愚慫空論

仲間外れにするのはよくない

〈道徳〉的な〈帝国〉の続きを書くつもりでしたが、やめました。
途中まで書きかけてはいるんですが。某所でゴタゴタしたせいもあってか、なんとなく続きを書く気力が失せました。別の話をしてみます。

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サンデル教授の授業が大人気のようで、検索してみるとあちこちのブログで取り上げられている模様。私も遅ればせながら、そこに連なってみたいと思います。

取り上げるのは初回放送の「殺人に正義はあるか」から『Lecture2 サバイバルのための殺人』です。ここではミニョネット号の遭難事件という実際にあった出来事が紹介されていました。その事件の経緯は、

・ミヨネット号が陸から遠く離れた公海上で難破。
・4人の船員が救命艇で奪取するが、食料はわずか(カブの缶詰2個)、水は雨水しかないという状態
・4人は4日目に缶詰をひとつ開けて、分かち合った
・5日目にウミガメを捕まえ殺して、食料とした
・18日目には2つ目の缶詰を食べてしまい、完全に食料が尽きた。
・20日目に、3人は衰弱した少年1人を殺して、食料とした
・24日目に3人は救助された。
・母国(イギリス)に戻った3人のうち2人が殺人罪で起訴された

と、こんな話でした。サンデル教授の授業では、この事件で実際に発生した「食人」という行為の是非が問われます。

この授業の様子を見ながら、私は不思議に思ったことがありました。それは下線を引いて示した部分。カメを殺して食べたという点について、だれも疑問に思った者はいなかった。当たり前といえば当たり前の話なのですが、それで済ましてしまっては哲学としては失格でしょう。

次のような仮定をしてみます。もし捉まえて食べたのがウミガメではなくクジラだったとしたら? クジラを食べる文化を持つ日本人には理解しにくいことですが、世界にはクジラやイルカを「仲間」と見なして殺してはいけない、と主張する人たちも存在します。事件があった当時はそのような人はいなかったでしょうが、いたと仮定したとしたら、どうでしょう?

また次のような仮定も考えてみることができます。事件が起こったのが奴隷制度のある時代の話で、殺され食料とされた少年がもし奴隷下級の者だったとしたら? 残りの者たちは殺人罪で訴えられたでしょうか?

人は動物ですから食料なしに生存はかないません。食料を得るためには殺さなければなりませんが、それは生きていくためにどうしても必要な行為です。が、その対象は無限定というわけではない。そこには道徳的な制約が加えられます。食人はいけない。人殺しはいけない。それは確かにそうですが、それでは十分な答えになっていません。もっと根本的には、「仲間」は殺してはいけない、のです。

「仲間」は殺してはいけない、これは逆にいうと「仲間」でないものは殺してもよい、ということになります。ウミガメは仲間でなかったから、殺しても罪に問われることはなかった。もし少年が奴隷であったなら、殺しても罪に問われる可能性は低かったであろう。また現代であっても、敵、つまり「仲間」ではないと認定されたら、それが例え人殺しであっても罪に問われることはない。戦争で兵士が敵を殺害するのは、英雄的行為であって罪ではありません。
もっとも英雄的行為というのは、敵と罪を認定する権力者の視点に立ったときの話です。実際に戦場で敵を殺す兵士は、兵士自身の視点から「仲間」か否かを判断しています。そしてその視点からは権力が認定した敵がイコール兵士自身が認定する「仲間」ではない、とは限らない。兵士自身は「仲間」と認定しているのに、権力が敵と認定してるために殺さなければならない事態が戦場ではたびたびおこる。だから、兵士は心を病むことになる。

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話をサンデル教授の授業に戻しましょう。今度は『Lecture1 犠牲になる命を選べるか』から。
ここではある架空の選択が「あなた」に突きつけられます。 ・あなたは高速で走行する車の運転手で、その車のブレーキが壊れていることに気がついた
・車の進路には5人の人がいて、このままでは5人は確実に死亡する
・ハンドルを切って進路を変えることはできるが、そこにも1人いて、その場合はそちらの1人が死ぬことになる
・1人を殺すか5人を殺すか、あなたの選択は?

