愚慫空論

内田流「格差社会」論の見方について

いまさらながらの内田流「格差社会」論。これもいまさらながらだが、鋭い社会への洞察と見る向きと、社会の実態が見えていない精神論と見る向きとの大別されているように思う。賛否両論というわけだ。
で、私はというと、今は前者である。今はということは最初は違ったということだが、そのことを示す証拠がかつさんのところに残ってしまっている

後者から前者へ転向した今でも、内田流「格差社会」論が精神論であるという見方には変わりはない。見方が変わったのは、内田さんが語っているのが個人の精神ではなく社会の精神・時代の精神である、という点だ。そして気が付いたのが、内田流「格差社会論」に批判的な方々の視点が、転向前の私と同じく、内田流を個人精神論だと見るところにあるということである。

このことは議論の焦点を置き換えてみるとわかりやすいと思う。

例えばここに残虐な犯罪を犯した者がいるとする。そのときに直ちに非難の対象とされるのが、その犯罪者個人の精神性だ。“鬼畜のごとき”などと形容され、犯罪者個人の精神性が批判に晒される。
が同時に、その犯罪を犯罪者個人の精神性に帰するのではなくて、犯罪者が育ってきた家庭環境などに求める議論も出てくるようになる。惨めな境遇で育てられてきたがために人格形成が未発達で、犯罪は断じなければならないにせよ、犯罪者個人には情状酌量の余地はある、という議論。
内田流はいうなれば後者なのである。内田流で俎上に上げられているのは、罪を犯すように誘導した環境の方。つまり社会の精神・時代の精神である。罪を犯してしまった個人の精神性を断罪しているわけではない。

内田流への批判は、内田流を個人批判と見てしまったところから生じる。こう見てしまえばそれは致し方のない流れである。というのも、罪に相当するものが格差社会の場合、経済的弱者になってしまうからである。
犯罪の場合、それを罪と断ずることは容易だ。たとえ生育環境の責任が大であっても、罪は罪。しかし経済的弱者、貧乏人であることを罪と断ずるのは難しい。昨今はその難しいことを簡単にやってのける手合いが増えてしまったが、内田流もそうした手合いの一人と看做されてしまったわけだ。


思索をさらに進めるために貧乏を犯罪状態だと仮定してみよう。だが、これ罪には問えない犯罪である。罪には問えない犯罪を解決するには、どうすればよいか? 方法は二つ。

ひとつは、犯罪状態を解消すること。つまり金を与えること。ここで誤解してはならないのは「金を与える」というのは無条件で金を恵みなさいといっているのではなく、正当な仕事に正当な賃金という意味でも全く同じことだということだ。もっというと、格差社会の元凶とされている正社員とそれ以外の者たちとの賃金格差をなくせ、ということである。

そしてもうひとつは、貧乏を犯罪状態だとする仮定そのものを否定することで、これこそが内田流なのである。そのための方法論として内田流が提示するのが
人々が人間の価値について、それぞれ自分なりの度量衡をもち、それにもとづいて他者を評価し、自己を律する
なのである。

競争が激化すれば、「金を稼ぐ能力」の低い人間は、その能力の欠如「だけ」が理由で、社会的下位に叩き落とされ、そこに釘付けにされる。
その状態がたいへん不幸であることは事実であるが、そこで「もっと金を」というソリューションを言い立てることは、「金の全能性」をさらにかさ上げし、結果的にはさらに競争を激化し、「金を稼ぐ能力」のわずかな入力差が社会的階層の乗り越えがたいギャップとして顕在化する・・・という悪循環には落ちこまないのだろうか。
私は刻下の「格差社会」なるものの不幸のかなりは「金の全能性」に対する人々の過大な信憑がもたらしていると思う。
だから、あらゆる不幸は「金の全能性」によって解決できるという信憑を強化することは、文字通り「火に油を注ぐ」ことにひとしく、ますます格差を拡大し、固定化する結果にしかならないだろうと思っている

内田流を仮定の否定だと解釈すれば、上の引用の中で、仮定に相当するのが「金の全能性」であるということは容易にわかる。そして「金の全能性」こそが内田流が批判を向けている焦点でもある。であるがゆえに、貧乏は罪であるという仮定を否定しない格差社会の解消方法は、むしろ貧乏は罪という仮定を強化する方に作用すると内田流は主張することになる。

人はみな平等。これを私は素晴らしい理念だと思うが、残念なことに現実はなかなかそうはいかない。生まれながらにして人は格差の中に生きる。こちらが現実である。そして、その現実はますます強化される方向に進みつつある。それが格差社会への批判である。

生まれながらの格差を完全消滅させるのは不可能であるにしても、それを緩和させる措置を取ることは可能だろう。内田流で提示された方法論は、そのための方法論のひとつである。
仮定を否定しない格差社会解消法は、人間がもつ生まれながらの格差を完全解消できない以上、原理的なところでジレンマを抱えざるをえない。これもまた内田流の指摘ではあるまいか。

コメント

格差の意味

内田氏の論を読んで頭の血管が切れそうなほど激怒した理由を考えてみた。

昔日本のNJO団体がタイ東北部の少数民族の、ある貧しい農村に農業技術指導した話。
日本式集約農業で収穫量は倍増した。村民たちは大喜び、技術援助した日本人は意気揚々と日本に引き上げた。
数年後に同じ農村にその後の経過を調べる為に村を訪ねていった。何と蛻の殻、畑は荒れ放題、村人は一人もいない。
調べると村人は近くの町で遊び惚けていた。日本人農業技術者は村民をしかりつける『何故真面目にに働かないのか?働けば働くほど生活は楽になるではないか?』

村人『貴方のお陰で今では二倍の米が取れる。一年働けば二年分の収入があるようになった。』
『去年働いたから、今年はこうして遊んで暮らせるんです』

この少数民族の貧しい農民と日本人農業技術者は年間収入金額だけなら間違いなく日本人が上。
しかし精神的豊かさは如何であろうか。?世界中を駆け巡り人道支援する農業技術者は、やりがいのある仕事だけに精神的充実感も十分にあるだろう。
しかし金銭的に村民が貧しいのは間違いないが、自然の中に抱かれて生きる精神は、ある意味毎日の生活に疲れきっている日本人一般より豊かに見える。

私にとっては、氏の論は誰でも知っている判りきった事柄で、今更この時期に論じる必要性があるだろうか。?の疑問だった。

今問題になっている格差は、いわゆる貧富の格差(内田氏の論じる格差)ではない。
真面目に働いても生活が出来ない格差。
酷い場合は、働けなくなれば生きていけない格差。
生存そのものを脅かされる格差なのです。『握り飯が食べたい』と言いながら餓死する格差。
日本人技術者と少数民族の農民との金銭的格差は、豊かさの物差しの違いに変換できても、今日本で進行しつつある格差は、全くの別物です。
社会と人間の尊厳を、根底から破壊しかねない致命的格差なのです。

前近代的労働の精神

タイ少数民族の話は、資本主義的労働者になる以前の、前近代的労働の精神ですよね。金は生きていくための手段に過ぎない。その精神はハッキリとそういっているように思います。豊かな精神といっていい。
そうした精神は、ほんの少し前まで日本にもあったはずのものです。内田流が提示する方法論とは、その豊かな精神に回帰せよということでしょうが、その豊かな精神を知っている者にとっては
>誰でも知っている判りきった事柄で、今更この時期に論じる必要性があるだろうか?
というのも頷けなくはないのです。

しかし、そうであるなら次のような疑問も当然湧いてきます。誰もが知っているなら、なぜ日本人もタイ少数民族たちのように心豊かに生きられないのか? なぜ、社会を根底から破壊しかねない致命的格差が生じてしまったのか? 
アメリカにそのように誘導されたから? まさか、そんなはずはありますまい。

内田さんが言っているのは、私たちの精神のあり方が現実の世の中仕組みに反映されてしまっているということでしょう。
布引さんがしめしたタイ少数民族の例もそうです。収入が倍になったから半分しか働かなくなった。彼らの精神のありようが実際の経済活動に反映された、非常にわかりやすい例です。日本でもそれと同じことが起こっているに過ぎません。
それはかつて日本人も知っていた精神のあり方を忘れてしまって、金に心を奪われてしまった。金が基準になったからほんの少しの能力差がとてつもない差になって表れてしまう。
いや、多くの人はそんなことを承認していない、というかもしれません。しかしこれはおかしい。大多数の人間が承認していないならこんな事態になるはずがない。実は大多数の人間がそれを承認してしまっているんです。喜んでしているかどうかは別。いやいやながらでも承認してしまっている。この私たちのいやいやながらの承認が、もっとも弱い者の生存の権利を奪っている。

内田氏はその言葉をおそらく隠しています。すなわち、貧しい人たちを殺したのは富める者たちだけではない。私たちもそれに加担している。布引さんもそれはわかっていらっしゃるはず。

ああ、ここまで書いてきて布引さんが激怒している訳がわかるような気がしてきました。内田さんはその私たちに内田さん本人をカウントしていない。それは確かにそうだ。『「格差社会」ってなんだろう』という記事は、確かにご自分を蚊帳の外に置いておられる。なるほど、ね。

けれど、皆さんが怒っておられる理由は本当にそれでしょうか? ならば、その怒りの矛先は自分にも向かなければならないはずです。いくら富める者たちに抗議の声を挙げているからといって、それで自らの罪が免罪されるわけでありますまい。

生まれながらの格差でなく

お金に対する格差ではない、社会システムとしての格差があります。
今、公教育のおかれている現実を大人のどれだけの人々が知っているのでしょうか。
私の3人の子は、それぞれ異なった学習指導要領で教育を受けてきました。改訂に次ぐ改訂。そして今、高等教育に進める学力を付けさせないためとしかいえないような教育が、公立小学校、中学校でなされています。
教科書に電卓マークが付き、3桁の掛け算、割り算もさせず、(消費税すら計算できません)作文も書かせず、古典芸能の鑑賞や琴を弾かせることに時間が割かれているのをご存知でしょうか。
受験をパスして進学校や国立大学に進めるのは教育費をかけて塾に行かせるなりのお金をかけてもらった子ばかりです。
経済格差が次の世代の格差を生む。個人の価値観や社会の価値観による格差ではなく、社会制度としての不平等、格差が現実にあるのです。「にごりえ」や「路傍の石」の社会が今、進行しています。
「頑張れば君にもできる」と思えない子供の増加がいじめや自殺に繋がっている。私にはそう思えます。
次の文章はある高校3年生が書いたものです。
「中学になった時、週5日制が始まった。授業の進むのが速くなって勉強がわからなくなった。塾に行くようになった。みんなそうだったと思う。学校の勉強は受験に役に立たなかった。学校なんて必要ないと思った。・・・このままではいじめや自殺がもっと増えると思う。」
子供でさえ、この教育システムの異常さに気づいています。農業も林業も漁業も「書」が不要ではありません。将来どのような職業に就こうとも、せめて義務教育は平等に与える、これが国家として最低の義務のはずです。

格差はお金のことだけではない

愚樵さん、それから布引さん、あくつさん。
こんにちは。
当該エントリーと皆さんのコメントを拝見しながら、考えました。
愚樵さん。
内田さんは格差は「金くれ」シンドロームだと定義され、
いや、そうじゃなくもう一度考え直そうよ、、、と、問題提起されていると書かれていますが、
私は内田さんの不見識(経済についてですよ)を思うばかりです。
格差については、すでに専門家は格差については、
1、雇用格差
2、賃金・所得格差
3、消費格差
4、能力格差(広義)
5、人格的自由の格差
と分類。その原因や結果が二重・三重に重なり、本質を見えにくくしています。
原因の主なるものは新自由主義がもたらす弊害であることは論をまちません。
私たちは格差についてその是正を求めるとき、何をなすべきか?
答えはやはり政治の貧困に訴えていくことです。

そして私が内田さんの格差社会を読みながら危惧したことは、内田さんの意図がどの様なものであれ結果として
階級社会の容認になることは格差社会の仕掛人への利敵言論(こんな言葉ある???)になるのでは、、、ということです。
内田さんは何度も言っているように経済学者ではなく文学者だから「言葉あそび」にはしるところがあります。
愚樵さんの最後のまとめ、、、
生まれながらの格差。
内田さんとは別の角度でまた考えてみます。
ではまた。

これってワタシじゃん。

えっと、それこそ、いまさらながらの内田流「格差社会」論ってのを読んでみたのですが、これもう一人のワタシのいつも書いてることじゃん。「金じゃないんだよっ!! 生きるってことはさ!!」ってさ。言ってることがあまりに一緒で笑っちまった。自分がどん底におちたら「どうなるかわからない」って開き直りまで一緒だ。大笑い。へぇ内田って人は嫌われてたんだ。こういうこと書くと嫌われるんだ。
ホームレスのなかにも「金」じゃなく、豊かだと感じさせる人も少数だがいるんだけどなぁ。そんなホームレスといるとやっぱ、「金」や「家」や「物」じゃないよな、って感じるときがあるわけで、あの感覚なんだよ、あの感覚。ふぅーと沁み入るだよなぁ。
かといって、もちろんのこと格差社会のどん底で生きるか死ぬかで苦しんでいる人に「生きるとは金じゃありません」何て言えないしなぁ。やっぱりそういう状態まで追い込まれることはおかしい!! と訴えたいしね。
矛盾かな。矛盾だよな。ダブルスタンダードだ。どうしよう。笑うしかないな。
結局に内田氏なり、もう一人の私なり、生きる事の本質を追求するのは自分に語りかけることかもしれないな。偉そうに他人に言うと妙な具合になるってことだね。

ただ、あくつさんが言う様に、子どもに対しては駄目だ。
教育の機会はすべての子どもにあるべきだ、と思う。
と、書きながら勉強したい子はどんなことをしても勉強するんじゃない、ってこともいいたいのだけど……、あ、これまたいつか書いてみよ(爆)
乱筆すみません。

dr.stonefly さん、まったく違うと思います。

言葉は言う人によって、意味も違えば捉え方も違う・

『男は顔じゃない』は私の口癖ですが、
キムタクに『男は顔じゃないよ』と言われたら向かっ腹が立ちます。
オリックスの宮内義彦に『金がすべてじゃないよ』『心の問題だよ』と言われたら、腹の中が煮えくりたつ。

みなさん、はい、声をそろえて。
『選りによって、お前が言うな。』!!!

あはは、そのと~り(笑)

布引さん、そのと~り(ゲラゲラ)。

キムタクに「男は顔じゃない」なんていわれると、腹が立つやら惨めになるやら。

でもね、布引さん、
>言葉は言う人によって、意味も違えば捉え方も違う
では足らないと思います。言葉は同じ人が発しても、時と場合によっては意味が違う。そういうこともある。

キムタクだってモコミチだって、女に振られることもあるかもしれない。女に「男は顔じゃない!」なんて言われてね。そのショックでキムタクがショボくれて、「男は顔じゃないんだよなぁ~」なんて呟いていたら、私ゃ共感しますよぉ(心のなかでざまあみろ、なんて思いつつ)。

ま、それはさておき、「男子三日会わざれば刮目して見よ」とも言いますしね。難しいけど、先入観から脱することが大切です。

戯言で失礼!

愚樵さん、記事と無関係なのですがコメント欄お借りします。

dr.stoneflyさん、「勉強したい子はする」以前の問題ですよ。小学校で学習内容を減らされて中学校で勉強がわからない子が増えています。成績が二極化しているのです。また、小学校高学年では私立や公立中高一貫校に進学する子とそうでない子の間に微妙な感情が生まれていることはご存知ですか。特に東京では半数近くが公立に進まないという状況にある地域もあります。佐世保の事件を覚えていますか。今、再び授業時間を増やそうという動きがあるのはあの事件も関係しているのです。「女王の教室」というドラマがありましたね。教師、阿久津真矢の指導に世間はびっくりしましたが、公立進学組と私立進学組の間にあるわだかまりは現実のものです。
塾ですでに学んでいる子が授業中「知ってるコール」で騒ぐ。習っていないからできなくて当たり前のフツーの子は劣等感を持つ。しかも、おバカ教師は、「塾で習っているからできる子」を基準に考える。あるいは、簡単な繰り返しドリルをやらせて、ハイ、終わり。中学に行って困るからしっかり教えましょうなどという気はさらさらないのです。

なぜ、公立学校でまともに勉強を教えないのか。本当に不思議です。
今日の朝日新聞朝刊に、小学校の英語必修化いよいよという記事がありました。二年前、百ます計算で有名なK氏が中国に視察に行って「あちらの国では英語教育に力を入れている。日本も見習うべき」と言っていました。文科省の要請で行ったそうですが、事前に「児童英語協会」が、中山文科相に小学校での英語教育導入を求める文書を送っています。ECCなどでは、児童英語指導者講座を開講して、小学校に参入を狙っています。多くの識者が「週一では役に立たない」と言っているにもかかわらず、いよいよ、本決まりになりそうです。
東京都知事はこれからは高齢化で介護要員が必要だから・・・という理由からなのか今年度から、都立高校でボランティアを必修化しました。一方、都立進学校では「自校作成問題」による入試が行われ、学習指導要領をはるかに超えた難問が出されています。公立中学校で習う範囲では太刀打ちできません。
ここまでくると可哀想なのは、フツーの子供なのです。

野依教授が「塾をなくせばいい」という発言をして、散々たたかれました。受験産業に携わる人々には死活問題ですからね。でも、本当に教授の言うとおりです。公立学校で学ぶ範囲を超えた内容の受験を容認する限り、塾は必要なのです。逆に言えば、難しい問題を出してくれる学校がある限り、教育産業は安泰です。
可哀想なのはフツーの子。小学校でまともに勉強させてくれないのですから、中学ではすでに手遅れ。夢や希望はエリートの特権です。だから、小中高生向け「科学者養成」のために高度な学習環境を提供できる大学を公募し、2億円の予算を要求してますね、文科省。きっと、あの御用学者さんの○○館大学付属小学校あたりが指定されるのでしょうね。

今日の夕刊にはこんなことが書いてありますよ。もう、我が目を疑いましたね。
(中学校の教育課程の枠組み)素案では・・・②社会科は近現代史を中心とした歴史や法に関する学習や宗教指導の充実のため、3年を中心に増やす。
何かの間違いですよね、宗教指導って!?

終わってますね、この国。

記事をアップしました

格差論?について考察をまとめました.コメント欄では長くなると思いまして.私のは単純なんですけど.
それと,上のあくつさんのコメント.
内田氏は全員平等に教育を受けることに批判的なのではないですか?

「先入観から脱することが大切です」に賛成

日比谷高校(ただし中退)→東大卒のうえに、神戸のお嬢さま大学で、長年良家の子女らを相手に現代フランス文学・思想とやらを教えているというと、それだけで篠沢キョージュや蓮実重彦のような人たちと同類と思われてしまうのですかね。それはかなり残念な「偏見」のように思います。
表面的な言葉よりも、その人の「語り」というか「声」のようなもので、その人が信頼できる人かどうかを判断するというのが、わたしの流儀なのですが。

ああ、そういうことか

皆様おはようございます。
ワタシは特にキムタクの顔に魅力は感じませんが……、ということは置いておいて、再度、読み直してみました。
もしや内田氏は「金じゃないんだよっ!! 生きるってことはさ!!」ってことで格差社会の解決をはかろうとしていたんですか? アホとちゃうの!!(このさい、読解力のない自分にもアホとちゃうの、といっておきます)。
最近、拙ブログでリサランドーサという美人ちゃんを枕に「心」と「体」は別物というエントリーをあげましたが、内田氏がいうのは「心」のほうのこと。「体」の方は現状この社会では金なしでは生きていけない。という当たり前のことですね。

>氏の論は誰でも知っている判りきった事柄で、今更この時期に論じる必要性があるだろうか
布引さん、あらためて気づかせて頂き感謝です。

あくつさん、詳細ご教授ありがとうございます。
小2の息子を持つ親としては、驚きと怯えと不安と新たなる闘いへの決意をもって拝読させていただきました。

『万国のルンペンプロレタリア、団結せよ』

内田格差論の問題点は、其の発表された時期に尽きる。
20年前なら私も賛成した。
10年前なら此れほど腹も立たなかった。
ギリギリ5年前なら辛抱もした。
今は許せん。!
内田某の格差に呻吟する人々に対する侮辱、嘲笑を許すべきでない。

バブルに人々が浮かれ騒ぐ時期なら、熱狂に水をかける意味で大いに賛成できた。
03年の派遣労働の製造業全面解禁以前なら少しは理解できた。
しかし今苦しむ人々を無視して、平気な涼しい顔で主張する態度が許せん。!

やっかみに聞こえるかもしれないが、内田氏の置かれている条件も許せん。同じ内容の言葉でも、喋る対象や相手で意味が全く違う。
同じ教育関係者でも、内田氏が大学教授ではなく、大学の非常勤講師なら此れほど腹も立た無かったろう。

今の格差問題の深刻化は労働者階級の格差問題にとどまらず、今やプロレタリア階級の下層がルンペンプロレタリアに限りなく近づいている、転落していることです。
健全な資本主義社会が崩壊しようとしています。
右翼左翼の違い、保守革新の違いを超えて、反対する為の連携、連帯が必要でしょう

最後に永山則夫の言葉を紹介しておきます。

それはあんまり

>今は許せん!

気持ちはわからなくはないですが、それはあんまりです。

いくらなんでも20年前にそんなこと、誰もわかってはいなかったはず。内田氏がたまたま大学教授だからといってその発言を嫌うなら、単なるルサンチマンです。

20年前の中曽根時代

愚樵さん、前川レポートを読んでください。
規制緩和、内需拡大とグローバルスタンダードの方向性が書き込まれています。
20年前から、今の問題点(新自由主義)の問題点は予想されたものです。
構造改革も行政改革も中身は同じ。中曽根改革と小泉改革は同じモノの二つの名前に過ぎません。
>20年前にそんなこと、誰もわかってはいなかったはず・・・ではありません。
十分に判っていた。
少なくとも推進していた中曽根康弘は理解していたし私たちも十分に判っていた。
知らなかったでは済ませられません。

将来のことは、やって見ないと判らない。何てことはありません。
原因があり結果が生じる。賽の目は判らなくとも社会的現象や経済は原因があり結果が生じる。判らないのではなく判ろうとしないのです。
諫早湾の汚染は環境庁のアセスメントでは判らなかったが正確に予想していた人々は多くいた。
バブル崩壊も少数の経済学者は予想していた。
62年前の無敗の大日本帝国崩壊も日本人の中では少数だが予想していた。
将来起こることを正確に予想してこそ社会科学の値打ちがある。
予想できない社会科学は、そもそも科学ではないし存在価値も無い。

格差社会と階級分化は結果です。
今の現状は、20年間の日本社会が新自由主義改革をした結果なのです。突然こう成ったわけではない。

勤労者階級の下層がルンペンプロレタリア化しつつあり、文字どうり『食えなくなって来ている』現状で、プチブルの内田某が『格差は気持ちの持ちよう』は犯罪的言動と言わざるおえない。

訂正します

二十年前には何もわかっていなかったのは私です。布引さんの仰るとおりでしょう。訂正します。

「いくらなんでも20年前にそんなこと、誰もわかってはいなかったはず」→「いくらなんでも20年前にそんなこと、内田氏は分かっていなかったはず」
それに20年前に内田氏が発表したって、耳を貸すものは少なかったはず。少なくとも私たちの耳に届くことはなかったでしょう。そこは斟酌しなければ。

>20年前から、今の問題点(新自由主義)の問題点は予想されたものです。

なるほど。前川レポートを詳しく知りませんが、確かにそういった内容のものであったとは記憶しています。

では結局、布引さんはこう仰りたいのですか? 大衆などというものは、権力者の持って行き方次第でどうにでも転ぶ、と。現在の社会の悲惨な状況も20年前に予測されていた通りに過ぎず、今後もまた権力者の誘導の通り下層ルンペンプロレタリアが増大の一途をたどる、と。

内田氏は十分に判っている。

内田氏は社会科学の理解力が無いからこんな論を主張しているのか。?
経済学などの社会科学を勉強しなかったから無学を装うのか。?

このフランス文学者は、判っていて本を書いている、だろうと考えています。
愛国心を『ものの哀れ』に変換して見せた数学者の国家の品格氏も多分判って書いている、のでしょう。

彼等は間違いなく『大衆などというものは、権力者の持って行き方次第でどうにでも転ぶ、』と考えているのです。
規制緩和委員会議長宮内義彦も間違いなく、そう思っています。

『戦争は政治の延長』はプロイセンの戦略家の言葉ですが『政治、経済は戦争の延長』でもあるのです。
そうです、経済戦争です。
本物の戦争でも勝敗を決めるのは表面的な軍事力の差ではなく、情報宣伝戦の帰趨が決定的重要度を持っている。
弾丸が飛び交うことの無い経済戦争では情報宣伝こそが主戦場で、此れに負けると幾ら経済的技術的優位も覆される。

アメリカが世界一の軍事大国である事実はみんなが知っている。経済力も世界一の規模を誇っている。
しかしアメリカの真の強さの源泉は軍事力や経済力の強さでは無く、世界最強の情報や宣伝の力なのです。

情報宣伝とはCNNやフォクステレビ、ワシントンポストのようなマスコミだけではない、其れは、マイクロソフトやグーグルなどのIT、ジャズやハードロック、などの音楽、ハリウッド映画やディズニーランドなどの映像や文化、そして出版も含んでいる。
此れは経済戦争で、彼等は新自由主義の外人部隊、傭兵たちです。

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内田樹氏の格差社会観って……。

たとえば、ワーキングプアや非正規雇用、派遣、あるいはホームレスの増加などの社会的事象をとおして、格差社会の進行というものを、それとなく誰もが感じるようになったのではないか。そして、列記したいずれでも今はないけれど、ひとたび生活の歯車が狂うと、現在の生活か

階級と階層

格差社会はますます広がり、社会的な問題になって久しくなります。 昨年はついに政府

深刻な格差社会 

所得の格差が拡大」74%と言う結果が2月6日朝日新聞の意識調査で明らかになりまし

フォイエルバッハの宗教批判

 ドイツにとって宗教の批判は本質的には済んでいるのであり、そして宗教の批判はあらゆる批判の前提である。 これは、マルクスが25歳で書いた『ヘーゲル法哲学批判序説』の冒頭の一文である。ここで彼が言っている「宗教の批判」とは、いうまでもなくヘーゲル哲学の解体..

公害病も気の持ちよう?

 短期出張で不在の間,愚樵さんから多くの記事のTBを戴き,嬉しく思っている.さらにそのことはご健康状態は良好ということを意味するものであろうから,この点でも喜ばしいことである.記事はいずれも愚樵さんらしい感動を与えてくれる素晴らしいものであった.ただし,一

誰かを助けたくて

溺れている誰かを助けたいと願いつつ、芋を洗うどころか、どうやって縄を結うべきかす

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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