愚慫空論

予め定義づけられた〈世界〉へ跳び込む~「原罪」 と「悔恨の情」

このエントリーは“裏”で書いたものなんですが、故あって“表”に出します。

いえ、たいした“故”ではないのですけどね(笑)。ただ“裏”ですので、書き殴ってある、ただそれだけなんですけど。

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「何者」かによって予め定義づけられた〈世界〉。

「何者」とはもちろん、創造者すなわち神だ。
全知全能である神が創造した〈世界〉は、もちろん完全に調和した〈世界〉(のはず)。
われわれ人も創造者によって作り出された非創造物だが、「知恵の実」を食したことで、神が定義づけた完璧な〈世界〉から飛び出してしまうことになる。それが「原罪」であり「失楽園」。始祖アダムが「原罪」をおかしたことで、人は生まれながらにして「罪」を背負う。

主イエス・キリストは自ら十字架にかかることで、人を「原罪」から救い出した。人は神が定義づけ創造した〈世界〉に再び回帰することができる。が、それは無条件というわけではない。“キリストが人を「原罪」から救い出す”ということを信じなければならない。そこを信仰することによって、人は〈世界〉に回帰することができると“信じる”。

すなわち“信じる”ことが、“予め定義づけられた〈世界〉へ跳び込む”こと。
その“信じる”を支えるのが「悔恨の情」。

私たちは過ちを犯した。いつもいつも過ちを犯す。そしてそのたび悔い改めるが、それでもまた過ちを犯す。“正しき人”は、常に「悔恨の情」に苛まれる。信仰は“正しき人”を、神が定義づけた完全な〈世界〉へ招き入れることで、救う。


J.S.Bachの『マタイ受難曲』 第1曲と


終曲。


“Wir setzen uns mit Tränen nieder Und rufen dir in Grabe zu”

と歌われる響きには、悔恨からくる悲しみのうちに救済される喜びが滲む。
悲しみと喜び(あるいは安らぎ)が入り交じるのは「もののあはれ」とよく似ているはいる。しかし、やはり同じとは言い難い。『マタイ』のそれは、あくまでも“悲しみがあっての喜び”であり、感情もまた秩序づけられている。一方、「もののあはれ」にはその“秩序づけ”がない。喜びと悲しみはどこまでも渾然一体。

そう、私たちには(いや、“私には”かもしれない)、この“秩序づけ”すなわち“「何者」かによる〈世界〉の定義づけ”は必要ない。〈世界〉を己と他者に分けなくてもよい。だから、そもそも“跳び込む”こともない。それなしにでも十分「喜びと悲しみ」を“ただ、信ずる”ことができる。

いや、できたはずだった。

コメント

TBありがとうございます

わたくし流に考えてみると、
潜在意識に落ちてしまっているからこそ、理由が見つからない。
もしかしたら、一方の人々は、それが理由なき安心感、理由なき信頼感となり、
他方の人々は、それが理由なき不安感、理由なき後悔の念になるのかもしれませんね。

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