愚慫空論

日本的個人

2日の朝いつもの習慣でTVを付けると、こんな番組が流れていました。
にっぽん紀行 ひとり 桜の里で 山口・向畑集落

山口県岩国市の向畑地区。かつて300人が暮らした山あいの集落には今、藤村キヌヨさん(89歳)が残るだけになった。藤村さんが毎年心待ちにしているのが、樹齢800年の山桜の開花だ。集落の面影が消えていく中、昔と変わらず満開の花を見せてくれる。桜を見るためにかつての住民たちもやって来る。たった一人の集落の、冬から春までの暮らしを追い、その心模様を見つめた。案内人は俳優の三國連太郎さん。
たったひとりとはいっても、生活の世話は街に暮らす息子さんが見てくれています。毎日30分かけて、やってくる。息子さんの家にはキヌヨさんの部屋も用意はしてある。けれども、キヌヨさんは山を下りようとしないし、息子さんも降りろとは(はっきりとは)言わない。他に誰もいなくなった集落で、ひとり生きている...。

この番組を彩っているのは、ある種の郷愁です。キヌヨさんと息子さんの心模様。番組自体の焦点は無縁社会一歩手前のところで踏みとどまる“親子の絆”に焦点があてられていましたが、しかし、キヌヨさんの「心模様」は、あきらかに「無縁」を志向しています。キヌヨさん親子の縁は、キヌヨさんの“無縁志向”をも認めた上でのもの。そして私には、“無縁志向”まで含めて郷愁が感じられるような気がします。

無縁を志向するキヌヨさん個人の〈主体〉とは、いったいどのようなものなのか?
日本的個人

 日本の伝統的な生命観をよくあらわしている言葉に「山川草木、悉皆成仏」というのがある。山も川も草も木もみな成仏できる、という意味である。
・・・・・
 人間も生物も土や石もすべて仏性をもち成仏できる。この日本特有の生命観は、存在するすべてのものは仏性をもっているという認識からはじまる。人間もまた身体の奥に仏性を秘めている。この仏性こそがもっとも大事なものであり、いつかは悟りを開いていく種のようなものである。
 私は日本における伝統的な個の形成、個人の確立は、この感覚と結びついて成立したのだと思っている。自分の仏性をみつめるように、自分のなかにある自分自身をみつめる。そうして自分自身を磨こうとする。それが伝統的な日本における個の形成だったのではなかったか。
・・・・・
かつていわれたような、日本人は個の形成が弱いという見解は正しくなく、欧米と日本では個の形成のされ方が違うということである。さらに述べれば、すべての存在するものの奥に仏性があると考え、それをみつめ、自分の仏性を開いていくことに究極の自己形成をみいだしていた精神が、その前提としてあったのではないかと。
 日本の伝統的な自己形成は、他の人々に対して主張しない自己形成であり、思いつめたような自己形成なのである。それは極めて個人主義的な自己形成であり、孤独さを媒介にして生まれる個の確立だといってもよい。そして、そういう心情を今日の私たちも無意識のうちに受け継いでいるから、ときに私たちも「自分だけの世界」を守ろうとしたりする。
(下線は愚樵による)
清浄なる精神清浄なる精神
内山 節

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「孤独さを媒介にして生まれる個の確立」。これはあきらかに西洋流とは異なります。
西洋流の「個の確立」は、他の人々との関係のなかでおこなわれる。すなわち、他の人々に対して〈私〉を主張するかたちで個という〈自我〉の形成を試みる。ですから、西洋流の〈自我〉(=個の確立)は、その成り立ちからして社会的文明的です。それに対して、日本的個人のそれは社会を前提としてない。極端に言ってしまえば“動物的”な「個の確立」です。

(内山節はここで伊藤整の『近代日本人の発想の諸形式』という文章を紹介しています。この文章は、上記のような日本的個人の在り方を文学研究を通して考察したものです。明治になって欧米の文学が入り、それを参考にしながら近代文学が発生したとき、なぜ「私小説」という日本特有の形式が生まれたのかという問いから発して、「日本的個人」の精神性に迫っています。
なお、この文章は書籍としても出版されていますが、ネット上からPDF文書で読むことが出来ます。)

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では、“動物的”言い換えれば(文明以前の)“自然な”「個の確立」は、どういった条件でもたらされるのか?

それは、ひとつは自然豊かな日本列島という風土の影響も大きいのでしょうけれども、もうひとつ思い当たるのは、子育てのありかた。これはつい最近、アキラさんがテーマとして取り上げられ、私もお邪魔していろいろと対話をさせていただきました。

光るナス『「信頼」と「自立」を促すもの(前編)』
     『      〃       (中編)』
     『      〃       (後編)』

そちらから、文章を孫引きさせてもらいますと、
人間というのは、どこかで全面的に受容される時期があればあるほど、安心して自立していけるのです。・・・・・人生のできるだけ早い時期に、この安心感が与えられることがだいじなのです。
そして、できるだけ条件のない状態で、自分を認めてくれる人をもつということは、その人をそれだけ大きく信頼することであり、ついでその人を基準にして、そのほかのいろんな人を信頼していけることになるわけです。

・・・・・・・・・・・・・
過保護とはどういうことかといいますと、理屈っぽくいえば、子どもが望んだことを望んだとおりやってあげて、やりすぎるということです。・・・・・
けれども、子どもが望んでいることを、やりすぎるほどやってやれるということは、それはたいへんなことで、めったにできることではないと思います。
ですから本当は、過保護というほど、子どもの要求にこたえることができる育児というのは、現実にはないかもしれない。
たいていは、子どもの希望や要求を拒否したり、無視していることが多いと思います。

・・・・・・・・・・・・・
子どもというのは、自分の望みがまずかなえられなければ、本質的には周囲のいうことは聞けないのです。自分の望んだことを望んだとおりに、十分してもらえている子どもが、相手のいうことを心から聞きはじめるのです。

佐々木正美 著『子どもへのまなざし』より
赤ちゃんにとっては「私がここにいます」と大人の注意を喚起することが、唯一の生活手段。注意を惹き損なったら死んでしまう。だから依存の時期にあっては、赤ちゃんは大人の注意を要求する動作を絶え間なく続ける。
赤ちゃんが大きくなって歩けるようになっても、この依存の時期を脱却しない限りは、大人の目に触れるように大人の注意を集めるように行動する。

依存の時期においては子供の頭はまだ発達していないから、叱られるのも褒められるのも区別がつかない。感じるのは大人の注意だけ。ただ周りの人の注意の集注密度だけを感じ、それを要求している。
生理的に親の注意を体で感じる。注意が少なければすぐに空虚を感じる。だから注意が注がれているとおとなしいが、注意が逸れると悪戯をする。

親の嫌がるようなことをすると親は叱って止める。褒める時は上の空だが、叱る時は本気になる、そこで子供は叱られることばかりやるようになる。
ほかのことで親の注意が集められなくなると寝小便などをする。そうなれば冷静な親でも真剣になって叱る。
注意が集まっているという安心感がそこに生まれる。
だから叱られようと褒められようと、注意を集められるということを無意識に快感に感じその方向に伸びようとすることは、植物が太陽の方向に伸びようとするのと少しも変わりはない。やはり自然の情。
親は叱言を言ったつもりでいても、親の考え通りにはならない。注意を集めて叱られると目的達成だ。シャワーを浴ぴるようにお母さんの叱言を聞き、そうしてまた次の注意を集めることを考える。
着物を汚したら良いとか、障子を破ったら良いとか、次から次と手段を考え出して行く。

この時期の子供達にはまだ善悪の意味は判らない。判るのは親の注意の集注密度だけ。それだけを求めて生きている。それが空気を吸って生きていると同じような生存のエネルギーとなっている。
だから、親が他の事が忙しく注意が逸れた時に子供が病気になる。親の注意が逸れることによって子供の中に親の注意を喚起する要求が亢まって、病気という現象を起こすことになる。
怪我、転ぶ、着物を汚す、みな同じ。

野口先生・育児についての資料からのノート
未だ善悪の意味を解せず、親の注意の集中密度だけに“動物的”に関心を注ぐ赤子の時期の欲求をできるだけみたしてやる。どれほど満たしてやってもそれは過保護とはならない。そうした子どもへの接し方が子どもの「信頼」を育む。ヒトが未だ“動物的”である時期に培われる「信頼」は、人間社会への「信頼」を飛び越えて、もっと根源的な人間がヒトとして“動物的”に生きる「生命力」への「信頼」となる。「生命力」への「信頼」が子どもの「生命力」を喚起し、それが「孤独さを媒介にして生まれる個の確立」へと繋がる――これは、私の空論ですが(笑)

 西欧的に考えると、いわば認識主体である自我(セルフ)が確立されることを成長といいますよね。確固としたセルフが想定されていて、そこに向かって子どもの頃から伝統的な個人主義的教育法を施すわけです。
 私の知人がドイツに嫁いで実際に経験したんですが、これは凄いですよ。お昼寝から目覚めた子どもが傍らに誰もいなかったら泣くじゃないですか。これはどこの国でもたぶんそうでしょう。それで隣の部屋にいた彼女は急いで子どものところへ行こうとした。ところが肩を押さえて止めた人がいたんですね。
 旦那さんの母親、つまりお姑さんです。「こらえなさい。ここであなたがこらえなかったら、あの子は駄目になる」って、お姑さんは言ったそうですよ。日本なんかとは根本的に違う教育なんですね。我が儘も徹底的に叱られますよ。そうして押しも押されもしない、社会的に自立した西欧人が出来上がるわけです。
 日本人の場合は、そういう観点で見れば自己確立が遅いのかもしれません。しかし、これは仏教的な見方かもしれませんが、確立したとおもった自己も無常なんですね。・・・・・
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引用ばかりで申し訳ありませんが、最後にもうひとつ。
中沢:レヴィ=ストロースは「野生の思考」というものを研究してきた文化人類学者です。未開社会の神話に完全に同化しきって研究をすすめてきた人で、ことあるごとに「自分は新石器時代人だ」とか「新石器時代人の思考を生きているだけだ」と言っています。
 その人が「自分が最も共感を持てる宗教は仏教だけだ」というようなことを書いています。僕はここに「野生の思考」と言われているものと仏教徒の、内面的な共通性を直感するんですね。
河合:ええ、そうですね。
・・・・・・
中沢:ここでレヴィ=ストロースが言わんとしているのは、こういうことだと思うんです。未開社会の「野生の思考」のなかでいちばん大事なのは、人間と動物とがおたがい兄弟のように、あるいは親子のようにつきあって、結婚したり、語り合ったり、渡り合ったり、命のやりとりをすることなのですね。神話は「動物たちはかつてみんな言葉をしゃべっていた」とも言っています。かつて人間と動物はまったく対等な存在同士としてたがいに話し合っていたし、高い文化を持っていたのはむしろ動物のほうなのです。人間は動物と結婚したおかげで、お返しに文化を手に入れることもできた、と考えられていた。
 これは動物と人間の間に徹底的な対称性を考えようとしている思想です。たしかに現実の世界にあるのは厳然たる非対称の現実です。人間のほうがなんと言ったって技術を持っているから、動物に対して優位に立っています。現実は確かに動物を圧倒しているわけですが、それでも思考のなかではそれは正しくない状態で、宇宙の中にこんなふうに発生してしまった非対称を、何とか思想によって正そうとして、神話というものはつくられてきたんだというのがレヴィ=ストロースの考えです。
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“非対称を思想によって正すために神話が作られた”という思想は、それこそ西欧人レヴィ=ストロースの思想だと私などは感じますが、それはさておき、動物と人間の対称性(というか共通性)、「生命力」、「孤独さを媒介にして生まれる個の確立」、そして「野生の思想」、仏教、これらには根源的な共通性を感じます。冒頭で取り上げたキヌヨさんの〈主体〉は、こうした文明以前の、つまり人間以前の“動物的”ヒトとしての〈主体〉なのではないのか、と想像します。

コメント

ご紹介、ありがとうございました

“動物的”ヒトとしての〈主体〉・・・
僕のワードで言えば「自ぃ識的〈私〉」ですね。

僕は、“動物的”ヒトはすでに「社会的な存在」だと思っています。
これはゴリラやチンパンジーなどでも同様ですし、ライオンやインパラなどでも同様でしょう。

〈主体〉をどこに認めるか、その差なのだろうと思いました。
「自我的〈私〉」の方に〈主体〉を認めるか、「自ぃ識的〈私〉」の方に〈主体〉を認めるか。
明治以前の日本では、「自ぃ識的〈私〉」の方に〈主体〉を認めていたのでしょうね。
ですから近代的な目線には、没個性的、共同体的に映るわけで。

というわけで、愚樵さんが仰るところの「孤独さを媒介にして生まれる個の確立」というのがよく分かりません。
内山氏の言っているようなことは、少なくとも江戸時代的だとは言えると思いますけれど、かなり禅的なニュアンスですよね。
http://blog.livedoor.jp/nagayanonasu/archives/51951296.html

江戸時代に華開く「心学」が最重要視するもの、それは「自己に内在する何か」の自覚です。
これは、言ってみれば「個の自覚」ですね。
その「自己に内在する何か」は、「仏性」とか「本性(本有の自性)」とか呼ばれます。
面白いですよね、個の「確立」なのではなくて、個の「自覚」なんですから。 (^o^)
構築していくものではなくて、そもそも「そこにある」ものに気がつく・・って話でしょう。
愚樵さんの仰りたいのは、そういうことなのかな?と思いました。

>キヌヨさん
紙に、墨と筆で「、」を書いたような。
そんな「、」のようなあり方だと思いました。

それは黒、それは書かれたものでありながら、背景の白、背景の何も書かれてない部分と対話することで成り立っている。
そういう人間もいる。

アキラさん

>僕は、“動物的”ヒトはすでに「社会的な存在」だと思っています。

ええ、そこは私もまったく同意です。

>これはゴリラやチンパンジーなどでも同様ですし、ライオンやインパラなどでも同様でしょう。

はい。ということは、ヒトもこれらの動物と同じく社会を構成するのに「言葉」は必ずしも必要ない、ということでしょう。

>というわけで、愚樵さんが仰るところの「孤独さを媒介にして生まれる個の確立」というのがよく分かりません。

ふふふ。これは実はアキラさんがその意味するところを仰っているんですよ。

>僕自身にとっては、自分の名前も人の名前も、ほぼ完全に単なる「記号」なんですよね。

アキラさんにとって、アキラさんの存在は「他者の欲望」によって呼び出されたものではない。もしアキラさんが“呼び出された”と感じているなら、アキラさんを呼び出した言葉(=本当の名前)はあると感じているはずで、またそう感じているなら、アキラさんの存在以前にその名を呼んだ人がいる、呼ばれた名前がある、と感じていることになる。

その名を呼んだ人はもちろん両親ということになるのでしょうが、アキラさんの誕生(=世界からの分節)に言葉が介在していたか否かはとても重要なことです。言葉が介在していたと感じているなら、アキラさんはご自身を“動物的”ヒトである以前に“人間的”ヒトであると感じていることになる。もっというと、両親によって(両親の身体に備わっている生殖機能を利用することで)作られた存在だ、ということになる。

ところがアキラさんはそうではない(私もそうですけどね)。本当の名前なんかない、と思っている。名前は後付の単なる記号。そこには両親あるいはその他親族の「欲望」が込められているかもしれないけれども、しかし、アキラさんにはその「欲望」を受け入れることも拒否することもできる「自由」があるとも思っている。つまり、

>そう前提すると、「子どもが誕生してきた」ということだけでは、まだ「無」ですよね。

だとアキラ自身は感じてはいない、ということになるのだろうと思うんです。「誕生してきただけ」で「有」であり、その「有」であること(個)を誰の助けも必要とせず自覚する。それが「孤独さを媒介にして生まれる個の確立」ということの意味であり、

>構築していくものではなくて、そもそも「そこにある」ものに気がつく・・って話でしょう。

ということです。

もちろん、赤子が生育するには周囲の助けが必要です。が、それは、動物的ヒトとしてのもの、つまり生存のためのものであって、「個の確立」においては助けを必要としない。ヒトの社会性は動物としてのヒトの持つ(身体的?)機能の発揮である。日本的個人(「野生の思考」)はそこの「自覚」に至るから、同時に動物との対称性をも「自覚」するようになる。レヴィ=ストロースが言うような後付の神話ではない、と思うわけです。
(言語化という行為そのものは後付ですが)

そう考えるとですね、西欧的な「自我の確立」は、動物的ヒトとしての発育を阻害し、阻害によって生じた穴をそこを人間的ヒトで埋める、ということをしているのではないか、と、そんなふうに考えられるようになるんですね。

人生アウトさん

>そういう人間もいる。

はい。たくさんいますよ。
都会には少ないでしょうけど、田舎にはまだたくさんいます。私の周囲にも、もういう人はいる。

そういう人は、私にとってはかねてから疑問だったんです。このブログでもそうした疑問は何度か取り上げたと思うんですが、ということは、私にとっては、

>そういう人間もいる。

といったような突然変異的にいる、といった捉え方ではないのです。あるべくしてそこにいる、そういう人間が生まれてくる理由がある。そういうことです。

そういえば

昔、こんなことをかいてました。

『魂に問い合わせてみる ~コメントに代えて』
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-54.html

タイトルがなんとも気恥ずかしいのですが(^_^;
ま、要するに直感で書いたということです。

自分で読み返してみて...、なんだ、今も変わらないな、と、思った次第。

なんだか・・・

おんなじことを言っているようで、違うことを言っているようで、どうなのかそうなのか よく分かりません。 (^_^;)
多分、言葉の介在する象徴界的ネットワークに関しての認識が、僕と愚樵さんとでは多少違うのでしょうかね。

僕の認識は・・・
“動物的”ヒトはすでに「社会的な存在」で、他の動物たちも彼らなりの「言葉」を交わしながら彼らの社会を営んでいる。
ヒトの言葉は「ヒトなりの言葉」であって、今現在使われている「言葉」も その延長上だと思ってます。

つまり、「自ぃ識」なき「自我」、「自我のみの自我」など実際には存在しないし、「言葉」なき「“動物的”ヒト」も実際には存在しない、ということです。
そうして 実感なき「言葉」、「自ぃ識」につながらない「言葉」も実際にはなかなかない。
当然、実感なき「言葉」はありますよ、たくさん。
でも、そういうものは自分に影響を及ぼしません。
影響を及ぼさないものは、そもそも関係ないですよね。
自分に影響を及ぼされてしまうからこそ、「言葉」が問題になってしまうわけですから。

ですから、「自ぃ識」にも「言葉」は到達します。
直接・・のこともあれば、「自我」を通して・・のこともあると思います。

そんなこんなで、「言葉」があったってヒトは「“動物的”ヒト」だと僕は思ってますし、その「言葉」が発展してきたところでの「象徴界的ネットワーク」だと思ってるので、そのへんが基本的に違うのかな?と感じます。
ヒトの「言葉」は「自我」だけのものではない、「自ぃ識」のものでもある、というのが僕の感触なんですが、そのへんがちょっと違うのかなぁ。

西洋的感性の問題点は、「自ぃ識」ひっくるめて すべて「自我」と捉えてしまうところなんだろうと思うんです。
だから、件の精神分析的探求も、何だかんだややこしいことになるんでしょうし。
ここらへんは共有してますよね。

「言葉」という言葉で、愚樵さんが何を意味してらっしゃるのか、
「人間的ヒト」という言葉で、何を意味してらっしゃるのか、
そのへんがよく分からないです。

>西欧的な「自我の確立」は、動物的ヒトとしての発育を阻害し、阻害によって生じた穴をそこを人間的ヒトで埋める、ということをしているのではないか、と、そんなふうに考えられるようになるんですね。
<
これは分かるんですけどね。 (^_^;)

老化とは幼児化でもある

単に歳をとって、微小な脳梗塞を起こして少しまだらボケを起こしているだけではないでしょうか。?
母親が89歳なら息子も還暦をむかえているので毎日の世話が段々負担になって来るはずです。
関係ない傍から見れば詩的に見えるが、実態は迫り来る老いとの戦いで、今まで普通に出来ていたことがどんどん出来なくなる。
この戦いは必ずこちら側が必ず負けることになっているのですが、どうしようもありません。
一番怖い可能性は、ボケは年齢の順番とは必ずしも一致するものではなく壮年期を過ぎれば誰にでも起こりうるので、母親も息子も両方が痴呆状態になっている、あるいは息子の方がボケているのだが誰もボケているとは思わない事でしょう。
テレビで『人生の楽園』なる田舎暮らしを紹介する番組があるが、本人は楽園かもしれないが周りの家族は大迷惑と言う話は案外多い。

大きな社会と小さな社会

・アキラさん

>“動物的”ヒトはすでに「社会的な存在」で、他の動物たちも彼らなりの「言葉」を交わしながら彼らの社会を営んでいる。

はい。ただし、ここでいう社会は「小さな社会」、つまりは共同体です。“動物的”ヒトは生まれながらにして共同体的である、ということですね。

それに対して“人間的(文明的)”ヒトは、同じ社会的存在ですが、ここでいう社会は「大きな社会」です。つまり西欧的な「自我の確立」は、「大きな社会」へ向けてのものなのだということですね。

「大きな社会」と「小さな社会」の本質的な違いは、前者がロゴス(言葉・概念・理念)を介して構築されている社会であるのに対して、「小さな社会」はエロス(情感)によって構築されている社会だということ。

>「人間的ヒト」という言葉で、何を意味してらっしゃるのか、

「大きな社会」に向けて「自我」を確立しているヒト、ですね。ですので「自我」はロゴス的だということになり、なんらかの輪郭があるように感じられる(この輪郭もよく見てみると曖昧でしかないのですが)。対して“動物的”ヒトが確立している個としての「主体」はエロス的、情緒的。だから「自我」ほどに輪郭はなく常に流動的。だから日本的個人の「主体」は「無常」(≒「孤独」)になる。

>ヒトの「言葉」は「自我」だけのものではない、「自ぃ識」のものでもある、というのが僕の感触なんですが、

「自ぃ識」のものとしての「言葉」は、同じ言葉でもエロチックだと思いませんか?(笑) つまり蠱惑的。情緒的「主体」をもつヒトにとっての「言葉」は 、おそらく論理を伝えるためのものよりも先に、情感を伝え合うものなんです。チンパンジーもゴリラも、そういう「言葉」の使い方をしていると思う。これを指して“動物的”と言っています。

けど、西欧人は、

>西欧的な「自我の確立」は、動物的ヒトとしての発育を阻害し、阻害によって生じた穴をそこを人間的ヒトで埋める

ために、「言葉」というと先にロゴスなんです、きっと。

>そんなこんなで、「言葉」があったってヒトは「“動物的”ヒト」だと僕は思ってますし、その「言葉」が発展してきたところでの「象徴界的ネットワーク」だ

そんなわけで、「象徴界的ネットワーク」といっても、ロゴス的なそれとエロス的なそれとを同じように扱うことは出来ないのではないか、と私は思っているんですね。とはいうものの、私はまだフロイト・ラカン的な理解をよく飲み込めていないので、なんとも言えないのですが...

逝きし世の面影さん

>単に歳をとって、微小な脳梗塞を起こして少しまだらボケを起こしているだけではないでしょうか。?

わはははは。そうかもしませんねぇ。

>関係ない傍から見れば詩的に見える

私にとっては決して関係なくはないのです。おそらくは、近未来の私たちの姿。その覚悟をして山梨に移ってきたのですから。

ですので、私は決して“詩的”に、つまりは「他人事」としては捉えていません。なぜそうなるのか。このエントリーの核は、その疑問です。

>テレビで『人生の楽園』なる田舎暮らしを紹介する番組があるが、本人は楽園かもしれないが周りの家族は大迷惑と言う話は案外多い。

私もその番組をときどき見ますが、見ていて腹が立つことが多い。あの番組は要するに、“カネがあればどこでも楽園”と言っているだけ。都会で他人からカネという形で搾取を行なった挙げ句の楽園。身勝手もいいところ。それこそ“詩的”です(笑)

結局私の問題意識は、なぜそんな社会になったのか、というところに行き着きます。身勝手に憤っていても、それだけではそれもまた身勝手でしかありません。

なるほど

もろもろ了解です。

そうなると、僕自身はそもそもの「意識としての意識(顕在意識)」を「自我」と呼んでいますが、これについては愚樵さん的には「自我」ではないということですね。
「意識としての意識(顕在意識)」がある方向性で ある一定程度以上肥大化したものを、「自我」と呼んでらっしゃるようですから。
そこのところが、僕にはよく分かってなかったようです。

そのへんに関しては、僕はすべて連続性のあるもので、単にそのどのへんにいるのかでもって変わってくる話だと思ってます。
ですから、エロス的な「象徴界的ネットワーク」を形作っている「意識としての意識(顕在意識)」も、僕の中では同様に「自我」ですね。
「自ぃ識」には主語がないですから。

ということになると、愚樵さんが
『“動物的”ヒトが確立している個としての「主体」』
と仰るときの「主体」が、何を意味してるかですね。
「自ぃ識」は僕の造語なので (^_^;)、(お付き合いいただきありがとうございます)
これに主語を持たせるわけにはいきません。

その前提に立つと、この「自ぃ識」と「なにか」がないまぜになって
“動物的”ヒトが確立している個としての「主体」になると思われるのですが、
そういう感じの理解でよいでしょうかね?
その「なにか」が今度は問題になっちゃいますが。。。 (^_^;)

用語の整理

・アキラさん

>「意識としての意識(顕在意識)」がある方向性で ある一定程度以上肥大化したものを、「自我」と呼んで

はい。そういうことになりますね。

この「自我」の用語については私の方に不注意がありました。〈私〉と書いたり「自我」と書いたり、あるいは「主体」と書いたり...。

お詫びした上で整理させてもらいますと、「自我」は西洋哲学で用いられる意味での「自我」とすべきでした。また〈私〉というのは、“「意識としての意識(顕在意識)」がある方向性で ある一定程度以上肥大化したもの”。〈自我〉はひとりにひとつですが、〈私〉は必ずしもそうではなく、ひとりの人間が複数の〈私〉を抱えることもあり得る。とはいってもそれは多重人格というわけではなくて、(これは以前アキラさんのところでコメントしたと記憶していますが)個々人が接する複数の「社会」に応じてそれぞれ〈私〉が存在する、ということになります。
(つまり〈私〉とは、“柴の庵”です。)

>この「自ぃ識」と「なにか」がないまぜになって
“動物的”ヒトが確立している個としての「主体」になる

この「なにか」が「社会」であり、“個としての「主体」”が〈私〉ということになります。

ですが「主体」=〈私〉ではありません。むしろ「主体」=「自ぃ識」です。「自ぃ識」は主語にならないからおかしいと仰るでしょうけれども、それでいいのです。「主体」というのは仮名(けみょう)だと理解していただければ幸いです。

個人の中に“確立した(1個の)自我”ではなくて、複数存在する「社会」にそれぞれ応じた〈私〉が存在する。それが「日本的個人」の在り様だと私は考えています。主語となり得る複数の〈私〉を抱えていても、多重人格者のように個人の中に存在する〈私〉を別人格だと捉えてはいない。〈私〉は“柴の庵”であり“点滅する因果交流電灯”ですから、「自我」のように明瞭(に見える)輪郭線があるわけでない。だから複数の〈私〉(というよりも、「自ぃ識」のなかにぼやっと分布する〈私〉と言った方がいいかもしれませんが)を抱えて矛盾なく(矛盾しつつ?)抱えていられるのでしょうが、“抱えている身体”は、どう見てもひとつです。その「身体感覚」を私は「主体」と呼びたいと思うのです。

〈私〉は「自我」たるべき?

上のコメントを踏まえて、少しばかり追加。

日本人はもともと複数の「社会」の中で生活してきました(“複数”というよりも“複層”の方が正確かな?)。しかし、〈システム〉の全域化にともなって、複層社会が単層社会へと変化していった。この環境の変化にともなって、ひとりの人間が複数の〈私〉を抱えることが大変不都合になってきた。「自我」の確立が求められるようになってきたのは、そういった事情からだと思います。

とはいえ、〈私〉はやっぱり「自我」ではない。〈私〉はあくまで情緒的で「小さな社会」向けに確立される(というより“点灯される”)ものでしかないので、いくらひとつになったとはいっても、〈システム〉(=ロゴスによって構築された社会)には上手く適応できない。そこが近代日本人が抱え込んだ精神的構造問題でしょう。

名前が単なる記号でしかない理由

もうひとつ。

日本人が、自分に付けられた名前は単なる記号でしかない、と感じることと“複数の〈私〉”は大きく関連します。
つまり日本人は、複数持つ〈私〉ごとに名前がついていても、なんら矛盾を感じないということです。

たとえば私は“愚樵”というハンドルネームを名乗ってネット上に存在(?)していますが、もちろん実社会ではちゃんと本名があり、それで活動しています。そのことに私は何の違和感もないし、私のブログを見ていただいている方々もおそらくは違和感を感じられないでしょう。そればかりではなくて、私が本名とは違うハンドルネームを名乗っているからといって、私が無責任な文章を書き散らかしていると、アタマから否定するような方も少数だと思います。これは私のブログだけではなくて、日本のネット社会の特徴といってよいと思う。

ところが、欧米では事情が違うらしい。プロのジャーナリストであろうがなかろうが、本名を名乗らないとアタマから信用されない、という。つまり1個の「自我」は一個の名前と一対一対応でなければならない。それがあちらのスタンダードらしい。この基準からすれば、“名前は単なる記号”だと言い切ることはなかなか難しい。

もう少し論を進めてみると、日本人にとって本名とは仮名(けみょう)である、ということができるかもしれません。私という個体についた名は、世界の存在全部を「真如」と仮に呼ぶがごとく、〈私全体〉を仮に呼ぶ仮名。そして、その〈私全体〉から分節した複数の〈私〉に名が付けられる。本名といわれるものもあくまで〈私〉をとりまく複層社会のなかのひとつで用いられるものでしかなく、別社会で〈私〉が名乗るハンドルネームと同等のものでしかない――という具合です。

すごい納得

あっち方面こっち方面で愚樵さんが仰っていることが、ようやく一つのまとまりとして理解できるようになってきました。
まとめてくださってありがとうございます。
& 飲み込みが悪くてすんません。 (^_^;)

>「自我」は西洋哲学で用いられる意味での「自我」。
〈私〉というのも、“「意識としての意識(顕在意識)」がある方向性で ある一定程度以上肥大化したもの”。
ただし〈自我〉はひとりにひとつだが、〈私〉は必ずしもそうではなく、個々人が接する複数の「社会」に応じてそれぞれ〈私〉が存在するので、ひとりの人間が複数の〈私〉を抱えることもあり得る。
<
>「自ぃ識」と「(小さな)社会」がないまぜになって 〈私〉である。
 その〈私〉として顕れているものは、「主体」でありつつ仮名(けみょう)でもある。
(「小さな社会」によって そのつど“呼び出されている”ものだから?)
 “抱えている身体”はひとつなので、その「身体感覚」をむしろ「主体」と呼びたい。
<
>〈私〉はやっぱり「自我」ではない。
〈私〉はあくまで情緒的で「小さな社会」向けに“点灯される”ものでしかない.
複数持つ〈私〉ごとに名前がついていても、なんら矛盾を感じない。
<

とてもよく分かります。
特にこの「自ぃ識」と「(小さな)社会」と 〈私〉と「主体」と「仮名(けみょう)」。
なるほど、なるほど。
そうか、そういう観え方だったのか、と得心です。

考えてみたら、そうですよね。
「自ぃ識」でしかなかった僕らが、育つにつれて「主語」を獲得していくにあたって、「わたし」を最初から獲得していくわけではないですからね。
まわりから呼び名で呼ばれ、その呼び名でもって自分を呼んでみたりする。
少し大きくなれば、まわりの大人が使ってるものを真似して「あたし・・」とか 自分のことを呼んでみたりもする。
でもって、「男の子が“あたし”なんて言うのは おかしいわよ」とか言われて、ワケは分からないが修正してみたりする。

そんなこんながたくさんたくさん積み重なりながら、だんだん主体としての「わたし」を獲得していきますね。
けれど、確かにそれは「自我」ではない。
「自我」はもっともっと先のもの・・ですね。

こちらこそ、ありがとうございます。

・アキラさん

お礼を述べなければならないのは私の方です。

実は私自身も少し驚いているんです。よくまとめられたものだと(笑) アキラさんのおかげです、いや、ホントに(^o^)

確かに私がまとめたようなことが私自身のなかに“あった”ことは間違いありません。しかし、それは“ぼやっと分布”していたようなもので、かつ、私自身にとってはそれでよかった。

ところが、アキラさんという他人との対話を続ける過程の中で、それでよくなくなったんですね。“ぼやっと分布”では伝わらない。特にテキストを介してのやりとりでは。

そこで伝えるために体系化、つまり“ぼやっと分布”を求心化(言語化)しようとする欲望が働き、そこで何らかの「核」が出来上がり、その「核」を言葉によって表現する。

アキラさんは、その「核」を承認してくださいました。そのことで私は、新しい〈わたし〉、かなり明確な輪郭セインを持った〈わたし〉を手に入れることができたような気がします。

で、思ったのは、この言語化された「核」こそが「自我」かもしれない、ということ。いや、「自我」そのものではなくて“前「自我」”かな。これが他人(同じく言語化された「核=自我」を持つ者)によって承認されると、「自我」としての地位を獲得する。

私はアキラさんのおかげで新しい「自我」を獲得することができた――いえいえ、「自我」はひとりにひとつのはずですから、新しい「自我」というよりは、「自我」を補強する「アイデンティティ」という方が正確でしょう。

そんなわけですので、お礼を述べるべきは私の方です。ありがとうございます。今後もよろしくお付合いくださいね。

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