愚慫空論

『ハラスメントは連鎖する』(3)

ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)
『ハラスメントは連鎖する』(2)では、強者の非暴力というところで話は終わりました。今回以降は「強者への道」がテーマになります。まずは「愛情の役割」について。

再び〈魂〉の話から。

 出発点となるのは「魂」である。ここでは魂という言葉に、いかなる宗教的な意味合いも含めてはいない。人間が生まれたときから持っている本来的な運動状態のこと、我々はそれを魂と呼ぶ。
 運動状態と言うと、とっつきにくい印象を受けるかもしれないが、魂と身体とを対比させて考えるとわかりやすくなる。
 私たち人間はみんな、肉体、血液、脳などの全てを含む身体を持っている。しかし、ただ身体を持っているということと、生きていることとは別の話である。
 私たちは誰に習うこともなく、呼吸をしている。肉体を構成する細胞はつねに代謝活動をしている。血液は血管を流れ全身をめぐっている。脳では数百億個の神経細胞、ニューロンが互いに電気的、化学的に通信をしている。これらの働きが十全に機能しているからこそ、私たちは生きることができる。
 これらすべての働きのうち、人間に生来備わっているもの、それが魂である。


魂とインターフェース 次が「インターフェイス」です。
一般的には「精神」と呼ばれます。

 外の世界、つまり外界とは、周囲の環境や周りにいる人間のすべてを含むものだ。魂が剥き出しの状態にある新生児は、自分の欲求や気分を単純な方法で外界に表現する。お腹が空いたら泣く、おしめが濡れてしまったら泣く、寂しくなったら泣く、そして満足して快適な時は笑う、といった具合である。
 彼らは周りの人間に尊重され、配慮されることによって、必要なものを得ることができ、周りの人間とのやりとりを通じて成長を遂げていく。
 自然に成長していくなかで、魂と外界との間のインターフェイスが学習を通じて発達していく。インターフェイスとは、受けたメッセージを自分のわかる形に変換し、自分の送りたいメッセージを相手にわかる形に変換する装置のことである。


 それでは、インターフェイスはいったいどのように発達していくのであろうか。重要な役割をするのは情動と感情である。


・情動(エモーション):外界の変化に対する身体的反応で、一次と二次がある。
  一次:〈魂〉の働きによるもの。
   (例/大きな爆発音に驚いて身体を緊張させる)
  二次:学習によって発達したインターフェイスによるもの。
   (例/「爆発」という言葉に反応して身体を緊張させる)

・感情(フィーリング):情動をモニターすることで生じる脳内の反応。3種類ある。
  一次:一次の情動からの感情。
  二次:二次の情動からの感情。
  背景的感情:  

 背景的感情は身体状態に大きな変化がなくても常に生じている感情である。それは、生きているという感じ、今ここにあるという感じのことである。この感情ゆえに、私たちは自分の身体の全体像についてのイメージを保つことが出来る。
 このイメージは、生きていることによって不可避的に生じてしまう付随現象ではなく、脳が積極的に構成しているものである。


 インターフェイスが発達していくには、情動的身体反応が必要であり、それを感じる情動的感情が大きな役割を果している。そして、学習を通して発達したインターフェイスの今の状態は、生の感覚である背景的感情によって維持されている。
 学習には、物事を分類し判断するという過程があり、その結果、自分が世界をどのように見るか、物事をどのように取り扱うのかが変化する。
 では物事を適切に分類するということはいったいどういうことなのだろうか。

コンテキスト
右の「実際」が答えになります。

人間は情動によってコンテキストを捉え、コンテキストによってメッセージを意味づけします。

コンテキストは情動によって捉えられると言うことについては、

 赤ん坊が撫でられていたとする。それが本当の愛情ゆえの行為であれ、自分が優しいのだということを周囲の人間にアピールするための偽善的行為であれ、「撫でる」という行為としては同じである。
 しかし、赤ん坊はその行為が愛情によるものなのか、愛しているフリであるのかを、撫でる人間の微妙なしぐさ、表情、語りかける声、などの膨大かつ多種多様な情報から判断し、笑顔を見せて喜んだり、泣いて抵抗したりする。

 情動が生来備わっていることは、大きな意味を持っている。全く情動反応がないなら、コンテキストが捉えられないので学習は不可能である。受け取ったメッセージがいかなる意味をもつかを、メッセージのみからでは推し測ることはできない。
 さまざまな要素を相互作用したとき、それらの要素の性質を単純に足し合せた以上の性質が生じることを「創発=emergence」と呼ぶ。
 先ほどの撫でられている赤ん坊の例では、「撫でる」という行為に加え、撫でるひとの微妙なしぐさや表情が個別の要素である。そして、それを受け止めた赤ん坊の身体反応がコンテクストを創発し、自分が愛されているのか、欺瞞に利用されているのかを見極める。これは情動反応によってなされている。
 情動が生来的なものである以上、情動反応による創発も、学習された能力などでは決してなく、生来的なものである。


〈魂〉が剥き出しの赤ん坊は一次の情動に反応して学習するだけですが、インターフェイスが発達するにつれて二次の情動にも反応するようになります。もちろん、二次情動でも「創発」は働きます。そして

 現時点で創発について人類が有している科学的知識は、ほぼ皆無といってよい。

 創発が暗黙のうちに自律的に起きることは、人間の生命を生命たらしめている力である。そしてその能力は情動と感情のなかにこそある。


さらに。
ラベルづけ

意味とは、メッセージにラベルが貼り付けられることによって見出されるものだ。ラベルとはコンテキストの違いを表すものである。人間はメッセージに意味を見出して活動しているので、そのラベル付けシステムを持っていると考えざるを得ない。
 どのようなラベルを貼り付けるかは、情動反応によって創発したコンテキストに基づいて決まる。メッセージに対して、コンテキストに即したラベルが貼り付けられることによってはじめて意味が生じる。情動に基づいた意味づけ、コンテキストに基づいたラベル付け、それが学習の本質である。


「コンテキストに基づいたラベル付け」は、実は言語そのものです。五感で感知された現象(モノの形や色、大きさ、重さ、臭い、味など)が人が発する音声によってラベル付けされる。この現象とラベル付けには予めコンテクストがなければ言葉が意味を持つことはありえません。

また言語についてはもうひとつ重要な指摘がなされます。それは否定の概念は言語がなければ理解できない、ということです。

 (神経心理学者の)山鳥重の指摘によると、一旦理解した言語の記号的意味が前もってつかんだコンテキストにそぐわない場合には、コンテキストにあうように記号的理解の方が修正される。

これはどういうことかというと、例えば、赤ん坊が犬を指す「わんわん」という言葉を理解したとします。次に猫を指さして「わんわん」と言ったとします。そのときに周囲の大人が送るメッセージを赤ん坊は情動反応によってコンテクストにそぐわないと判断する。そして大人の「にゃんにゃん」という言葉を模倣したとき、コンテクストにそぐうものだと判断して猫=にゃんにゃんだと学習する。言葉の学習は否定の積み重ねであるということです。

ここで重要なのは、正しいの常に情動反応だということ。否定され修正されるのは言語の記号的意味の理解です。

(本書では孔子の「道」という概念を援用して、「選択」というラベル付けに関連する概念が必ずしも人類に普遍のものではない、ということを示します。)

 いつでもコンテキストに基づいたラベル付けができるなら、「選択」の必要は生じない。コンテキストを見失い「道」から外れた時に人は惑い、ラベル付けが「選択」の結果として行なわれる。

 私たち人間はすでに言語を獲得しているので、選択も否定も可能である。しかし、学習の本質は情動反応に基づいた意味づけを経験に対して付与することである。情動に基づかないラベル付けを、選択の結果、重ねていくことは本筋ではない。
 ところが人間は、その人生のなかでいつもうまく振る舞えるわけがなく必ずどこかで失端、コンテキストにそぐわないラベル付けをしてしまう。このような場合、恥を感じて「道」に立ち返ることが必要だが、自分の感覚に全幅の信頼を置いていないと、捉えた「道」の方が間違っているのかもしれないと考えがちである。これは、恥ではなく、罪悪感によるものだ。

恥と罪悪感

罪悪感の対象は、外的規範とインターフェイスとがずれてしまうことにある。だから、失敗したときには自分の魂を攻撃することになる。キリスト教に顕著な、外的規範に対して魂が不浄な存在であるという思想はこの典型である。
 そして罪悪感を覚えた結果、インターフェイスから魂を切り離し、外的規範に合せようとする。これはコンテキストを無視したラベル付けをすることに他ならない。
 一方恥は、魂とインターフェイスとがずれてしまうことを対象にしている。だから、間違いを犯した場合には、自分の外面的状態を反省する。まずいのは無感覚の状態であり、「道」に従ってラベル付けを修正することに重きが置かれる。


さて、ここまできて、やっと「愛情の役割」です。

 学習とは、ある出来事に即して情動が生じ、生じた情動を感情として捉え、感情と出来事に適切なラベル付けをするという順序で成立している。そして、学習の結果、情動が拡張され、拡張された情動がさらなる学習の機転となる、という形でループをなしており、学習をくり返すたびにループはどんどん豊かになってゆく。
 このループ自体は、生まれつきの所与のものであり、それが生命の生命たるゆえんである。だが、学習のループがきちんとまわるためにはいくつかの条件が必要である。

 大事なのは相手の行動を受容し、相応しい意味づけを提示することである。そのことによって、相手は自分の感じたとおり、つまり情動反応に沿って学習をすることができる。
 自分の都合に合わせて相手の行動を否定したり、意味づけを強制したりすることは、愛情に反する行為である。本当の愛情とは、相手に学習をさせようと否定や強制をすることではなく、相手の学習を阻害しないように受容と提示をもって望むことである。
 相手の情動反応を受け止めること、必要なラベルを提示すること、それが生命としての自然な役割の基本であり、愛情の役割である。


相手を罪悪感に誘導せず、恥を包み込むこと。そうすることで人間の感覚に全幅の信頼を置くことが出来るようになる。そういった人間こそが「強者」であり、「愛情の役割」とは強者を育てること、というわけです。

コメント

わかります

『愛情の役割とは、受容と示唆であり、本人が自分の感覚に全幅の信頼をおける強者となるよう導くこと』

全面的に同意ですが、現実にその正反対の状況に日々ぶち当たって格闘していると、辛いし空しくなります。

そういうあたりまえのことが世の中でなかなか通用しないのは、なぜなんでしょうね。

naokoさん

“本人が自分の感覚に全幅の信頼をおける強者”の源泉は「生命力」です。愛情の源泉も同じ。

現実にその正反対の状況に

こうなるのは、社会を構成している成員ひとり一人の「生命力」が低下しているからでしょう。自らの「生命力」が低下しているから、他人の「生命力」を奪い取ろうとする。「吸血鬼の原理」ですね。

では、そこを変えるにはどうしたらよいか? 経済だと思ってるんです。『ハラスメントは連鎖する』の安氏は『生きるための経済学』という本も記しておられますが、“生きるため”というのは“「生命力」を昂進させる”ということだと思っています。

生命力の奪い合い!なるほど!

 実感としてよくわかります、本当に。
 〝吸血鬼の原理〟も、痛いほど実感してます。
 もしも、社会との関わりの中で、それでも生命力をふやしていく方法があるなら、ぜひ教えてほしいです。
 でも、答えは「経済」と言われても、愚樵さんの経済のエントリーは、というより〝経済という分野〟そのものが、わたしには難解で、自分自身の直面している問題とうまく結びつきません。
 そこが、頭の痛いところです。

「経済」には心のやりとりも含む

正直なところ、私にも「経済学」はよくわかりません。というより、わかりたいと思ってないんです。プロパガンダだと思っているから。
(ヒマと能力があればプロパガンダの構造を洗い出してみるのも面白いと思うのですが、残念ならが私には両方ともありません(苦笑))

で、どういうプロパガンダかというと、「心とモノは別個」というプロパガンダです。最近は行動経済学やらなにやら、「心とモノ」の問題を取り扱う分野も出てきてはいますが、それでもそういった学知の扱われ方は、それを利用していかに儲けるか、ですから基本的なところはまだあまり変わっていません。

「生命力」というのは「心のやりとり」によって育まれていくもの。ところが「心とモノは別個」になってしまった現在の世界では、「モノのやりとり」ばかりが盛んになって「心のやりとり」が衰退してしまった。「答えは経済」といったのは、モノと一緒に心もやりとりされるようになること、という意味です。

〝心のやりとり〟はなかなか難しい…

特に、モラル・ハラスメントの連鎖があまりにすすみすぎていること。それに、そこから派生する新たな問題があります。
それは〝心のやりとり〟を希求する人々の心を、『お布施』というかたちで取り込もうとする宗教団体の存在です。
一方的な『モノと心』の布施を受けて団体のほうは、ますます元気になりますが、これはもう、巨大な『吸血鬼装置』のようなものです。
人々の〝生命力〟を吸い取って成長する〝化け物〟みたいなもんです。
吸い取られる人間のほうは、ますます生命力を失っていく。
最近つくづくその弊害を思うようになりました…。

循環のなかで豊かになってゆく

それはモノでも心でも同じです。

プロテスタンティズムから派生したといわれる資本主義ですが、その「資本主義の精神」は貨幣を循環させることだったそうです。産業が豊かになれば資本家は多額の資本を「所有」するようになりますが、それはあくまで「神からの委託」。委託を受けた財を循環させる(投資する)ことで社会を豊かにする。それが資本家の神から与えられた「使命」だったのですね。

ですので財をを「私有」してしまうことは、神との契約違反に当たる。ですので初期の資本家たちの生活は質素なものだったんだそうです。

宗教家の本来の役割も資本家のそれと同様です。“心のやりとり”を循環させること。その循環によって社会を豊かにしてゆくこと。こういう言い方は反撥を喰らうかもしれませんが、神は循環のためのツールなのですね。貨幣の循環がモノの循環を促すのと同様に、神への信仰が行き渡ると“心のやりとり”も広がってゆく。

堕落した宗教家もこれまた堕落した資本家と同様で、集まった“やりとり”を循環に回さず私有するのですね。もしかしたらハラスメントとは、私有のための手段なのかもしれません。

財が自分の手から離れていくことをよしとする精神

それこそが、企業・宗教団体・個人を含めて、あらゆる立場で必要とされているのでしょう。

〝循環〟をよしとする、というのは自然界がそもそもそうですよね。
〝氣〟の考え方でもそうですし。(流れているのが健康な状態で、どこかで滞るのは調子が悪いしるしです。)

『モノも心も循環を良しとする』ですね。
納得です。

最近経済を齧って、ジョン・ロックやホッブズ、ベンサムと言った思想も読みましたが、循環と投資は全く同じ物ではないので難しいですね。

ただ、社会のを豊かにさせるのが使命だったというのは面白いと思います。
その点について、おそらくはカトリックかプロテスタントの方だと思いますが、ジョン・ロックを批判していました。
(資本家に「持つ事は神から与えられた権利だ」という事でノブリス・オブリージェを否定してしまったと言う批判です)

まぁ、私は自然権についてはホッブズ派で、主義としてはベンサムの功利主義なので、ロック批判は笑ってみてましたが…。

経済については、確かに物の科学ですが、別に心理的作用を否定するほどの物ではありません。
また、貨幣制度が始まる前の段階から「経済」は存在するので、そこまで嫌う事はないと思いますよ。
文明的に未開の地で行われる「伝統経済」なども存在します。
物ばかり見ても、といいますが、水がなければ農作物は育たず、食料がなければ人は飢え死に、争いも起きる事が増えるかと思います。

生産の効率化は絶対的な物ではありませんが、上手く分配される限りは生産性が高い方が良いと思います。
問題は生産性が上がり過ぎて、その結果、労働と資産の乖離と労働の人間の中抜き、資源の占有、強制的過剰消費(消費して貰わないと制度問題で経済が回らない、市場原理主義的に言うと職員を解雇して飢え死にさせるか、使って貰って雇用を続けるかになる)が進む事だと思います。

大量生産大量消費からのライフスタイルの変化は必要カと思いますが、投資もまた経済で扱う主要な分野です。
そう嫌わないでも良いと思いますよ。(水路の整備なども「投資」ですしね)

循環と投資は全く同じ物ではないので難しいですね

はい。投資は一面では循環ですが、一面では所有ですからね。資本主義が生まれた当初は、その「所有」の一面を「精神」で補っていた、ということだと思います。

私が嫌っているのは「所有」ですが、その理由はハラスメントにつながるからです。

生産の効率化は絶対的な物ではありませんが、上手く分配される限りは生産性が高い方が良いと思います。

いや、それも問題です。それも、というよりそれこそが大問題だと私は思っているんですね。

高い生産性が実現されるのは、大きなエネルギー消費があるから。私たちが現在依存している石油文明は、自然が長い年月を掛けて作り上げたエネルギー密度の高い石油を大量消費することで成立しているわけですから、エネルギー効率という面から考えると決して高くない。

また強制的な過剰消費が可能なのも、エネルギー効率の観点からは非効率なシステムによって余分な時間が生まれたから。いくらカネがあっても、またいくら宣伝されて意欲をもっても、そもそも時間がなければ消費のしようはないわけです。

社会の格差が広がったのも、その原因は時間の有限性の壁に突き当たった所為かもしれません。いくら効率化しようとも一日24時間で時間は有限、そのうえ、食べたり寝たり、生存のために必要な時間がありますから、消費のために使える時間は限りがあります。

高度成長期の社会は消費のための時間の拡大と経済の成長とが並行していたのでしょうが、どこかで時間の拡大は壁にぶち当たったのでしょうね。そこで経済の拡大も止ればよかったのですが、そうはならずに逆に経済の拡大は時間を奪う方向へ転じてしまった。

失業の増加も雇用者の過重労働も、時間を奪われるとい観点から見ると同じです。で、それを支えているのが非効率で生産性の高いシステム。仮に政治によって公平な再分配が行なわれたとしても、今以上に消費のための時間を増やすことは難しいでしょう。が、負債貨幣によって成り立ち利息を取ることを前提としている貨幣経済は成長しないではいられません。公平な分配と経済成長とがバッティングしてしまう。

ならば逆に、エネルギー効率を高めて生産性を低くした方が、権力機構によって無理に再分配するよりも上手くいくかもしれない。と、そんなふうに思ったりもするわけです。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/398-acc20b43

盛り上がらない選挙と与党過半数割れの可能性の有無

『前代未聞の選挙戦』 参議院選挙が盛り上がっていない。当たり前である。 最大政党(与党民主党)と元与党で最大野党の自民党の違いが分からない。 選挙直前に雨後の竹の子のように次々と駆け込みで出来た保守新党と2大政党との違いとは『名前だけ』の体たらくである。...

大相撲名古屋場所の廃止

『名古屋場所放送中止』  NHKの福地茂雄会長は賭博問題で11日に初日を迎える大相撲名古屋場所は、『ゼロベースで検討する』、『相撲協会側から、反社会的な行動についてどのような再発防止が発表されるかを聞いて、結論を出したい』と話していたが、生中継を行わず...

『免税』(消費税ゼロ税率)と『非課税制度』の大きな相違

『払う消費税と、もらえる消費税』 与党だった自民党の中川秀直政調会長(2006年)や党、政府税調は『2010年代半ばまでに消費税10%を実現することが必要』と主張しているし2010年総選挙のマニフェストにも消費税10%増税の必要性を掲げている。 現与党民主党管直

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード