愚慫空論

こんな世の中に誰がした?

え~と、再びブログ主の特権を濫用します。前エントリー『内田流「格差社会」論の見方について』にいただいたコメントへのお答えを、当エントリーをもってさせていただきます。ですので当エントリーからご覧になる方はできれば前エントリーからお入りになって、コメント欄までお読みになってくださったらありがたいです。より、議論の流れを正確に把握することができます。けれど、別に読まなくても大丈夫です。

う~ん、それにしても皆さん、内田樹氏には否定的な見解なんですね。

では、とりあえず内田流は横に置いておくことにします。内田流を咀嚼したつもりの愚樵流で皆さんへの反論を試みたいと思います。

まずは確認しておきます。

当ブログにコメントを寄せてくださる方々は、皆さん、今の世の中はおかしいと思っていらっしゃる。健全な社会ではないと思っておられる。そして、なんとか今の状態から脱する手立てを講じなければならないと考えている。そんな方々ばかりだと思います。ここには皆さん、異存はないでしょう。
そしてもうひとつ、その立て直し方の方向性も、だいたいにおいて一致するだろう。それぞれ考えることに細かな差異はあっても、大筋においては合意できる。具体的な言葉を出すと、新自由主義と言われている考え方とその考え方に沿ってなされる政府等への批判をその中心に据えている。そういう方々だと思います。もちろん、その中に私も入ります。

私たちは考えます。なぜ、こんな世の中になってしまったのか? と。今の日本の世の中がこんなに歪んでしまったのは、誰の所為か? 私たちはこんな風な世の中になることを望んでいたわけではない。誰かがオカシクしたに決まっている。その思索の結果槍玉に挙げるのが、新自由主義的思考の持ち主たちと、その思想をもって行動する権力者たち。そういう構図です。

でも、果たしてそれだけでしょうか? 私たちが指導者たちを批判しているのは、それが楽だからではないでしょうか? 指導者たちを批判していれば、私たちの責任は免罪される。心のどこかでそんなことを考え、私たちの責任から知らず知らずのうちに目を逸らしてしまっているのではないでしょうか?

新自由主義や、現在の教育行政は確かにおかしい。けれど、おかしいというなら跳ね除ければいいだけの話です。

こう書くと非難されそうです。こんなことを言うのが内田流に染まってしまった証だ、と。跳ね除けようと思ったからと言って跳ね除けられるものではない。跳ね除けられない現実があるのだ。跳ね除けてしまえ、なんて精神論ではどうしようもない! という非難でしょう。

ですが少し立ち止まって、冷静になって考えてみてください。跳ね除ければよいというのを、私はひとりひとりに向って言っているのではないのです。私たちみんなにむかって言っているつもりなんです。前エントリーでも内田さんが語っていることとしてそういうことを主張しました。社会の精神論・時代の精神論であると。

ここで内田流を持ち出すと、また反発を喰らいますかね(笑)。

なぜ、いつの間にやら新自由主義にしてやられたのか。教育行政をおかしくしたのは本当に指導者たちだけの責任なのか。
私たちは生活実感として、知っています。そうしたものを跳ね除けるのがいかに困難かということを。ひとりで対処しようとするなら世捨て人にでもなるしかない。けれどそうもいかないから、意見を政府に具申する。政府にやり方がオカシイと批判する。そして、そうした主張を通じて仲間を増やし、参政権の行使を通じて政府の姿勢を改めさせる。それが正しいやりかただし、そうする以外にない。

けれど、本当にそれだけでしょうか?

ここで象徴として労働組合を引き合いに出したいと思います。かつては労働組合という組織がこの社会で大きな力を持っていました。私あたりの世代では、働き出す頃には労働組合の力は弱まってしまっていましたし、私自身も労働組合にどこか偏向したような臭いを嗅ぎ取ってしまっていましたので、労働組合に関心はもちませんでした。そしてこれは、私一人だけの話でないはずです。
しかし幼い頃の記憶の中には、労働組合の力の大きさを示すものもあります。代表例がストライキです。もっとも、交通機関が止まって学校が休みになるので喜んでいただけですが(笑)。

しかし現在の労働組合のありようはどうでしょう? 力が衰えたことを批判しているのではありません。問題はそのありようです。
労働組合と言えばまず正社員たちのものです。パートや契約社員を安い給料で使い、自分たちは(比較的)高給を確保する。そのための組織に成り下がってしまっています。
パートは契約社員たちの組合結成の動きも少しずつ出るようになってきてはいるようですが、昔なら、組合結成の動きはそれこそ瞬く間に広がっていったはず。
それにそもそも昔の労働組合なら、同じ職場の中で働いているのにパートや従業員は組合に入れないなんて、そんな冷酷なことはしなかったはず。なのに、現在はそうなってしまっている。なぜでしょうか? 
労働組合を支配している論理は、もはや昔の労働組合の論理ではありません。会社の論理とまったく同一の論理で動いてしまっています。そして労働組合の論理がそうであるということは、労働組合の構成員ひとりひとりの論理もそうだということです。
もちろん、労働組合に所属しない人たちの論理も会社の論理です。だから労働組合に所属しない。する意味がない。
企業社会においては、意志の高い人間ほど最初から会社の論理を身にまとって会社に入ってきますが、そうでない人たちも昔は居場所があった。労働組合はそうした場所であったはずなのですが、いつの間にか労働組合も会社の論理に則って、そうでない人たちを排除する側にまわってしまっている。なぜ、こんなことになったのでしょう?

こんなことでは、会社の論理である新自由主義に太刀打ちできるわけがないですよね。もう、いいようにしてやられる。当然の成り行きです。
しかし、労働組合は私たちではないのですか? 労働組合と私たちとは別ですか? 私はそうは思わない。労働組合は私たちです

布引さんのコメントの中で、タイの少数民族の話が紹介されています。日本の技術援助のおかげで収入が2倍になったので、労働を半分にしてしまった人たちの話です。こういう人たちに新自由主義は通用しません。そんなことは理屈をこねなくてもわかる話です(もっとも現在のグローバリズムはこうした人たちを追い込む技法に長けていて、こうした人たちがそのままでいることが大変難しくなってしまっていますが)
タイ少数民族の人たちの精神は、ほんの少し前までは日本人の精神でもあったはずです。私の世代でも、いまだそうした精神の残滓は残っています。ですから勝ち組などと名乗って歪んだ社会を上滑りしていく人間たちに嫌悪の感を抱きます。

しかし問題は、そうした精神を知っているというのではない。実際に行使しているかどうかです。そしてその答えは私たち以降の世代、子どもたちの精神のあり方に出てきてしまっています。「学びの場に消費主体として登場する子どもたち」がその答えです。

教育問題の最大の問題は、上から施される教育行政なんかではありません。もし、それが最大の問題だと言うなら、かつての日本や現在の発展途上国において、なぜ、今の日本よりも高い教育成果が上がっているのか、その疑問に答えることが出来ません。今の日本は確かに教育環境が悪くなりつつありますが、それでも昔や貧しい国々に比べれば格段に恵まれています。にもかかわらず、回収される成果はそれよりも遥かに低い。ここにまず目を向けなければなりません。
教育は所詮は人間が行うものです。制度が行うのではありません。教育制度は教育を施す人間と子どもの教育機会を縛りますが、人間そのものは縛りません。人間そのものが縛られなければ、劣悪な教育環境のもとでも成果は上がる。公教育の場において今進行している事態は、教師たちの人間性そのものへの縛りを、行政と子どもと親とがスクラムを組んで進めているという事態です。行政への批判はもちろんですが、子どもと親の方にも目を向けなければ意味がない。むしろ現場の教師としてはそちらの方が大きなプレッシャーになっているはずです。


もう一度、繰り返します。

瀬戸さんが示してくださった専門家の見解は、正しいものだと思います。しかし問題は、そうした見解が誰に向けられて示されたものか、ということです。
いうまでもなく、それは政府でしょう。それはそれでいい。だがこれは労働組合の例で言うと、パートや派遣社員を労働組合に入れるために、国に向ってパート・派遣社員を禁止する法律をつくれ、と主張しているようなものです。
その主張は誤りではない。けれど、労働組合にはその前にできることがあるでしょう? なぜ、パート・派遣社員を組合に迎え入れられないのか? そんなことは国に要求しなくったって、自分たちが決めればできることです。それをしないでおいて、国にだけ要求する。そんなのどこかおかしくないですか? 権力者や富める者たちは、そうした我々の弱みを確実に握っている。だから私たちは、彼らの思想になす術もなくやられてしまっている。
私たちは今や、まず何より消費主体として行動するしかない。だから、会社から支給されるサラリーに大きく縛られる。家に帰れば妻と子どもがいて、それを養わなければならないし、家のローンもあるし、子どもの教育費もかかるし、たまには外食や旅行もしたい。趣味にだって少しはお金を使いたい。そう考えると最低でも今の給与水準は維持したい。けれど会社の業績もなかなか上向かないし、今、派遣の人たちを正社員と同じ待遇にしてしまうと、困るなぁ。 ...どうしてもこんなことを考えてしまう。
こうした怠惰な精神こそが内田流で言うところの「金の全能性」を承認してしまうことで、これを棚上げしていくら政府なんか要求しても、敵はとっくに私たちの足元を見透かしている。

(怠惰な精神と言ったところでどうしても考えが向いてしまうのが、辺野古のことである。あそこで戦っている人たちに、私は支援をしていない。無論、金での支援は出来る範囲でしている。けれど、それだけ。あそこでの政府の所業を黙認することは、いずれ私たちの生活そのものに重大な影を落とすであろうことを認識していても、怠惰な精神が邪魔をする。それを告白しなければならないと思う。もっとも告白したところで、何の免罪にもならないのだけれど。)

棚上げする私たちには、勝ち組を誇る人たちのように、忸怩たる思いがないわけではないでしょう。しかし残念ながら、その忸怩たる思いは子どもたちには伝わっていません。子どもたちは私たちの消費主体としての行動を見、そういう振舞い方が社会での正しい振舞い方だと学習して、学びの場に登場してしまっています...。


以上が、私が内田流を咀嚼した上で出てきた意見です。もはやこれらは内田流ではなく私の言葉ですが、こうした言葉になる栄養素が内田流にあったというだけで、私は内田流を評価します。
そしてそのうえで、最後に内田流を批判しておきます。

結局のところ、内田氏は自分を棚上げしています。だから、ああした誤解を招きやすいものの言い方になってしまう。はっきりと言い切れない。
もっとも内田氏自身はハッキリとわかっておられると思う。わかっているから言わない。それを卑怯な態度だと思いますがが、態度を批判する資格は私にはありません。

コメント

ほぼ、同感

何というか、今までの愚樵さんの文章の中で一番わかりやすいものでした。同感です。
私の二男は森林学専攻です。東京のサラリーマン家庭で育ったのですが、森や木に囲まれた生活をすることが希望です。
歩いて10分ほどの駅前にはゲームセンターも塾もあります。塾は大手含めて10以上あります。こんな環境で3人の子を塾に行かせずに育てるのは結構大変でした(現在進行中)。学校の先生について特に不満は持っておりませんでした。せいぜい、「変な先生もいるものだなあ」程度。教育制度に疑問を持ち始めたのは、下の子が5年生になり、算数の教科書に電卓マークが付いているのを見たときからです。それまでも、年度初めに一括購入した国語ノートを1ページも使わずに終わらせた先生や宿題は百ます計算だけを何ヶ月も続けた先生など、?あくまでも先生個人に??ということはありました。

環境問題を叫ぶ一方でマイカー通勤をしたり、教師批判をし、受験制度を批判しながら塾に行かせたり、森林伐採に反対しつつ安い外材を使った製品を買う。
戦うべきは己の心であるのは確かです。
しかし、それだけではない。

JRが民営化されたことにより廃線に追い込まれ過疎が進んだ地域。採算が合わないと廃止されたバス路線。
会津の高校生の事件で、彼は高校の近くのアパート暮らしをする前に、実家からどのようにして学校に通っていたのか想像が付きますか。奥只見から会津若松に向かう列車は朝5時半発7時半着。次の列車では9時過ぎ会津若松着なのです。実家近くの高校に行っていれば、あんな事件は起きなかったでしょうに。こんなに過疎が進めば、食べていくのに困らないように学問をつけさせたいと思うのが親でしょう?どこにある学校でもそこそこの学力をつけることができれば、誰も列車で2時間もかかる学校になど通わせません。

自分さえよければいい、こんな単純な理由ではないのです。厳然たる現実、教育制度(受験制度も含めて)が立ちはだかっているのです。切羽詰ったぎりぎりの選択なのです。

戦うべきは己の心。でもそれだけでは解決できない問題があるのです。

それだけではない

あくつさん、ありがとうございます。

そう、それだけではないのです。己と戦うのだ、というのはそうでも、それだけでは足らない。己と戦うだけでは、結局、ひとりひとりの戦いになってしまって大勢は変わりません。

自分さえよければいい、という単純な理由でないことはわかります。私だって住んでいるのは限界集落です。幸いインターネットが通じて皆さんとコミュニケーションが取れるようになりましたが、だからといって集落内の問題は何ひとつとして解決しない。ここにいてわかるのは、私たちは取り残されたのだ、ということです。

では、誰に取り残されたのか? 

私たち夫婦は、私たちが暮らす集落では一番若い人間です。周りはお年寄りばかり。ときおり近所のお年寄りの息子さんなんかが見えて、何かあったら両親を頼みますと頭を下げていきます。
もちろん、何かあったらできるだけのことはします。何より普段は私たちのほうが世話になっているのですから。そんなことは当然です。
しかし、息子さんたちにはどこか、捨てていったという思いがある。だから頭を下げに来る。私たちだって聞かずともそんな事情はわかりますし、困ったら助け合うのが当然だと思っていますから、気持ちよくお話ができます。ですが、現実としては、息子さんたちは何かを捨ててこの集落から出て行ったことには変わりないのです。

今、日本中がこんなことばかりです。みな、何かを大切なものを捨てなければ生きていけない。捨てたくて捨てるわけではないのに、そうするしかない。なぜ、そんなことになってしまったのか? 新自由主義、教育行政などはそうしたことの直接的な原因であるのかもしれませんが、もっと根源的な部分、そんなものに打ち負かされてしまう私たちの側の責任を見据えないと、いつまでたっても事態は好転しないのではないのでしょうか。

格差社会問題とは別のこと

バブルの頃,庶民さえ多くの人が熱病に罹ってしまいました.愚樵さんのご心配はそのような精神状態に対する警告です.しかし,一般に議論されている格差社会の問題はそういうことではありません.格差社会の現状は,多くの人がいやいやながら厳寒の荒野に放擲されている状況に譬えることができましょう.熱病ではありません.凍死するかどうかの問題です.多くの庶民が凍死するような社会(むしろ凍死者が必要な社会)を拒否したい,というだけにすぎません.熱病の問題は格差社会だけの問題ではありません.首尾よく格差社会が終焉したら改めて考えましょう.

コミュニケーションは鍵と鍵穴探し

ブログのように主として言葉だけに限定される媒体ではとても難しいのですが、コミュニケーションなんてのは例えれば鍵穴探しだと思うんですよね。どういった言葉(鍵)が相手の心の琴線(鍵穴)に合うか。それを求めての探りあい。
不愉快なのは、初めから自分の鍵穴は全て塞いでいるくせに、他人に合わない鍵穴を無理やり突っ込もうとする輩。捨てハンで失礼な言葉を投げつけてくるヤツラですね。

コミュニケーションといえば普通は反応がある相手とするものだと考えがちですが、そうとは限らない。反応のない相手、書物とか絵画とか音楽とか、それか自然とか、そういったものともコミュニケーションは取れる。結局は自分自身とのコミュニケーションするということなんでしょうが、そのときも大事なのは鍵穴を塞がないことです。

ところで先のpapillonさんのコメントに、私は鍵穴をふさがれたような気配を感じてしまったのですけれど(それに内田流にも鍵穴を塞いでいます)、まあ、それはそれとして、papillonさんの譬えに乗っかって、譬え話を私もひとつ。

酷寒の南極大陸に棲む皇帝ペンギンは、厳しい冬を乗り越えるのに独特の行動を取るといいます。分かりやすく言えばたくさん集まって“オシクラマンジュウ”をするわけですが、ルールがあって、特定の個体がいつも外側にいると凍えてしまうので、順番に“オシクラマンジュウ”の外から内、内から外へと巡回していくという。生存の本能、生命の知恵です。

今の私たちが荒野に放擲されている状況であるというだけでなく、みなで集まって凍えるのを防ぐ本能を忘れてしまった状態でしょう。真ん中のものだけ、ヌクヌク。周りのものは凍えてバタバタ倒れて行き、“オシクラマンジュウ”は小さくなっていく。少し内側にいる者も、その外側の者が斃れるとじかに歓喜に曝される。そしてついには“オシクラマンジュウ”そのものがなくなってしまう...。

愚樵さんの眼差し

読み終えた感想は、愚樵さんとの大きな違いでしょうか。?
例えば組合問題。
同じ事(ナショナルセンターに対する考え)を書くにしても私なら愚樵さんの10000倍ぐらい過激に連合幹部を非難していたでしょう。
今の社会の歪を推進し、責任が有るのは自公政権。
しかし間違いなく連合などの組合幹部が手を貸した。彼らの協力なしには此処まで酷くは為らなかった。多分彼らがいなければ日本社会は、もう少しマトモでもう少しましだった。
彼等は救わなかった(傍観した)のではなく、加害に積極的に協力した。
主犯ではないが間違いなく共犯者で、其れも事後共犯ではなく共同謀議に参加していた可能性すらある。
愚樵さんは其処まで酷いことは言わない。
愚樵さんと私との違いは、対象者に対する『優しさ』でしょう。
かつさんとの国家暴力装置論議でも全く同じ感想を持ちました。
すべての者に対して優しい。私は其れほど優しくなれない。
この違いはいったい何処から来るのでしょうか。?
愚樵さんやかつさんと、知識の量や幅だけなら多分其れほど大きな違いは無いでしょう。
『知』に違いが無いなら『情』か。?
社会が如何変わろうと愚樵さんは絶対に本物の悪党になれない、ワルに為れない人だと見抜きました。
どんなに本人が頑張っても精精小悪党止まり。(失礼)此の辺は私とどっこいどっこい。
違いが有るとしたらやっぱり経験の違いでしょうか。?
以前テレビドラマで和久井恵美主演の天使のように優しい障害者の話があったが、現実の社会はひどい話だが逆になる。
障害があれば虐められる、虐められると根性が捻くれる。事実は残酷です。
私とアルバイシンの丘さんと気が合うのは挫折体験(多分内容は大きく違う)を経験しているからでしょう。
経験の有る無しは、判断基準を大きく変える。

やっぱり、コミュニケーションは楽しい

布引さん、ありがとうございます。上のコメントの布引さんのお言葉、素直に褒め言葉と受け止めておきます。

世界にはさまざまな事象があり、それをどう受け止めるかは人さまざまで、その違いは経験から来るものなのか、あるいは先天的なものなのか、そこらは私にはさっぱりわかりません。
私の受け止め方は、『私の哲学』のところでも述べました通り、とにかく訳ありの人(笑)は半溺人に見えてしまうというものです。やはりこれは経験から来る「甘さ」なのかもしれません。

布引さんのご指摘の通り、事実は私などが想像している以上に残酷なものでしょう。私とて光市の某青年のような目に遭えば、どんなふうに変わってしまうか、想像もつきません。冷酷な人間に変わり果ててしまうかもしれない。それはそのときになってみなければわからない。
また、何らかの先天的機能障害で、どうしたって冷酷な人間にしかなれない人だっているかもしれない。いいや、おそらくいるんでしょう、そういう人も。悲しい、残念だって言ったって、存在する現実はどうしようもない。

けれど、一方で、布引さんの言葉で言うと「優しい」私も存在するわけです、間違いなく。少なくとも、今、この瞬間においては。
これは性分かもしれませんが、現実と私とどちらを重視するかと問われたとき、私はきっと「私」と答えるでしょう。またそのあたりが「精神論」を抵抗なく受け入れてしまう私の素地なのかもしれません。

なんにせよ、こうしたことはコミュニケーションの過程の中で見えてくることです。布引さん他の皆さんとのコミュニケーションも、内田氏や内山氏との応答のないコミュニケーションも、つまるところ「私」のため、です。

真に利己的なのは「優しい」私のほうかもしれませんね。

臨戦態勢

布引さん,なんと!私も優しいのですよ!(泣)でも表現が硬いですもんねぇ.無理もないかも(グスン!) ただ,私はユダヤ陰謀論ではないけど,相手側は我々に対して連帯や友情を求めてくるのではない,騙そうとしているのだ,と常に固く自分に言い聞かせているのです.権力側や官僚たちが何か言い出したときは,必ずその裏に何かがある,という信念です.これは悲しい性(さが)だけど,庶民は常に騙される側ですから仕方がありません.いくら騙したくても権力者が好き勝手にできないようにしたものが憲法なんですよね.庶民は常に,権力性悪説に立って臨戦態勢でいなければならない,それこそ義務がある,と言っていいと思います.将来の我が子たちの将来のために.
ところで愚樵さん,鍵穴を塞いですみません.いつもは慎重な表現をするのですが,断定調になってしまったのが悪かったのでしょうか.愚樵さんの“挑発”を感じたのかもしれません.言葉が共有できないとコミュニケートできません.
おしくらまんじゅうの話ですが,注目点が異なるのですね.そういう全体の協力・共同関係,シナジー作用が重要な点は重々わかります.でも私は単に,荒野にいる状況を解決すべきだ,と言ってるだけです.それは幻想ではないからです.それが『気の持ちよう』,『幻想』と宣伝されれば問題の存在をはぐらかすことになり,マイナス効果(利敵行為)となるのでしつこく言ってるだけなのです.もう,内田氏自体は私にはどうでもいいです.

鍵穴が鍵になった (^-~)v

アルバイシンの丘の上で佇むpapillonさん、どうも。
「鍵穴」という言葉で表した鍵が、papillonさんの鍵穴にうまく合ったみたいで、うれしいです。

私が今このコメントを書いている時点で、papillonさんもかつさんのエントリーをご覧になったようです。
>もう,内田氏自体は私にはどうでもいいです
というわけでもなかったみたいですね(笑)

ところで、今度は私の方がかつさんのところで内田批判のコメントを残してきてしまいました。また最初の立場に舞い戻ってしまったわけです(笑)。
次のエントリーで内田氏を my favorite と書きましたが、favorite ならすべてOKかというと、もちろんそんなことはありません。「贔屓の引き倒し」をしてはつまらんです。
また逆に「坊主憎けりゃ袈裟まで」もつまらんでしょう。内田氏がどんな立場で発言しようと、そんな立場は無視しましょうよ。内田氏という人格がどういう人であれ、それは私たちには関係のない話。問題は、その議論の中に何を見出せるか。これは私たちの側の問題です。

フリーズと信念

愚樵さん,内田氏自体は私にとってはどうでもいいのですよ.もともとそのために割ける時間はないので,愚樵さんやかつさんを通して知れば十分だと思っているのです.
ところで,そこで私はフリーズ性とはどういうものかを実感してしまいました.(お前が言うなよ,と言わないでくださいね).近々,フリーズと信念について考察したいと思っています.

Re:フリーズと信念

>お前が言うなよ,と言わないでくださいね

とんでもない。そんなことは言いません。そんなことを言ったら、言った瞬間に行った人間がフリーズです(笑)。

そのテーマ、面白そうですね。楽しみにしています。

つながること

愚樵さん、みなさん、こんにちは。
エントリーで紹介していただきながら、週末はアレコレ忙しくしていてコメントを差し上げることができませんでした。
しかし、刺さった骨のようにずっと、ずっと気にしていたのですが、アレアレと思う間もなく話が進み、どこから始めていいのか、あるいは上手くかけるか自信ありませんが、ちょっと書かせてください。

もちろん、内田樹の功罪について。

個人的には内田さんにはなんの感情も持っていません。
憲法の問題とか愛国心とか幸福感とかとか「いいこと」唸ること、琴線にふれることを書いていらっしゃいます。
しかし、フェミニズムや経済に関しては「おいおい」と眉を顰めています。
何回もなんかいも書いているように内田さんは文学者なので、その書き方、センスが文学者のそれなのです。
表面をなぞれば「なんだそれ」なのです。
ここで二手に分かれます。
内田信者は「内田さんがそんなこというはずない、もっと深くよめ」と。
そうでない人は「なんだよ、こいつ。すかしてんじゃないよ。」とかとか。
私は経済、フェミニズムに関しては後者です。
深く読む必要があるのかもしれません。
だがしかし、
私は文学以外は言葉遊びはしてはならないと思うのです。
仮にも文学を標榜していいるものが、専門以外のことで書くとしたら表面の言葉に責任を取って欲しいのです。
本音は?とか真意は?とかとか、読者が著者の意図を考えなければならない文は駄文です。
と、いうことで、私は内田さんの経済、フェミニズムに関しては「重き」をおいていません。

なお、愚樵さんご指摘の「専門家」が言うように新自由主義だけを犯人にしていいのか、、、とことについて。
「いいんです。」
が私の答えです。
私のエントリーは「格差社会」というタイトルのものでした。
仕掛人はアメリカをはじめとする新自由主義者であることは皆さんも異論がないと思います。
犯人がわかっている。
しかし、諸々のところで広く、深く病巣は根をはっています。
私自身は経済や社会の問題は行政にあると思っています。
だからこそ庶民である私たちは行政に働きかける必要をかんじているわけです。
個々の問題は多種で多様ですが、
本質は何かと見極める必要を感じたとき、
今、なにをすべきか、、、は自ずとわかります。
大企業やアメリカだけがぬくぬくと大きくなる政治はやはり間違っています。
そこをしっかりと伝えることが大事ではないでしょうか???
(これは経済に関しての言及です。宗教や芸術はまた違うものですから、、、、、)
うまくまとまりませんが、
いずれにしても、愚樵さんのいわれている「つながること」の大切さに収斂していくのでは、と考えます。
では、、、またね。

どこまで繋がっていくか

せとさん、ご意見ありがとうございます。仰りたいことはだいたい承ったつもりですが、ひとつだけ。

「どこまで繋がっていくか」、このことが、内田流の議論をどう捕らえるかというに繋がっていくと思います。

>これは経済に関しての言及です。宗教や芸術はまた違うものですから

と瀬戸さんは仰いましたが、いや、そうではないんだ、宗教も芸術もみな経済と繋がっていくんだというところが内田流の議論の根本にあるわけです。ですから内田氏は、文学者であるにもかかわらず経済のことにも言及していく。経済の専門家では経済を宗教や芸術につなげていくことは出来ないからです。

このことは経済学という学問の成り立ちを俯瞰してみるとよく理解できます。経済学は人間の精神の曖昧な部分を切り捨てることによって成立した。計算できるもののみを扱うことによって学問として成立しているのが経済学です。内田さんが問いかけているのは、そうではないだろう、人間は計算できるものだけで動いているのではないだろうという、ごくごく単純なことなのです。

そんな単純なことがこうも誤解を招くのは、瀬戸さんの指摘の通り、内田氏の「ことば遊び」による部分も大きい。これは認めます。ただ同時に言いたいのは、それはブログという発信形式によるもので、書籍という形で発信されたものは、そうした「ことば遊び」を避けて、極力誤解を招かないように、“学問的”な表現をなさっています。瀬戸さんも是非一度、内田さんの著作に自らあたって見られることをお勧めします。

議論の階層

愚樵さん,すみません.
『どこまで繋がっていくか』
私はちょっと違うように感じます.議論する問題の階層が異なるのです.どちらが上下かわかりませんが,たとえば庶民の心性の根っこの問題を議論することと格差社会の是正について議論することは自ずから議論の質,範囲が異なるはずです.ビル設計で言えば前者は1階の議論,後者は2階の議論です.もちろん,1階の設計は2階に影響を与えることは事実ですが,2階には2階の問題があって,それをやる時に1階のことを持ち出せば収束していきません.
(という喩えが適切かどうかはべつにして)
このようなことをごっちゃに議論したら,問題の本質を捉えることは非常に困難になります.
地図の喩えで言えば,十万分の一の地図を見るときと一万分の一の地図を見るときは,その目的が異なるはずです.
『どこまで繋がっていくか』ということを考えることも必要でしょうが,それはそれで別にやってください,ということだと思います.(格差は気の持ちよう,などとごっちゃにするようなことを言わないで議論してください,という意味)