そしてもうひとつ。

・あなたは上の暴走する車を見ている傍観者である
・そのままでは進路上の5人は死ぬ
・ところが、あなたは人を1人車の進路上に突き落とせば5人を救えることに気がついた
・1人を殺すか5人を殺すか、あなたの選択は?

上のケースも下のケースも、最後の問いかけは“殺すのは1人か5人か”という問いになっています。ところがこの問いかけに対する学生の答えは上と下とでは異なる。上では1人、下では5人を選択する者が多い。この食い違いからサンデル教授は「帰結主義」と「定言的な考え方」というふたつの原理を導き、その両者は相容れないとします。

(帰結主義――行為の結果に道徳性を求める。上のケース。
 定言的な考え方――ある種の必要条件・義務・権利のなかに道徳性を求める。下のケース。)

しかし、道徳性の判断が相反するような2つのケースも「仲間」という視点から見れば統一的に理解できると私は思います。

まず、上のケース。このケースでは、運転手である「あなた」にとって1人も5人も「程度に仲間ではない、という言うことができます。「同程度に仲間ではない」というのは、「仲間」か否かは「あなた」の行動で決定されるわけではない、「あなた」がどちらを選択しようが1人と5人の危険度に変化は生じない。つまり1人と5人は「あなた」が行動する以前にすでに「仲間はずれ」になっているのであって、あなたが「仲間外れ」にするわけでない。
対して下のケースでは、「あなた」が1人を突き落とすという行為は、他ならない「あなた」自身がその1人を「仲間外れ」にしてしまう。道徳的な判断の分岐点は、殺すか否かではなく、「仲間」から外すかどうか。「仲間」ではない者は殺すこともやむを得ない。

もう少し言葉を付け加えておきましょう。上の「仲間」云々の話は「人殺し」=「仲間外れにする」と考えると理解できません。人は「人殺し」よりも先に「仲間外れにする」ことを行い、「仲間外れ」は殺すことを許可する――そういった順序で考えるということなのです。

このことは、上のケースの次のような仮定を加えて考えて見ればわかります。つまり、もし、1人が「あなた」の知り合いだったしたら? この場合、1人と5人は「あなた」にとって「同程度に仲間ではない」ではありません。ゆえに、「同程度に仲間ではない」時のように功利主義的に1人を殺すという選択は出来ない。しかし、かといって、5人を殺すことを選択してしまえば、「あなた」は周囲から非難を浴びることにはなるでしょう。というのも、1人と5人を「同程度に仲間」と思っている周囲の者は、「あなた」は1人が「あなた」の「仲間」であるという理由によって、5人を「仲間外れ」にしたと受け取け取ってしまうからです。

この「あなた」と周囲との「仲間の程度」の齟齬は、ミニョネット号事件にも当てはまることです。1人を仲間はずれにして生還した3人は、殺された1人を「仲間」と認識する者たちによって罪を問われた。3人と周囲の者との「仲間の程度」に齟齬がなかったウミガメ殺害は罪に問われなかった。また、もし1人が奴隷であったなら、これもまた齟齬はないだろうから罪には問われないだろうと推測されます。

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以上のことをまとめてみますと、次のようになるでしょうか。

・道徳の適応範囲は「仲間」うちだけ。
・「仲間はずれにする」ことを人は非道徳的だと感じる
・人の「仲間」認識には濃淡がある。
・社会には、ある程度までは「仲間」範囲の共通認識が存在する。
・ある程度以上では人にそれぞれ「仲間」範囲は認識は異なる。

コメント

私はこの「仲間はずれ」を「仕方ない」という言葉で理解しています。
いじめ問題を考えてもそうですが、好きこのんで「仲間はずれ」をする人は少ない。
けど、「仕方ない」ならどんなこともやってしまう。免罪されてしまう。

私は、そのことがどうも気に入らない。
というのも、それは「『仕方ないね』と言って私を赦すことのできる他者が存在する」からなのです。
日本なら、それが普通のことなのかもしれません。あるいは西洋なら、この赦しを神が与えるのかも知れない。
けど私は、私を赦すことのできる、私以上の者の存在をどうしても認める気にならない。

