愚慫空論

我が子を喰らうサトゥルヌス

サトゥルヌス 右の絵は、ご存知の方も多いと思います。

『我が子を喰らうサトゥルヌス』

スペインの画家、ゴヤの作です。

ローマ神話に登場するサトゥルヌス(ギリシア神話のクロノスに相当)が将来、自分の子に殺されるという預言に恐れを抱き5人の子を次々に呑み込んでいったという伝承をモチーフにしており、自己の破滅に対する恐怖から狂気に取り憑かれ、伝承のように丸呑みするのではなく自分の子を頭からかじり、食い殺す凶行に及ぶ様子がリアリティを持って描かれている。

(Wikipediaより)


不条理を描き出した“おぞましい”という形容がピッタリの絵。

こんな絵画を引っ張り出してきたのはもちろん理由があります。それは『アースリングス』
この映画で描き出された「不情理」の“禍々しさ”が、ゴヤの絵画に描かれた「不条理」の“おぞましさ”と重なるように感じた――それがこの絵を持ち出した理由です。

もちろん、親が我が子を食い殺す「不条理」と、人間が動物を食い殺す「不情理」は重なりません。生物としてのヒトが他の動物を食い殺すのは、条理に適った「自然界の掟」とでもいうべきものです。にもかかわらず、『アースリングス』で次々と紹介される映像はおぞましい。そこにあるのは、明らかに「自然界の掟」からは逸脱した狂気だからです。

サトゥルヌスが狂気に侵されるのは、自己の破滅に対する恐怖からです。一方で『アースリングス』において、動物を殺してゆく人間たちに恐怖は存在しない。あるのは圧倒的な人間と動物の間の「圧倒的な非対称」であり、それゆえに人間には動物に対しての恐怖は皆無。だが、狂気は存在する。それが不思議なことに、恐怖からの狂気と重なる。
緑の資本論
『我が子を喰らうサトゥルヌス』と『アースリングス』に共通しているのは、狂気の発生源ではなくて、「圧倒的な非対称」が狂気によって遂行されるおぞましさなのです。

そういえば、中沢新一の『緑の資本論』に「圧倒的な非対称」と題された一章がありました。この書はごく乱暴にいえばテロリズム擁護の書なのですが、その擁護理由が「圧倒的な非対称」のおぞましさでした。サトゥルヌスの逸話を伝えるローマ神話(ギリシャ神話)では、サトゥルヌスはいずれジュピターにとって替わられることになるわけですが、その政権交代の正当性はサトゥルヌスのおぞましさによって裏打ちされています。

コメント

私には

私には、国民の生活を喰う菅首相に見えてしまいます。

よ~くみると、額の真ん中から少しずれたところにホクロが(笑)

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/406-b4b5fbc7

 | HOME | 

 
プロフィール

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード