愚慫空論

私の哲学 ひとりひとりの幸せ

先のエントリーでの自らのコメントで予告していたことですが、同エントリーに頂いた布引洋さんのご意見に対して、ブログ主の特権を濫用してエントリーをアップすることで反論したいと思います。

本文は後段になりますが、その前にひとこと。
布引さんへの反論の思案を練るうちに、それが布引さんひとりへの反論という枠に収まりきらないような事態になってしまいました。と同時に、自分で言うのもなんですが、妙に熱を帯びた感じになってしまいました。その上、唯我独尊です。唯我独尊で熱を帯びた分だけ鬱陶しいです。

そんな文章でよろしければ、どうぞ、「続きを読む」をクリックしてください。
まずは布引さんのコメントの引用から

「危険な観念の暴走」

『我思う、故に我あり』も『我感じる、故に我あり』も共に観念論でインテリ知識層の遊戯としてなら成り立ちますが、実生活内で役に立つ知識ではありません。
科学的思考とは言いがたい。科学では全ての定説や法則、原理原則は最初は仮説にしかすぎません。
コペルニクスの地動説も彼は、惑星の軌道計算を其れまでの定説であるプトレマイオスの天動説よりも簡単に計算できる仮説として説明しています。
科学は客観的事実から出発して、客観的事実で検証され、客観的事実で完結する。
プラトンやデカルトやパスカル等の哲人は色々素晴らしいことを考えた。しかし幾ら素晴らしくても客観的検証が不能で哲学ではあっても科学ではなかった。
彼らの失敗は、客観的事実から出発する科学的手法を執らなかったからで、自分の『内部の思考』から出発して『内部の思考』で完結したこと。

内部思考の典型例が『我思う、故に我あり』ですね。
デカルトが思おうが思わなかろうが、感じようが感じなかろうが実態としてのデカルトは『我は存在する』のです。
独断に陥りやすい主観的判断や主観的思考を、客観的事実や客観的判断に置き換えて其れまでの暇人も屁理屈(ソフィスト)や絶対に論破されない禅問答(観念論)に変へて科学的な哲学(弁証法的的唯物論)をマルクスが創造する。
違いはな検証可能かそうでないか、新しい仮説を認めるか認めないか、進歩するかしないかで、進歩しない哲学は科学ではありません。
全ての定説は最初は仮説にすぎず、科学とは無数の仮説の上に成り立っている。仮説を定説にランクアップするのは一にも二にも客観的事実の検証以外にありえない。
事実の裏付けのない観念の暴走は危険極まりない。

また布引さんは、後のコメントで
>私の主張は一言。『言葉遊びを止めよう』
とも仰っています...。

しかし、いくらなんでも『言葉遊び』とまで言われてしまうのは、私にとっては心外なことです。

布引さんはマルクスを引き合いに出しています。同エントリーのコメント欄で布引さんとかつさんが丁々発止を演じて下さっていますが、それはさておき、マルクスは布引さんの仰るように「検証可能」なもので思想を構築した、少なくとも構築しようと試みたという点については、私は布引さんに同意できます。けれど同意できないのは、マルクスの思想は、それを哲学と呼ぶに吝かではないですけれど、決して哲学として代表的なものではない。むしろ、例外的なものであるということです。
マルクスか自らの思想を科学的と言ったのは当然のことでしょう。マルクスの思索の過程はどうであれ、結果としては「検証可能」なことか取り扱わなかった。もっと言えば、検証不能はものは切り捨ててしまったのです。

私は『言葉遊び』という布引さんの言葉に、マルクスと同様の「切り捨て」を感じざるをえません。そして声を大にして言いたいのは、人間は検証できなくても切り捨てられないものをひとりひとりがみな持っているということです。その切り捨てられないものを「幸せ」と呼ぶのだろうと私は思っています。

私の拙い思索を哲学と認めていただけるなら大変光栄なことです。ですが、私が私の哲学をするのは、決して遊戯でやっているのではありません。それが生きるのに必要だからしているだけのことです。
私は私です。「思う」も「感じる」もありません。それは布引さんのおっしゃる通りです。私の人生もまた誰が何と言おうと私の人生です。その存在は誰にも疑いようのないものであっても、私の人生は、当の私自身にとっても検証など不可能なことです。しかし、検証不可能だからといって切り捨てることは出来ません。そんなことをしたら私は私でなくなってしまいます。
布引さんはそもそも検証不可能なことは、わざわざ検証しなくていいのだ、とお考えになっているのかもしれません。そしてその考えは、おそらく布引さんだけのものではありますまい。この世に生を受けた人間の大部分もそのような考えであると思います。そのことについては、私も私なりの人生経験から同意することが出来ます。

ですが、違うのです。大部分の人がそうであっても、私は違う。不幸なことに私には不可能なことに取り組まなければならない理由がある。この事態を私はハッキリ「不幸なこと」と断言しますが、これはそういう「不幸」な人にしか理解できない性質のものです。不遜な言い方で申し訳ありませんが、検証不能とスキップできる人は、私などから言わせれば、それだけで「幸せ」な人です。

そもそも検証不可能なものを検証しようとする私の絶望的で愚かな取り組み、これが私の哲学なのです。
この「私の哲学」についての私の意見が、少数ではあっても決して私だけの考えではないということを一応、示しておきたいと思います。

ーマン・マルコムの『回想のヴィトゲンシュタイン』の中に、ヴィトゲンシュタインが、哲学をしばしば潜水にたとえた、という話が伝えられている。人間の体は、自然にしていると水面に浮かび上がる傾向がある。哲学的に思考するためには、その自然の傾向に逆らって、水中にもぐろうと努力しなければならない、という話だった。この話を読んだときぼく(永井均)はこう思った。でも、ひょっとしたら、人間の中には、自然にしていると、どうしても水中に沈んでしまうような特異体質のやつがいるんじゃないか、そしてたとえば、ヴィトゲンシュタインなんかがそうなんじゃないか、と。
人間を二種類に分けるこの単純な分類が、そんなにまとはずれでないとすると、哲学というものが人間にとって持つ意味は、実は二種類あることになる。水面に浮かびがちな人にとっての哲学と、水中に沈みがちな人にとっての哲学。~
水面に浮かびがちな人にとって、哲学の価値は、言ってみれば、水面下のようすをしることによって水面生活を豊かにすることにあるだろうし、それしかないだろう。(愚樵注:布引さんはおそらく、この価値も認めていない)
でも、水中に沈みがちな人にとっての哲学とは、実は、水面にはいあがるための唯一の方法なのだ。~
(永井均著『〈子ども〉のための哲学 』p.194)


私は私の哲学の過程で、様々な副産物を生み出してきました。その一部を綴っているのがこの『愚樵空論』です。ですからここに書かれていることは、実は最初から検証することを期待していないものです。いや、この言い方は正確ではない。検証を期待していないわけではないが、できっこないと諦めつつ書いている。
自ら認めますが、これは矛盾した態度です。だからブログを更新することが私には、時に非常に重たくてやりきれなくなってしまうときがあります。それでも完全に縁を切れないのはまた別の理由があるからで、それが「コミュニケーション」なのです。

ついでですから、もうひとつ、私自身の難点を自ら指摘しておきます。私のような人間にとっては、実は「コミュニケーション」もまた、かなりの困難を要します。というのも、水面に浮く人間と沈む人間とでは、自ずから視点が違うからです。この視点の違いによって、互いに発せられる言葉の意味がすれ違ってしまうことが頻繁に起こってしまいます。
この問題は布引さんも指摘されているので特に見解の相違はないでしょうが、今、ここでは別の例を挙げておきます。人間の見方についてです。

水面に浮かび上がろうとジタバタもがく私のような人間から見れば、それまでは何ともなく水面に浮いていたのが、何かの拍子で重石を持たされて沈みそうになっている人を他人事のように思えない。この拍子といったものが本人が望んだか望まなかったかとか、そんなことは関係ない。ジタバタもがいているように見えると、どうしても共感を覚えてしまうのです。
かけがえのない身内を殺害され、加害者を死刑にすべく全身全霊を注いでいる人。また、ジタバタもがくがゆえに、犯してはならない罪を犯してしまった人。能力がないにもかかわらず、また自ら望んでか望まれてかは知らないが、国家の舵取りなどという重責を背負っている人。ちっぽけな視野でしかモノを見れないがゆえに「友軍が~」なんて発言をし、あまつさえ「罪を背負って裁かれてもよい」などという人。どの人も私にとっては、水面でジタバタしている人のように感じられてしまうのです。


私の哲学は、なるほど観念の暴走かも知れません。布引さんのその認識を否定するつもりはありません。ですが、危険と言われても、その暴走を続けなければならない理由を持っている私はやめる訳には行きません。危険という発言には「やめなさい」という意が含まれていて、布引さんはそれを善意から発したと思いますが、それでも私は止める訳にはいかないのです。
布引さんの発言は、それが善意であることは認めても、やはり私にとっては内面への干渉です。もちろんそれがコミュニケーションですし、また人生ですから、そうした干渉を拒否するつもりはありません。ですがこのことだけは言っておきたいと思います。
検証可能性とはいうなれば「知」です。「知」の真髄と言ってもいいでしょう。その「知」を持って他人の内面に干渉すること。私はこれを「知の暴走」と呼び、非難したいのです


恥ずかしながら、私は哲学を必要する人間です。何のためと問われれば、何のことはない、幸せになるためにです。ただそのままでは幸せでいられないだけのことで、幸せが必要という点に関しては世の中のみんなと同じです。
幸せはひとりひとりのために、ひとりひとり特別なものが必要です。ひとりひとりの人間にとって必要な幸せは、客観的な検証など不可能なものですし、また不要なものでもあります。ところが今日、私たちひとりひとりの幸せは「知」によって大きな干渉を受けています。その「知」の代表例が貨幣であり、国家です。が、それだけではありません。明示できるもの、計算できるもの、検証できるもの、こういった「知」に私たちの幸せは干渉を受けているのです。また明示しよう、計算しよう、検証しようという方向性に干渉を受けています。そしてその方向性を規定しているのが「近代」という時代です。

しかし私たちは一方で、この「知」のお陰で豊かな生活を享受しています。豊かな生活だけではない。おそらく「知」がなければ私たち人類はいま、この地球上に生存することが出来なかったでしょう。「知」を全否定するなどといったことはバカげています。けれども、もはや「知」に何らかの制限を加えない訳には行きません。その方法は現在はまだ確立されていませんし、恐らくはこれからも明示的で検証可能な方法として確立されることはないでしょう。明示的な事として出来るのは、せいぜい、私たちひとりひとりの幸せよりも国家の利益を追求する戦争なるものを禁止する程度のことです。

コメント

外野から

私はこの論争の経過を知らないし、論争に参加するつもりもありません。ただ愚樵さんの言っていることが、わかる気がします。私もかつて「放っておくと沈む」人間でした。そこから抜けて幸せになりたいと思ったのは、恋をしたからでした。今の私にとって、人を幸せにしてくれない思索は、価値のないものです。

速報です

愚樵さん,TBありがとうございました.それから怪我をされたそうでお見舞い申し上げます.でもいいですねぇ,みんなから心配されて.私も昔を思い出します.スポーツで怪我をして,クラスの大勢の女子いたく心配してくれて,ちやほやしてくれました.怪我が治りたくない気分でしたよ.私の全盛時代だったかもしれない・・・(笑泣)
ところで,冗談はこれくらいにして,TBを戴いたので感想を書かせていただきます.ざっと読んだ速報程度と思っていただけたら幸いです.
このところの愚樵さんの一連の考察は,愚樵さん個人の内部のことを語っておられるとはとても思いませんでした.愚樵さん個人の内面の哲学であれば,私ごときは不勉強ゆえ何もいえるレベルではありません.そうですね.地図でいえば私が一万分の一の地図とすると愚樵さんは十万分の一の地図をみて話をしているような感じですね.私は元々そういうもどかしさを感じていましたが,この記事をみて状況がわかってような気がします.これではコミュニケーションにもあまりなっていなかったと思われます.
では私はどう思っていたのか.すべての出発点は,愚樵さんの旧バージョンの記事,2006-10-03付け 『庶民vs市民(前)』にあります.
庶民と市民が日の丸・君が代問題についてどういう態度をとるか,という話です.この中で,直接的な言及は避けておられるものの,日の丸・君が代を忌避する『市民』に対してマイナスイメージを与えておられる(と私は少なくとも感じました)と,非常な違和感を感じました.読者に対して誘導・刷り込みを試みておられるのでは,などと心配したものです.(長い中断で忘れていましたが,途中で思い出しました)
というのは,職場でただ一人日の丸・君が代を忌避する人(教員だと思いますが)がいたとしても.その人は決して社会的な権利,市民としての権利を主張しているのではない,と思うからです(いろいろな思いがあるにしてもです).それは個人の内面に国の論理がずかずかと容赦なく入り込んでくる現象ではないか.それを一般的な市民と庶民の問題に捉えるとは歪曲ではないか,と思ったのです.それで,愚樵さんの正体を見極めようとああでもない,こうでもない,と最近いろいろお聞きしたわけです.
そうそう,今回の記事の言葉を使って言えば,
『「知」を持って他人の内面に干渉すること。私はこれを「知の暴走」と呼び、非難したいのです。』
という部分を愚樵さん自身が犯しているのではないか(そうなる方に加担している),というような感じですね.
長くなりますのでまとめると,愚樵さんの内面の哲学追求にしては,外部,とくに左翼市民への干渉が過ぎる,一連の記事に対してそんな感じがしたことをお伝えしたかったのでした.(あくまでも速報版です.すみません.でもやはり左翼への警鐘ですよね?)
念のためですが,愚樵さんの内面の哲学追求そのものに対しては,私から何も申し上げる立場にはありません.

最後訂正

私のコメントの最後の文を次のように訂正してください.すみません.

訂正後 『念のためですが,愚樵さんが自ら幸せになるための哲学追求そのものに対しては,私から何も申し上げる立場にはありません.』

訂正前  『念のためですが,愚樵さんの内面の哲学追求そのものに対しては,私から何も申し上げる立場にはありません.』

どうぞおだいじに & 「君あり、故に我あり」

こんばんは。
その後、左足の具合はいかがですか。療養の時間が十分に取れますように。早い回復を祈っています。

ところで、愚樵さんのエントリーやいろいろな方のコメントから、それるのですが・・・。私の感覚には『君あり、故に我あり』(You are, therefore, I am.)というサティシュ・クマールの言葉がしっくりきます。『我思う、故に我あり』という感覚がしっくりくる知的な人になりたかったのですが、それは私にはちょっと背伸びしすぎのような在り方のようです。いろんな自己認識の仕方があるからこそ、対話が面白くなるのでしょうね。

お大事に

海彦、山彦という言葉があるように樵の仕事は日本の原点とも言うべき仕事です。しかし年間40人近くが命を落とす大変危険な仕事でもあります。そのような仕事に携わりながら哲学をする愚樵さんの文章には、人生の本質を見極めようとする意志が感じられます。
私はあまり本を読まないので、マルクスなどの論争にはついていけませんが、好きな言葉はあります。「人間は考える葦である」
こちらのブログで私はこれを実行させていただいております。ただし、「もう少し短くまとめられないのー」と思うこともありますが・・・。
足の怪我、どうぞお大事になさってください。見切り発車は禁物です。

恋がきっかけ

志村さん
>そこから抜けて幸せになりたいと思ったのは、恋をしたからでした

ほのぼのしますねぇ。いいなぁ。

ただ、私の場合、「恋」というとほろ苦いでは済まない思い出があります。自分が沈む人間だとハッキリ思い知らしめたのが「恋」だったからです。

初恋のときは、逃げました。相手からも自分自身からも。
次は逃げてはいけないと思って、向き合うことにしました。向き合うというより、相手にすがりついたんです。二人とも溺れてしまいました。そのとき思ったのは、まだしもひとりでジタバタするほうがマシだと。

今は妻が私の浮き袋です。けれどやっぱり最初は息が合わなくて、大変な思いをしました。
 

副産物だけではダメみたい

papillonさん

>『「知」を持って他人の内面に干渉すること。私はこれを「知の暴走」と呼び、非難したいのです。』
という部分を愚樵さん自身が犯している

前にも、そうご指摘くださいましたよね。自分自身で言うのもなんですが、まったく同感なんです。私もそう思っています。自分自身の思いを表現するのであっても、それを言葉を使って一般化しよう、ましてや「庶民」や「市民」などと大きな概念で括ってしまうと、ますます一般化してしまって、それが「知の暴走」になる。かといって何かを表現しようとすると、一般化は避けられない...。ジレンマなんですよね。

それまでにも私は、「自分の言葉で語る」というようなことを言っていました。けれど、これが充分に出来ていなかったんでしょう。副産物を自分から切り離して語ったんでは、自分の言葉にならない。

布引さんが感じておられるのもそれでしょう。「言葉遊び」というのは、オマエの本当の言葉ではないのだろうと。きっと、そういう指摘だったのだろうと思います。私はそう言われて反発した。私は私なんだ、と言わなければならなかった。

批判めいた文章を書いた後にこんなことをいうと言い訳めいてしまうのですが、私は布引さんに感謝しています。布引さんの干渉がなければ、こういう事態にはならなかっただろうから。怪我について書いたエントリーにしても、布引さんのコメントがなければたぶん書いていません。愚樵空論を始めた頃は自分の仕事についていろいろ書いてはいましたが、お仲間ができるにつれ、そこから遠ざかってしまっていました。知らずのうちに自分の身を盾の向こう側に置こうとしていました。でも、それでは布引さんのコメントに正面から向き合えなかった。
papillonさんのコメントは、そのことを改めて確認させてくれました。ありがとうございます。

厚かましいことを申し上げますが、papillonさんにひとつお願いがあるのです。
私はこれからも私の哲学の副産物を語ろうと思います。これまでよりももっと、自分の言葉で自分に引き付けて。しかしそうなると逆に、私の考えにぶつけてくださるpapillonさんをはじめ皆さんの意見は、どうしても私の内面への干渉になります。
お願いというのは、どんどん内面へ干渉してきてください、ということなのです。それを受けれなければ、布引さんの「言葉遊び」という批判に対抗することができないと思いますから。

やっぱり恋だ~

るるどさん
お見舞いのお言葉、ありがとうございます。

>『君あり、故に我あり』
うん、やっぱり恋ですかね。サティシュ・クマールがどういう文脈で語ったのかは知りませんが。
でもそうですねぇ、『君あり、故に我あり』は『我あり、故に君あり』とセットにした方がいいかも。

『我あり、故に君あり』
『君あり、故に我あり』

『君あり、故に我あり』
『我あり、故に君あり』

どちらが先は、悩ましい...。

ところで『我思う、故に我あり』は、私に言わせれば知的後退です。

あいたたっ!

あくつですさん
ありがとうございます。
見切り発車は禁物、まことに仰るとおりです。
(以下小声で)ですが、生きていくには他にも見切らなければならないものがたくさんありまして、その最もたるものが妻の機嫌です。貧窮生活が長く続くと手がつけられなくなりますので...

それはさておき
>「もう少し短くまとめられないのー」
努力します。しますがどれだけ出来ることやら...
ご寛容のほどを。m(_ _)m

反応と醸成

愚樵さん,ご返事戴きありがとうございます.私自身,愚樵さんとコミュニケーションできているような気がしていませんでした.でもこれからできそうな気がします.これからも『好意ある干渉』を私からも愚樵さんの方からもしあえたらいいですね.私は『自分とは何か』などを考えるのが苦手なんです.ですから,愚樵さんの内面から表に出てきたことにしか反応できませんが,よろしくお願いします.やはり,干渉という刺激を受けて,反応が生じ醸成されて新たなステージに達するよう私も望んでいます.

最たるものが妻の機嫌

誤解がある様なので少し弁解を。
愚樵さんが水中でもがいている状態なら、私は沈みきって海底に足が付いてしまって、じたばたする事も出来ず水圧をもろに感じている状態です。
しかし上を見上げると此処からなら社会全般全てが見渡せますよ。
(溺れている状態は水面近くにいる状態で、上を見れば上だけ、下を見れば下しか見えない。
最悪状態では目の前の水しか見えない)

その昔、妻が半分の家事分担を要求した時に『日本は資本主義社会である、故に家事分担も其の稼ぎ額に正比例するのが当然』と豪語。
現在この資本主義原則を適用すると家事のほとんどは私の受け持ちになる。妻が忘れてくれている事をひたすら祈る今日この頃。


この記事の感想は『してやったり』と『やりすぎたか』が半分半分。『言葉遊びを止めよう』などの言葉で愚樵さんを挑発、内面を引き出す手法は、相手を限界(極限)に追い詰めて知りたい事(本音)を引き出すやり方で副作用もあるが効果は確実。(悪よの~)

そうだったのか!

そうだったんですか、布引さんは半魚人だったんですね。
恐れ入りました。

半溺人と半魚人でこれからもコミュニケーションできたら楽しいと思います。是非ともよろしくお願いします。

考える事も大事だが、考えないことも大事

前の【private】志向【pubulic】志向を読んで、強く感じたのは苦しみもがいている愚樵さんの姿です。
『水面に浮かび上がろうとジタバタもがく』の表現は、実に的確に自身の状態を認識している証拠で読む方までもが苦しくなる。

だいぶ昔の話ですが、女の幽霊が出ると噂の小屋で就寝中に金縛り状態になったことがあるのです。
就寝中、真っ黒な男が上から身体を押さえつけて来る。女なら文句を言わないが、何と相手は2mを越す大男。
真暗闇の中で大男に馬乗りになられて身動きが出来ない。何とか跳ね飛ばそうと全力を出すがびくともしない。苦しいこと苦しいこと。
長い間もがき苦しみ疲労困憊へとへとになって『これはいけない、何とかしなければ』と焦れば焦るほど何も出来ない。
そうこうしている間に、ある重要な事実に気が付いた。
体を押さえつける正体不明の大男は怖い。しかしこの様に睡眠不足で疲れ果てた状態では明日の岩登りが危なくなる。
今ここで殺されるかも知れないが、其れよりこのままでは明日岩壁から落ちる確率の方が遥かに高い。このままではどうしょうもない。成るようにしか成らず、仕方が無い。好きにしろ。! 

『明日のために、俺は寝る』

そう決断した瞬間に金縛り状態は解消されて、深い眠りの中り落ちて行った。

翌日は無事登攀を成功させ、何事も無かったようにメンバー全員無事下山することが出来た。

だから私は樵をやってます

そうなんですね、考えないことも大事。あんまり考えすぎるとおかしくなってしまいます。私もそれはわかってるんです。だから樵をやってます。仕事をしている間はあんまり頭を使わなくていいというか、使っても使う部位が違うんでしょう。それでバランスがなんとか取れている。

まったく頭を使わず、ボ~っとしてると、エライ目に遭います(苦笑)。

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