愚慫空論

【private】志向、【pubulic】志向

拙い図で恥ずかしいのだが、ここ数回のエントリー(『「情」が分離された時代』『“右”か“左”か』『時間が「情」を育む』)で取り上げたきた「知・情・意」の相互関係をごくごく簡単に図示すると、下のようになる。

知情意

ここにはこれまで出ててこなかった【personal】【private】【pubulic】などといった言葉があるが、これは特に説明の必要もないと思う。ただ注意して欲しいのは、【private】【pubulic】といってもこれは思考を為す人間の外部を指しているのではなく、思考を為す人間の精神内部の領域のことである。もちろん【private】【pubulic】の領域はそれぞれ、外部とリンクする。

人間の精神作用は、「意」つまり【personal】から始まる。が、それは大きく二つの方向に分けられる。つまり、図でいうと右巻きに進もうとする方向(【private】志向)と左巻きに進もうとする方向(【pubulic】志向)とにである。


前段のことを具体的に説明するのに、最初は自分のブログ内のエントリーを用いるつもりであったが、最近読んだ人さまの記事のなかでうってつけのものがあったので、そちらを借用させてもらうことにする。 志村建世のブログから『ディベートとワークショップ』から

ディベートは「論争」と訳されますが、言論による格闘技です。自分の正しさを主張し、相手の弱点を攻撃して、相手が反論できなくなったら勝ちです。~
 それに対してワークショップは、本来「工房」の意味ですが、実践活動を共有して、より高度な合意を形成するための手法として用いられてきました。ですか ら小さなアイディアや思いつきでも拾い上げて、役立てることも可能になります。~

ディベートとワークショップの違いを上の図に即して言うと、ディベートは左巻き【pubulic】志向であるのに対し、ワークショップでの話し合いは右巻き【private】志向ということになる。

実際の話し合いの場においては、志村さんが仰るとおり、ディベート・ワークショップの色分けはきっちりなされていないことがほとんどであろう。だが、意識してディベート・ワークショップを徹底させようとすると、これはなかなかに困難なこととなる。見知らぬ者同士、利害が対立する者同士の話し合いはどうしてもディベートになるし、気心の知れた者同士の話し合いは知らず知らずのうちにワークショップになる。このことは、おそらく誰もが経験上納得していただけると思う。
こうしたことがどうして起こるのかというと、これこそが【private】【pubulic】なのである。たとえば私にとって気心の知れた人は、私は自らの精神の【private】領域にその人をリンクさせていることになる。ゆえに、その人との話し合いは自然と【private】志向、ワークショップになる。逆に利害の対立する人、見知らぬ人は【pubulic】領域とリンクさせてしまうから、話はどうしても角が立ち、ディベートの様相を呈してしまうことが多い。

ワークショップをイベントとして開催するようなプロフェッショナルな方々は、そうしたことを熟知している。見知らぬ者同士を集めてワークショップを行おうとする際には、いきなり話し合いや意見交換の場を持つようなことはしない。まずはアイスブレーキングこちらを参照してください)といったことを行って、初対面の者同士がどうしても持ってしまう緊張感を解きほぐすところから始める。そうすることで、それぞれの参加者の他の参加者へのリンクを、【pubulic】領域から【private】領域へと移動させ、自然と話し合いがワークショップになるよう誘導するのである。
そういうことからすると、志村さんが書いておられる、ワークショップでは
全員が「意見を言う」のが義務というのは、少しニュアンスが違う。義務というと“しなければならない”という強制的な響きを伴うが、この義務は強制ではない。

また志村さんは「集合知」ということにも触れておられるが、これはワークショップの場合、参加者個々の知的レベルより高いレベルの「知」が生み出される可能性がある、ということであろう。純粋な勝ち負けのみのディベートの場合、参加者の共通認識になりえる最も高いレベルの「知」は、参加者のうちで最高のレベルを持つ者の「知」でしかありえない。
このことは、複数の人間が集まっての話し合いの場でだけ起こることではないと私は思う。個々の人間の普段の知的活動の中でも起こる現象であると思う。
普段から人間は、さまざまな外部の情報と接している。その情報がある知的レベルにあるときに、情報に接した人間がその情報よりも高い知的レベルにあるのであれば、その情報を理解し、整理・分析・再統合することができる。この場合の精神作用の方向は左巻き【pubulic】志向である(おそらくこれを「理性」とよぶのであろう)。だが、接した情報の方がレベルが高い場合、正しい理解は不可能になってしまう。
ところが人間は、いつの間にか自己より高いレベルの情報を理解できるようになってしまう。その情報を【private】領域に置いておくことができれば(つまり「共感する」ということ)、いつの間にか知的レベルの方が成長する。そればかりではない。自己より低いレベルの情報であっても、それが【private】領域におかれていれば、より知的レベルを成長させるということも起こりえる。
【private】領域に置かれた情報は、知的レベルといった基準では処理されているのではないのだ。【private】領域での処理は、人間の精神作用でありながら、人間の使う言葉では表現しきれない処理方法によって為されているのであろう。だから人間は、自分の心の内にある何物かを表現しようとするときに、それに当てはまる言葉を捜すという処理を行う。ときには当てはまる言葉が見つからず、言葉が出ないときもあり、ときにはぴったりの言葉が見つかることもある。うまく言葉を見つけ出す技術を「知性」と呼ぶとするならば、人間精神の豊かさといったものにおいて、「知性」は二義的な役割しか果たしていないことになる。一番重要なのは【private】領域の豊かさだ。



先のエントリーでさんざん述べた「知の暴走」だが、これを図に即して言うと【pubulic】領域が肥大化してしまっているということになるだろうか。これは個々の人間の精神内部の構造にも、社会的な構造にも当てはまることだと思う。
地域共同体や会社共同体が崩壊し、また【private】領域の最も核となるべき家族も、果たすべき役割を果たせていないことが多い。そして【private】領域の縮小にもまして【pubulic】領域の増大が著しい。国家も経済も【pubulic】領域である。社会的【pubulic】領域の拡大はそこへリンクする人間内部の【pubulic】領域の拡大へとつながり、知らず知らずのうちに思考そのものが左巻き【pubulic】志向の勝ったものになってしまう。学びの場である学校に子供たちが消費主体として登場してしまうという現象も、【pubulic】領域の拡大ということだろう。

コメント

はじめまして

見に来て、精緻な哲学が展開しているのに驚いています。右巻き左巻きの理論は、思い当るところもあり、面白いと思います。
 それよりも何よりも、熊野のきこりさんと聞いては、訪ねて行きたい気持が先に立ちます。木登りは昔から大好きだったので。私はブログをリアルの生活に利用する主義です。あちこちの新しい知り合いを訪ねては老後の楽しみにしています。熊野の山歩きは、生きているうちにやっておきたいことの上位にあります。

Re:はじめまして

多分なお褒めのお言葉、痛み入ります。志村さんのブログには、またこちらからもお邪魔させてもらいたいと思います。よろしくお願いします。

熊野の山歩きをご希望とのこと、その折にはメールでご一報いただければ、多少の案内もできようかと思います。機会がありましたら、ぜひ。

危険な観念の暴走

『我思う、故に我あり』も『我感じる、故に我あり』も共に観念論でインテリ知識層の遊戯としてなら成り立ちますが、実生活内で役に立つ知識ではありません。
科学的思考とは言いがたい。科学では全ての定説や法則、原理原則は最初は仮説にしかすぎません。
コペルニクスの地動説も彼は、惑星の軌道計算を其れまでの定説であるプトレマイオスの天動説よりも簡単に計算できる仮説として説明しています。
科学は客観的事実から出発して、客観的事実で検証され、客観的事実で完結する。
プラトンやデカルトやパスカル等の哲人は色々素晴らしいことを考えた。しかし幾ら素晴らしくても客観的検証が不能で哲学ではあっても科学ではなかった。
彼らの失敗は、客観的事実から出発する科学的手法を執らなかったからで、自分の『内部の思考』から出発して『内部の思考』で完結したこと。

内部思考の典型例が『我思う、故に我あり』ですね。
デカルトが思おうが思わなかろうが、感じようが感じなかろうが実態としてのデカルトは『我は存在する』のです。
独断に陥りやすい主観的判断や主観的思考を、客観的事実や客観的判断に置き換えて其れまでの暇人も屁理屈(ソフィスト)や絶対に論破されない禅問答(観念論)に変へて科学的な哲学(弁証法的的唯物論)をマルクスが創造する。
違いはな検証可能かそうでないか、新しい仮説を認めるか認めないか、進歩するかしないかで、進歩しない哲学は科学ではありません。
全ての定説は最初は仮説にすぎず、科学とは無数の仮説の上に成り立っている。仮説を定説にランクアップするのは一にも二にも客観的事実の検証以外にありえない。
事実の裏付けのない観念の暴走は危険極まりない。

感性的経験あるいは感性的存在ということ

デカルトの「われ思う、故に我あり」とは、いくら懐疑を突き詰めていっても、懐疑している自分自身の存在は否定できないということですね。なにも思考から存在を導いているわけではありません。そこから類推すれば、「われ感じる、故に我あり」とは、感性的経験を自己の存在確証の基礎とするぐらいの意味でしょうか。
たぶん、デカルトなら感性的経験は誤っていることがあるから、自己の存在の確証にはならないというでしょうが、感性的経験抜きの思考とは、それこそ抽象的な思弁に他なりません。唯物論というものは思考の底に感性的経験を置くことに起源があり、マルクスの思想とは、人間をまさにそのような感性的な存在と捉えるところから始まるものです。科学的思考というものの意味も、本来は人間の感性的経験を重視し、感性的な対象を有しない論理のみによる思考を否定することではなかったのかと思います。
愚樵さんのおっしゃる【private】とは、個々人の直接的で具体的な経験の領域を指すものと受け取りました。

最も怖いのは隣組

愚樵さん  布引さんではないけど『最も怖いのは隣組』ですよ.左翼市民のフリーズ性なんか問題ではありません(私はフリーズとは思っていません.念のため)
今回の『愚樵モデル』では,この『隣組』の話はどのように説明できるのですか?
それから,市民対庶民の対比について.愚樵さんは次の等式が成り立つという主張をされていると理解してますが,そうですか?
【市民対庶民=国家の論理対個人の論理=個の論理対場の論理=知対情】
『隣組』は庶民の暴走だと思うのですが,もし上の等式が成り立つとすると,どう考えればいいのでしょう.やはり『知』の暴走ですか?
当然ながら,ディベートとワークショップというのの違いはよくわかっていますし,私自身,常に新しいステージに導かれる議論になるように気をつけています.
実はまたスルーしようかと思いましたが,私の書きかけの記事がなかなか閉じませんので,少しお願いします.

すみません.肝心の最後を追加

すみません.今回の等式を忘れました.追加させてください.
【市民対庶民=国家の論理対個人の論理=個の論理対場の論理=知対情=Public対Private】

言葉遊びを止めよう

私の主張は一言。『言葉遊びを止めよう』

『いくら懐疑を突き詰めていっても、懐疑している自分自身の存在は否定できない』
言葉遊び以外の何ものでもない。

言葉遊び批判に対して言葉遊びで対応されても・・・・・・

かつさんへ。
文章の部分部分に注意を向けることも必要ですが、全体の把握が重要で、部分に拘ると全体を見逃す危険があります。
最初にマルクス達が国家が暴力装置であることを見抜く、レーニンが色々付け加えても、言わずもがな。
1492コロンブスが世界で始めて西回りで西インド諸島に到達。彼は最後までアジアに行ったと思っていたらしいが歴史では最初の栄光は彼のもの。

布引さんへ

レーニンは付け加えたのではありません。
肝心なことを見落としたのです。
軍や警察のような暴力装置を「国家」の暴力装置としているのはなにかということが、レーニン国家論からは明らかになりません。
国家があって、初めて国家の暴力装置も存在するのではないですか。
でなければ、軍隊とただの暴力団の区別が付きません。

追加です

デカルトの「方法的懐疑」についての説明は、どうも誤解されているようなので付記したまでのことです。
ただ、マルクスにいたるまでの哲学がすべて無駄な言葉遊びにすぎないとしたら、いったいマルクスは自分の思想をどこから得たのでしょうか。ある日、とつぜん彼の頭の中に天からお告げのようなものがひらめいたのでしょうか。
マルクスが偉大な天才であることはもちろんですが、彼の思想もそこまでにいたる歴史を受けて初めて成立したものでしょう。彼はそれまでの哲学をただの言葉遊びとして破り捨てたわけではないと思います。
マルクスの思想を馬鹿げた教条に単純化してしまったことが、20世紀の様々な実践的な誤りの原因の無視し得ない1つであり、そのような単純化された理論の誤りを放置しておくことは、彼の思想が時代遅れのナンセンスであるかのように貶められている今の状況に手を貸すことではないのかと思います。これは言葉遊びなどというレベルの話ではありません。

かつさん

軍隊と暴力団の違いについて、何かあると思われますか。?
後ろに国家が付いているか付いていないかの違い以外に何があるでしょうか。?
>国家があって、初めて国家の暴力装置も存在するのではないですか。
順番が逆です。
軍隊(暴力装置)があって初めて国家が存在するのです。
卵が先か鶏が先かの論議のようですが、最重要な点で核心部分なのでご注意下さい。

マルクスがああ言った、レーニンがこう言った、デカルトがなどという論議はやめましょう。
軍隊と国家の関係のように客観的で具体的検証対象が存在するなら討論も意味を持ちます。
其れが希薄な論議は私の望むものではありません。客観的事実から出発しない観念論での論争は終着点が望めません。

最後にします

これで最後にしますが、「軍隊の後ろには国家がついている」ということは、少なくとも論理的に言う限り国家が先に成立しているということを意味します。また、軍隊という暴力装置とはいちおう別個に、軍を指揮命令する国家あるいは国家権力なるものが存在していることを認めているということでしょうから、国家の本質は暴力装置であるというレーニンの命題の誤り、ないしは不充分さを認めているということと同じなのではないかと思います。
むろん、たしかに場合によっては「銃口から権力が生れる」ということもありえますが、これは例外的というべきでしょう。
また、軍隊と暴力団の違いについて、「後ろに国家がついている」という誰でも知っている現象を指摘するだけですむのなら、理論はいらないということになります。
それは喩えを使うなら、「りんごはなぜ落ちるの」という問いに対して、「そういうことになっているのだ」と答えるのと同じレベルの話に過ぎません。
誤解されるといけませんから、付け加えておきますが、私は国家における暴力装置の重要性を否定しているわけではありません。
また、訓詁学や抽象的な議論がやりたいわけでもありません。具体的な議論や提案をなさることは大いに結構です。
ただ、マルクスに対する馬鹿げた誤解だけは解いておきたいと思っているだけです。
愚樵さん、どうも失礼しました。

客観的事実から出発しないと

『軍隊の後ろに国家が付いている』が国家が先にあると変換される根拠は何でしょうか。?
国家が軍隊を作るのではなく、軍隊が国家を作るのです。

国家に対する幻想があるのか。?其れとも単に言葉の揚げ足取りをしているだけなのか。?

タリバン政権によって『麻薬業者』あるいは『山賊集団』と定義されていた北部同盟がアメリカ軍によってカブールに入城し、カルザイ政権が成立。
6年経てタリバン政権の主張どうり北部同盟の軍閥が、麻薬業者の山賊集団であったことが証明されています。

国家が付いているか、いないは、武装集団の性格にとって、それほどの意味を持ちません。

>マルクスに対する馬鹿げた誤解だけは解いておきたいと思っているだけです。
このような捨て台詞のような物言いは関心しません。

行き違いでした

ちょっと書き換えたので行き違いになりました。
いちおう言いたいことは言いましたし、愚樵さんにも迷惑でしょうから、これ以上は反論しません。議論の当否は、皆さんにお任せしたいと思います。
ただ、極端な例を持ち出してきて、「客観的事実」などと言われても説得力はないと思います。「軍隊が国家を作る」という主張は、かつてこの国でも毛沢東にいかれた連中が散々振り回した議論ですが、これは、大昔にエンゲルスによって批判されたデューリングの「暴力説」と同じレベルに過ぎないのではと思います。

醜い現実。信じたくない真実

活字離れの昨今かつさんが書物を沢山読んでいるらしい事は喜ばしい限りですが、本から得られる知識には限りがあります。エンゲルスが言っていたなどの物言いは慎んだ方が良いでしょう。
国家の本質論は触れてはいけないタブーの部分があるようですね。
確かに国家、軍隊と山口組が近似の存在などは不愉快な真実で誰でも信じたくない。

先にあげた北部同盟は極端な例外ではなく典型的な例ではないかと思いますが。?
それでは良く知られた例を紹介しましょう。長らく中国の最高実力者をしていた小平は国家の最高責任者の国家主席でも共産党の最高責任者総書記でも無く、共産党の下部組織軍事小委員会委員長でしかなかった。
北朝鮮の最高実力者金正日を日本では何やら皮肉っぽく将軍様と呼んでいますが韓国では軍事委員長の肩書きで呼んでいます。
先進国アメリカでも突然職業軍人のトップのコリン・パウエルが政府№2になったり退役将軍が大統領になる。
イスラエルなどは基本的に軍人ばかりで、たまに軍事経験の無い文民政府が成立すると、軍事知識の無さが災いしてレバノン進行のような無謀な戦争に走る。

翻って日本を考えると自衛隊は軍隊か?という疑問が当然出て来るが、自衛隊が軍隊として半端者のである事実はみんなが知っている。
軍隊で最も重要な事項は統帥権。
指揮命令系統は統帥権に密接に関連する軍隊の要の部分で、独立国の軍隊は自国語で行なわれることは説明するまでも無く自明の理。
海、空軍が英語で通信している重大な事実を多くの日本人は無視している。属国の軍隊として指揮命令系統が米軍に直結している韓国軍と自衛隊が兄弟の関係に有り、日本の首都を広大なアメリカ軍基地が取り巻いている事実とも無関係ではない。

最後にするつもりでしたが

軍は国家における最大の武装組織なのですから、そこをおさえることは、支配者にとって自分の安全を確保する上でも、絶対に欠くことのできない条件です。
言い換えるなら、布引さんがあげている例で問題になっていることは、軍という武装組織はその暴走を防ぐために、つねに国家(政治的支配者)の意思のもとに統制し、指揮監督する必要があるということ以上ではありません。そうでなければ、それこそ暴力団との区別が付かないという話になります。「論理的」に言う限り、国家が軍に先行するというのはそういう意味です。
また、そうであればこそ、中国のように「法治主義」が確立していない国では、政府内の形式的な序列よりも、軍を実際に押さえているかどうかで政治的発言力に大きな差が出るということにもなるのでしょう。
いずれにしろ軍などの暴力装置は、支配のための道具であり、支配者の手足であるに過ぎません(たまに反乱しますけど)。
たぶん布引さんとは「本質」という概念の理解が違うのでしょうが、私が言っているのは国家は暴力装置には解消されないということです。
国家の支配において、暴力装置がときに重要な役割を果たすことがあるということや、政治における軍事の重要性を否定しているわけではありません。
また国家に幻想を持っているわけでもありません。国家がたんなる暴力装置に過ぎなければ、国家の廃絶などずいぶん簡単な話です。そうではないからこそ、国家の解体ということは困難なことなのではないですか。

布引さん、かつさんへ

お二人の激論、興味深く拝見しました。

私はこの手の議論が大好きです。決して迷惑だなんて思いません。どんどんやっていただけたらいい。

当ブログは私の個人的な“何か”を吐き出す場ですが、もうひとつ望むことがあるとするなら、コミュニケーションの場であって欲しいということです。そして、そのコミュニケーションより私の意志を優先させるつもりもありません。ですから私抜きでお二人がコミュニケーションされることに、全く異存はありません。
どうぞ、存分になさってください。

...但し、布引さんには、私、言っておきたいことがあります。それについてはブログ主の特権で(笑)、新しいエントリーにて言わせてもらいますね。

愚樵モデルにおける隣組

papillonさんご質問の『隣組』とは、地域共同体のなかのもっとも濃密な部分と考えてよろしいでしょうか? 以下、そういうことで話を進めます。

『隣組』は恐ろしい、というご指摘は一部は正しく、一部は誤っていると思います。というのも、『隣組』はいなかる場合においても恐ろしいものである、ということはないからです。隣組は恐ろしい場合がある、その場合、その恐ろしさは左翼市民よりもずっと恐ろしい。そういうことだと思います。

そう考えると、『隣組』を恐ろしいものに変える要因はなにか、ということになりますが、私の考えでは、それはもちろん、「知の暴走」ということになります。
 
『隣組』の構成員の誰かが「情の暴走」を始めたとしましょうか。例えば隣の『隣組』との間とで諍いがあったとか。こうした場合、『隣組』の構成員たちは、それまでの時間の経過の中で培われてきた「情」により、一致団結するでしょう。その一致団結により、お隣との諍いは激しいものになりかねませんし、そうした意味で『隣組』は危険ですが、papillonさんの仰りたい危険性は、おそらくこちらではない。papillonさんが指摘される『隣組』の恐ろしさとは、外に向くものはなく、内側に向いたものであると思います。

外側に向くのは、愚樵モデルによると、【personal】から【private】そして【pubulic】という右巻き【private】志向です。対して、内側に向くのは【pubulic】から【private】へという左向き【pubulic】志向ということになります。

『隣組』といった共同体の中の通常の流れは右巻きです。ところが何かがきっかけにそれが左巻きになることがある。たとえば「シキタリ」とか「お触れ」のようなものです。「シキタリ」は共同体内部のルールですからもちろん共同体の一部ですが、やはり【pubulic】領域のものです。「お触れ」は共同体のさらに外側からもたらされるルールで、共同としてはパブリックなものとして受容するしかありません。こうした【pubulic】領域が前面に出るときに左巻きの流れが起こり、papillonさんの仰る危険な状況に陥ってしまう、ということになると考えるのです。

papillonさんが『隣組』を市民よりも恐ろしいと考えたのは、その繋がりの濃密さゆえにであると思います。そして、それは正しい考えです。繋がりの濃密さゆえに、流れが逆転したときに逃げ場がないのです。ですがそうした考えでいくと、『隣組』よりもっと恐ろしいものがあることに気がつきます。それは『家族』です。
『家族』の中で左巻きの流れが大きくなるとどのようなことが起こるか。それは悲劇です。そうした悲劇はたびたびニュースを賑わしています。多くの場合、親が子に何らかの「目標」をおしつけ、子供がそれに耐えられなくなるというケースです。親が子に望む「目標」を子が左巻きとしてしか受容できないなら、たいていの場合はそうした「目標」の達成は不発に終わります。たまたま子の方に才能があって「目標」の達成が適ったとしても、子には何らかの心理的な障害が残ります。最悪の場合は事件になってしまいます。

以上が愚樵モデルにおける『隣組』の説明ですが、よろしいでしょうか?

等式について

papillonさんの等式を見てまず思ったのは、自分はなんといい加減なことを書き散らしてきたのだろうということです(笑)。パピオンさん、まとめてくださってありがとうございます。
いえ、そのときそのときはそれなりに真剣に考えているのですが、ね。けれど、布引さんに「言葉遊び」と言われてしまうのも、むべなるかな...

それはさておき、等式についてです。パピオンさんの理解でよいと思います。ただ、できれば等式=で結ぶのではなく、たとえば⇒といったような記号で結んでいただきたかった。一応、私なりに理論を発展させているつもりですので(笑)。

これらの等式の中で、「庶民vs市民」については少し付け加えるべきことがありそうです。
「市民」については私は批判的なことを書いてきました。今でもその考えにあまり変わりはないのですが、最近はすこし批判の矛先が変わりつつあります。真に批判すべきは「市民」の【pubulic】志向ではなくて、時代の【pubulic】志向なんだと最近は考えるようになっています。早雲さんが盛んに指摘する「近代」という時代性ですね。
「近代」という言葉を使って「市民」を言い換えると、「近代という時代の中の庶民」という言い方ができると思います。ちなみに「庶民」は「前近代的庶民」です。

かつさんと布引さんの間でマルクスが大きく取り上げられていますが、マルクスの出発点は、私の言葉でいうと【pubulic】領域増大への危惧であったことは間違いないと思います。そしてマルクスは、それに対して「知」で対抗しようとした。【pubulic】領域を【pubulic】志向で批判しようとしたわけです。そして、その末裔たちが「市民」。そういうところが現時点での私の理解です。

「市民」はその出発点からして【pubulic】領域への危惧を持っている。【pubulic】領域を最初から認識しているわけです。ですから【pubulic】領域への対処法をいろいろと打ち出すわけです。対して「庶民」には【pubulic】領域への認識が薄い。よって理性的な対処法がとれず、「シキタリ」や「お触れ」で容易に暴走する。私たちは【pubulic】領域が増大してしまった「近代」という時代の中で生きるしかありませんが、そうした時代性を考えると「市民」より「庶民」の方が危険な存在なのかもしれません。

では私が「庶民」を持ち上げる理由は何か? それは「近代」を克服するのは「市民」的(マルクス的)方法論ではダメだと感じているからです。私が賞賛している「庶民」は「前近代的庶民」ではなく「近代克服時代の庶民」なのです。それは、自己増殖しようとする「知」【pubulic】領域をうまくコントロールする知恵をもった人たちといったところでしょうか。そのコントロールは右巻き【private】領域を経由しなければうまく行かない、【personal】領域からダイレクトに【pubulic】領域をコントロールしようとしても、ほとんど大部分の人にはそれは不可能なんです(もちろん、私の考えにしか過ぎませんが...)。

ああ、また布引さんに「言葉遊び」が過ぎると叱られそう(笑)

言葉が共有できない

愚樵さん,長いご説明ありがとうございました.余計わからなくなりましたが(笑),一つだけいえることがあります.それは愚樵さんと私とで,同じ言葉でもそれの意味やイメージがぜんぜん違っている,ということです.これには二つの側面があって,
1.ひょっとしたら同じことをイメージしていても,言葉が違うこと,(異床同夢?)
2.同じ言葉を使っても,たとえば,知,情,暴走,・・・それを用いる文脈,イメージがぜんぜん違う,ということ(同床異夢?)
私は私の言葉で考えて行きますが,いずれ何かでまたばったり出会うことになるかもしれません.ありがとうございました.

書を捨てよ、町へ出でよ

1つの言葉、例えば『国家』が喋る人それぞれに意味が違う。読む人もそれぞれ独自に解釈してしまう。
かつさんとの遣り取りは、完全に擦れ違いですが、理由はこれでしょう。
多分かつさんと私は同じことを、それぞれ別の視点から別の表現方法論じようとしていただけで、言いたいことは同じだった可能性がある。

『一番怖いのは隣組』も同じ範疇の事柄です。
私とパピヨンさんとで国家と社会の右傾化による恐怖を語った時に出てきたこの話で、
憲兵も怖い特高警察も怖い、しかし本当に怖いのは郵便配達や消防団、町内会役員が一番恐ろしい存在だった。
『国家とは暴力装置』も同じで、
私がマルコスやエンゲルスを読んだから、私が勝手にその様に理解したわけではない。
今の平和な日本国を見て判断したわけでも決して無い。
「国家=暴力装置」はある程度以上の年齢の人には程度の差こそあれ認識されている常識的な事です。

個人でも街の中で普通の社会生活を営んでいる間は自分の理性知性常識世間体や見得がその人の周りを何重にもガードしているが、泥酔すると其れが緩み隠してい願望が剥き出しになる。
遭難時のような自分の生命に危機が迫ったとき、生存本能のような原始的なものがが理性や見得のような後で獲得したものを押しのける。
平時には何重にもガードして決して見ることが出来ない国家の剥き出しの姿を、戦時には普通の市民でも見ることが出来る。
戦争とは剥き出しの『国家』が現れる瞬間です。
そう『国家とは暴力装置』だったのです。
隣組は恐ろしかった。
暴力装置か、否か。恐ろしかったか、否か、は論じるものではなく、現実であり本質なのです。

愚樵さんのパブリックかプライベートかのような、時間と場所と対象を特定しない論議は感心しません。
時空や対象を超越した真理なんてものは宗教以外にはありえず科学的思考方法とは呼べないでしょう。
10年論議しても禅問答以上にはならないでしょう。

国家の解体は簡単

かつさん、国家ほど簡単に解体されるものはありません。
古今東西の歴史を紐解けば、国家とは生まれては消え、生まれては消えするものである事実に気が付くはず。
生まれた時から変わらない平和な日本に生活しているので国家が永遠の存在と錯覚しているだけ。
62年前大日本帝国がアメリカ軍によって一度完全に解体され其の後に、55年前日本国が造られた。

国家とは解体も簡単なら造るのも簡単。日本国ほどの大国でも数年で造る事が出来た。
中東やアフリカ諸国の国境線が直線で作られているのは周知の事実。
それは国家が其処に暮らす国民の意思とは無関係に、何処か他所の場所で造られた証拠です。
ドイツ民主共和国がソ連軍によって造られましたがベルリンの壁の解体よりも、国家としてのドイツ民主共和国の方が解体は簡単だった。
日本軍も沢山国家を作りました。それらの諸国の首脳を東京に集めて第一回大東亜共栄会議を開催しています。

先を越されましたね...

布引さん、どうも。

そうでしょうとも、すれ違いでしょうとも。私もそう思いますし、同時にそう願います。現象として表れた言葉は何なる記号にしか過ぎませんから、それが指すところのものが各々で違うのは当たり前。でも、だからといって分かり合えないわけでは、決してない。言葉の断絶を超えて理解する。本当に理解できるかどうかなんてそれこそ検証不能でしょうけれど、「理解した」という手応えは何物にも変え難い。それがコミュニケーションの醍醐味でしょう。

ところで「先を越された」の意味ですけど、先のコメントで予告したエントリーを私はまだアップしていないのですが、布引さんのこのコメントで少し気が変わりました。いえ、せっかくですからアップはしますけど、内容を少し変更します。これもやっぱりコミュニケーションのひとつの結果かと。


あ、それと。
布引さんにどうにも感心していただけない当エントリーですが、それも“すれ違い”ということは考えられませんか?

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/36-7d181c1e

保守とカルトの峻別

 私たちは戦争のない世界を願う.人間愛にあふれた共生社会をめざしたい.『全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する』ことのできる世の中を夢見ている.経済的価値だけで一元化した基準がまかり通る世の中を拒否したい.そのためには我が日本

護憲派アマゾネスキャスター、アベシに独占インタビュー(3)(笑)

(人気blogランキング参加中。応援クリックお願いします。)村野瀬(バーチャルキャスター): 2007年、テレビで言われていることを全部信じていらっしゃる視聴者のみなさん、前回に引き続き、再びアベシにお話をうかが

“きちんとした官僚国家”が「最強の近代国家」です

>官僚国家はすべて滅びていますが。。。肝心なときに誤った政策を採ったり米国と良好な関係が築けない官僚国家はおかしくなっていますが、官僚国家であるが故に滅びた国家はありません。近代経済システムは、厖大な資本蓄積を必要とします。遅れて近代化を歩む国民経済には

手抜きのエントリ

 愚樵さんのコメント欄で、ブログ主そっちのけで、ある方といささか論争のようなことをしてしまいました。 それにしても、いまどき「国家が軍隊を作るのではなく、軍隊が国家を作るのです」などと、毛沢東ばりのことを大真面目で主張している人がいるということには、驚..

「リサランドール5次元を語る」…で、ボクたちは3次元で何をする?

かなり前になるが、テレビをみていたらリサ・ランドールという女性がでていた。うーん、美人である。ちょいと調べてみると年齢がほぼタメ。(関係ないがボンズもほぼタメ)同年代というだけで親近感を覚える。って、覚えるかい!!この美人ちゃんはハーバードを出て、プリンス

ディベート

ディベートという言葉が一般化したのは、 学校教育でも、取り上げられるようになった

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード