愚慫空論

共産主義のイメージ

私にとって共産主義のイメージは

「能力に応じて働き、必要に応じて取る」

に集約されます。集約というよりも、これのみ、と言った方がいいでしょうか。この言葉を誰がどのような文脈で言ったのか、そういったことはあまり関係ない。この言葉のイメージがそのまま、私にとっての共産主義へのイメージになっている。

そしてこのイメージは、家族というイメージに結びついています。最も労働する能力のある者――家族の構成員だと、多くの場合、父・母――が働き、最も必要がある者――大抵の場合は、子ども――が多く取る。こうした「経済」がごく当たり前に実現される「場」が家族だからです。

人間が家族という形の「経済」を営むのは、人間以前の動物としてのヒトの性質に由来するものだと言っていいでしょう。ヒトの子どもは他の動物と比べれば、はなはだ未成熟な状態でこの世に誕生してきます。未熟な子どもは、それだけより多くの世話を必要とする。世話をするのが親の役目であり、それは普遍的な意味での「労働者」だということ。一般的な意味での経済においては、働く労働者からより多く受け取ることは「搾取」というイメージになりますが、家族という「経済の形」においては、多く受け取るのは愛情の表れ。決して搾取ではない。

「能力に応じて働き、必要に応じて取る」という「家族経済」を社会一般の経済の「形」にすることを目指す共産主義は、「幸福」のイメージにも結びついていきます。幸福な社会です。“家族的経済”はヒトの本来的運動であるところの――これを〈魂〉と呼びました――愛情で結びついたもの。愛情で結びついた形は、幸福の形です。つまり私にとって共産主義とは、社会における普遍的な「幸福の形」を追究、ということになります。

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が、普遍的な幸福の形の追究には、大きな壁が立ちふさがっています。普遍的が一歩でも具体的な方に歩み寄ってしまうと、それは胡散臭いものへと堕ちてしまうのです。

「幸福の形」は、人それぞれです。人それぞれに具体的な「幸福の形」がある。いや、ある特定の地域と時代で標準的な「形」は存在しうるといえるかもしれません。が、標準的は、普遍的具体的とが交わる部分集合ありではありが、、普遍的具体的となることはあり得ない。その理由は、ひとつは、ひとり一人がそれぞれ個性というものを持ち合わせているから。もうひとつは、普遍的具体的とは次元が異なっているからです。

普遍的具体化しようとする試みは、それがいかなるものであっても、たとえ善意に因るものであっても、それは愛情ではありません。愛情はあくまで自発的なものであり、人それぞれの具体的な形は、あくまで自発的に定められるもの。具体的個人が自発的に定めるから結果として具体的になるだけにことです。他人が具体的に強制する、また強制の意図がなくても他律的なれば、それは具体的個人の自発性を疎外してしまいますから、ハラスメントになってしまう。

“標準的”な共産主義は、生産手段の共有を主張します。この「共有」は具体的です。つまり、私有を廃して国有という形の“具体的”な「共有」の形を主張します。しかし、私がイメージするところの共産主義では具体的「共有」を必要としない。必要としないどころか、具体的に「共有」の在り方を定めることは必ず具体的個人の自発性を疎外するハラスメントになりますから、害悪です。すなわち「共有」は普遍的でなければならない、ということになります。

普遍的な共有というと“具体的”にイメージし難いところでしょうが、ここでも家族を考えてもらえばわかりやすい。すなわち家族が住まう“具体的”な家、家屋です。

家は、具体的には誰かの所有物です。父親か母親の所有あるいは共同所有。他人の所有物を借りているというケースも多い。が、ふつう、“私の家”と言うときには、所有の具体的な在り方については言及しません。英語で house と home の違いと言えば分りやすいでしょうが、ふつうの場合には、“私の家”と言ったときには home を指す。具体的には父母の所有物あるいは家族外の他人の所有物であっても、具体的個人である子どもが暮らす生活の「場」としての家は、子どもにとって“私の家”であるし、そう言っても誰も奇異には思わない。そして“私の家”は、同時に父母の家でもあり、兄弟がいればその兄弟の家でもある。つまり home という次元での家屋は、家族にとって普遍的共有物、ということになります。

普遍的共有物とは、「共感物」と言い換えてもよい。なぜなら home という次元は感情の次元だからです。ならば具体的とは論理的な次元だと言えるのか? 言えるでしょう。“誰の所有か”は法的・制度的な問題であり、論理的な問題と言えるからです。

共感物あるいは具体的所有物といった問題は、資本主義社会において生産の主要な場である「会社」についても当てはまる問題です。「会社」は具体的には株主の所有物です。が、その事実は、必ずしもその「会社」の従業員や顧客の共感物であることを妨げるものではない。妨げるどころか、所有者である株主にとっては所有する「会社」が多くの者にとっての共感物であることはたいへん有利なことで、そのことは所有者もよくわかっている。ゆえに所有者は従業員に忠誠を求め、社会には「会社」のイメージをアップさせるために多大なコストを掛けて広告を打つ。感情に訴えるわけです。

感情の次元に理路があるとするならば、それは論理とは言えないでしょう。呼ぶとするなら情理です。ということは、話を元に戻して、普遍的な「幸福の形」の追究は、論理において行なわれるものではなく情理によって追いかけられるべきもの、ということになります。「幸福の形」は決して論理的に言い表すことが出来るものではないのですから、理としては当然でしょう。

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そうであるならば、共産主義の問題は、「主義」という論理的イメージとは裏腹に、情理の次元の問題ということになります。つまり、私有か共有かといった具体的論理的な話ではなく、会社や国といった具体的な「形」が共感物となり得るかどうかといった感情的情理的な次元での問題だということです。

私は『〈子ども〉の経済』のエントリーにおいて、資本主義的「奪い合い」に対抗するものとして「分かち合い」と「与え合い」の2つを提示しました。そして、「分かち合い」は「奪い合い」と同じく希少性が前提、対して「与え合い」は過剰性を前提とする、としました。

自身の生命も含めて、モノを希少財と捉えるか過剰財と見るかは論理の次元の問題ではありません。それは個人各々の自発性の在り方に関わる情理の問題です。私は資本主義が「奪い合い」に、社会主義が「分かち合い」に、共産主義が「与え合い」にそれぞれ対応すると考えています。「能力に応じて働き、必要に応じて取る」は、どう見ても過剰性が前提だからです。そしてそうであるなら、共産主義への道は、資本主義から社会主義への道の延長線上にあるのではなく、それぞれ別方向にあるということになります。


が、このことは共存も不可能だということではありません。共存は可能ですし、現に「家族経済」という共産主義的経済の「形」は、資本主義と共存しています。今日的問題の根源は、資本主義経済の源泉である希少性が過剰性を前提とすべき分野にまで侵食してきてしまっていることにあります。

ですから、この問題の解決は、“標準的”共産主義者が唱える社会主義的「分かち合い」では不可能です。具体的個人を希少性へ論理化した人権を基盤に社会主義へと制度を修正しても、過剰性の復権には繋がりません。むしろ希少性の侵食がより進む懸念があります。焦点は具体的な社会制度の改変にあるのではないです。

問題解決への道は感情の次元、“標準的”には「精神」と呼ばれるところにあります。意識改革と言ってもいいでしょう。希少性へと偏重してしまった精神を過剰性とバランスさせる必要がある。追究すべきはそのための情理です。

が、このことは具体的制度の改革は不必要だというのではありません。多くの場合、意識改革は具体的制度の変革に伴って起こります。私は減価する貨幣の導入がよいと考えていますが、それしかないというわけではないし、減価する貨幣を導入したからといって意識改革が必ず成るとは限らない。

重要なのは、減価する貨幣の導入に併せて新しい「エートス(行動様式)」を確立することでしょう。

コメント

一言だけ。

 家族経済は必要に応じて受け取るので労働能力の高低には関係のない次元を根拠にします。しかし、それは感情や条理の次元ではありません。家畜と同列視できない人間固有の本質、すなわち、生まれながらに人間として肉体的・身体的に同じであるという法の下の平等、唯物論に立脚しています。精神のレベルではないんですね。

 この真実を国家レベルに拡大した制度が社会保障です。社会保障は「働かざるもの食うべからず」の原理ではなく、「必要に応じて受け取る」という家族経済の原理なのですよ。したがって、分配論では社会保障、家族経済として「必要に応じて受け取る」は実現しつつあるのですね。未来社会の萌芽は目の前にあるのです。

 民間企業や農地の生産手段について言えば、そこで働く人々のものか、それとも、税金も含めて金を出す出資者のものか、になります。後者が資本主義の根拠ですね。出資。したがって、前者に立たなければ資本主義を批判する足場はないのです。これに対し、家族経済の原理を民間諸企業、農地に適用しようとすると生産手段はすべて全国民のものになるのです。記事ではこのことを共産主義のイメージと呼んでいるようですが、これは国家という家については国民一人一人が生活するホームなのですから根拠がありますが、民間諸企業や農地については、成り立たないんですよ。

 民間諸企業や農地まで国民全体のものにするようないわば大家族主義のような共産主義は、他人の家まで自分の家にしていまうようなものだからですね。

 民間諸企業や農地は出資者ではなく、そこで勤労する働く人々が諸企業の中で家族のように共有することが家族主義の正しい意味での科学と言えるでしょう。

 

Re: 一言だけ。

・東西南北さん

>  家族経済は必要に応じて受け取るので労働能力の高低には関係のない次元を根拠にします。しかし、それは感情や条理の次元ではありません。家畜と同列視できない人間固有の本質、すなわち、生まれながらに人間として肉体的・身体的に同じであるという法の下の平等、唯物論に立脚しています。精神のレベルではないんですね。

なるほど。が、その認識は私の感覚構造とは整合しません。

生まれながらに人間として肉体的・身体的に同じである。理屈としてはよくわかりますが、これを正しいと“思い込む”ことは自身の感覚を裏切ることになります。遠くにいる人間の生命より、目の前の犬の生命が大事。私の感覚は私にそう告げる。法がどうであろうが、私にとって最も大切なのは「私の感覚」です。

家族経済が成立するは「私の感覚」に従うからに過ぎず、基本的に法は関係ありません。

よって、以下の議論も私のエントリーの主旨とは全く関係ありません。単なる東西さんの主張です。私にとっては意味あるものではありません。

>この真実を国家レベルに拡大した制度が社会保障です。

>民間企業や農地の生産手段について言えば、

原則と例外。

 それは原則と例外を混同していませんか?つまり、普遍と特殊の弁証法ですよ。これがきちんとしたら大丈夫なはずというか、愚樵さんも自分で気付いてはいるが素直になれない感情のしこりが日本共産党に対してあるのでしょうね。それはなんとなくわかりましたが、それなら政治上の協力だけでいいのではないでしょうか?東西も政治上の協力だけで思想上は批判的ですからね。

 要するに、目の前に五人の人間と自分の身内がいたとして、どちらしか助けられない状況なら、身内を助けるのではないでしょうか?このような例外、特殊な状況では愚樵さんの感覚は否定できないし、緊急避難ですよ。これが弁証法なので。しかし、そんな特殊な状況ではなく普遍的に私たちは肉体的・身体的に同じ人間として同じ遺伝子を持った仲間として繋がっていく存在ではないでしょうか?これが人類普遍の真理の根本であって、必要に応じて受け取るの根拠だし、私たち人類の感覚の究極にある「共感性」を肉体的・身体的に支えているのです。

 有名な話がありますね。宇宙から地球を見た宇宙飛行士が涙を流した。宇宙飛行士は言った。宇宙から見れば世界の地球の人類が恋しく愛情が溢れきました、と。このような趣旨の発言があったと思います。やはり、肉体的・身体的に同じ人類は人類を愛するのですね。
 
 

Re: 原則と例外

>それは原則と例外を混同していませんか?

ですから、それは「東西さんの理解」です。

平時であれ緊急事態であれ「私の感覚」は同じであり、そこが原則です。例外と捉えられるのは、私からするとむしろ東西さんの感覚ですね。法を原則とする感覚です。

アメリカあたりの訴訟国家はいざ知らず、日本においては未だ、法は例外です。

東西さんが自動車の運転をなさるかどうか知りませんが、法定速度を遵守して運転するドライバーは例外的。原則は、車の流れを「私の感覚」で捉まえて走ること。

諍いごとが起こっても「法」は最終手段ですよね。まず、それぞれの「私の感覚」同士で折り合いを付けようとする。

東西さんとやりとりしていて感じるのは、東西さんは最初から最終手段の法が出てくる感じなんです。法の背景にはもちろん普遍性があります(本文でいった普遍的とは意味が違います)。普遍性がなければ法は法たりえませんからね。が、日常感覚ではその普遍性こそが例外なんです。

そういうと、科学に例外はないとおそらく反論されるでしょうが...、ま、そういう「感覚」が例外なんですが。

>宇宙から地球を見た宇宙飛行士が涙を流した。

それは事実でしょうが、そこがなぜ、

>肉体的・身体的に同じ人類は人類を愛する

になるんでしょうかね? 地球に人類が含まれるというのなら話はわかりますし、これが原則だと思います。が、“肉体的・身体的に同じ”と形容されてしまうと、地球にある人類以外の存在は排除されてしまう。そんな感覚は私は受け入れられません。

私は宇宙へ行ったことがないから断言はできませんが、おそらく“感じる”のは、人類を含んだ地球上の「全存在」、もしくは地球を含む宇宙という「場」となると想像するんですが。それは地球上にへばりついているときと基本的には変わりないはずです。宇宙の方がより感じやすくなるということはあるにしても。だから、そういった想像ができる。

宇宙に出た途端、人間の身体の組成が変化するわけないですよね? じゃあ、宇宙に出て云々いう話は、宇宙に出ると精神的に変化する観念論が基盤になるわけですか?

感覚の誤りを自発的に」正すことが対話・論議の意義では?

 自動車の法定速度の件での普遍性は法律ではなくて法の普遍性、すなわち、特には歩行者の人命と身体の健康の保護ですよ。したがって、この普遍的な存在の安全を守る必要があるので一応の目安として形式的なな法律があるのですが、実質は法を守ることなので流れに沿って運転すること方が歩行者の人命、身体の健康に資するので法は実現され安定しているのですよ。要するに、国家の強制力など必要なんです。本当の法というものは。それ自体で安定するからですね。これを法的安定性と言います。官僚主義者の法的安定性は法律と権威を国家の強制力で実現し一貫することですが。治安維持法も法的安定性があるのですよ。通常の意味では。東西は非科学的な法理論、いや、法ではなく暴力理論だと規定してますが。

 感覚はいいのですが、物体と人類は同列ではないですよ。それは、機械的な唯物論です。また、蛆虫やサルなどと人類を同列視する点も機械的です。

 宇宙飛行士が涙した理由は、確かに地球全体を恋しく愛する実感からかもしれません。しかし、それは地球が存在しなければ「われわれ」人類は存在できないから、というヒューマニズムではないでしょうか?

 地球の全滅を食い止めるためには人類が絶滅することを選択するという感覚こそ科学的にも「常識的」でもありえないと感覚しているのですが。

 肉体的・身体的な人命と健康を最優先にするという感覚こそ、最深部の科学としての皮膚感覚ではないでしょうか?

 
 

訂正と補足

 誤:国家の強制力など必要なんです。

 正:国家の強制力など不要なのです。

 宇宙飛行士の件は、観念論だったのが経験を通じて唯物論へ変わったということですよ。逆です。

 その唯物論も東西のいう意味でのヒューマニズムの唯物論と素直に理解する人もいるでしょうし、物体と人類を同列視するような機械的な唯物論と理解するいるのは事実です。

 

「感覚」の意味がズレてます

実質は法を守ることなので流れに沿って運転すること方が歩行者の人命、身体の健康に資するので法は実現され安定している

それを「法」というのなら、私が「私の感覚」と呼んでいるものと同じではないのですか?

私が何をもって「感覚」というのか。あるいは「法」というのか。また、東西さんが何をもって「法」というのか。「感覚」というのか。これらの言葉は高度に抽象的ですから、最初からその意味するところが一致するわけではない。シニフィアンが一致したからといってシニフィエは一致しない。

シニフィアの一致点を探るには私のいう「感覚」を駆使する以外にないのですが、どうも東西さんからは、そういう姿勢が感じられない。他人のブログという他人の舞台に上がってきているくせに、東西さんのシニフィエ―シニフィアンを押しつけようとする。それはたいへん不快な行為なのですが、そういうところに非常に鈍感でおられる。

宇宙飛行士の件は、観念論だったのが経験を通じて唯物論へ変わったということですよ。逆です。

こういう「語法」ですよ。言葉遣いが逆だからといって、想定している内容(シニフィエ)が逆だとは限らない。

私は別に唯物論になど拘っていません。従って、唯物論とやらが定義する用語には私は全く無関心です。東西さんが東西さんの言葉でのみ語りたいのなら、ご自分のブログでなさってください。

私のブログで東西さんの意見を述べるのは別に構いません。が、最低限「私の言葉」は尊重していただきたい。それができないようなら、どうぞ、おひきとりください。

言葉の内容が大事。形式はどうでもいい。

 東西と愚樵さんが内容で一致しているなら言葉などどうもいいのです。定義など関係ない。内容が決定的です。それは一致したようですね。

 しかし、その内容が違うと感じたのでコメントしていただけです。内容が一致したなら言葉の違いはどうでもいいのです。

  しかし、共産主義のイメージの内容は正しくない、違うと思いますよ。ま、政治上の政策で一致するなら半分は内容が同じですし、それでいいです。

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