愚慫空論

『ナゲキバト』と「笠松の爺さんの馬」

瀬戸智子さんからいただいたTB『ナゲキバトを読んで』に触発されて、私も『ナゲキバト』という物語を読んでみようと思った。時間があっても金のない今の私は(いつもは金も時間もない)、図書館に蔵書がないかと思い、昨今はネットで図書館の蔵書検索が出来るのを利用して、昨日、町まで買い物に妻が出掛けていくついでにその町の図書館で『ナゲキバト』を借りてきてくれるように頼んだ。幸い『ナゲキバト』はその図書館に蔵書されており、貸し出しもなされていないようであった。
ところが、である。その図書館に蔵書されているはずの『ナゲキバト』が見つからなかったというのだ。同時ももう一冊、石牟礼道子『アニマの鳥』という小説も図書館から借りてくるように頼んだのだが、それも見つからなかった。図書館では貸し出した記録もなかったという。
TVニュース等で図書館を利用する人のマナーが非常に低下しているというのは聞いたことがあるし、実際、大阪にいたときには図書館に所蔵されている本が無残に扱われている実例をたくさん見たが、こちらに越してきてからはそんな例に出会ったことはなかった。誰か心無い者の仕業だと断定は出来ないが、それにしても...。
もし、誰かかが『ナゲキバト』を図書館から無断で持ち去ったというならば、その人は『ナゲキバト』をどのように読んだのか、疑問を持たざるをえない。そしてまた、読書はいったい人間をどれほど高めてくれるものなのか、その効果にも一抹の懐疑を抱いてしまう...。

それはさておき、『ナゲキバト』である。さておき、といっても実際には読んでないので何も書きようがないのだが、それも悔しいので何か書いてみる。それが「笠松の爺さんの馬」である。

『ナゲキバト』を紹介する出版社のHPで本の内容を紹介する文章を読んだとき、私の頭の中をよぎったのが「笠松の爺さんの馬」。これは独立した本や映像などのタイトルではなくて、とあるドラマの中に登場してきた馬とその馬にまつわるエピソードのことを指している。そしてそのドラマとは『北の国から』なのである。

『北の国から』については言うまでもあるまい。「笠松の爺さんの馬」は、最初に連続ドラマとして放映されたなかで出てくる。主人公の純(吉岡秀隆)と蛍(中嶋朋子)がまだ小さな子どもの頃の話だ。
馬が実際に画面に登場してくるシーンは少ない。もっともよく出てきたのは、雪子(竹下景子)と純の遭難のエピソードのときであろうか。富良野の冬の吹雪の凄まじさを知らない雪子が車で峠を越えようとして、吹き溜まりの中に突っ込んでしまい、立ち往生する。降り積もり積もる雪に雪子と純の乗った車が埋もれていく。二人の遭難を察知する五郎(田中邦衛)たちだが、自然の猛威を知るが故に救助活動に出れずにいる。もはやジープでも峠へ入っていくことはできない。そこに登場してくるのが笠松の爺さんの馬だ。ジープはダメでも馬なら遭難した二人を救い出せるかもしれない。五郎と笠松の爺さん(大友柳太朗)は馬橇で猛吹雪の中を二人の救出に向う。二人の乗った車はすでに雪の埋もれてしまっていた。だが馬は二人を探り当てる。突然、馬が前へ進まなくなったのだ。そして、二人はすんでのところで救出される...

それまでのドラマのストーリーの中では、笠松の爺さんは周囲から時代遅れの偏屈者との評価を受けており、その爺さんがもはや時代遅れになった馬を手放さずにいるのはその偏屈ゆえ、との伏線が張られている。だが、大自然の猛威の前では機械文明は無力だ。人間は機械文明に頼りすぎて大切な何かを見落としている。そういうメッセージがこめられているように感じる。


しかし、私が笠松の爺さんの馬について最も深く印象付けられたのはこのエピソードではない。『ナゲキバト』から連想したのもこのエピソードではない。それは、馬は画面には登場せず、笠松の爺さんがとうとう馬を手放したと五郎たちに告げるシーンである。

そのシーンでは、笠松の爺さんが大事にしていた馬に名前をつけなった理由が語られる。馬を手放す段になって初めて、その馬に名前をつけていなかったことに気がついたと話す。そしてそれは、厳しい富良野の開拓地で生き抜いていくための知恵であったのだ、という。
雪が解けると開拓地では農業が始まり。土地の開墾や土起こしに馬は必需品だ。夏の間中、馬を酷使する。そして秋になり、再び雪が降って農業が出来なくなると馬は売り払ってしまう。そうしなければ生きていけなかった。冬の間に演習林の伐採等で金を稼ぎ、その金で春に再び馬を買う。
馬に名前をつけないのは、名前をつけると情が移って売り払ってしまうのが辛くなるからだ。だから馬に名前はつけない。それが開拓地の常識だったのだと笠松の爺さんは語る。生活に多少の余裕ができて、馬を売り払わなくなってからも馬に名前をつけようなどと思ったことはなかった、と。


未だ読まぬ『ナゲキバト』の中で語られていることは、「笠松の爺さんの馬」とは違う内容なのかもしれない。だが、簡単な『ナゲキバト』の内容紹介の文章を読む限り、私には「笠松の爺さんの馬」の話とどこか共通するものがあるように感じた。
その共通するものが何か、それはよくわからない。いつものようにそれを分析してその何かを追い求めようとは、思わない。何か共通していると思ったいうだけで充分だし、実際に共通するものかどうか確認する楽しみもまだ残っている。

コメント

祈りとは

愚樵さん。
こんにちは。
記事の紹介、ありがとうございました。
とても嬉しく拝見いたしました。
すぐにお返事と思いながら、今、夏休み最終版で子どもたちの自由研究や作文などで仕事に追われていました。
やっと、一段落ついたところ。
いつも、子どもたちに教えながら「こんなやり方でいいのか」と自己撞着することばかりです、、、
愚樵さんがテーマとされている「自分の言葉」。
なかなかに難しい、、、
子どもと向き合っているとなおさらです。
ところで愚樵さんのお怪我はいかがでしょうか???
どうぞゆっくりと、しっかりと治してくださいね。

さて、ナゲキバト。
すぐに読むことができる短い本です。
それぞれの人がそれぞれの思いで読まれることと思いますが、私はこの本を「祈り」と言うテーマで読みました。
人は弱い。すぐに何者かに頼る、すがる、しがみつく、、、
そんな人の弱さを救うものは人自らである。
人は神「判断を間違えない勇気と知恵」を授けてくれるように祈るしかない、、、
あまり書くとネタバレなのでまた読まれてからご意見、感想お聞かせください。
なお、笠松のおじいさんの馬の話。存じませんでしたが興味深く拝見しました。
また考えて、書かせていただきます。
では、、、
そうそう奥様にもよろしく!
もうすぐ水上勉の命日です。
なんとなく愚樵さんの奥様がお好きな「土をくらふ日々」を思い出しました。

『 土を喰う日々』ですね

わが妻の好みまで憶えていた下さって、ありがとうございます。そういえば、そんなことも書きましたっけ...。

『ナゲキバト』ですが、コメントいただいてますます楽しみです。図書館で借りようと思ったのは、もうひとつ理由があって、たぶん、購入は一冊で済まないだろうという予感があるからなんですね。たぶん、甥や姪にも見せたくなって贈る羽目になるだろうと。本も何冊も買うとなると、バカになりませんから...。

それと、夏休み最終盤でお忙しいとのこと。この暑さと子どもたちの熱気とで大変でしょうが、私などからみれば、羨ましいです。もっとも私は、子どもたちは苦手なんですけれど...。いえ、好きなんですよ、とっても。でも、苦手。どこか人格に歪みがあるんでしょう(笑)。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/39-225b1a23

異常な『円安』から急激な『円高』へ(下)

 7月20日以降、急激な「円高」が始まった。 米国の低所得者向け住宅ローンを商品として証券化し、ヘッジファンドがそのリスクを移転するモデルを作り出した。そして、米国の住宅バブルが弾けて、このリスクが世界中に飛び火した。投資信託という様々な商品がこれに関わっ

『“ヒトクローン胚”が描く未来社会』

クローン人間に限らず、“遺伝子”操作で生物の性質を変えたり、同質的なものを再生産していくことには反対である。別に、“遺伝子”操作やクローン技術が「神の領域」に踏み込むものだとは思っていない。それらは、自然である人が自然の論理を利用したこざかしい技術だと思

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード