愚慫空論

〈道徳〉的な〈帝国〉 

〈帝国〉―― 一部の階級が他の階級を奴隷として扱い搾取する〈システム〉
      奴隷とは〈意欲〉を強制される労働者のことです。

〈人民共和国〉―― 労働者が労働者の〈道徳〉に沿って建設する体制。
       ここでは労働者が自発的に〈意欲〉を発揮することができます。

定義からして〈人民共和国〉が〈道徳〉的なのはいうまでもありません。が、前回前々回と私は、現在の資本主義システムは〈道徳〉的な〈帝国〉なのだといいました。今回は、このカラクリについてです。

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そのカラクリの話は、イソップの有名な寓話から始めることにします。

ふれると何でも金になるお話

業突く張りの王様は願い事を言いなさいと言われて「触れるものは何でも金になるようにして下さい」と頼みます。その願いが聞きいれられ、触れるものは何でも金になりましたが、その願いは大変な事であったのです。

王様は娘に触ったとたん娘は金に変わってしまいました。食べ物を食べようとすると食べ物も金に変わってしまい、せめて水でもと思いましたが、喉に入ってから水は金に変わり窒息してしまうと思い、触るものが何でも金になる願いを取り消して欲しいと嘆願するお話です。


すべてが金に変わってしまって困り果てる王様の姿は、なにものも貨幣を通じてしか手に入れることが出来なくなった現代の私たちの姿と重なるものがあります。業突張りの王様は金をたくさん欲しいと願った。金がたくさん手に入るともっと生活が豊かになると勘違いしたからでしょう。が、金は生活を豊かにするどころか逆に困窮させてしまうことになり、王様は困り果てた。この姿は世の中に存在するすべてのモノを貨幣価値に換算してしまって、逆に生活を貧しくしてしまっている私たちの姿とよく似ているのです。

民主主義が主たる政治体制になっている現代、王様とは私たち主権者ひとりひとりのことです。そして、主権者はほぼそのまま労働者といってよい。イソップの寓話では金をたくさん手に入れて生活を豊かにしたいと願った挙げ句に困り果てた王様は業突張りでしたが、では現代の労働者もまた業突張りなのでしょうか?

確かにそうかもしれません。が、〈虚実〉変換を行なう労働者が王様のように業突張りということは原理的にありえないことです。というのも、王様の業突張りは、要するに労働者が生み出す〈実〉を金をたくさん手に入れることによって搾取したいと願望だからです。労働者は金を自ら生み出した〈実〉と交換します。金を〈実〉だと思い込んでいるからです。王様は身の回りにある〈実〉を金に変換することでより多くの〈実〉を手に入れたいと願いますが、聞き入れられたその願いは〈実〉→〈虚〉への変換能力でした。王様は触れるモノすべてを〈虚〉に変換してしまい、困り果てることになった。〈虚〉では生活できない――それがこの寓話の意味です。

王様の〈実〉→〈虚〉への変換能力は、労働者の〈虚実〉変換能力とまったく正反対のもの。つまり〈虚実〉変換能力を持つ者を労働者と定義するならば、その逆の能力を持つ者は非労働者でしかありえないわけです。では、現代の労働者は労働者でありなおかつ非労働者なのか? それは確かにそうですが、非労働者は労働者の〈道徳〉とは無関係な存在ですから、非労働者が生み出す社会は〈道徳〉的とはいえません。私は資本主義システムを〈道徳〉的だとしていますから、それは業突張りの王様の論理によって作られてはいないということです。

これが少し考えてみれば当たり前の話です。現代は民主主義、つまり労働者が王様です(ここでいう労働者には資本家も含まれています)。王様とは自らの論理に従って社会を作ることが出来る者のことをいうはずですから、現代民主主義では王様たる労働者の論理、つまり労働者の〈道徳〉に沿って作られる体制が現代の体制であるということになる。資本主義は民主主義によって支持されているシステムですから、それもまた労働者の〈道徳〉に沿った〈人民共和国〉になるはず。ところが現実をみれば資本主義は労働者の〈意欲〉を強制する奴隷を生み出す〈帝国〉になってしまっています。これはどこかにカラクリがなければそうなるわけがない。そのカラクリが「信用創造」です。

信用創造は業突張りな王様の〈実〉→〈虚〉への変換ではありません。何もない「虚無」から〈虚〉、つまり〈虚金〉を生み出すことをいいます。「中央銀行システム」と一体化した資本主義下での労働者は、「虚無」から生み出された〈虚金〉を〈実金〉に変換するべく労働を行なうのです。
(以下、「中央銀行システム」を支配する階級を金融資本とよび、労働者である資本家とは区別します。)

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私は前々回のエントリーで信用創造をごく単純化して説明しました。銀行(金融資本)Aは、企業(労働者)Bに100万円の融資を行なう際に、〈実金〉を10万円〈虚金〉を90万円という具合に貨幣を供給するのだという話でした。

労働者Bは金融資本Aに貨幣100万円を変換する契約・義務を負います(ここでは話を単純化するために利息は0だとします)。労働者Bが返還する貨幣は基本的にすべて〈実金〉です。つまり、金融資本Aが「虚無」から創造して労働者Bに貸し付けた〈虚金〉を、労働者Bは労働者の〈道徳〉に沿って〈虚実〉変換を行ない、労働者Bの「過去の労働」としての貨幣100万円を金融資本Aに引き渡すのです。

金融資本Aから借り受けた100万円のうち10万円は〈実金〉でしたから、労働者Bが〈虚実〉変換を行なったのはうち90万円です。労働者Bの行なった90万円分の〈虚実〉変換は、それはそのまま社会を豊かにしたといってよいでしょう。ですが、この〈虚実〉変換は、一面では金融資本Aとの契約・義務によって果されたものだといえます。言い換えれば、この90万円分の〈虚実〉変換は、労働者Bが実際に〈虚実〉変換を行なうより以前に先取りされていたのです。

金融資本は労働者に対し、どのような方法で〈虚実〉変換を行なうのか一切指図はしません。農業を行なって食料を生産するのか、工場を建設して耐久消費財を生産するのか、病院を建設して医療活動を行なうのか、そこは労働者の自発性に委ねられています。金融資本から資金をえた労働者は、自発的に自らの〈虚実〉変換を選択し社会を豊かにしてゆく。その意味では金融資本は〈道徳〉的です。労働者は〈虚金〉を労働者に供給することで、労働者の自由をより大きくするのですから。大きな自由を与えられた労働者は、より自由を大きくしようと〈道徳〉的に〈虚実〉変換を行ないます。

資本主義が大きく発展した秘訣はここにあります。それは金融資本が「虚無」から〈虚〉を創造し、労働者は金融資本が創造した〈虚〉を〈虚実〉変換して「〈実〉のストック」である社会を大きくするという二段構えの方法です。資本主義下での労働者は貨幣経済の枠組みの拡大を推し進めましたが、それは一方では量的な拡大、つまり人類の経済活動をすべて貨幣によって仲介されるへと変貌させていった。この分野はほぼ完了してグローバル経済と称するシステムに覆い尽くされようとしています。もう一方の質的拡大は、技術革新です。イノベーションによって労働者は、それまで貨幣で価値換算されなかったものを新たに貨幣の領域へと取り込んだ。資本主義労働者が成し遂げた〈虚実〉変換は、質量両面の拡大により、いまや膨大なものになっています。いまや身の回りの触れることが出来るモノが貨幣に変換されたと言ってしまっても良いくらいです。

モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語 (岩波少年少女の本 37)モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を
人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語

(1976/09)
ミヒャエル・エンデ
こうしてみると金融資本と労働者の共同作業はまったく良いことづくめのようですが、では現実もそうなのかというと、それはそうではありません。労働者は〈道徳〉的に〈虚実〉変換を行なって社会を豊かにしていったにもかかわらず、そして実際社会は豊かになっているにもかかわらず、労働者はどこか貧しくなったように感じてしまう。大きな自由を供給されたはずなのに、なにか大切な自由を奪われてしまったような感じがする。それは漠然とした「感じ」ではなくて、事実、労働者は金融資本から〈虚〉による自由を与えられる代わりに、ある大切な自由を奪われているのです。

では、その大切な自由とはなにか? それは〈虚実〉変換を行なわない自由です。

人は生きていくためには何らかの〈虚実〉を行なわなければなりません。もともと人には〈虚実〉変換を全く行なわない自由はありません。ですが、適度なところで〈虚実〉変換を止める自由はある。その自由は“足を知る”という言葉で表わされます。資本主義労働者は“足を知る”自由を奪われている。現代の王様である労働者は業突張りなのではないです。金融資本から与えられた大きな自由を受け取ってしまったために、大切な“足を知る”自由を奪われてしまった。金融資本と交わした契約を守るため(契約を守ることは道徳的です)、自ら適切なところで労働を止めてしまうことが出来ない。それが資本家も含めた資本主義労働者の姿です。

