愚慫空論

不定時法の世界(4)

(3)からの続き
今回は、不定時法の住人はどのような人たちなのかという視点から話を進めます。

一元的「私」 不定時法の住人が時刻を定めるにあたって取り込むのは、次の三種類の情報です。

 1.周囲の環境からの情報
 2.他人の意向
 3.時刻法についての知識

少し説明します。が、1は特に必要はないでしょう。
3は、1日が24時間であるとか、一時(いっとき)は昼と夜をそれぞれ6分した「区切り」であるとかといった知識体系です。これは「制度」あるいは「文化」と言えます。さらにはソシュールがいったところの「ラング」だと言えるかもしれません。
2の「他人」は、1や3を共有する自身と同等の「他者」という意味です。

不定時法の住人はこれら3つの情報を統合して時刻を定めます――と言いたいところですが、この記述はちょっと違います。時刻は“定める”のか“定まる”のか、ここは微妙なところです。“定める”と考えればその主体は「私」ですが、“定まる”と考えれば主体は存在しないことになる。“定まる”場所(器)が「私」ということになります。

“定める”のか“定まる”のか、この差をいろいろと思索することはできます。が、ここではそこを追究しません。“定める”のか“定まる”のかが曖昧な、つまり主体となる「私」なのか、場所としての「私」なのかが曖昧な「私」を抱えるのが不定時法の世界の住人であると捉えればよいと考えます。


対して定時法の世界では、主体としての「私」は明確です。

定時法の世界では、時刻は“定める”ものでも“定まる”ものでもありません。“定まっている”ものです。ですから、“定まっている”時刻を“理解する”「私」が主体的な「私」ということになります。
(ここでいう“理解する”は通常の意味よりも広い意味です。“信じる”をも含むと考えて良いでしょう。)

二元的「私」 定時法の世界の住人は、“時計を見る”ことを学び“時間を見る”ことが出来るようになる過程で客観的な時間という「想定」をも会得します。主体的な「私」は「想定」の会得と同時に生まれるものでしょう。

この考えると主体的な「私」と「想定」の順序が入れ替わってしまうようですが、それはでよいはずです。私たち人間は生まれながらして主体的な「私」を抱えているわけではない。それは成長の過程のどこかで確立するものです。ならば、主体的な「私」は“理解する”能力修得後に確立されると考えることは可能です。

つまり主体的な「私」は、学習し想定する「私」の内部に生まれたものです。この「私」は「想定」の普遍性が強化されるに従ってともに強化される。すると、「私」「私」の分離も促されることになります。この分離が「自我の確立」といわれるものでしょう。

・定時法の世界の住人  ―― 二元的に分離した「私」。自我の確立。
・不定時法の世界の住人 ―― 一元的に融合した「私」。自我は不明確。

続きます。

コメント

ん~♪

「自ら」と「自ずから」の違い・・みたいな感じですね。 (^o^)

ん~、『場所としての「私」』、これは何ともいい表現♪
お気に入りになりました。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/430-b3e786d6

 | HOME | 

 
プロフィール

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード