愚慫空論

実金と虚金

まず言葉の定義から。

〈実金〉――これは私たち労働者が普通に“お金”と認識している貨幣のことです。労働者は労働力を商品として売り、その対価として賃金を受け取ります。この賃金が〈実金〉。つまり〈実金〉とは労働の成果、マルクスの言い方でいえば「過去の労働」です。

〈虚金〉――偽金の意味ではありません。ホンモノだが〈実金〉ではない貨幣。これを〈虚金〉と呼ぶことにします。

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私たちの社会常識のなかには“借りたお金には利息を付けて返さなければならない”というものがあります。

“貨幣に利息”という考え方は、おそらく貨幣というものが誕生し流通するようになるとともに生まれたものでしょう。が、それが常識となったのは、貨幣史の中でも最近のこと。つまり近代になってからのことで、それ以前の社会では“貨幣に利息”という考え方は、良くない考え方というのが常識でした。

しかし、そうは言われても、やはり私たちには“貨幣に利息”という考え方は根強いものがあります。これは考え方というよりもむしろ感覚といった方がいいかもしれません。借りたお金を返すのはもちろんのこと、利息を付けて返すことも、現代人である私たちの道徳観に合うものだからです。

では、この「感覚」はどこから来ているのか? そう考えたときに出てきたのが〈実金〉という概念です。私たち労働者は、世の中に出回っている貨幣はすべて〈実金〉だと錯覚している。この「錯覚」から“借りたお金には利息を付けて返さなければならない”という道徳観が生まれてきているのではないかと思うのです。

このことを考えてみるのに貨幣以外のモノを借りることを想定してみましょう。たとえば車を借りた場合です。

借りた車は返さなけれなりません。それもただ返すばかりでなく、なるべく現状を維持したまま返すのが常識というものでしょう。家族や親しい友人などから車を借りた場合は現状維持で返せば事足りる場合も多いでしょうが、それでもなにか謝礼を添えることもある。借りた人との間柄がさほど親しくない場合、謝礼は常識になります。ということはつまり謝礼を添えるということは、私たちの道徳観に沿った行為であるということです。

これが業者から借りた場合になると、謝礼は単に道徳というだけではなく契約・義務になります。レンタカーを借りる際には車両保険が付けられますが、だからといって壊して返してよいというものではない。それは道徳的ではない。また、謝礼(レンタル料)を支払うことも、それが契約であるとはいえ道徳観から逸脱するものではありません。

現状維持で返却し、謝礼を添える。この〈道徳〉のもとにあるのは、借りたモノが〈実〉であるという感覚です。この〈実〉は何もないところから生まれてきたものではない。家族・友人であろうが業者であろうが、車を所有しているのは過去の労働」という〈実〉があるからで、私たちはそのことをよく理解している。というのも、私たち自身が日々〈実〉を生み出している労働者だからです。そして、その〈実〉を貨幣という形で受け取り、他の〈実〉と交換している。消費社会に生きる賃金労働者にとって貨幣は、〈実金〉以外のなにものでもありません。

ですから、貨幣を借りるときも車を借りる場合と同じ感覚になるのも当然のことです。貨幣は車と違って摩耗の心配はありませんが、〈実〉ですから謝礼に相当する利息はつけるのが道徳的。もし業者(銀行や貸金業者)から借りるのであれば、利息を付ける契約を交わすのも常識、ということになるわけです。

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労働者の素朴な〈実金〉感覚が支えているのは利息の正当性だけではありません。市場原理(マーケットメカニズム)も〈実金〉感覚からくる〈道徳〉によって支えられています

マーケットメカニズムとは需要と供給が貨幣の価格測定機能によって均衡するという考え方であり、大変に説得力のあるものです。が、この説得力は、すべては〈実〉であるというところが前提になっています。

貨幣経済において、財はマーケットメカニズムによって価格決定されるといわれています。需要をするのは消費者であり供給を行なうのは生産者(主に企業)ですが、需要と供給も当然のことながら〈実〉でなければなりません。〈実〉に対して〈虚〉を引き渡すのは、通常は「詐欺」とよばれる行為です。

実は、需要の〈実〉と供給の〈実〉の価格を均衡させる貨幣が〈実〉である必要はありません。というよりむしろ、〈虚〉であるから均衡させることができる。マーケットメカニズムは確かに有効な仕組みですが、実際にそのような ものが実在しているわけでありません。端的にいってしまえば虚構ですが、虚構だからこそ本来ならば測定不可能な 〈実〉の価値を価格という〈虚〉の形で切り取ることができ、切り取ることができるから均衡させることができる。

価格の均衡という機能に関しては、貨幣は〈虚〉であってよい。が、これはあくまで「価格の均衡」という〈虚〉に関する部分についての話です。〈虚〉によって中継ぎされるとはいっても実際の取引はあくまで〈実〉ですから、その時の貨幣は〈実〉でなければならない。つまり〈実金〉でなければならないはずです。

このことは「偽金」を考えてみればよくわかります。例えば、ある「モノ」の価格がマーケットメカニズムによって1万円であると決定されたとします。「モノ」は労働の成果つまり「過去の労働」であり〈実〉です。ですから、ここで交換される貨幣もまた「過去の労働」であり〈実〉でなければなりません

ここでは「モノ」と1万円の「過去の労働」同士が均衡しているかどうかは別問題です(その話は別の理論体系の話になります)。問題は、その双方が〈実〉であるかどうか、です。マーケットメカニズムは虚構ですが、その虚構は虚構を信用する者同士が虚構の指し示す基準に従って〈実〉の取引を行なうことではじめて機能します。ですから、もし、「モノ」との交換で差し出された1万円が偽札であったとしたら、「モノ」の供給者は当然のことながら受け取りを拒否するでしょう。仮にその偽札が極めて精巧に出来ていて、受け取った供給者が別のところで別の者を欺すことができるであろうとしても、偽札と知って取引する者はまずいない。それは道徳観に反するからです。偽金で支払うことも受け取ることも、虚構の信用を剽窃することに他なりません。

「偽金」が〈虚〉であるのは明らかです。が、私が冒頭で掲げた定義では、「偽金」は〈実金〉でも〈虚金〉でもありません。貨幣がホンモノかニセモノかは通貨発行権を持つ者が発行した貨幣かどうかということですが、そのことと貨幣が〈実金〉か〈虚金〉どうかは直接関係がない、ということです。というのも、貨幣がホンモノかどうかは通貨発行者の〈権威〉の問題ですが、〈実金〉か〈虚金〉は労働者・消費者の〈道徳〉の問題だからです。

〈権威〉と〈道徳〉の関係は、貨幣に限らず微妙なものです。〈権威〉と〈道徳〉は互いに支え合う共依存の関係にあるといっていいでしょう。もちろん、貨幣の問題においてもそうです。

現在、貨幣経済システムが不安定な状況にあるということが盛んに喧伝されています。そのなかでしばしば「国債の日銀引き受け」が議論の俎上に登ることがあります。「国債の日銀引き受け」は法によって禁止されている行為ですが、なぜそれが禁止されるのか? 〈権威〉と〈道徳〉、〈虚〉と〈実〉という視点から見てみるとわかりやすい。

政府が発行する国債を発券銀行である日銀が引き受ける。これは要するに“紙幣を刷ってバラ撒く”ということです。「過去の労働」とは関係なくバラ撒かれた紙幣は、ホンモノの貨幣ではあるが〈虚金〉です。「国債の日銀引き受け」が行なわれるとインフレになる、つまり資産価値が下がるといわれます。ほとんどの人にとって資産は〈実〉であるはずですから、「国債の日銀引き受け」によって〈虚金〉がバラ撒かれると、〈虚〉によって〈実〉が薄められることになります。このことは〈道徳〉に反することであり、その反道徳的行為が権威者によって行なわれるとその権威性は失墜することになる。通貨発行者の〈権威〉が失墜すると、貨幣そのものが〈虚〉と見なされるようになってしまいますから、そのインフレは通常のものとは異なり制御不能の悪性インフレに陥る。このことは、日銀のホームページにも書かれてありますが、歴史上の教訓でもあります。

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以上の話から見えてくるのは、〈権威〉と〈道徳〉は〈実〉によってバランスが保たれる、ということです。
〈権威〉も〈道徳〉も、言ってしまえばどちらも〈虚〉です。〈道徳〉は〈実〉を求める〈虚〉であり、〈権威〉は〈実〉を秩序づける〈虚〉。もし〈権威〉の秩序づけに〈虚〉が入り混じってしまうと〈道徳〉と衝突し〈権威〉の威厳が保たれなくなってしまう。このことは貨幣システムにも当てはまるということは、上の「国債の日銀引き受け」の例で見たとおりです。

“〈権威〉の秩序づけに〈虚〉が入り混じる”ということは、別の表現で言い換えると“〈権威〉が腐敗する”ということです。ということは、〈権威〉の秩序づけには必ず〈虚〉が混じってしまうということです。もちろん貨幣経済システムも例外ではありません。いえ、例外どころか、現在の資本主義貨幣経済システムはその成り立ちから〈虚〉が混ぜ込まれていた。つまり〈虚金〉が〈システム〉のなかに巧妙に組み込まれているのです。現在の金融危機はその〈虚〉が膨らむだけ膨らんだ挙げ句に起こっている現象です。

金融危機は単に経済システムの危機というだけではなく、モラルハザードつまり〈道徳〉の危機という面をも色濃く持っています。これは大変に危機的な状態で、〈システム〉の破綻は〈道徳〉の破綻に直結しかない危険を孕んでいるということです。〈システム〉を維持する〈権威〉と〈道徳〉の崩壊が同時に起これば、そこに出現するのはどうしようもない無秩序だからです。

では、なぜそのような事態に陥ったのか? そして有効な解決策がないように見えるのか? この疑問は、なぜ〈虚〉が未だに明らかにならないのか、という疑問でもあります。

は、その疑問に答えるために、資本主義経済システムに当初から混ぜ込まれた〈虚〉について見てみることにします。

コメント

次回以降の予定

今回のエントリーは、私のなかでは前回の続きという位置づけなんです。というか、今回(次回も)お金の話でしたが、その話を前回の抑止力だとか「帝国」といった話に繋げたい、と思っています。

ただ上手く繋げられるかどうか、あまり自信はありませんσ(^o^; 煮詰まったら、いつものごとく、放り出しますので(笑)

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