私が現代の資本主義システムが〈道徳〉的な〈帝国〉だというのは、以上のような意味においてです。すなわち、労働者は自発的に〈虚実〉変換を行なう自由は認められている。その意味では〈道徳〉的。ただし、自発的に〈虚実〉変換を止める自由は認められていない。その意味では奴隷であり、資本主義システムは〈帝国〉だといえるのです。しかも〈帝国〉が認める〈虚実〉変換にはひとつの制約があります。それは効率的に貨幣換算できる〈虚実〉変換に限られる、というものです。金融資本から〈虚金〉を受け取った労働者は〈実金〉で還さなければならない。貨幣でなければ契約違反です。だから必然的に、労働者が〈虚実〉変換において発揮する自発性は貨幣価値に換算できる方向へ限られてしまう。システムによって強制される。その意味でも資本主義労働者は奴隷であり、中央銀行システムの元での資本主義システムは〈帝国〉であるということができるのです。

この〈帝国〉を支えているのは〈虚金〉も〈実金〉も同じ貨幣であるという労働者の錯覚です。そう思い込んでしまうのは仕方のないことです。労働者にとって貨幣は「過去の労働」であることが当たり前で、その〈道徳〉を遵守する以上誤解するのは当然なのです。
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虚実

これは『404 Blog Not Found』経由で引っ張ってきた、青木秀和著『「お金」崩壊』のなかの図です(少しだけ手を加えています)。この図は虚実入り交じった資本主義システムの姿を端的に現わしています。
(すべての循環は「中央銀行」から出発していることに留意してください。)

「404 Blog Not Found」から文章もお借りしてきましょう。

これこそが、「複素経済学」の全体図である。上の円が虚部、下の円が実部。上では資金が、下では資源が循環している。上をeconomy、下を ecologyと言い換えてもいいだろう。


economy と ecology を仲介するのが労働者です。ということはつまり、〈虚〉と〈実〉の「複素経済学」は労働価値説によって一元的にみることができるということです。ただ私の虚実の見方は「404 Blog Not Found」のそれとは違います。「404 Blog Not Found」では ecology を実、economy を虚と見なしていますが、私の見方ではecology・economy ともに〈虚実〉変換です。ただし労働者の〈道徳〉からするとeconomy は〈実実〉交換なのです(だからこそ『虚金と実金』で指摘したとおり、「等価交換=市場原理」が成り立つのです)。

それでは本書のタイトルの命題、お金はなぜ崩壊しうるか。

今やお金の大部分が、上の円に属するからだ。上の円は「虚部」。人間の共同幻想が生み出しているからだ。もう少し正確に言うと、ブレトン・ウッズ体制が崩壊、貨幣が「無本位制」になったときに「虚」となったと言える。

P. 150

世界の金融資産は、一九九五年からの一〇年間、六〇九五兆円(五十三兆ドル)からなんと一京三八〇〇兆円(百二十兆ドル)にも達している。にも関わらず、この間に世界総生産は、三〇〇〇兆円(二六兆ドル)から四〇〇〇兆円(三五兆ドル)になったにすぎない。

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/contribute/g/02/index4.html


GGP (Gross Global Product)が3割増しにしかなっていないのに、金融資産が倍以上になる。なぜそれが可能になったかといったら、金融経済が完全に「仮想化」されたからだ。「モノ」の裏付けがないからこそ、たった10年で倍以上(年率8.5%)という「成長」が可能になったのだ。

それだけなら、問題とは言えない。「その分インフレが進んだだけ」という言い方も出来なくはない。問題は「虚経済」の急成長に耐えられるほど「実経済」が大きくないこと、にも関わらず両方の経済がリンクしていることにある。虚が虚、実が実だけで回っているならいい。しかし圧倒的に多きな虚で実を手に入れようとした時、実はどうなってしまうのだろうか。
(下線強調は愚樵)

ブレトン・ウッズ体制が崩壊、貨幣が「無本位制」になったときに「虚」となった

この見立ては正確ではないと思います。貨幣はすでに17世紀イギリスで〈虚〉になり始めていったし、また現在でも完全に〈虚〉になったわけではありません。労働者にとって〈実〉は「過去の労働」だからです。金が「実」と見なされたのも単なる共同幻想ですから、ブレトン・ウッズ体制の崩壊で貨幣が「無本位制」になったのは共同幻想の「軸」が交換しただけのことに過ぎません。

問題は「虚経済」の急成長に耐えられるほど「実経済」が大きくないこと

問題は〈虚〉を労働者が〈虚実〉変換して〈実〉にしなければならないと契約されていることです。現在の金融資本主義は労働者の〈虚実〉変換能力に信用をおいて信用創造をおこなうだけでなく、金融資本の信用の上に信用創造をおこないます。つまり「信用創造の二乗」です。そうやって「虚無」から創造された〈虚金〉は、最終的には労働者によって〈実〉に変換されなければ収まりがつかない。そこが大問題なのです。

現在の金融危機とはなにか? 「金融資本の信用の上の信用創造」(金融派生商品、デリバティブ)の破綻です。その破綻による損害は「金融システムの安定」という大義名分の元に国家が介入して金融資本が労働者とは無関係に「虚無」から呼び出した損失を補填します。その政府の資金はとりあえずは〈虚金〉ですが、いずれ納税者(労働者)が〈実金〉に変換しなければなりません。政府はその線に沿って将来の増税を計画していることは、社会に少しでも関心のある人ならご存知のはずです。

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もう少し続けたいところですが、長くなったので一旦切り上げることにします。次回は、労働者の〈道徳〉の視点から、環境問題、経済格差・貧困の問題、抑止力の問題などに触れてみたいと思います。

コメント

TB有難うございました。
お金の事が分かりやすく説明されていますね。
勉強になりました。

私はブログを始めるまでは、お金の仕組みと言うものを考えた事さえなかったのですが、その仕組みを初めて知ったときは驚いたものでしたが・・・・・
私のような素人の無知が、金融業者にやりたい放題を許してしまうという所もあるのでしょうね。

先日原始時代の大きな石のお金をテレビで見た時、
こんなのがお金だったら、金融危機も起きなかっただろうなと思ったものでしたが、
便利さと同時に有る便利さ由来の負の部分は、避ける事が出来ない事なのでしょうね。
(ローレンツのアンビバレンツと言う言葉が思い出されます。)
最近、文明の負の部分が、やたらと世界中の人々を苦しめているようですが・・・・・
でもIPadなどと言う、夢のような商品も売り出されていて、ある意味人間は天人のような境遇をも、手に入れているのですよね。
その差の大きい事!

本題とは随分ずれてしまいましたが、お許しください。

私はブログを始めるまでは、お金の仕組みと言うものを考えた事さえなかったのですが、その仕組みを初めて知ったときは驚いたものでしたが・・・・・

私の場合は、お金のことを考えるのがブログを始めたきっかけのひとつ、ですね。ブログとネットのおかげで、その理解は随分と深まったと自身でも思っています。ありがたいことです。

>便利さと同時に有る便利さ由来の負の部分は、避ける事が出来ない事なのでしょうね

はい。「便利さ」とはつまり文明ですが、どうしたって「影」は伴いますからね。
ただ、その「影」をうまくやり過ごす方法はあると思ってます。ひとつはなるべくゆっくりと便利になっていくこと。もうひとつは適当なところで切り上げること、すなわち“足を知ること”です。

ちょっと話はズレるようですが、私が普段接している人工の森が同じなんです。人の手で植える樹木はいわば文明です。成長の速い樹木を隙間なくびっしり植える。そうすると樹木同士は競争してどんどん上へ伸びようとする。だから森林蓄積量も早く増える。蓄積量はたとえればGDPという数値です。

でも、その代わりに、高い樹木の下の林地は草一本生えない砂漠になります。草のない剥き出しの地面は雨が降ると流出し、森そのものを支える地盤が徐々に侵食されやがて崩壊する。今の現代文明は、崩壊しつつある人工林です。

それを防ぐには、ゆっくり大きくなる木を疎らに植えてやることです。そうすると多種多様な生き物が棲息する豊かな森になる。天然林だから豊か、人工林だから貧しい、ではないんですね。人工林もその育て方によっては十分に豊かな森になるんです。大きな樹木の「影」にも、時間さえあれば、小さいけど逞しい生命が育つのです。

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