愚慫空論

誰にでも「成功体験」が必要だ

内田樹の研究室:『成功について』

を読みました。

第三の「全員が成功するということはありうるのか?」というの質問はおもしろい。
もちろん答えは「ノー」である。
というのは成功者が「私は成功者だ」という自己認識をもつとしたら、それは、「私は非成功者だ」と思っている人間の「できることなら、この人と立場を入れ替えたい」という羨望を実感した場合だけである。

ここのところに引っかかりを憶えました。この「ノー」という答えには、「成功」とは“奪い合うもの”という「前提」がある。内田氏のことだから、当然この「前提」には無自覚ではなくて、

「幸福」についての物差しはあくまで個人の主観的印象である。だから、「私は幸福である」という言明は他人が否定しても、私が宣言すれば成立する。

というふうに書いています。つまり“奪い合い”の「成功」と非“奪い合い”の「幸福」とを対比させている。

が、「成功」は本当に“奪い合い”なのか? 私はそうではないと思います。
『いのちの歌』のエントリーで、私は

人にとって最初で最大の成功体験は、その人自身がこの世に誕生してきたということ

だと書きました。この世に誕生してきたという「成功」は“奪い合い”でしょうか? 唯物論的な視点にたてば「イエス」でしょう。物質世界は有限なのだから、〈私〉という物質が存在するのは他所から物質を奪ってきた結果に他ならない。それはそうです。しかしそれでも、〈私〉を〈私〉と認識する〈私〉――ここでは〈魂〉とでも呼んでおきましょう――は、有限世界からやってきたものだとは誰にも断言できません。

私たちはこの世に生を受けてから、「成功」を積み重ねてゆきます。目が見えるようになり、耳が聞こえるようになり、言葉は話せるようになり、立ち上がって歩けるようになり、自他の区別がつくようになり――、これらはみな「成功」です。こうした「成功」が周囲に認知されて、「成功」は「成功体験」になる。人がこの世を生き抜いていく「生命力(フォース)」を育むのが、「成功体験」です。

子どもの物理的「成功」は周囲の認知によって精神的「成功体験」へと次元が変わる。子どもはは周囲の精神的次元での認知を受けることで〈フォース〉を大きくする。つまり〈フォース〉とは精神的次元での「力」です。子どもが大人になって有限の物理的次元の世界と戦うには、〈フォース〉が必要です。有限世界と戦うための物理的次元の「力」が〈パワー〉です。

物理的次元の「成功」が精神的次元の「幸福」へ繋がっていくためには、〈パワー〉の行使に際して〈フォース〉が伴わなければなりません。物理的次元と精神的次元を繋ぐのが「成功体験」です。

コメント

成功体験と幸福体験

成功体験と幸福体験がイコールなら、これでいいのですが、成功者だと他人が認めてくれないと幸福を感じられない人がいるので、イコールにならないのではないでしょうか。

こんにちは

TB、ありがとうございました。
ようやくここまで読みましたよ~♪

ちょっとね、よく咀嚼できないんです。
「成功」について、どこかで何かがすり替えられてる気がするんですね。
内田氏のところでか、愚樵さんのところでか。

Re:成功体験と幸福体験

・志村さん

私は成功体験=幸福体験だと思ってます。どちらも他者からもたらされるものですから。

人は自分ひとりでは、自分が人間だということすら認識出来ない存在ではないのでしょうか。

おはようございます

・アキラさん

さて、なにがすり替わったんでしょう?

私はすり替えをしましたけどね。“奪い合い”から非“奪い合い”へ。

内田氏がすり替えをしたとしたなら何なのでしょう?

そうだ

ちょっと頭の整理ができたかも?です。 (^_^;)

自称「幸福」も、自称「成功」も、もちろん可能ですよね?

また、自分では「幸福だ」と思ってなくても、周囲から「お前は幸せだよ」と言われる「幸福」という状態もある。
同様に、自分では「成功してる」と思ってなくても、周囲から「お前は成功してるよ」と言われる「成功」という状態もある。

さらに、自分では「幸福だ」と思ってなくても、周囲の人々を見て「オレは幸せなんだな」と思える「幸福」という状態もあるし、
自分では「成功してる」と思ってなくても、周囲の人々を見て「オレは成功してるんだな」と思える「成功」という状態もある。

だから、実は「成功」も「幸せ」も対置できるものではなく、おんなじものだと思うわけです。
その意味で、内田氏の書き方がそもそもヘン・・なんだろうと思いました。

でも

・アキラさん

だから、実は「成功」も「幸せ」も対置できるものではなく、おんなじものだと思うわけです。

はい。精神的次元では「成功」「幸福」は同じです。でも、一般的には“成功したからといって幸せとは限らない”といわれますよね。これもまた本当のことでしょう?

「成功」「幸福」が一致するか一致しないか。これは“嘘か誠か”ということなんだと思ったりします。自称「成功」自称「幸福」ともに可能。それは嘘がつけるからでもある。そして、人間を精神と身体とに二分したとき、精神は嘘をつくが身体は嘘をつかない。

ここで話がこんがらがってしまいます(笑) 身体は物質的次元ではないのか? と。

ちなみに〈フォース〉が出所は私は身体の方だと思っているんです。健全な身体から〈フォース〉が出てくる。

物質的次元の身体から精神的次元が湧出してくる。
なんだかおかしな話だけど、そう思うんです(笑)

あ、すみません

僕が『実は「成功」も「幸せ」も対置できるものではなく、おんなじものだと思う』と書いたのは、イコールだという意味ではなくて、同じタイプのものだという意味でした。
だから、「成功」との対比として「幸福」を出してきた内田氏の、その書き方がヘンなんだな・・と思ったんです。
同じタイプのものを対比として出してきてもしょうがないんじゃない? という。
分かりづらくてごめんなさい。 (^_^;)

それはそれとして、身体って物質的次元のものなんでしょうかね?
と、いつも素朴な疑問なんです。 (^_^;)
死んだ身体は、確かに物質的次元のもののような気がします。
けれど、生きた身体を物質的次元と言えるものなのかどうか。。。

生きた身体というのは、ある働きの「その時点での結果」というか「その時点での標本」というか、そういうものだと思うんです。
そういう「標本」的なニュアンスとしては、確かに物資的です。
「精神的次元」は、この生きた身体(標本)というバイアスがかかった「ある働き」の変形でしょう。
つまり、生きた身体なくしては存在しないけれど、生きた身体の手前にあるものでもある。
「その時点での標本」としての生きた身体は、「ある働き」が「(小さな)社会」と出会うことによって形成されていく。

そんなイメージを抱くものですから、どうも物質的次元と精神的次元という対置もピンとこないんです。
次元として分けられない気がするんですよね。
で〈フォース〉は、このそもそもの「ある働き」に関わるものなんじゃないかな?と思ったり。
多分言わんとしてることは、愚樵さんとあまり変わらないとは思うんですけど。 (^_^;)

Re:それはそれとして

それはそれとして、身体って物質的次元のものなんでしょうかね?
と、いつも素朴な疑問なんです。

ですよね。

次元として分けられない気がするんですよね。

ここも同感です。ま、でも、分けてみなきゃ話が進まないという事情がありますから。アキラさんに断わる必要はないでしょうけど。


身体は(主に)無意識を介して精神に繋がっている。
精神は(主に)意識を介して身体に繋がっている。

このようにいうと、「精神=意識+無意識」ではないのか、という疑問が出てきますが。

精神は「器」で「空」でしたよね。意識も無意識も「ある働き」というか「波動」というか「エネルギー」というか、そういったものでしょうけど、それは絶え間なく流れつつ「器」を形作る。で、「器」の中に満ちている「何か」を〈魂〉というのでしょう、たぶん。

〈フォース〉というのは、身体から精神へ向かう無意識のエネルギーかな、と今のところは考えていますが、まだちょっと自信ありません。

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