、「赦す」、、、「解放」にも「善」にも無縁なのか、、それはちょっとアカンやろ、、、と、また不思議な思いがしました。

では、続きを

一生「事」がない人とは、無垢な人だということでしょうね。生ればかりの無垢な赤子には善悪はありません。では、無垢を保ったまま長じた人はどうでしょうか? 

“無垢を保つ”ことが善かどうかはわかりません。が、悪でないことは確かです。では“無垢へ還る”と想像するとどうでしょうか。善の色彩を帯びるのではないでしょうか。

「赦し」とはつまり「解放」とも考えていて

はい。これ、わかります。「緊張」を「解放」して「弛緩」させる、ですよね。もちろん「緊張」も「弛緩」も身体的な状態です。

「解放」には「緊張」がなければなりません。「弛緩」の状態に「解放」はありえない。ふつうの人は自身の身体でありながら、「弛緩」や「緊張」をなかなかコントロールはできないものです。ですが、できる人だっていないわけじゃない。コントロールできるなら「事」とは関係なく「解放」できるとは言えますね。

しかし、何らの「事」とも無縁でコントロールができるようになるかというと、それは不可能なように思います。さまざまな「事」を経てコントロールの技法を修得していくことになるのだと思います。

また“無垢に還る”とは「解放」をコントロール出来る状態に近い感じもありますね。

「対称」「非対称」というのがよく解らない

すみません。厳密な意味で「対称」「非対称」と言ったわけではないのです。“善の反対は悪”から逆算してそのような表現を選んだだけのことです。

また私が使った「想定」の用語も適切ではありませんでした。善と悪とを区切る「線引き」のことを「想定」と言ったんです。「許す」はそうした「線引き」を実際に起こった「事件」に当てはめて定める。対して「赦す」の場合、そうした事前の「線引き」は不可能だろうと。

つまり「許す」は理知的、「赦す」は感情的と線引きをしたわけでなんですね。そう言わなかったのは形而上・形而下という線引きが先に毒多さんから提示されていたから。でも理知的なら「対称」、感情的なら「非対称」というのはそれらしくありませんか?

ただちょっと困ったことも起こるんです。、理知的が形而下で感情的は形而上となってしまう。これはまた一般的な「想定」と違ってくるでしょう。

いやいやいや、おはようございます。
実は、昨日ずっと考えていて次はこういうことを書いてやりましょう、と思っていたのですが、一晩寝たら忘れてしまいました。爆!! やはり考えたことは直ぐに書いておかないとダメだなぁ、と思っています。そんな状況で、、、

前のコメントを考えているとき「赦すが感情」ってのは思索のなかでチラっと思ったですが、「赦す」=「形而上」=「感情」で感情は形而上のものなのか?、これは(肌感覚で)違う、矛盾は都合が悪い、書くのをやめとこう、と思った一つです。爆×2!! 書かなければ許されるのかといえば、そうじゃないことは解っているのですがね。
とすると、そも「形而上」「形而下」という線引きがまちがっているのかもしれない、しかし「赦す」を「形而上」のものと結びつけた感覚も嘘じゃないしなぁ、、、、と、更に考えましたが、これやあれだ、禅でいうとこの「悟り開く」って感覚に違いない、と、、、そも、形而下の諸事に「形而上」という言葉をもってくるのは矛盾のような気もしますが、形而下において「悟りを開く」ってのが、形而上テイストに溢れているイメージです。「赦し」=「悟りを開く」=「解放」ってのはどうでしょう。この「解放」ってのは「理知からの解放」とか「形而下的要因の感情からの解放」って感じですね。形而上と形而下は対立ものではなく、形而下に在って形而上を見出す、と考えたいと思います。。。。もう無茶苦茶ですかね??、、はははは。

肌感覚について

いえ、無茶苦茶ではないと思います。

まずちょっと「肌感覚」について考えてみたいんですけどね。新しいエントリーでまた「不定時法の世界」の続き、「時間の並列性」なんてものを取り上げましたが。

身の回りに時計があることが当たり前の世界に住む私たちにとって、「時間の並列性」はもはや「肌感覚」ではないでしょうか。時間の「区切り」は人によってテンでバラバラ...なんてことは、ちょっと想像が付きにくい。でも、「時間の並列性」が我々にとって生得の感覚でないことは間違いないんです。ならばどこかで学習したに違いないし、学習から「肌感覚」になっている。

いえ、学習から習熟を経て「肌感覚」になっているんでしょうね。私は人間は基本的にこのような能力を持っていると思うんです。道具を使いこなすうちに、道具を身体の延長線上に扱う。
(ここらあたりは以前、http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-290.htmlで書いています。)

で、です。毒多さんは「形而上」に「肌感覚」を働かせた。そういう人はたくさんいるでしょうけど、まあ、どちらかといえば少数派でしょう。でも、そういう「肌感覚」を持ち合わせておられる。これは、言葉という道具の扱いに習熟することによって生まれた感覚だろうと思うわけです。言葉を使って思索することで生まれた、と。

だから「赦す」は「善」であり「形而上」だと捉えるのは、その「肌感覚」からすれば間違いでもなんでもない。言葉を使って考えているわけですから。言葉という道具の扱いでは、それでいい。ですが、同時に「赦す」というものが身体の弛緩を伴う情動的・感情的なものであることも間違いない。

こういった矛盾が起こるのは、言葉が身体化しているから、ということでもある。言葉が身体化するから「形而上」への「肌感覚」が生まれ、同時に感情的にもなる。

で、この「身体化」は毒多さんが言われる「解放」と同じようなもの。「身体化」するということは、「区切り」がなくなって一になるということです。“一にして多”ですね。「解放」もまた「区切り」がなくなるということです。またそうなると「解放」は「統合」であるとも言えてしまう。“一なる真を求める”ですね。

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