私がいじめたなら、どんな理由があれ私はいじめ返されるべきだし、私が誰かを傷つけるのなら、私も全く同じように傷つけられなければならない。
そうでなければ辻褄が合わない。
そしてそれは、逆に、私はどんな理由があれ私を損ねる者を「仕方ない」と赦すことをしない、ということでもあります。暴には暴を。

例えば仮に、職を失って明日にも餓死しようかという時、私はこれを「仕方がない」と甘受することは絶対にしません。
泥棒に入って、今日の飯を繋ぐ。
だから当然、私以外の誰かが食うに事欠いている場合、私の蓄えを盗んで当然だし、彼にその体力がなければこちらから進呈しに行かなければならない。
そうでなければ辻褄が合わない。

だって私は盗んででも生きたいし、当然他の人もそうであろうと推測するから、お互いになるべく痛い思いをせずに共存できるよう、「仕方なく」エアポケットが生じることを事前に防がなければならない。
私がシステム肯定であるのは、人間がお互いにそのようなものであると計算した上で、全体像のイメージを描き、そこに「仕方なく」死ぬ人がなくなるのがシステムであると考えるからです。

一般にはしかし、多くの人が「システム=仕方ない=仲間外し」と考えている。
自分には仲間がいて、そこには限界があって、だから仲間内をうまく回すために小さなシステムを作るのは「仕方ない」という発想。
ただこれは、「仲間」に自分の安否を預ける共同体思想であって、他人を絶対に信じられない私のような人間には、「仲間などいらないから、誰にとっても辻褄の合う社会であること」をのみ思うのです。
「仕方なく」餓死する人も、「仕方なく」暴力をふるう人も、私は例外なく赦すことができないから。

>私は、私を赦すことのできる、私以上の者の存在をどうしても認める気にならない。

ということは、

「私は、あなたがあなたを赦すことができるあなた以上の存在をどうしても認める気になれないことを、認めなければならない。」

でなければ辻褄が合いませんよね。

>お互いになるべく痛い思いをせずに共存できるよう、「仕方なく」エアポケットが生じることを事前に防がなければならない

残念ながら、私はそれは不可能だと思っています。科学が如何に発展しようとも、人類はそこまで賢くはなれない。あらゆる「仕方なく」を事前に防ぐことなど出来ないでしょう。

だから私はアンチ・システムです。「仕方なく」生じたエアポケットは、そのときたまたまそのエアポケットに遭遇した者に対処を委ねるしかありません。遭遇者には「仕方なく」を引き受けることも拒否することも自由。ただし、

「私は、私を赦すことのできる、私以上の者の存在を認めない」

以上は、その対処は自らの責任において行なわなければなりません。「仕方がない」からといって責任逃れはせきません。

>「私は、あなたがあなたを赦すことができるあなた以上の存在をどうしても認める気になれないことを、認めなければならない。」
>でなければ辻褄が合いませんよね。

ふむ、私はそうではないと考えています。
なぜなら、人間の関係は対等だと思っていないからです。
人を上から目線で見ていれば、「あなたを赦すことのできるあなた以上の存在」が居ても居なくても、こちらに影響がないと考えられるからです。
怪力乱神は語るにしかず、それらは個人に影響を及ぼす時のみ『居てもいい』からです。怨念で人を殺せるなら自分もそうするけど、しかし不可能であるなら語るにしかず、と。


>残念ながら、私はそれは不可能だと思っています。科学が如何に発展しようとも、人類はそこまで賢くはなれない。あらゆる「仕方なく」を事前に防ぐことなど出来ないでしょう。

はい、そのような事が可能だという「希望」は持っていません。
しかしながら、私たちが幼少の折、私たちの身の世話をした大人達の所作は「科学的」だと考えます。例えば、赤ん坊にリンゴを擦っておろして食べさせる時。
なぜ丸のままのリンゴを食べさせないのか? それは、赤子の歯が弱いからです。そこでおろし金という道具を用いる。あるいは多くの大人達が自動車や電気の怖さを教えたり、また赤子の手の届く場所に碁石を置かない。
これらは全て、科学的な判断であり、何人も何人もの子供が誤って死んできた繰り返しの中から「大人」の中に伝播されている智慧です。

そこで、このように私は考えます。
残念ながら、誠に不本意ながら、自分が生まれて一日と生を長らえたのは、全て人々が作って来た「科学的なシステム」の故だと。
だから科学は素晴らしいと言うのではありません。こうした智慧を科学と呼ぶのだということです。
その智慧によって自己が長らえたならば、同じことをやれば、まあ、次の世代の赤子もまた生きさせることができると考えていいのではないか。少なくとも、赤子に角リンゴを与えたり、碁石を飲ませたりする以上に。

そうであるならば、科学やシステムの進歩・完成なるものは必要ない。というか、脇にどけておく。
重要なのは、『今ここ』の基盤を成り立たせしめている道具・社会が一つの完成されたシステムであると認めること。なぜなら己が『今ここ』にとりあえず息をしているから。

その上で、


>「仕方なく」生じたエアポケットは、そのときたまたまそのエアポケットに遭遇した者に対処を委ねるしかありません。

上で書きました。
「人間関係は対等だと思っていない」
「大人達の所作は『科学的』だ」

大人と赤子は対等ではない。人間関係には必ず強弱が生じる。
強者が、あたかも自分は弱者と対等だと信じて振る舞ったらどうなるか。大人が子に向かい、「自分も赤ちゃんのように面倒みられる権利がある」と言い出したらどうなるか。
この言い分が通らないのは、大人が既に「先代の科学によって恩恵を受けて完了した者」であるのに対し、子供が「まだ恩恵を受けていない者」だからです。この違いは頑としてある。この差を埋めるのは、大人自身の力と努力によってしかない。
あらかじめアンフェアな立場にある強者が、多少なりとも不公平を埋めようとすること。それが時代の変遷であるし、世代交代ということなのだと考えます。

(以前、アキラさんの所で「自動車に乗る我らと、小学生」を対比しましたが、このアンフェアな対比は、時間がたてば勝手に埋め合わせされるというものではない。ドライバー=私達が手を緩めれば、あっという間に二度と差の埋められない肉体的強弱差がそこに現れるからです。私達は小学生を目にしてから十年二十年の間、このアンフェアが埋められるための労を担わなければならない)

おそらく殆どの人が、この努力を無自覚のうちに行っています。しかしだからこそ、この努力が特殊特別なものであることを明言する必要はあると考えます。
自分が受けたシステマチックな恩恵を、減ずることなく自分より力の弱い立場の他者に、努力して渡す。
この繰り返しはゼロじゃない。数百数千の努力の繰り返しの中で、「子はこう育てる」「金に困った時は」「病人が出たら」――といったシステムが徐々に積み上げられていった。だから、私達が私たち自身を構成するシステムをそっくりコピーして別の誰かに渡す時――そこには、まだ知られざる誰かの役に立ちうる知見が、必ず含まれる。
文化が、模倣されコピーされ伝授される中で、不純なるもの新しいものが書き加えられ、それでまた一つの命に手が届く。そういうものが、アンチ・エアポケットなのだと考えます。

>ふむ、私はそうではないと考えています。
>なぜなら、人間の関係は対等だと思っていないからです。

「私は、あなたがあなたを赦すことができるあなた以上の存在をどうしても認める気になれないことを、認めなければならない。」

は、対等を前提としていません。前提としているのはむしろ不平等です。対等であるとするならば、「誰もが不平等を受け入れるしかない」という意味においてです。

その不平等を前提に

>自分が受けたシステマチックな恩恵を、減ずることなく自分より力の弱い立場の他者に、努力して渡す。

ことを、私はアンチシステムと呼んでいる。というのも、この「努力」は強いられたものではなくて(強いられるのならシステムです)、あくまでも自発的になされるものだから。他者の認めない自由を認めた上でなら、この「努力」は自発的なものでしかありえない。

>おそらく殆どの人が、この努力を無自覚のうちに行っています。

ええ、その事実が私の人間性善説の根拠です。

>しかしだからこそ、この努力が特殊特別なものであることを明言する必要はあると考えます。

まったく同意です。

訂正

上のコメント、「不平等」という言葉は適切ではないことに気がつきました。

「不平等」は「非対称」に置き換えて読み直してください。

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