愚慫空論

〈私〉を感じる

“〈私〉を感じる”という言い方は、あまり一般的なものでないかもしれません。
私はふだんから一般的ではない言い回しを多用しますので、私にしてみれば普通のことでしょうけど(笑)

一般的には「自意識」とか「自我」とか言われていること――といっても、こんな言葉は普通の暮らしのなかで使われることはまずありませんが――を、ここでは“〈私〉を感じる”ということにします。

なぜそんな言い方をするのか? それは、“感じる”ということの性質から出てきています。

私たちには感覚器官が備わっています。“感じる”のは、感覚器官が働らき、感覚器官から情報が脳へ送られることによって生じる。どういった時に“感じる”のかというと、それは「動き」があったときです。たとえば、私たちの周囲には空気が満ちているわけですが、空気が静止している場合には、空気を感じたりすることはありません。空気に動きがあったとき、私たちはその動きを感じ取る。そして、その“感じ”を日本語では「風」と呼ぶ。

静止画像を見るといった場合でも、動きはあります。この場合、動いているのは画像の方ではなくて、眼球の方。静止画像を見詰めるといったようなときでも、ヒトの眼球は微妙に震えているのだそうです。私たちは触覚でモノを探ろうとするときにはそのモノを撫でるのが普通ですが、それと同じように、眼球も見詰める対象を撫でている。撫でることで動きが感じ取られて、情報が脳に送られる。脳は視覚情報を補正してモノの輪郭を与え、それで私たちは「見る」ということを感じるわけです。

といったような具合に、“感じる”ということと「動き」とはセットになっていると考えてられそうです。では、“〈私〉を感じる”というのは、つまり「自意識」とか「自我」というものは、何に「動き」があって感じられることになるのか?


わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞずけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)

(宮沢賢一作『春と修羅』より)


ここで踏まえておくべきことが2つあります。1つは“〈私〉という感じ”は、感覚器官を通じての外部感覚ではなく、内的感覚であるということ。2つめは、自己同一性が惹起されるということです。

自己同一性とは、“昨日の〈私〉と今日の〈私〉は同じ〈私〉”ということ、つまり現在は過去から連続していうように感じられる、ということです。また内的感覚ということは、「動き」が〈私〉の外ではなく内部にあるということ。これら2つの条件を満たすもの――それは私たち自身の記憶です。

では、記憶は「動き」なのか、というのが次の問題として浮かび上がってきます。そこで宮沢賢治です。
賢治は“わたくしといふ現象”が“せはしくせはしく明滅”するといいますが、これは実は記憶のことではないのか、と思うのです。おわかりになっていただけると思いますが、記憶というものは曖昧なものです。明瞭な輪郭は案外ないものです。私にはその曖昧さは“せはしく明滅”するところから来ているように感じられます。が、一方で、確かに過去から連続しているようにも感じられる。その感じは“いかにもたしかにともりつづける”に通じます。つまり交流電燈(=蛍光灯)のように、明滅しているがそのようには感じられないということです。

以上のことは、私はヒトという動物がもつ記憶容量の問題と関連しているのではないか、と想像します。明滅していると感じられないほどに“せはしく”記憶情報を送り続けることができるくらい、ヒトの記憶容量は大きいということです。しかも、おそらくは、静止画像を見ているときと同じような「補正」が働くのではないか。 私たちが“〈私〉という感じ”を確固としたもののように感じられるのは、ヒトの脳の大きな記憶容量と補正機能の成果だといえるのではないのでしょうか。

コメント

脳梗塞の私

異論があります。
私は脳梗塞になる前は、自己認識を恣意的なる働きによってしか認識できないと、思っていました。
宮沢賢治のいう点滅する記憶で連続する自己を同一のものと理解していました。

ところが数年前急に転地が逆さになり、嘔吐がとまらなくなって、蛇行し始めました。意識が薄れるなかで、初めて明確な自己を認識し、内的機関の脳から「死ぬな!しっかりしろ」という命令をうけました。それでも片方が動かなくなり、随意筋が動かないという不思議な感覚をおぼえました。

それまでオントロギーとは何ぞやと思索した自分が無意味であったことに、そのとき気がつきました。

多田富雄先生はなくなる前、「意識しないと意識はないよ」と言われていました。なるほどといまごろ気がつきました。

思惟で解はでません。脳の壊死を体感してしか分からないこともあります。

岩下さん

>思惟で解はでません。脳の壊死を体感してしか分からないこともあります。

と言われてしまうと、返事のしようがないんですが(苦笑)。幸いなことに、私はまだ脳梗塞は患ってはいませんので...

とはいうものの、少し続けてみますと

>宮沢賢治のいう点滅する記憶で連続する自己を同一のものと理解していました。

ということは、現在は「自己を同一のもの」とは考えておられないということになると思いますが、そうだとすれば、私と同じ考えなのだと思います。私は自己同一性は一種の錯覚だろうと考えていますから。

このエントリーも、そういった内容のつもりだったんですが。

例えば

僕のワード「自我」「自ぃ識」に分けて考えてみたのですが・・・。

「わたしはわたし」って個体感覚、主語のない「わたし」感覚と言いましょうか、「感じてるわたし」と言いましょうか、そういう個体感覚は、「自我」が担保してるのだろうか?、「自ぃ識」が担保してるのだろうか?

そう考えたときに、ふと思ったのが、多重人格者の方々なんです。
完全に人格が入れ替わったりするわけですよね。
アダムさんが、ジョンになったりメアリーになったりする。
これは「自我」が切り替わってると言えると思うんですが、「わたしはわたし」という個体感覚は そのときどうなってるんだろう?なんて思うんです。

アダムのときも「わたしはわたし」でしょうし、メアリーのときも「わたしはわたし」でしょうけれど、
そのアダムのときの「わたし」感覚と メアリーのときの「わたし」感覚は、違う「わたし」感覚なのだろうか?
それとも、この主語のない「わたし」感覚、「感じてるわたし」といった個体感覚は同質のままなのか、そこも次々と異質なものになるのか?
どうなんだろう?なんて考えちゃいました。

フツーに考えると、カラダは変わらないわけですから、この個体感覚は「自我」がいろいろ変われど、同質の感覚を保持するんじゃないか?なんて思うんですけどね。

で、「差異共振」のことを想ったんです。
このそもそものカラダにしっかりとくっついた「自ぃ識」と後づけの「自我」的なもの(記憶?)との「差異」を、個体感覚として「“わたし”として感じてる」のかな?とか。

僕も野口整体の観点から、「知覚する(感じる)」=「動く」だと思ってまして、また「いのち ≒ 裡なる要求」自体も振動してるとも思ってるんです。
ですから、そのいのちの振動自体(動き)が外部との差異を知覚して、それが個体感覚になっている、それがイコール「自ぃ識」になっている?のかな?とも思ったり。
つまり、そもそも いのちの振動自体が=知覚だ、ということ。

僕としては、後者を推したいんですけどね。 (^o^)

Re:例えば

>フツーに考えると、カラダは変わらないわけですから、この個体感覚は「自我」がいろいろ変われど、同質の感覚を保持するんじゃないか?

いえ、変わるんじゃないでしょうか? ほら、ヒトの身体は“何にでもなれる「体」”ですから。

人間は非常に大きな精神的衝撃を受けると記憶が断絶してしまうということがある。記憶は「自我」によってある程度はコントロールできますが、ある程度であってその根は「自ぃ識」にあると考えられるわけですが、記憶が断絶するとなると、「自ぃ識」にまで衝撃は深く及んでいると考えられる。そうすると、我々の考え方だと身体の方にも影響が及ぶ、ということになるはずなんです。

私も詳しくは知りませんが、多重人格の人は、人格が切り替わると身体的な振る舞いも変わるんでしたよね、確か。人相とか、仕草とかも変化する。それは、確かに「細胞レベル」では同じ身体と言えるでしょうけれども、「人間レベル」では同じではない。

ここはアキラさんが詳しいかと思いますが、人は「人間」レベルでは身体は変化していくんですよね。身体は変化していくと当然〈私〉も変化していくはずですが、しかし“〈私〉は〈私〉”という自己同一性をフツーは保持します。その核は、やはり記憶かな、と。

多重人格者の人格の「切り替え」は、記憶と身体が同時に切り替わってしまうことで生じるのかもしれません。

>カラダにしっかりとくっついた「自ぃ識」と後づけの「自我」的なもの(記憶?)との「差異」を、個体感覚として「“わたし”として感じてる」のかな?

「自ぃ識」というのは「器(うつわ)」だと思うんですよ。その器に内部からの記憶、外部からの感覚が流入してきて「動き(=差異)」が生じる。それを私たちは“感じる”のでしょう。

で、その“感じる”では「器の中身(=自我的な〈私〉」と、「器そのもの(自ぃ識)」を同時に“感じる”。それは触覚において、手でものに触れると、ものと手とを同時に感じるのと同じです。同時に“2つ”感じてしまう(西洋的には自我の二重性)ということは、言い方を変えるとそこの「差異」が生じているということであり、逆に差異があってそれを感じるからこそ「〈私〉は〈私〉である」と感じる。

“Aは非Aであり、それによってまさにAである”です。

なるほど。

う~ん、確かにヒトの身体は“何にでもなれる「体」”ですけれど、元々の個体の持つ「偏り」みたいなものはあって、そこはゼロベースではないので、その一貫性の感覚はあるんじゃないかな?なんて思ったんです。
愚樵さん仰るように、多分 多重人格の人は、人格が切り替わると身体的な振る舞いも変わるんだと思います。
けれど、この場合は、潜在意識に一緒に落ちている「イメージ(記憶)」がそうさせるんじゃなかな?と思ってます。

実際のところがどうなのか知りたいところですけれど、こういうこと、調べてる人なんていないでしょうね。 (^_^;)

僕が推したい方、つまり、いのちの振動自体(動き)が外部との差異を知覚して、それが個体感覚になっているのでは?という推測には難点があって、だったら気絶してるときとか熟睡してるときとかにも、その個体感覚はあるんじゃないの?ってことになるんですよね。 (^_^;)
夢の中の自分には、この個体感覚はあるんじゃないかと思うんですけど、意識がないときには、やっぱり当然こういう個体感覚も感覚してませんよね。

岩下俊三さんが仰ってるように、確かに「意識(自我)」があって初めて、こういう個体感覚も感じている。
ですので、愚樵さんの仰ることに賛成です。
「意識としての意識(自我)」があってこそ、“〈私〉は〈私〉”という自己同一性も感覚され、保たれる。

僕はやはり「裡なる要求(いのち)」=「動き(流れ)」=「自ぃ識(知覚)」なんだと思います。
「器(うつわ)」ではなく、やはり「動き(流れ)」=「知覚(自ぃ識)」。
でも実際に「いわゆる“感じる”」のは、基本的に「自我的な〈私〉」なんでしょうね。
そのときに愚樵さんが仰るように、
「手でものに触れると、ものと手とを同時に感じるのと同じです。同時に“2つ”感じてしまう」
ということが起こってるように思えます。

そうして「記憶」なんですが、顕在意識的な記憶と潜在意識的な記憶とがあることを考え合わせると、この「記憶」には2種類のものがあるんだと捉えた方が自然なのかもしれません。
つまり、「自我的な〈私〉」的な記憶、と、「自ぃ識的な〈私〉」的な記憶。
顕在意識的な記憶、と、潜在意識的な記憶、と言ってもいいんでしょう。

野口整体的なところから言うと、
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/50072381.html
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/50076195.html
このあたりで書いているように、「上からの一側」的な問題、と、「下からの一側」的な問題。
こう考えると、僕の中では非常にスムーズです。 (^o^)

“Aは非Aであり、それによってまさにAである”ですね。

アキラさん

>この場合は、潜在意識に一緒に落ちている「イメージ(記憶)」がそうさせるんじゃなかな?と思ってます

ええ、人相はともかく、仕草なんてのはそうじゃなきゃ考え難いですよね。もし潜在意識に“落ちている”ではなく“湧き上がってくる”だとすると、スピリッチュアルな話になります。スピリッチュアルとしかいえない事実もあるような気はしますが、そこは厳密に扱わないと(笑)

私のなかで整理がついていないのは、潜在意識に“落ちている”記憶(「自ぃ識的な〈私〉」的な記憶)と身体、及び「自ぃ識」との関係。顕在意識的記憶は〈自我〉経由で随意筋を動かす。潜在意識的記憶は〈自我〉経由せずに随意筋を動かす。「自ぃ識」は、〈自我〉経由であろうがなかろうが(また随意筋であろうが日随意筋であろうが)、とにかく「動いている」と“感じ”なのかな、と想像してはいるんですけど。つまり、「いのちの振動自体(動き)」ということですね。

>「器(うつわ)」ではなく、やはり「動き(流れ)」=「知覚(自ぃ識)」。

ごめんなさい。「器」いう用語が説明不足でした。「器」といっても、固形物のイメージではないんですね。私たちの身体は、普通は固形物とイメージされますが、細胞レベルでは流動しているのとおなく、ここでいった「器」もまた流動する、すなわち「動く」んです。「動き」つつ形を変えていき、その形の変化によって「器」のなかで結ばれる自我イメージも変化していく。

「器」の中身も「器」自身も「動く」が、その速度は異なるといってもいいでしょう。もちろん、「器」自身の方がゆっくりです。

またお世話になっちゃいました♪

>もし潜在意識に“落ちている”ではなく“湧き上がってくる”だとすると、スピリッチュアルな話になります。
<
なるほど、あり得ますね。
そうか、逆ベクトルの可能性も「あり」か。
・・・考えてみたら当然ですね。 (^_^;)

記憶自体が呼び起こす反応は、例えばその記憶に付随する感情や五感などをも呼び覚ましますから、それを考えると、顕在意識的な記憶も潜在意識的な記憶も、ともに随意筋(錐体路系)・不随意筋(錐体外路系)両方を動かすんだと思います。
ですから、顕在意識的な記憶と潜在意識的な記憶の違いは、〈自我〉経由かどうか、なのではないでしょうかね。

で「自ぃ識」ですが、僕の捉え方では、「いのちの振動自体(動き)」が=「知覚」で、それが「自ぃ識」となっている。
そこにすでに「自ぃ識」的な感覚はある。
というか、「自ぃ識」はそれ自体 知覚である・感覚である。
けれど、「自ぃ識」が「自ぃ識」それ自体で自分を認識することは出来ないんだろうな、ということです。
愚樵さんが仰るように、「自我的な〈私〉」と出会うことによって初めて「自ぃ識的な〈私〉」は感覚される、と。


>ここでいった「器」もまた流動する、すなわち「動く」んです。「動き」つつ形を変えていき、その形の変化によって「器」のなかで結ばれる自我イメージも変化していく。
<
なるほど、了解です。納得です。
いやしかし、この手の話をこういう形でやりとりし合えるのは、愚樵さんだけです。
(^o^)
ありがたいことです。

アキラさんの持ち出した多重人格ではないのですが、本人にしか見えないさまざまな人格との交流をリアルなものと感じる精神疾患を抱えている人の場合、その実在しない人格たちは、身体感覚から乖離した〝想念の世界〟に存在していると思うのです。
実はほとんどの人間が、三次元世界に生きながら、この想念の世界を持ち、そこでも生きている。つまり、自我は分裂している。それを隠して周囲に対して〝うそ〟をつきながら生きられる場合は、通常疾患とはみなされない。
しかし、分裂病の場合は、その想念の世界の方が、当人にとってリアルであり、それが、時に三次元の身体感覚をも支配するのではないでしょうか。
それが、はなはだしい場合には、多重人格者となる。
また、この三次元の身体感覚と、内的感覚がほとんど一致する人は、ある程度、内的〝平和〟を維持しながら、当人にストレスを与える余計な想念を持たずに生活することができる。
アキラさんはそうなのかな?
愚樵さんは?

どうなんだろう?

naokoさんの仰る「想念」というのは、例えば嫉妬や恨みや憎しみ、我欲や執念、不安や恐怖など、ですよね?
(これらは「負の想念」ですね?)

これって僕の中では「身体感覚」なんですよね。
(おそらく愚樵さんの中でも)。

ですから、naokoさんの仰る「三次元の身体感覚と、内的感覚(想念の世界)」という仕分けが、どこをどういうふうに仕分けてるのかが、ちょっとピンとこないんです、僕としては。

どうなんでしょうね?
その「想念の世界」は、むしろカラダにくっついた「自ぃ識的な〈私〉」的な世界なんじゃないでしょうかね?
「自我的な〈私〉」の方が、「三次元」的なんじゃないのかなぁ?

僕としては、「自我が分裂してる」というよりも、アタマ的な「自我」が カラダ的な「自ぃ識」をホントの「他人」として感じてるふうに受けとれるのですけど。
いろいろな想念のひとつひとつを 各々「他人」と捉えてしまえば、いろんな人とリアルに交流してる・・ということになりますし。

僕自身は、カラダ的な「自ぃ識」を「他者」として感じていたりするんです。
アタマ的な「自我」が「もう1人の自分」的に存在する。
ちょっと分裂気味なんですよ。 (^_^;)

関係ないおまけ

ちょっとふと思っちゃったんで、ここに書いときます。

「ヒメ・ヒコ制」ってあるじゃないですか。
あれって、ここで話してるようなことなのかなぁ?って思いました。
同調(憑依)する「ヒメ」と、認識(伝達)する「ヒコ」。
「自ぃ識」的・「自我」的だと、ふと思いました。 (^_^;)

「人格」は見えますか?

・naokoさん

>本人にしか見えないさまざまな人格との交流をリアルなものと感じる精神疾患を抱えている人の場合、

“本人にしか見えない”ということは、その逆に“他人にも見える”ものがあるということになりますね。“他人にも見える”ものっていうのは「三次元の身体」であって「人格」ではないと私は思うんですよ。「人格」
は見えない。でもリアル。なぜかというと、人間には「人格」がある(それも単一の)と“思い込まれている”から。ある種の錯覚ですね。

人間のこの錯覚は非常に強力なものです。例えばお金です。紙幣は物質的には単なる紙切れですけど、現代人には単なる紙切れには見えないでしょう? パワーが宿っているように“感じる”(笑) この“感じ”は錯覚ですけどリアルですよね。「人格」もそれと同じで、ある種のパワーであり錯覚であり、同時にリアルです。

リアルっていうのは(naokoさんの言い回しに従うと)、「三次元の身体感覚が支配される」ことです。紙幣を見てパワーを感じるとするならば、そこには必ず(自ぃ識的)身体感覚がともなう。それがなければ、たとえ客観的現実でもリアルではないんです。

>それを隠して周囲に対して〝うそ〟をつきながら生きられる場合は、通常疾患とはみなされない。
>しかし、分裂病の場合は、その想念の世界の方が、当人にとってリアルであり、

この場合は、“人格はひとつ”という錯覚が破られるということでしょうね。“人格はひとつ”という錯覚は共同幻想であり、その共同幻想がパワーの源泉なのですけど、分裂病の疾患というのは、たぶん「共同幻想のパワー」への感受性が著しく低下した状態なのでしょう。ですから、分裂症の人というのは甚だワガママですよね。物分かりのよい分裂症の人って、想像できないでしょう?

>また、この三次元の身体感覚と、内的感覚がほとんど一致する人は、

ここで言われる内的感覚というのは“人格はひとつ”という錯覚のことでしょうか? だとすれば私はそうではないし、また逆にそうした錯覚がストレスになると感じています。私の中にはさまざまに分裂した私がいて、そのどれも私です。そのことを自分自身で(神にすがることなく)赦せることが内的平和に繋がっていくのだと思っていますし、またそれが他人を赦すことにも繋がっていくのだと思っているんです。

Re:関係ないおまけ

・アキラさん

>同調(憑依)する「ヒメ」と、認識(伝達)する「ヒコ」

なるほど、なるほど(^o^) しかしそうなると、なぜその「分裂」が制度化されたか、同調は「ヒメ(女)」で認識は「ヒコ(男)」なのか、疑問のタネはつきませんね。

ひとつ言えそうなのは、「ヒメ・ヒコ制」が存在するような社会では、現代ほど“人格はひとつ”という共同幻想は強くない、ということでしょうね。“人格はひとつ”を前提にすると、「ヒメ・ヒコ」はスピリッチュアルで片付けられる。

また“人格はひとつ”&スピリッチュアルの組み合わせもありそうですが、それだと「預言者」になるのかな?

アキラさん、愚樵さん。
わたしの言いたかった、内的感覚と想念というのは、まったく逆のものです。
まず、身体の内と外の区別や隔てなく、めぐる氣を感じるのが内的感覚。
逆に、その他の五感で感じる、身体の内と外を区別する感覚が身体感覚。
一般的には、この二つがとけあっているのが普通でしょうか。

一方、想念は、当人の邪氣の放射です。
つまり、想念の世界というのは、当人の〝邪念〟の世界のことです。

勝手な言葉の使い方かもしれません。それに、ちょっと話が一人だけずれているかも…。
すみません。

あと、想念について、くわしくはアキラさんのとこに書きました。

愚樵さん
周囲に対して〝うそ〟をつかなければいけないのは、周囲の持つ共同幻想に合わせないと生きていけないからですよね。そして、それがまたストレスにもなる。
人格はひとつ、というのは、自分はこうだ、とか、こうあるべきという思い込みのことですか?
だとするなら、わたしもそんなのは、きゅうくつな〝うそ〟だと思います。

愚樵さん、アキラさん

頭的自我と身体的自意識の違いというのは、それこそ〝頭〟ではなんとなくわかるし、自分もそんな感じ一時期あったかなあ、と思う一方、〝身体〟的実感としては、実は、よくわかりません。
その頭的自我=内的感覚とは違うのではないか、とは思います。
以前、〝頭〟と〝腹〟という感覚の違いを考えたことはあります。
「頭でわかる」と「腹でわかる」との違い、とか。
でもこれもちょっと別のものという気がするし…。

naokoさん

>その頭的自我=内的感覚とは違うのではないか、とは思います。
<

ごめんなさい、これの意味がよく分かりません。。。

>カラダ的な自意識を「他者」として感じる
>アタマ的な自我が、「もう一人の自分」的に存在する
とアキラさんが言う場合、
身体感覚=カラダ的な自意識
内的感覚=アタマ的な自我
という言葉の使い方で、言っていますよね。

ところが、わたしは
アタマ的な自我は、内と外を認識して分ける→五感からの身体感覚につながる
カラダ的な自意識は、内と外を結ぶ→氣のめぐりを感じる内的感覚につながる
というような意味で、言葉を使っていたもので、勝手に混乱しました(汗)。

愚樵さん、
ということで、わたしの言っていた、内的感覚と身体感覚が一致している人というのは、アキラさんところに書いた、こころの表で物事の処理ができるので、「邪念・邪気」を生まない人、という意味です。

本当に、一人で用語が混乱してますね。
戸惑わせて、すみません。

一応、確認がてら

一応 確認がてら、書いときます。
僕が表現したのは、
>身体感覚=カラダ的な自意識
 内的感覚=アタマ的な自我
<
ではなくって、

(naokoさんの言う)「想念の世界」=「内的感覚」
=カラダにくっついた「自ぃ識的な〈私〉」的な世界

(naokoさんの言う)「三次元の身体感覚」
=アタマ寄りの「自我的な〈私〉」的な世界

なんじゃないのかな?・・ということでした。
だから、naokoさんと似たような把握じゃないのかな?

この「自ぃ識的な〈私〉」的な世界(想念の世界)を、「ホントの他人」として「自我的な〈私〉」が認識していると、「本人にしか見えないさまざまな人格との交流をリアルなものと感じる精神疾患を抱えている」ことになるんじゃないかな?、というように思えるって話でした。

ですので、naokoさんの仰ってることは向こうと併せて、とっても了解♪ (^o^)

あと、これも一応。(愚樵さん以外の方々あて)
naokoさんの仰ってる「アキラさんところ」は、
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51796744.html#comments
の、コメント欄の最後の方・・ですので~。

あ、そうなのか!
アキラさん、納得です。
たしかに、「想念・邪念・邪気」は、内と外を隔てなくめぐりますよね。内的感覚に直結しているはずです。そして、この自分の内的感覚を、アタマ的自我が、ほぼ完全に「他人」の感覚と感じてしまっているのが、おそらく分裂症の人の世界なはずです。
つまり、内的感覚と身体感覚の分離・乖離ですね。

逆に、この二つの感覚の接近は、アタマとカラダをずっと近づけてくれるような気がします。
これって、愚樵さんのずっとこだわってきているテーマのひとつではありませんか?

愚樵のテーマ(笑)

・naokoさん・アキラさん

>これって、愚樵さんのずっとこだわってきているテーマのひとつではありませんか?

そうそう、そうなんです!

政治の話も経済の話も根っこはぜ~んぶそこにつながるっているんだと私は感じているんですね、きっと。このことは最近、より強く自覚するようになってきています。

>内的感覚と身体感覚の分離・乖離

この傾向は、アキラさんも仰るとおり、人間ならだれもがもっているごくあたりまえの“自然”なことです。しかし、これも当たり前の話ですが、この2つはもともとは1つなんですね。1つのものが2つ(またはそれ以上に)に分離・分節していこうとする傾向、いいかえれば“力”なんです。この「力」を、最近の私の言い方では「権力」と呼ぶでいるんですね。

「権力」の反対が「生命力」です。こちらは“もともと1つのものを1つに戻そうとする力”とでもいえばよいでしょうか。ただ“もともと1つ”とはいっても、「人間の自然」からすると、それは「差異」になってしまっている。だから“1つに戻す”のは「共振」ということになるんですね。

そう考えていくと、「邪念」とは1つに戻って移行とする「生命力」を妨げるものということになる。「権力」です。が、それはそのまま「権力」そのものということではなくて、「権力」を“統合する力”だと錯覚から産まれてくる。本来「権力」とは分離・分節への力のはずが、一般的なイメージでは“統合する力”、それも力づくで、という感じでしょう? そうなると「権力」=「邪念」に堕ちてしまう、と、そんな捉え方です。

おぉ~

naokoさんが入ってくれたおかげで、愚樵さんの考えてることがどういうことだったのか、すごく分かりやすくなりました。

“もともと1つのものを1つに戻そうとする力”が「生命力、この1つのものが2つ(またはそれ以上に)に分離・分節していこうとする傾向を「権力」、なるほど。
で、分離・分節への力のはずのものを「(力づくで)統合する力」だと錯覚してしまうところに問題が起こっている、と。
愚樵さんの仰る「理性」とか、あるいはラカンの言う〈大文字の他者〉などが、外部からこれを強引に吸引する「暴力」になってしまっている、ってことですかね。
やっとイメージできるようになってきました。 (^_^;)


上でnaokoさんにコメントしたときにふと思ったんですけど、
「自ぃ識的な〈私〉」的な世界(想念の世界)を、「ホントの他人」として「自我的な〈私〉」が認識している、つまり「自我的な〈私〉」の方へ強く強く引っ張られているような状態が精神分裂的、
一方で、逆に「自ぃ識的な〈私〉」の方へ強く強く引っ張られているような状態、それが多重人格みたいなことなのかな?、と。

そう考えると、「自ぃ識的な〈私〉」と「自我的な〈私〉」、「生命力」と「権力」との間に「差異」があること、それらが「共振」しながらうまいバランスをとっていること、そこがミソのような気がしますし、そのへんでヒトは成り立ってそうですね。

面白いな

それを踏まえて僕的に考えると、

「自我的な〈私〉」が「自ぃ識的な〈私〉(生命力)」を認識して「自分」なるものの感じがある。
一方で、人は他人から認められることで社会的に存在できる。
「自我的な〈私〉」は他者から認められることで発生し、育ってきた。

個体内の図式と社会内(集団内)の図式に、似たようなものがありますね。
どちらも、「認識されて存在する」みたいな。

で、この「自我的な〈私〉」が、「認める存在」として機能しているか、「認められる存在」として機能しているか、というところがポイントになってそうですね。
「自我的な〈私〉」が「生命力」を認めてバランスしているのであれば、それが一番素直な「信頼」につながりそうですし、他人の「生命力」も認め・信頼できそうです。
「自我的な〈私〉」は「認める存在」ですね。

「自我的な〈私〉」が「生命力」を認められなければ、うまくバランスできなくて、何かから認められることでバランスしようとするのかもしれません。
そうして、外部的な〈他者〉から「認められる存在」となろうとする。
実際の「他人」から強く認められようとする場合も、「理性」や〈大文字の他者〉といった「虚構」から認められようとする場合もある。
これは、いわゆる「依存」につながりそうですね。

「自我的な〈私〉」が「認める存在」として機能していても、「理性」や〈大文字の他者〉といった「虚構」を認めてバランスしてるってパターンもありそうですね。
この場合は、愚樵さんの仰る「破壊」につながりそうです。

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今度の検察審査会の11人の考えた起訴相当にした理由は、『小沢一郎は絶対権力者だから。』だそうです これ、正しいのでしょうか。?首を捻らざるを得ない不思議な理由ですね。 今、小沢一郎幹事長が首相の鳩山由紀夫を凌いで『力』を持っているらしい事は推察出来るので...

「名前を与えられる」

☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ 「名前を与えられる」というのは、規定づけられる、縛られる、ってことですから。宗教学的に言うと、「名前は呪術の機能を持つ」ということになります。 ・・・・・・・・・・・・・・ 名前を与えられるという行為は、無記性のところに「何

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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