愚慫空論

もはや「良い戦争」の時代は終わった

志村さんが「良い戦争」という言葉を用いてエントリーをあげておられます。

志村建世のブログ:『良い戦争の条件とは(1)』
志村建世のブログ:『良い戦争の条件とは(2)』

 奇妙なタイトルと思われるでしょうが、近年に至るまで「戦争は絶対の悪である」とする思想は、世界で常に少数派でした。正義にのっとり、公明正大・人道的に戦って国益を守る戦争は、どこの国でも必要と考えられていました。その「良い戦争」の条件とは、何でしょうか。


いえいえ。奇妙どころか、近代における戦争というものを総括するのに、とても適したものだと思います。

「良い戦争」の条件を探るには、どのような戦争が「良い戦争」だったのかを観る必要があるでしょう。そして、近代という文脈において、「良い戦争」の最初はどの戦争だったのか? 思うにそれは、アメリカ独立戦争、そしてナポレオン戦争です。

歴史とはなにか (文春新書)

 国民国家という形態が普及したおもな原因は、軍事だ。ナポレオンが軍事の天才だったことに加えて、国民国家は戦争に強かった。
 君主制だと、君主は自分の財布からお金をはたいて、兵隊を雇って、訓練して、だいじにだいじに使わなくちゃいけない。大規模な常備軍を抱えておくことは、あまりに金がかかりすぎて、ほとんど不可能に近い。これにくらべて、国民軍は、ほとんど無限に多数の兵士を徴兵でき、短期間で大軍を動員できる。
 つぎに、国民軍が戦争に強い第二の理由だが、国民国家の時代になって、国民の最大の財産は「国土」だ、ということになった。そうなると、自分たちの財産である「国土」を、外国人の侵略から防御するのだから、国民軍の兵士たちは、ひじょうに勇敢に戦うのに決まっている。君主制の軍隊の兵士が、自分の給料をかせぐために戦うのとは大違いだ。フランスの場合は、それに加えて、自由・平等・友愛という「フランス革命の理想」を世界に普及する、というイデオロギーまで加わったので、ナポレオン率いるフランス軍は、無敵だった。


「良い戦争」とは、国民国家を契機づける戦争だと言っていいでしょう。

現代でも、戦争は「良い戦争」と演出されることが必須条件です。侵略軍は国防軍と言い換えられ、「国土」のみならず「財産(権益)」を守るためと大義名分が掲げられて戦争が遂行される。その胡散臭さはもはや明らかなのですが、それでも「演出」がいまだ止まず、戦争は行なわれています。

それはなぜか。

希少性の論理がいまだ有効だからです。国土という希少性。財産という希少性。人権という戦争に反対するときに用いられる概念も、前提は希少性です。戦争は人権という最も貴重な希少財を消費する。だから戦争反対という論理が組み立てられる。ところがその人権という希少性は、国土や財産といった希少財がなければ維持できない。だから一方で、人権を守るためには戦争は不可欠だという論理も組み立て得る。その枠組みは未だに乗り越えられていないのです。

そして、希少性の枠内から改めて「良い戦争」を定義付ければ、それは人命という希少性を損なうことなく国土や財産といった希少性を獲得すること、となります。

さて、今日は敗戦の日、一般に言われるところの終戦の日です。65年前の今日、敗戦という形で区切りが付いた戦争は、日本国民からみればだれがどう見ても「悪い戦争」でした。国土も財産も人命も失われた。

戦前戦中を生き抜いた経験のある方々の多くは、「悪い戦争」を通じて、国土や財産の希少性よりも人命の希少性の方が貴重なのだということを学習したのだといいます。戦前は欺されていたのだ、と。が、一方で、未だ人命の希少性よりも国土・財産の希少性を重く見る人もいる。この見方は戦争を知らない世代に広がっていますが、惨い戦争を生き抜いた人たちのなかにもその見方を捨てられない人たちもいる。戦争は二度としていはいけないといいながら、それでもどこか戦争の只中で過ごした時代を大切にしている人が多い。これはなぜか。

この答えは、希少性の論理の枠内を越えたところにあります。つまり、人間が本来的に持つ過剰性の領域の問題。あの時代、人間の過剰性は国土の希少性と国土のまつわる情緒性を軸に発露された。過剰性の見地から見れば、多大の希少性が失われる結果になった「悪い戦争」も、過剰性を大いに発露・蕩尽できた「良い戦争」だとみることができる。実際、当時の日本人の多くはあの戦争を「良い戦争」だと“信じて”いたはずです。

戦後「良い戦争」が「悪い戦争」となったのは、その判断基準が変わったためだということもできます。判断基準の変化が“欺されていた”という意識となって記憶に残っている。が、欺されるのはそれが自発的であったからであり、自発的であったということは過剰性が発揮されていたということでもある。

信じることから自生的に生じる自発性が、過剰性発露の構造なのです。

時代はめぐって現在は、かつてほど国土が過剰性を発揮する希少性として捉えられることはなくなってきました。それは、国民国家がいまや貴重なものではなくごく普遍的なものになったことと関係しているでしょう。が、その代わりに、軸となる希少財が人権に移ってきている。この場合の人権は、単に人命の意味ではなくて、もっと文化的なところも含んでいます。「文明の衝突」といった視点は、そのあたりからでてきているものでしょう。

いずれ戦争は人間が本来的に持つ過剰性の暴走なしではおこりえないことですが、その軸が人権に移ってきたということは、かつてのような「良い戦争」は起こりにくくなっているということでもあります。「良い戦争」を起すには、よほどの仕掛けが必要となっている。

が、戦争を生みだす論理は希少性の論理はいまだ有効性を保っていますから、戦争そのものはまだまだなくなりません。つまり「良い戦争」の時代は終わったて「悪い戦争」の時代に入った、ということです。

信じるなにかのためではなく、己の希少性を守るために戦争をしなければならない時代になってきた。君主制においての、国防軍と称するものが傭兵や奴隷兵の集団に堕ちてしまいつつあるのです。

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