愚慫空論

自然の造形はフラクタル

その「絵」をはじめて見たのは、去年のお盆に妻の実家に帰省したとこのことであった。額縁に入れられ飾られていたその「絵」、どこかの風景を写し出したと見えるその「絵」を、遠くからチラリと見た私は最初それを写真かと思った。そして、その「絵」の前を通り過ぎて行こうとしたときに、ふと足が止まった。写真にしてはあまりにもその写し出された風景の実在感が高かったからである。その「絵」に近づき、まじまじと眺めてみると、それは写真ではなかった。また、いわゆる絵の具などで描かれた絵画でもなかった。いや、まぎれもなく絵画であったが、それは押し花(を含めた自然素材全般)で描かれた絵画であったのである。

義父は現役をリタイア後、第二の人生として陶芸倶楽部を運営しており、作者が義父の陶芸倶楽部の会員であるという縁でその「絵」は妻の実家に置かれていた。そのときたまたま作者の作品展が近くで催されているということで、その作品展を見に行くことになった。

作者と「絵」の紹介はこちら


デジタル画像だと、どうしても実在感が伝わってこないのが残念だ。だがデジタル画像でも、よく見ていただければこの「絵」が自然素材をそのまま使って「描かれている」ことがわかると思う。例えば、左上の「絵」。富士山の前景として配置されている樹木とススキだが、これは樹木とススキの実物が使われている。

この「絵」は、見方によると奇妙な絵ということも出来る。「絵」に描かれたパーツをひとつひとつ見ていくと、デジタル風に表現するならば解析度がまったくバラバラなのだ。もっともこれは普通の絵画にもあることで、絵筆等を使って描く画家も前景と背景を同じ解析度で描くようなことはしないだろう。人間の目に自然に写るように、各部分の解析度をコントロールしながら描く。ところがこちらの「絵」の場合、普通の絵ほど解析度のコントロールが自在に効かないので、どうしてもあるパーツから別のパーツへ視線を移したときに、解析度のギャップを感じてしまう。

にもかかわらず、この「絵」は全体と見てみれば、そうしたバラバラ感を全くといっていいほど感じさせない。ひとつひとつのパーツ、つまり自然素材の実在感が際立っていて、解析度のギャップからくる違和感を覆い隠してしまう。数字を用いて言うと、解析度のギャップが10あるとするならば、自然素材の実在感が1000も10000もあって、たかだか10程度の違和感など感じさせない。そんな具合なのだ(普通の絵画は、解析度ということで言うと、そのギャップを限りなく0に近づけることで全体としての実在感を出そうという方向性なのだと思う)。

自然の造形はフラクタル、自己相似形だという。つまり自然の造形物は、解析度をどのように変えても同じ形であるということだが、この「絵」はそのフラクタルを、実在感という形で感覚的にも感じさせる。前景に置かれた木の枝は木全体の代用物なのではなく、実在感においては木全体と同等といってよい。
「絵」のパーツ・素材のひとつひとつがみな本物と同等の実在感を放つ。そしてその集合体としての「絵」は写真とは比べ物にならないほどの、本物の風景に近いくらいの実在感を持つのである。

この「絵」の圧倒的な実在感は自然素材からもたらされる。この「絵」の素晴らしさの要因は第一は、自然素材を使って構成したところにある。だがもちろん、それだけではない。
作者は「絵」の構成に使う自然素材を使うに当たって、相当の試行錯誤を重ねてきたはずだ。作者が望む質感を求めて、絵筆を使う画家が絵の具の調合と絵筆のタッチを突き詰めていくように、素材の追及に大変な労力を重ねてきたことだろうと思う。その成果は絵に表れている。しかしその成果も、この「絵」が絵にならなければ意味がない。つまり絵画としての造形力がなければ仕方がないのである。

ここまで偉そうな調子で知ったようなことを述べてきて何なのだが、正直なところ、私には絵画はさっぱりわからない。だから、この作者の造形力の水準がどの程度のものなのか、判定しようがない。ただ、決して造形力に関しても素人ではないということがわかる。いくら自然素材の放つ実在感が素晴らしくても、絵画としての造形がチグハグでは何にもならない。れっきとした絵画だとはいえないのである。
そう、わからないと言いながら言いたいのは、この「絵」はれっきとした絵画なのではないか、ということだ。作者はご自分のことを「押し花アーティスト」と名乗っておられる。ご自分でそう名乗られるのに他人がどうこういう筋合いのものではないのだが、「画家」と名乗ってもいいのではないか、そんな気がするのである。

ネットで「押し花 アート」で検索を掛けると、さまざまな作品を目にすることが出来る。そのすべてに目を通したわけではないが、そこで目にするものはいわゆる「押し花」というカテゴリーに収まってしまうものばかりだ。しかし、この作者の押し花はそこからは一線を画しているように思う。


今年のお盆も、私たち夫婦は昨年と同じ帰省した。そして、また昨年と同じくこの「絵」たちに出合うことできた。今年も作品展が催されていたからだ。
今年は新たな作品が追加されていた。それまではほとんど風景画だったのが、今年は人物画が加わっていたのである。今年はNHK大河ドラマで『風林火山』が放映されているが、それにちなんだ人物画がいくつか展示されていた(そう、妻の実家は山梨にある)。それらの「絵」も実在感豊かな絵画であった。
これは作者の画家としての進化を示すものだと思う。

コメント

こんなの見たことない

愚樵さんこんばんわ。
すごい「絵」ですね。こんなの見たことありません。すごい仕事だなぁ・・・感嘆です。
是非一度生で観てみたいなぁ。いいもの教えていただきありがとうございました。

生はすごいですよ

素楽さん、どーもです。

拝見してくださったみたいですね。面白いでしょう?
是非とも生で見てもらいたいですが、素楽さんは京都のようで...。山梨は遠いですね。

メビウスの輪

愚樵さん、こんにちは。怪我の具合は如何ですか?

>自然の造形はフラクタルで自己相似形である。

フラクタルという単語で、ちょっと思いついたのですが、フラクタルは、部分が全体を模倣し全体もまた部分を模倣する、という自己組織化の側面(これを拙エントリー自己とは何かで、referenceする自己と呼んだのですが)と、有限と無限の共存という側面がありますね。

肺はガス交換の効率を最大限発揮する為に、胸郭という有限の容積の中に、最大限(無限大)の表面積を得る為にフラクタル状の肺胞構造を形作りました。このように生物は個体という有限の中にフラクタル状の無限の世界を形成しています。
一方、個体としての生物から、生命という視点で俯瞰すると、一回性という有限の生物が生殖を通じて無限性を獲得する。個体の有限性は生命の無限性の原動力となり、生命の無限性が個体の有限性を保障(豊かに)する。こう見ると有限と無限もまた自己相似形で、フラクタルはまるでメビウスの輪のような印象を覚えます。

ところで、僕は内田樹、結構好きだったりします。彼の問題意識は、”それじゃあ結局分断しちまうんじゃねーか?”そこを出発点にしているように思います。ただ、左の人は理性的で真面目なので、「分断」に対する危機意識を常に持っていて、いつもそう思って歩み寄ろうとするのだけれど、右の人は「分断」をものともしないから、左の人はいつも傷ついてしまう。「聞く耳」を持っている人がいつも損な役回りになってしまうので、警戒するのも良く分かります。

共生の論理はどうしたら構築出来るのでしょうか。
「聞く耳を持たない人」にはどうしたら響くのでしょうか。僕なりの答えというか模索が、UTSだったりします。

奇しくもUTS創立のお二人から

奇しくもUTS創立のお二人からコメントを頂きました。ありがとうございます。

>有限と無限が自己相似形
なるほど、面白い知見ですね。
そのように言われてみれば、そもそも有限と無限の差異というものも曖昧だということに気がつきます。無限とは人間の意識の認識範囲を超えたものというだけのことで、人間の意識の認識範囲を超えようが超えまいが、世界は「自己をreferenceする」形で、それこそメビウスの輪のような形で存在しているのかもしれません。

そうした考え方をさらに敷衍してみると、物質も生命もそれから意識も、みな自己相似形なのではないかというような考え方に至るわけです。私はまだうまく把握し切れていないのですが、鶴見和子さんの内的発展論もそういうことを言いたいのではないかと思ったりしています。

で、生命と意識が相似形であるとするならば、「聞く耳を持つ」「持たない」の差は、生命体が持つ自己と非自己との識別装置――免疫とのアナロジーで語れるのではないかと思ったりします。「聞く耳を持つ」とはそれを自己と見做すということですね。内田論を巡ってのやりとりを少し離れてながめると、結局聞く耳を持たない人に幾ら言ってもアレルギー反応を起こすだけ、というような気がして仕方ありません。もっともそれは、右と左の対立なんかにも言えることですが。

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