愚慫空論

世界はすでに分節している

・アキラさんへ
そちらのコメント欄へ投稿する代わりに、こちらへエントリーとしてあげさせてもらうことにします。

こちらのコメント欄に記した

>「有」を「無」に返す方向で働くのが「生命力」 という話の続きです。

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この話を続けるのに、他人様の言葉をお借りすることにします。拝借するのは、こちら。

東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 (中公文庫BIBLIO)東洋哲学覚書 意識の形而上学
  ―『大乗起信論』の哲学 (中公文庫BIBLIO)

(2001/09)
井筒 俊彦

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 一般に東洋哲学の伝統においては、形而上学は「コトバ以前」に窮極する。すなわち形而上学的思惟は、その極所に至って、実在性の、言語を超えた窮玄の境地に到達し、言語は本来の意味指示機能を喪失する。そうでなければ、存在論ではあり得ても、形而上学ではあり得ないのだ。
 だが、そうは言っても、言語を完全に放棄してしまうわけにもいかない。言語を超え、言語の能力を否定するためにさえ、言語を使わなくてはならない。いわゆる「言詮不及」は、それ自体が、また一つの言語的事態である。生来言語的存在者である人間の、それが、逆説的な宿命なのであろうか。


『大乗起信論』では、「世界」のことを「真如(しんにょ)」と呼びます。そしてこの「真如」という名は仮名(けみょう)、つまり仮の名だという。なぜ、そんなことになるのかというと、それは「言詮不及」のゆえに、というわけです。

つまり、「世界」もしくは「真如」と呼ばれる何も欠けたところのない存在を、私たちは想起することができる。けれども、その「全一的存在」に名前を付けた途端に、私たちはその名前以外の何者かをも想起してしまう。全一的存在のはずが、どこかしら欠けた存在に堕ちてしまうわけです。だから、「真如」という「全一的存在」の呼び名は本当の名前ではない、仮の名だ、というふうにいうわけです。

なんだか随分と屈折した物言いのようですが、けれど、それこそが「生来言語的存在者である人間の逆説的な宿命」ということなのでしょう。

>『本来だったらずーっと連続していて、どこかで区切ることなど出来ない世界を、「区切る」ことによって認識していくというのがヒトの知覚行為だろう。
光るナス:『名前を与えられる』より)

ということであり、私たちが名前を付けることができるのは、「区切ったもの」、つまり分節したものだけである、ということなわけです。ということは、私たちが世界と呼んでいる時点で、実は世界は不完全なものでしかない。言葉とは元来、そういったものだ、ということです。

だから、本当に完全な(全一的な)世界(=「真如」)は、呼べない。という以前に認識できない。 「その極所に至って、実在性の、言語を超えた窮玄の境地に到達」です。そして、認識出来ないということは、言い方を変えると「非顕現」であり、「無」であり「空」である。また逆に、私たちが認識出来るつまり「有」である、ということは、“すでに分節している”ということになる。

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さて、以上を踏まえた上で、「名前を与えられる」ということについて少し考えてみます。

子どもが誕生してきた、ということはすなわち、世界から分節した、ということです。だから、そこに名前を与えることができる。名前を与えた、ということは、分節してきた(=「有」となった)ことを「承認」するということでもある。ですから、命名というのは「祝福」になる。

しかし、命名が「祝福」にならず「呪い」となるケースも出てきます。これは「承認」の在り方に関わってくる問題です。つまり「承認」には、分節してきた存在(=子ども)が、全一的な世界(=「真如」)へ回帰することが前提の「承認」と、分節を分節のまま留め置くことが前提の「承認」とがある、ということです(前者が「祝福」、後者が「呪い」です)。

私たちは、愛する人の名前を呼びかけます。このとき私たちの中で生じている「欲望」は、“全一的存在への回帰”への「欲望」です(この「欲望」=「力」を、私は「生命力」と呼んでいますが、実際、“私があなたとなり、あなたが私となること”を希求する欲望は、生きてゆく力を呼び起すものです)。そして、本当の名前が“全一的存在への回帰”へ向かうことができるものだと“信じる”のであれば(“信じる”のも、これまた「欲望」=「力」です)、同時に本当の名前は“分節のまま留め置く”こともできる、と“信じる”ことができるようになる(このときの「力」を「権力」と呼んでいます)。

考えてみれば、「権力」というものは、“「無」から「有」を生み出す力”でもあります。上の「仮名(けみょう)」のところに立ち返ってみますと、私たちは全一的「真如」を想像し、名前を付けることができる。しかし、名付けた途端に「真如」は「真如」でなくなる。これは見方を変えると、私たちが「非真如」というものを生じせしめた、とも言うこともできるわけです。

(“「無」から「有」を生み出す”と“「無」から「有」が分節する”は、同じ意味のようですが全く違うことに留意してください。“生み出す”場合の「無」はいうなれば「虚無」。“分節する”場合は、すべての始まりとしての「始原の無」です。)

ということは、「権力」を発動させて名前を呼ぶときには、名前で指し示されている存在を「虚無」へと返そうとしている、と考えることもできそうです。“「虚無」へと返す”、これは「呪い」に他ならないと言っていいでしょう。

コメント

「空」と「無」と

「全一的な世界」あるいはその実体が「空」なのだろうと思いました。

その基礎の表面の「名前をつけること」のできるステージでのあれやこれやが「有・無」なのだろうな、と。

そう前提すると、「子どもが誕生してきた」ということだけでは、まだ「無」ですよね。
そこに「名前を与える(名前を呼ばれる)」ということがあって初めて「有」となり得る。
〈世界〉からの文節が「有」なのではなくて、「承認」行為が「無」を「有」にするんじゃないかな、と思った次第です。

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