愚樵さんのコメントから考えたこと

愚樵さん。papillon9999 さん。
こんにちは。

愚樵さんから「どこまで繋がっていくか」というコメントを頂いて私が思いついたのは「土台と上部構造」という言葉です。
これに関してはかつさんの方がお詳しいのではと思いますが、、、
愚樵さんがご指摘されているような「経済学は人間の精神の曖昧な部分を切り捨てることによって成立した。計算できるもののみを扱うことによって学問として成立している」学問というように私は経済学を捉えてはいません。
むしろ愚樵さんが書かれているように、
内田さんが考える経済学=人間は計算できるものだけで動いているのではないだろうという、ごくごく単純なこと
と考えています。
また、こうした学際的な考えはひとり内田さんのものではありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6
さて、
私が先のコメントで言いたかったことは、土台である経済を考えるにあたり、
上部構造である宗教や道徳や芸術や、とにかく諸々のことを考えると、
問題の本質が見えにくくなり、本来の「敵」は何かがわからなくなる、、、と言いたかったのです。
そして内田さんは残念ながらそうした見えにくくさせる一役をかっているのでは(当該の格差社会エントリーのこと)と思うわけです。
生産手段を保有しているのは誰か?
資本家と労働者の階級は未だ変わっていません。
その構図を見ずして、格差社会を語ることは出来ないのでは、、、と考えます。
なお、内田さんの本については「下流、、、」は読んでいません。
「おじさん的思考」「街場のアメリカ論」は読んでいます。
別の著者ですが、「下流社会」、「希望格差」は読んでいます。また「他人を見下げる若者」も読みました、、、
なおなお、独り言ですが、
ブログの文は誤解が多くてうっている本はちゃんと書くってのもなんだかなぁ~~~(ひとりごとです)

と、言うことで、
papillon9999 さんのご意見に近い私です。

なお以前、内田さんについて数学屋さんとあれこれのやり取りをしたことがあります。
お時間がございましたらちょいと覗いてください。
http://ts.way-nifty.com/makura/2006/12/post_ed23.html
http://ts.way-nifty.com/makura/2006/12/post_2680.html

ははぁ、問題の根っこが見えてきましたねぇ

papillonさん、瀬戸さん ありがとうございます。

お二人へのお返事は、また新たなエントリーをもってすることにします。もう少し時間を下さい。

問題の本質、私の立つ立ち位置と、お二人および布引さんの立つ立ち位置の違いが明らかになってきたようです。もっとも布引さんは最初から、頑強に(笑)その立場で来られました。だもんで私も頑強に私の立場で返したのですが(かつさんはどちらか、私にはまだ判別がつきません。内田論を挟んで言うとこちら側ですが)。

そういうわけで、ステージをレベルアップして(???)、議論を続けたいと思います。よろしければお付き合いください(とって、レベルアップした議論を明確に裁けるだけの力量はないんですが...(苦笑))。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/43-b92e6739

山口での事件について

 山口で起きた少年による祖父殺害事件に対して、たぶん加藤千洋だと思うが(最近あまり記憶がもたないもので)、こういう事件に対しては、少年法の改正による厳罰化はほとんど意味を持たないというようなことをコメントしていた。 まったくそのとおりで、この種の事件は..

内田樹氏の貧困とは…。

格差社会に関する内田樹氏の考えに疑問をもってエントリーをあげた。氏の考えは自己責任論と通底している。これがいわば私の結論だった。新しい氏のエントリーを拝読して、氏がその立場に身を置いていることをあらためて感じた(ジニ係数って何?)。というより、いっそう(

橋下徹さんにポピュリズムの危うさを感じる

1 橋下徹さんは,昨日から今日にかけて,ご自身のブログ(→http://hashimotol.exblog.jp/)で大いに気炎を吐いていた。 彼は,なかなか文章も上手で,その内容も面白く,何よりも威勢...

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード