愚慫空論

『我らが世』

  君が代は
  千代に八千代に
  さざれ石のいわおとなりて
  苔のむすまで


ご存知、我らが日本国の国歌『君が代』です。

今、このタイミングで『君が代』といえば、サッカーW杯でしょうか。対カメルーン戦を私は見ていないんですけど(時間が遅すぎ)、君が代はスタジアムに流されたはず。その後のゲームは大方の予想を裏切っての勝利ということで、一応日本に帰属する私も“わがイレブン”の勝利には喜びを感じずにはいられません。

しかし、少し立ち止まって考えてみると、『君が代』というのは妙な歌です。いえ、歌としては別におかしくはないのですが、W杯やオリンピックのような国際試合に演奏されることが多い国歌としてはいささかそぐわない雰囲気がある。というのも、この歌は「勝利」とは全く無縁なのですね。

国歌というのは「国家の建設」を歌ったものが一般です。日本と対戦したカメルーン共和国の国歌ですと、

 O Cameroun berceau de nos ancêtres,
 Va, debout et jaloux de ta liberté.
 Comme un soleil ton drapeau fier doit être,
 Un symbole ardent de foi et d’unité,
 Que tous tes enfants du Nord et Sud,
 De l’Est à l’Ouest soient tout amour!
 Te servir que ce soit le seul but
 Pour remplir leur devoir toujour.


 おお、カメルーン、私たちの先祖の揺りかごよ、
 行け、立ち上がって、君の自由を大切にして。
 太陽のように君の誇らしい旗は
 信義と団結の燃えるような象徴であるに違いない。
 北と南の、東と西の、
 すべての君の子供がすべての愛であらんことを!
 君に奉仕することが彼らの義務を常に果たすための
 唯一の目標であらんことを。
(出典はコチラ)

といった具合。アメリカの『星条旗よ永遠なれ』、フランスの『ラ・マルセイエーズ』も似たような調子です。
「国家の建設」という行為が成し遂げられる → 勝利 という図式があるのです。

ところが『君が代』の場合、「国家の建設」は所与なのです。他の国歌に見られるような“創り上げる!”といった気概や高揚感はなくて、もうすでに出来上がっている国がいつまでも続くように――、という静かな祈願になっている。自己完結していると言っていいかもしれません。

対戦前に歌われる国歌としては違和感が感じられる理由は、この自己完結感でしょう。自己完結ということは、戦う相手を必要としていないということです。それはつまり戦いそのものを必要としていない、ということでもある。日本人は戦わずして日本国を創った。いや、創ったというより自然と出来上がっていた。『君が代』というのは、そういったメッセージを発している歌、自己完結への希求の歌だと思うのです。

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「自己完結への希求」から連想されるのは、9条です。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する

「正義と秩序を基調とする国際平和」=「自己完結」です。「国権の発動たる戦争」は「自己完結」を乱す、ゆえに放棄する。これが日本人の9条の受け止めかたなのではないか、と私は思う。

が、この受け止め方は世界標準ではありません。世界標準では「国家は建設するもの」であり、そこには戦いと勝利が必要です。ちょうど日本人が対カメルーン戦で味わったような愛国心、これを味わうには必ず敵が必要なのですね。だから戦いは放棄できない。戦いを放棄してしまえば己もなくなってしまう。戦いを放棄すれば「自己完結」すると捉える日本式とはまるで正反対。この差異は、国は「自然に出来上がった」とする感性と、「国は創り上げる」とする感性の差異に根ざしたものでしょう。もっといえば、「人間は自然の一部である」とする感性と「人間は万物の霊長である」とする感性の違いだとも言えます。

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「自己完結」の行き着く先は、当然のことながら「平和」です。“平らな和”という文字自体が「自己完結」のイメージそのものです。そして、自己完結した平和な世界では、我も君もないのです。9条を護持しようとするいわゆる護憲派は、君→天皇→国家・国権→人権抑圧 という思考回路を働かせる向きが多いのですが、これは世界標準であり「自己完結」を妨げる方法です。この方法では「平和は(人為的に)創り上げる」道を選ぶしかなく、そうなるとその手段が問われることになる。そしてその手段に暴力はどうあっても不可欠ですから、自己矛盾に陥ってしまう。この道ではいつまで経っても希求する「平和」へ辿り着けません。

平和な世界では我も君もないのであれば、『君が代』は『我らが世』です。実際、“君が代は~♪”を“我らが世は~♪”と歌っても何の違和感もありませんし、意味にも何ら変わりません。


コメント

日本国の本質

なるほど、日本国の本質は、そこにありそうですね。地球は、もともとそこにあったのだから、そのままでよろしい。「君たち、まだ戦争するの? 遅れてるねぇ。」
 余談ですが、沖縄の先生は、君が代の「き」を「た」に変えて歌うそうですよ。

小石は幾ら時間が経っても巌には成らないでしょう

普通は、コケが生えた大きな巌が時間が経って、風化してばらばらになって小石になってしまう。
まあ小石や砂が堆積して出来た礫岩と言うのも確かにあるが、これは岩の中でも一番弱い。
ですから君が代の歌詞の小石が巌に成るとの意味は『ありえない奇跡的な出来事』の意味ではないでしょうか。?
それなら国家の武装を禁じた憲法9条なんかは、国家の根本的な命題である『国家の暴力』を否定しているのですから、これはもう『さざれ石が巌に成る』君が代の歌詞の意味と全く同じだとなります。

それにしても『君が代』は不思議な歌です。
愚樵さんも指摘しているように、色々な意味で『君が代』は日本国の国歌として考えると世界的に見ても実に不思議な存在ですね。
何しろ『日の丸』大好きの日本の街宣右翼が軍歌を流す事はあっても『君が代』を流すのを聞いた試しがない。
太平洋戦争中でも万歳突撃の時とか集団自決の時にみんなが『君が代』を歌いながらなんて、聞いたこともない。
この理由は、サッカーの中田英寿元選手も言っていたが、『君が世』のメロディを聞くと誰も彼もが『気分が萎える』為らしいのですよ。
『君が代』には、聞いた者たちの気分が落ち込みモチベーションが確実に低下する不思議な作用がある。
これを利用しない手はありません。
ワールドカップなど国際試合などでは試合開始前の国歌斉唱の時に日本選手は耳栓をして相手国側選手だけに聞かせるのです。
頭の固い日本サッカー協会が採用しそうにはありませんが、良いアイデアだと思うので岡田監督に誰か推薦して下さい。
今回、予選の第一試合でカメルーンに1対0で勝ったのは良いが喜んでばかりはいられません。
今までのワールドカップでは自国開催(日韓共催)の時を除けば、すべて一大会(予選3試合)で1得点しか取れないのが日本の今までのサッカーの歴史です。
今回一点で一勝するとは実に効率的な試合運びなのですが、何時もの1大会1得点だとすると、カメルーンより強いオランダやデンマークとの後の2試合は完封負けの可能性が高いでしょう。
何故予選の3試合で合計しても1点だったかですが、これはもう『君が代』のモチベーションを確実に下げる効果が悪い方に働いたのです。
今回日本チームはワールドカップの試合前の『君が代』斉唱時に、選手みんなでスクラムを組んでヤケクソで歌っていましたよ。
これが良かったのです。
学校の卒業式とか子供達に整列させて姿勢よく『君が代』を歌く事を強制する文部省は大反省して頂きたい。
あの『君が代』の歌詞やメロディはスクラムでも組んでヤケクソで歌ってちょうど良い程度になる不思議な歌なのです。

民の世

・志村さん

そうですか、沖縄の先生たちは進んでおられる(笑)

私は自然発生的日本国が成立したのは江戸時代だったろうと思っています。

江戸時代を特徴付ける制度は徳川家を中心作り上げられた。それは人為的に創り上げられたものなのでしょうが、その人為的に作り出された平和のなかから「日本の民」が見出した平和。それが君が代と9条に宿っているのではないでしょうか。

江戸時代は黒船の来訪をもって幕を閉じ明治維新を経て新しい時代が始まりますが、民が創った日本国は大きく揺るぎはしなかった。明治維新が大きな内乱にならなかったのは「民の日本」がしっかりと根付いていたから。その点、欧米列強などよりも日本の方が遙かに進んでいたといっていいでしょう。

ただ、科学技術の点では大きく遅れを取っていたのは事実で、そこを巻き返そうと、殖産興業富国強兵に走り、戦争までやってしまいましたが、負けたところで気がついた。日本人は戦争によって日本人になったのではない、と。それが9条だったのだと思うのです。

生命体は時間をかけて大きくなった

・逝きし世の面影さん

小石を巌を言葉通り無機物とみればありえない話ですが、小石を個人・巌を国と見なせば、長い年月をかけて出来上がるのだ、というふうにも取れますね。なにせ日本は「山川草木悉皆浄土」のお国柄ですから、無機物を生命体と同一視するのもありかな、と。

ちょっと苦しいかな? (笑)

ワールドカップなど国際試合などでは試合開始前の国歌斉唱の時に日本選手は耳栓をして相手国側選手だけに聞かせるのです。

わははは。良いアイディアですね。で、どうせなら、斉唱が終わった後に柏手を打つとかやってみてもいいかもしれません。

余談ですが

小石が巌になるというのは、石にも命があって成長するとする自然信仰でしょう。「さざれ石」と称する石は複数の神社にもあって、たいてい大きな巌に苔が生えています。それを見た人が「ああ、これで日本の国もお終いだ。」

納得です!

君が代の国家観・平和観の延長線上に9条の国家観・平和観がある。
実に違和感なく頷けます。
ともに、〝いま、ここにある平和が続きますように〟という祈りが、その平和観・繁栄観・幸福観の根本にあるんですね。
そして、こうした国家観・平和観を内包している国歌や憲法は他に世界にあまり類がありません。
そこに日本という国の独自性があり、その平和観は世界へ向けて提示すべき〝価値〟を持ちます。
『平和は勝ち取るものでも建設できるものでもない。現にここにあり、唯一人々の祈りによってのみ、維持されうるものなのだ』という、わたしたち日本人のごく一般的な感覚が、実は日本以外の国々では、ほとんど類を見ない卓越した思想と受けとられるであろうことは間違いないと、思うのです。

ありふれた思想では?

・naokoさん

今の世の中、誰が言い出したのかA層、B層といった不愉快な区分付けがありますが、『平和は勝ち取るものでも建設できるものでもない』という思想はB層のものです。そして、いつの時代もB層が圧倒的多数なのですから、B層の思想こそがありふれた普遍的な思想のはず。ただ、B層は言語化された思想をもたない。思想として語られるのはいつもA層の思想です。

実は日本以外の国々では、ほとんど類を見ない卓越した思想

いえ、たぶんこうした思想は世界中どこにもあるものだと思います。ただ現在は、世界中が人間が自然の支配者――人間A層、自然B層――という思想に席巻されてしまっていて、見えなくなってしまっているのでしょう。が、忘れてしまっているわけではないと思います。世界中には、思い出している人もたくさんいるはずです。

こうした国家観・平和観を内包している国歌や憲法は他に世界にあまり類がありません。

はい。これは仰るとおりです。というのも、憲法や国旗国歌というのが「創り上げる思想」のものだからです。本来ならばそこに「自然に出来上がる思想」のものが入るはずはないし、現にほとんどの国にそれは入っていませんが、日本は例外的に「創り上げる思想」の中に「自然に出来上がる思想」が紛れ込んだ。この「紛れ込み」をこそ、日本が世界に向かって発信すべきものだと思うのです。

久々に来て見たら面白い話が

なるほど、その思想が正しいかどうかは別として、そういった思想は確かにありそうですね。

護憲派にも多数有り、天皇否定派ばかりではありません。
護憲派の最も活動的でなく人口の多くは「戦争は嫌だ」と言う気持ちが先走っていると思われます。

テロを嫌悪し、デモやストライキを嫌悪する日本人の性質の中にはこの「自己完結」観は確かにあるかもしれませんね。選挙に無関心なのもそう言った事情があるかもしれません。

でも、政治においても世界情勢においても、それが許されなくなっている様にも思います。
漠然と続く体制では生存が脅かされる人が多くなっているように思います。
それでも、おそらく犯罪行為やテロなどに拒否反応を示す人は多いでしょう。同情心を感じながらも。

その現在の矛盾を解決出来ない限り、日本の自己完結した物語は崩壊を迎えるでしょう。
それは今まで続いてきた「制度」や「道徳」の今よりも激しい崩壊として現れると思います。
今までは大きな変化がなく、変化も上層部が行い、それでも上手く回っていました。
今の政治の上層部は手を打ち出すことが出来ません。
そもそも本気で手を打ち出す気があるのかすら分かりません。

このまま国政と国勢の悪化が続けば、国は分裂して崩壊するでしょう。
戦えとは言いませんが、いい事か悪い事かは別として、私は、行動を起こさずにお上に任せて自己完結できる時代は終わろうとしているのかも知れないと感じています。

誇れる事では有ったかもしれない、でもやはり理想でしかなかったんだよと言われる様では、そう言われる状況になった民は不幸な上に悲しいだけだと思います。
理想でしかないと言われない為に、自己完結を続ける事はもう出来ないかもしれないと思っています。

とは言え、そもそも、私は世界の本質は戦いだと考えていますけどね…。
だからと言って人間が殺し合えばいいとか自然は人間に全て搾取されろとは思いませんが、
殺し合わねば死ぬ存在に殺し合うなと言う気もないですし、殺し合わなければ壊れてしまう人(鬱病や過労もそうですし、生きる意味の喪失などもそうです)に殺し合うなと言う事も出来ません。
殺し合う必要のない世界はある程度作れるかもしれません。しかし、人間に限らず、「誰か」は犠牲になり続けるでしょう。おそらくは人間も、命と言う形以外で多くの人が対価を支払うでしょう。
そして、その犠牲を強いる側は「善」ではなく、「勝者」「強者」でしかなく、その犠牲は「仕方ない物」に過ぎないでしょう。どんな物であれ。
犠牲のない、犠牲の少ない自己完結は確かに理想的です。しかし、時にそれは非常に残酷です。自己完結を自己完結で終えてしまうと、「犠牲」に気が付かなくなるからです。「対価」でも構いません。
気が付かれない犠牲とは「犯罪者」「テロリスト」であったりします。つまり「悪」と断罪され裁かれる人々です。日本はその状況があると思います。ニートも悪、失業者も悪、テロリストも悪、盗みも悪、革命はテロと呼ばれ民衆に非難されるかもしれません。
江戸時代にイギリスからの訪問者は日本の人々を見て理想的な人々だと書いたそうです。キリスト教で言う従順な羊の体現者であると。しかし、従順な羊は「犠牲」や「対価」に鈍感なだけの人々かもしれないと、そう考えてしまう時が最近あります。

従順なだけの羊でいい時代はもう終わってしまったのではないでしょうか?もしかしたら、飼い主に従順である事よりも、隣の羊の為を思って行動する必要があるのではないでしょうか?

追記

ただ、国を「創り上げる」のではなく「自然と出来ているもの」と言う思想自体はいいかもしれませんね。

下手な対立意識と差別意識への薬にもなるかもしれません。
民族間に限らず、国家間における物でもそうです。
差別意識への薬としては微妙ですが、対立意識の軽減には役に立つかもしれませんね。
右翼左翼含めて、大抵の日本人はあまり海外の事気にしてないでしょうし。(嫌ってる国って、大抵相手が嫌ってきてる国、対立を前面に出してきてる国だし。まぁ、なんにしても言い方って大事ですよねと。)

わたしにとってもありふれた思想と感じはします

>愚樵さん
しかし、そうは感じない人たちが、この国でも増えている気がします。
外国ではなおさらでしょう。
もちろん、イマキュレーのように、平和を内なるものとして自然と感じられるような育ちをしている人もいるにはいるでしょうが。
現代の社会への順応の努力が、そうした『感覚』を打ち消していくのでしょう。

どちらへ動くか

・猫さん

行動を起こさずにお上に任せて自己完結できる時代は終わろうとしている

同感ですが、たぶん、目指す方向性が違っているんでしょうね。

そもそも、私は世界の本質は戦いだと考えています

私は「そのようにも考えることができる」つまり「別の考え方もできる」という立場ですが、「本質=戦い」という立場から見てみますと、昔の日本人にとって戦いの相手とはまず自然だったのです。現代の日本人が忘れているのはこの感覚。戦いの相手とはまず他人だと思いこんでいる。そして自然とは、良くて“抱かれるもの”、悪くて“不潔なもの”、といった感覚になってしまっている。これは技術が発展してどこもかしこもとしかしてしまっている現代日本では致し方のないことですけれども。

自然と戦う日本人は、その戦いを通じて自己を確立します。その結果が「人間は自然の一部である」というもの。自己完結ですね。だから、他人との戦においても自己完結であり、人と人とが結びついて出来上がる国も“自然に出来上がっていく”と感じる。

江戸時代にイギリスからの訪問者は日本の人々を見て理想的な人々だと書いたそうです。キリスト教で言う従順な羊の体現者であると。しかし、従順な羊は「犠牲」や「対価」に鈍感なだけの人々かもしれないと、そう考えてしまう時が最近あります。

鈍感になっているのは現代人です。自然は征服すべきものと考えてしまっているから鈍感になるのです。同じ人間同士でも、相手を奴隷だと考えてしまえばその痛みや犠牲に鈍感になってしまう。それと同じことです。

自己完結を自己完結で終えてしまうと、「犠牲」に気が付かなくなるからです。「対価」でも構いません。

何の「犠牲」も「対価」も支払わずに自己完結に至ることはできません。問題は「犠牲」「対価」に気がつくかどうか。奴隷がいくら犠牲になったとて、それを「対価」とは思わない。ならば必要になってくるのが「同じ人間」の生命ということになる。西洋流の近代国家は、「同じ人間の生命」が「対価」として支払われている。そこが前提だから、あっさり軍隊は要らないといえないんです。そう言ってしまうと、それまで支払われた「対価」の価値を放棄してしまうことになってしまいますから。

「同じ人間」を犠牲にする方向へ動くか。「同じ自然」を犠牲にする方向へ動くか。私は後者が良いと思うのですが。

犠牲と対価の意味が狭義の意味になってないでしょうか?

また、戦いの意味も対人について、特に狭義ではないでしょうか?

犠牲とは人が死ぬ事だけではなく、抑圧の事です。
死にたくないけど殺されると言う抑圧もその中に含まれるだけです。
対価とは労力、場合によっては搾取の事です。
これらは自覚のあるなしは関係ありません。
「自分が理解出来る物は犠牲とするけど、理解出来ない物は犠牲としない」は私からすれば十分に鈍感です。
対価についても同様です。

搾取については究極を言うと所有の境界線が重なる部分が出てきます。
即ち、お互いが相手に「搾取されようとしている」と感じる部分です。
そんな時には、どちらを適用しても本来は縄張り争いの勝ち負けでしかありません。
餌の取り合いに負けたから譲るだけです。

仏教においては確かに、その思想の反対を行くかも知れません。
しかし、その時にも人の社会に気が付かれぬ犠牲があり続けたのはまた事実です。
気が付かなかったのではなく、それが当たり前で、仕方がないと思っていただけかもしれません。
でも、その仕方のなさを強制し、そこから外れようとする人間を悪し様に言う風潮は昔からありました。
しかし、「あくまで仕方がないだけなのだから抵抗はあって当然」と考える方が相手に対する考えとしては余程健全であると思うのですが…。

人間を犠牲にするよりは自然を犠牲にする方がマシだというのは人間の感覚としては分かりますが、

>>「国権の発動たる戦争」は「自己完結」を乱す、ゆえに放棄する。

この考え方を全て肯定できないのです。
「自己完結を乱す物を嫌う」昨今の日本を見ていると、むしろ一度この「自己完結を乱すから放棄する」という考え方を見つめ直さないといけない、「自己完結」の内容を見直さなければいけないと思います。
まぁ、自己完結の内容も実際話せば個々に違いがあり、変更するべきと考える内容も個々に違うでしょうけどね。
慰安婦問題が一番その辺りは分裂してそうだと思いますが。
(海外の女性だけ保障の社民公明、そもそもなかったの自民、全被害者の共産、他にもあったけど当時合法とか、単純に旧ドイツの若者の反感のように「ヒトラー選んだの俺らじゃねぇよ」と同じく「あったらしいけど知らねぇよ」などなど、それこそそもそもなかった論は本当に信じてるか分かりませんが、「誰を犠牲にするか」の論議でしょう)

目指す方向性が違うのはあるでしょうけど、だから貴方の考えは間違えだーと言うだけなら、やはり犠牲に鈍感なだけだと思うのですが。「足るを知る」のは良い事ですが、政治と個人道徳を一緒くたにして語れば、古代では「良い奴隷・悪い奴隷(確かユダヤ系の教えだったと思いますが)」みたいな話がある訳で、そう言った制度も許容する事になります。
確かに、社会を明文化した政治は「個人」の作る物なので、個人と無関係ではなく、個人の配下にあるのは確かでしょうが、個人道徳に丸投げする事とはまた別だと思います。

鈍感でスミマセン

・猫さん

...すみません、コメントの文脈がよく飲み込めません(苦笑)

犠牲とは人が死ぬ事だけではなく、抑圧の事です

ええ、わかります。私も別に人が死ぬことだけが犠牲だと思っているわけではありません。ここは戦争の話なので、そこの焦点を合わせているだけで。

そんな時には、どちらを適用しても本来は縄張り争いの勝ち負けでしかありません。
餌の取り合いに負けたから譲るだけです。

「あくまで仕方がないだけなのだから抵抗はあって当然」と考える方が相手に対する考えとしては余程健全であると思うのですが…

そこも同感です。私自身はそういったことを自然との対峙において学んだつもりで、その「学び」が「日本人の方法」だろう、と思っているのです。

目指す方向性が違うのはあるでしょうけど、だから貴方の考えは間違えだーと言うだけなら、やはり犠牲に鈍感なだけだと思うのですが

なぜこういうことになるのかがよくわからない。西洋人には西洋人に合った「正しさ」があり、日本人には日本人に合った「正しさ」がある。みなそれぞれに培ってきた文化というものがあるので「正しさ」の尺度は違う、それだけのことではないでしょうか? (とはいえ、私は日本人ならば日本人の「正しさ」に従え、などというつもりは毛頭ありません。西洋的「正しさ」を個人の「正しさ」と位置づけることは一向に構わない。ただ、それを押しつけるのは「日本的正しさ」を押しつけるのと同じでしょう)。

社会を明文化した政治は「個人」の作る物なので、個人と無関係ではなく、個人の配下にあるのは確かでしょうが、個人道徳に丸投げする事とはまた別だと思います。

もちろんです。私はここで個人道徳を語っているつもりはありません。日本人という共同幻想に焦点を当てているつもり。で、この共同幻想は、政治の在り方に直結するのではないでしょうか?

上手く伝えられていなくて申し訳ないです

もしかしたらそちらの言う意見に対する理解も間違えているかもしれないので、質問も交えて返信させて頂ければと思います。

>>自然と戦う日本人は、その戦いを通じて自己を確立します。その結果が「人間は自然の一部である」というもの。自己完結ですね。だから、他人との戦においても自己完結であり、人と人とが結びついて出来上がる国も“自然に出来上がっていく”と感じる。

この話の本題の部分なんでしょうが、前の部分の「自己完結」と後ろの部分の「自己完結」の繋がりが良く分かりません。
特に他人との争いにおける自己完結が上手く理解出来ていません。
もしかしたら最初の文章が正しく理解をしていないからかもしれません、環境活動に直接携わった事も、そう言った労務に携わっている物でもありません。
言ってしまえば、頭でっかちな面はあるでしょう。
私の考える「人間も自然の一部」と言うのは「縁」であり、「相互関係」であり、そして人間も動物であると言う当たり前の点から来ていると思います。ちなみに進化論信者なので、元が動物と言う意味も当然あります。
だから、実感として何時の間にか得ていた物と言えるかと言うと、多分そうではないと思います。
(直感や実感が絡んだ体験と言えば、中学の頃のTVニュースで放送されていた領土問題を見て「やっぱり人間も所詮動物だよ。利己的縄張り争いに偉そうに理由付けてるだけで、むしろ動物より誤魔化してそれに誤魔化されるだけ低俗?」と思っていたと言うくらいです)

>そんな時には、どちらを適用しても本来は縄張り争いの勝ち負けでしかありません。
>餌の取り合いに負けたから譲るだけです。
>「あくまで仕方がないだけなのだから抵抗はあって当然」と考える方が相手に対する考えとしては余程健全であると思うのですが…

そこも同感です。私自身はそういったことを自然との対峙において学んだつもりで、その「学び」が「日本人の方法」だろう、と思っているのです。

これについては、私は、抵抗の最終系が殺人や戦争だと思っているので、これを「健全」としながら「戦争は駄目」と言い出してしまうと、「何故に?」とおもってしまいます。
戦争は失敗の「結果」ですが、失敗した物を解決する為の方法としては「禁止する物」ではないと思っているからです。
法的に禁止するな、とは言いません、でも、戦争を受ける側が「これは現在の法の論理を超えた部分の問題なんだ」と言う認識を持つ事はあった方が「優しく健全」であると思うからです。
戦争は人を犠牲にするかもしれませんが、結局の所、戦争が起こると言う事は、戦争がなくても誰かが犠牲になっているんではないかと思ってしまうからです。
感情が先走っている物で、しかもその感情が「不合理」(善悪とは言いません)な物である時には、「理解すれば解消する」事もあるでしょうが、歴史的に利害が絡む部分から発展した戦争の方が多かったと記憶しています。

>>目指す方向性が違うのはあるでしょうけど、だから貴方の考えは間違えだーと言うだけなら、やはり犠牲に鈍感なだけだと思うのですが

なぜこういうことになるのかがよくわからない。西洋人には西洋人に合った「正しさ」があり、日本人には日本人に合った「正しさ」がある。みなそれぞれに培ってきた文化というものがあるので「正しさ」の尺度は違う、それだけのことではないでしょうか? (とはいえ、私は日本人ならば日本人の「正しさ」に従え、などというつもりは毛頭ありません。西洋的「正しさ」を個人の「正しさ」と位置づけることは一向に構わない。ただ、それを押しつけるのは「日本的正しさ」を押しつけるのと同じでしょう)。

従えと言うのではなく逆です。「間違えだ」と言う事は「正しさ」の強制に近い。それぞれの正しさを受け入れないと言う事に近い。その時、間違った物が受ける間違っているゆえの抑圧は「犠牲」と取られないのが実情ではないでしょうか?
自己完結とはもっと言い換えれば「完成」ではないでしょうか?そうなった時、「完成」を阻害する状況が嫌われ悪とされ、人々の認識上からも排除されないかと言うのが私の危惧です。
「完成された平和」は多くの人が望むでしょう。それこそ、多くの護憲派であるサイレントマジョリティはこの「完成された平和」を夢見ていると思います。
でも、それが実現可能かは私は疑問でもあります。
その完成された平和は「誰かの犠牲」「誰かに対する抵抗や反抗の否定」の上で成り立っているのではないかと、懐疑的に考えてしまうのです。

極端な話、私からすれば平和と言うのは「誰も力がなく暴力を振るわない世界」ではなく「全員力を持って暴力を振るえるが、暴力を振るわない世界、または適当な暴力で済む世界」の方です。
暴力を振るえるけど振るわないのと、暴力を振るえないから振るわないのは、同じではないと思っています。
暴力が振るえたら振るう、と言う場合、やはりそこに抑圧があるのだと思っています。
(平和、ではなく、「人和」とでも言えばそれはそれで暴力を取り上げて抑え込むのもありだと思いますが)

まぁ、暴力の対象の結構上の方に日本も居る気がしますが、哲学の話なんで個人の好悪・利害は抜いて話すと、こういう形になるわけです。好悪と利害で話したら「したくない」で間違いないですけど、まぁ、絶対したくないではなく、今の状況を考えたら、ですけど。

>社会を明文化した政治は「個人」の作る物なので、個人と無関係ではなく、個人の配下にあるのは確かでしょうが、個人道徳に丸投げする事とはまた別だと思います。

もちろんです。私はここで個人道徳を語っているつもりはありません。日本人という共同幻想に焦点を当てているつもり。で、この共同幻想は、政治の在り方に直結するのではないでしょうか?

確かに、血統的に海外の人や教育的に海外の人にも直結するので大きく関ると思います。
私はそこは色んな意味で右寄りですが。
(部落解放同盟→× 民潭→× 総連→× ですからね。そんなに祖国が好きなら祖国に帰ればいいのにと言う意見に大賛成の人間ですしね。同化を望むな→なら帰ればいいじゃないですしね。まぁ、同化の基準をきつくしすぎるのも如何かと思いますが、日本を「他国」と思って韓国などを「自国」と考えて利益誘導する様なら、現在の国際経済戦争においては「ただでさえ政治家が自分の私服肥やす為に米か中に尻尾振ってるんで帰れ」とおもってますしね。アイヌ問題はまだしも。(部落は既に現状逆差別で利権団体化してると思う為×、民潭総連は嫌なら自国があるでしょうって言う。嫌な部分にもよるけど。相続税とか年金とかその辺りも全部同一化勧めない日本も悪いけど。まぁ、日本だけで同一化しても不満は出るだろうけど。(在日は差別されてるって言うのは一面の問題。国外に行けない人は居ても国内にいけない人はいないと言う点からまず差別的な問題。ま、だから国連が税金徴収と保護しろって冗談でも言うんだけど。))

対話の継続、ありがたいです。

・猫さん

>>自然と戦う日本人は、その戦いを通じて自己を確立します。その結果が「人間は自然の一部である」というもの。自己完結ですね。だから、他人との戦においても自己完結であり、人と人とが結びついて出来上がる国も“自然に出来上がっていく”と感じる。

ここですね。自分でも読み返してみましたが、ご指摘を受けると確かにわかりにくい。私自身は自分で“わかったつもり”で書いていますので、こういった不十分な表現になってしまうのですね。スミマセン。

まず、人が自己を確立するには戦いが必要です。戦って勝利すること、つまり成功体験が必要です。昔の日本人はこの戦いを自然と行い、勝利し、成功体験を収めてきた。この成功体験とは、子どもの頃であれば虫を捕まえたり木登りをしたり、大人であれば田畑で労働して収穫を得る、そういった営みです。

他人との戦いにおいて自己完結とは、すでに自然との闘いにおいて自己確立をしているので、戦う必要がない、ということです。

つまり上の自己完結は、自然と戦って自然と一体となるという意味での自己完結、下は、すでに自己完結している、という意味です。わかりにくくてスミマセンσ(^o^;

これについては、私は、抵抗の最終系が殺人や戦争だと思っているので、これを「健全」としながら「戦争は駄目」と言い出してしまうと、「何故に?」とおもってしまいます。

上でも述べましたが、私の位置づけでは殺人や戦争は「最初」なのですね。特に国家意識においては。で、そのことが日本以外の国歌には表れている――と、このエントリーはそういう話のつもりなのです。

私の猫さんの認識のズレは、「最初」と「最終」にあるのではないでしょうか?

その完成された平和は「誰かの犠牲」「誰かに対する抵抗や反抗の否定」の上で成り立っているのではないかと、懐疑的に考えてしまう

仰ることはよくわかります。だからこそ私は出発点の話をしているんですね。出発点に「抑圧」「犠牲」があるなら、その完成もそうならざるを得ないんです。近代国家の出発点からいけば、平和とは「単一勢力による制覇」ということになる。「パクス・アメリカ―ナ」というのもそうした発想ですね。

暴力を振るえるけど振るわないのと、暴力を振るえないから振るわないのは、同じではないと思っています。

ええ、同感です。で、暴力を振わないなら、その「力」はどこへ向くのか? という話なんです。暴力だって「力=生命力=フォース」の発露の一形態です。が、もっと別の好ましい発露の仕方がある。私はそれが贈与だと思っているのですね。

贈与の話はこのエントリーの枠を超えてしまいますが、他人との戦いにおいて自己完結している人間が創る「和」は、贈与の交換、つまり「贈与経済」による平和になるだろう、というわけです。

『君が代』を受容する日本人の「日本人意識(共同幻想)」は、自己完結した者たちの「経済」(「贈与経済」だとはいいきれませんが)に立脚している。いや、していた。そこをもって私は「政治と直結している」と言っているのです。

>>まず、人が自己を確立するには戦いが必要です。戦って勝利すること、つまり成功体験が必要です。昔の日本人はこの戦いを自然と行い、勝利し、成功体験を収めてきた。この成功体験とは、子どもの頃であれば虫を捕まえたり木登りをしたり、大人であれば田畑で労働して収穫を得る、そういった営みです。
>>他人との戦いにおいて自己完結とは、すでに自然との闘いにおいて自己確立をしているので、戦う必要がない、ということです。

なるほど、それぞれの前後関係とは別に自己完結の意味を誤解していたかもしれません。
つまり、自己の確立(心から自己決定で行われ、その相手に受け入れられた立ち位置の決定?)の為に戦争・外敵が必要である西洋と、それが不要の日本という対比の考えですね。了解しました。
そう言う意味では、「自己完結型」の思考の方が、国家を作ろうとする人が故意に戦争をしたり、まとまりや治安維持の流れの一つとしての戦争は不用になりますね。

>>上でも述べましたが、私の位置づけでは殺人や戦争は「最初」なのですね。特に国家意識においては。で、そのことが日本以外の国歌には表れている――と、このエントリーはそういう話のつもりなのです。


これは上手く理解できていませんでした。確かに仰るとおり、つまり集団形成・自己形成の方法としての戦争と、自己形成・集団形成後の利害における戦争とで全く話は違いますね。
そう言う意味で、戦争減少の一つの方法であるのは確かかもしれません。

>>仰ることはよくわかります。だからこそ私は出発点の話をしているんですね。出発点に「抑圧」「犠牲」があるなら、その完成もそうならざるを得ないんです。近代国家の出発点からいけば、平和とは「単一勢力による制覇」ということになる。「パクス・アメリカ―ナ」というのもそうした発想ですね。

なるほど、確かに戦争には大きな「抑圧」と「犠牲」がつき物です。武力戦争でなくても、外交戦争や経済戦争でも抑圧の上に成り立っていますね。
国際自由経済とかも一種の国家と考えれば、それこそ、現在は抑圧を元にした世界の勢力圏の形成途中となるでしょうか?
そう考えれば、今の国際的な行動が平和へ向かう道ではないだろうと言うのもうなずけます。

ええ、同感です。で、暴力を振わないなら、その「力」はどこへ向くのか? という話なんです。暴力だって「力=生命力=フォース」の発露の一形態です。が、もっと別の好ましい発露の仕方がある。私はそれが贈与だと思っているのですね。

ここはちょっと上手く飲み込めてません。パワーの元は同じと言うのは分からないでもないのですが、暴力に向かうのには暴力に向かう理由があると思っているので、「力を導く」のは「政治」の役目だと思っています。
つまり、「暴力に向ける気が起きない」世界にして、「贈与の送り方を教えて社会参加の実感を与える」世界にするような仕事ですね。
若者風に言えば「居場所を与える」でしょうか?
相互の信頼と敬意の文化といっても良いかも知れません。
「どちらかが裏切られるかもしれないけど、まずは贈与してみて」と言うのはちょっと違う気がしますしね…。
(本当に自己完結した人間はもしかしたら期待を持たず見返りも求めないかもしれませんが、現在の人間全体にそこまでの完成を求めるのは難しいでしょう。それこそ、韓国や朝鮮・中国を江戸時代の同じ長屋の住人と思えるかです。って言うか、江戸時代でも、相手から嫌ってくる相手には同じ長屋でもそんな「仲間意識」はなかったでしょうし)

>>贈与の話はこのエントリーの枠を超えてしまいますが、他人との戦いにおいて自己完結している人間が創る「和」は、贈与の交換、つまり「贈与経済」による平和になるだろう、というわけです。

贈与の幅や意味は確か、一般よりも狭くて広かった気がするので、多くは言いませんが、確かに江戸時代の長屋や農村などはそうであったかもしれませんね。
助け合いと言う意味で、損得とは別に強い共同体意識(帰属意識)はあったようですしね。
まぁ、だからこそ「信頼と敬意の文化」なんですけど…。(現在の助け合いの多くは外交的戦略に基づく物が多く、根本的に相手の存在に対しては「相互不信」なので、短期的に見ても無条件の「助け合い」と言うのはないかなと、助けてくれてありがとう→当たり前じゃない、仲間(友達)だもんげみたいな関係はないですよねと。せいぜい苦笑いしながら「まぁ、人道的にどうかと思うし」「見捨てたら周囲からの心象わるいし」と言うのがせいぜいかなと(そう考えると、「道徳」と言う考えは相互不信の社会で最低限の助け合いが行われるようにする為の文化?とも思ってしまいますが)

話はだいたい通じたみたいで(笑)

・猫さん

パワーの元は同じと言うのは分からないでもないのですが、暴力に向かうのには暴力に向かう理由があると思っているので、「力を導く」のは「政治」の役目だと思っています。

ここよりも上の部分は話が通じたようですね。ありがとうございます。

で、「力を導く」のは「政治」の役割――同意です。それで問題はその導き方なんですが、これが別エントリーで挙げている「成功体験へ還れ!」ではないか、と私は思っているのですね。また成功体験へ還ることが“暴力ではないパワーの発揮の仕方”になるのではないか、と思っているわけです(もっともこれはまだ、そうなるという確証が私の中にもあるわけではないのですが)。

本当に自己完結した人間はもしかしたら期待を持たず見返りも求めないかもしれませんが、

こんなのは絶対無理ですし、また、それを求めるとそれはそれで「抑圧」が始まりますからね。ここらあたりは、まだ私自身も整理がついていません(苦笑)

江戸時代の長屋や農村などはそうであったかもしれませんね。
助け合いと言う意味で、損得とは別に強い共同体意識(帰属意識)はあったようですしね。

これはまた別エントリーで話をしてみたいと思いますが、私の感触では「助け合い」は「損得勘定」なんです。日本人はそうです。共同体意識は持ちつつ、共同体の成員同士は「損得勘定」で「助け合い」を行なう。だから「空気を読む」んですよ。

さざれ石

・逝きし世の面影 さん
>小石は幾ら時間が経っても巌には成らないでしょう
>普通は、コケが生えた大きな巌が時間が経って、風化してばらばらになって小石になってしまう。
>まあ小石や砂が堆積して出来た礫岩と言うのも確かにあるが、これは岩の中でも一番弱い。
>ですから君が代の歌詞の小石が巌に成るとの意味は『ありえない奇跡的な出来事』の意味ではないでしょうか。?

現実に「さざれ石」っていくつも存在してますけども。
雨水などで溶け出した石灰質の作用により、小石がコンクリート状に凝結して固まってできたものですから、それなりに硬いですよ。
モース硬度7といいますから、石英並み。ガラスより硬いみたいです。

ご自身の知識に無いものを『ありえない』を否定されるのは、いかがなものでしょうかね。

>>えまのんさん
まぁまぁ、それは「科学批判と科学信仰」と同じ話ですし、言い方はきついですが、貴方の言った言葉を謙虚に受け止めればそれで良いじゃありません。

えまのんさんは、「第一種永久機関」は存在すると思いますか?光速を超えて過去に戻るような物は如何でしょう?
「ありえない」と思うものはえまのんさんもあるのではないでしょうか?

確かに、永久機関は解決の糸口は出来ていません。
光速超えもそうでしょう。
でも、「ありえない」と言う事は全知でない以上不可能です。
せいぜい「前提」「制限」をつけて「ない」とする事が現実の限界でしょう。
昔は「上と下は実在する」と思われていました。
重力なんて目に見えない力は、人々の目に見える範囲、科学的な言い方をすれば観測可能範囲にはどこにも存在しなかったのです。
確かに重力は存在はしましたが、観測されるような世界観が存在しなかったし、その世界観を構築する素材について観測手段がなかった。
音速を超える事だって昔は無理だとされていたのです。
そんな事をすれば音波の壁で自身が壊れると言われていたのです。

人は自分の知る事しか知りません。これは道理です。
ですから、貴方が今の科学の限界を1つでも完全に信じているなら彼をその事で非難する道理はありません。
貴方の方が彼より知識があった、そこは誇っていいでしょうが、自分の無知を認めるかどうかを見る前に「決め付けとか」と言う非難をするのは、非常に危険だと思いますよ。

これは、政治や歴史の議論で、言って分からない人間に「馬鹿」と言うだけなら簡単と言う事より、さらに前の話です。
「ありえない物などない」と言う立場でしたら、「ありえないなんて間違っても使うな」と言う気持ちも分かりますけどね。(現実にそう言う人はあまりいない気がします)(笑)

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