愚慫空論

『ハラスメントは連鎖する』(6)

 評価の強力な味方であり、情動反応の大いなる敵となるのは、自分自身をパッケージ化することである。自分のパッケージ化とは、自分で作り上げた自己イメージを、自分とみなすことだ。


俗にいわれる「自分探し」とは、自分とみなすことができる自己イメージを探すことに他なりません。

 情動反応に基づく学習をしている限り、自分は常に変化していく。情動反応によって創発するコンテキストも、その場その場で異なる。時間的に固定した自分というものはあり得ない。それゆえに、常に変化する状況に対応することができる。
 また、自分に対する理解も状況の変化、学習状態の変化に応じて常にアップデートされ続ける。自己のイメージは、仮想的に時間を止めた構想物であり、情動を感じる「今」の自分と切り離されている。


自分が安住することができる、すなわち周囲から評価を得ることが出来る「仮想的構築物」を求める。「自分探し」は、その肯定的なニュアンスとは裏腹に、自分自身への裏切り行為であり危険な行為です。

求める自己イメージが見つからず「自分探し」を続けることは自分を裏切り続けること。自分を裏切って不安が解消できるはずがありません。また、安住できる自己イメージが見つかっても、問題は解決しません。

 自分が過去にしたことや自分が想像することを固定化して、それが自分の人格を代表するものだと思ってしまうことがパッケージ化である。「自分は明るい人間だ」「自分は善人だ」といったものもパッケージ化の一種に過ぎない。


「地獄への道は善意の石で敷き詰められている」。この「善意」はパッケージ化された善意です。

 本当はどのような評価基準を選んでパッケージ化するかに恣意性があるが、そこは暗黙の前提なので気がつかない。どんな行動も自分の自律性に基づいていないので、責任転嫁することが出来る。
具体的な例をあげれば、評価基準を愛国心にしようが人権にしようが、ともに恣意的であり絶対的な評価基準ではないということ。

 パッケージ通りに行動できなかった場合に限っては罪悪感を覚える。


そして、恣意的に定めたパッケージから外れた人間を「善意」によって断罪することになるのです。

 最も親しんでいる自分自身をパッケージ化してしまえば、他人もパッケージ化してしまうことは当然の帰結である。著名人を勝手にパッケージ化してしまえば、それを外的な評価基準として用いることが出来る。「誰々のようになりたい」と考えて、ますます本来の自分を置き去りにする。
 周りの人間に対しても、「自分はこういう人間だ」「あの人はああいう人間だ」と勝手に決めた上で、そのパッケージ同士の操作をコミュニケーションとして行なう。
 相手をパッケージ化して、そのパッケージに対する働きかけを現実に存在している相手に対して行なうのは、ストーカー行為と同じ悪質さをもっている。自分が勝手に作り出したイメージを他人に押しつけた上で、そのイメージに対してメッセージを投げかけるという行為は、他人の人格への攻撃以外のなにものでもない。



 パッケージ化には、何ら肯定的な意味もない。自分がどういう人間かを決めることに何の意味があろうか。自分に対しても他人に対しても、自分はどのような人間かを説明したり、自分の行為について先回りして理由を説明したりする必要はない。自分の理念を述べて行動を正当化することは臆病である。

 「他人の理解」に肯定的な響きを感じるひとも多いだろう。ところが相手を理解することに価値があるわけではない。相手の生命に配慮したコミュニケーションをとることが重要なのだ。そうすれば自ずと相手の全体像は把握されていく。
 これは人間に情動反応による創発の能力が備わっていることによって保証されている。


結婚しない(できない)若者が多くなってしまっていることが大きな社会問題になっていますが、この最大の原因は経済格差ではなく「臆病」でしょう。昔は見合い結婚が多かった。結婚するまで相手のことは何も知らなかったというケースも多かったといいます。今日ではそうした結婚形態を古き共同体の因習からの圧力だと捉えがちですが、その理解では本質を見誤ってしまいます。

見合い結婚が通常だった時代、女の子たちに将来の夢はと尋ねると「お嫁さん」「お母さん」という答えが多かった。この答えは“相手の生命に配慮したコミュニケーション”への希求の現われです。伴侶となる「他人への理解」よりも創発的コミュニケーションへの希求の方が高かった。自分自身への信頼度が高かったわけです。

 上官の命令に従い、どんな任務でも着実にこなす有能な仕事人間、結婚記念日には妻に花を贈る愛妻家、マナーを遵守する真面目人間、これらがアイヒマンのパッケージであり、彼はこのパッケージになりきっていた。
 そして彼にとって、ユダヤ人は虐殺対象のパッケージだった。


パッケージ化は決して自発的に起こるものではありません。情動反応が他者によって咎められ続けた結果、本来の自分の代わりに設定されてしまうものです。

子どもへのまなざし子どもへのまなざし
(1998/07/10)
佐々木 正美

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