愚慫空論

貨幣は必要か?

実はタイトルは少し舌足らずです。今の社会において“貨幣は必要か?”と問うてみても、その答えは決まり切っています。もし今の社会から貨幣がなくなれば、社会は社会の体を為さなくなるでしょう。貨幣は間違いなく必要です。

私が問いたいのは“今の社会において”ではなくて、“未来の理想社会において”。未来に理想社会などといったものが実現するかどうかは知りません。が、そういったものを夢想することができるのは人間の特権でしょう。そしてその特権を行使しつつ現在を問うことは、こちらは今を生きる人間の義務です。

未来の理想社会において貨幣は必要か? 私の答えは必要である、です。

ただし、その貨幣は現在の貨幣とは異なります。たびたび取り上げる「減価する貨幣」もその答えのひとつですが、それだけではないかもしれません。私が考える未来の貨幣はあくまで「属人的な貨幣」です。

現在の貨幣は属人的ではありません。よく“きれいなお金”“きたいないお金”などといったことが言われますが(政治資金はきれいでなければならない、とか)、そもそも貨幣自体にきれいもきたないもありません。“きれい”だとか“きたない”とかいう形容は属人的な要素であり、人は後付で貨幣にそういった要素を付加しますけれども、そんな要素が貨幣の本質ではないことは、実は誰もが知っています。だから、たとえ“きたない”お金であることがわかっていても、人はそれを受け取ることを容易に拒否できない。きたなくても、お金はお金なのです。

なぜそういったことになるのか。答えはカンタンで、貨幣の本質は概念だからです。概念は“きれい”とか“きたない”とかいった人間の感情的な側面とは無縁だから概念なのであり、またそれゆえに外部基準として機能します。外部基準とは属人的ではなく、客観的な基準といったものです。


もともと人間は社会的な動物です。なぜ社会的なのか? それは動物としての身体能力が他の種と比べて劣るために社会を形成した方が生存競争に有利だった、といったところでしょう。そうした人間にとって、人間が形成する社会は決して客観的な存在ではありません。社会には自らの生存が関わっているのですから、そこにはどうしても感情が絡む。感情が絡むということは属人的なのです。ある人にとっての社会の価値は、その人自身の価値と無関係なところで測定できません。

ところが現代の社会はそのように作りになっていません。現代を支配する大きな社会は「近代社会」ですが、これはその社会を構成する人々の個々の価値観とは無縁のところで作り上げられている。すなわち貨幣の性質を基軸に作り上げられている。こんな社会が人々の営みの隅々にまで浸透してしまうと「無縁社会」になってしまうのは当然のことです。

属人的な社会を作る人間は、その社会を維持するためにモノやサービスの交換を行います。社会とはモノやサービスの交換の場だと言い換えてもよいでしょう。属人的な社会においてなされる交換は、当然のことながら属人的です。その属人的交換を贈与というのですけれども、現代社会を作り上げている交換は非属人的な等価交換であり、この等価交換が「無縁社会」を作り上げる根本の原因なのです。

現代の貨幣は概念であるがゆえに、その価値は減ずることなく不変です。現代の価値が非属人的であるのは、この不変性に由来しています。誰の手にあろうが、貨幣は貨幣としてその保持者とは無関係に“不変に”存在している。そういった貨幣が、もともと属人的であったはずの交換の仲立ちをするために、交換が非属人的なものに変質してしまう。その結果、交換の場である社会も非属人的になってしまうわけです。

しかし、そういった非属人的貨幣にも大きな利点はあります。それは「大きな社会」を実現したことです。いわゆるグローバリズムの結果として出現した「大きな社会」は、その害悪も大きなものです。しかし、この害悪は大きいから出てきたものではなくて、もともと近代社会に存在した害悪が社会が大きくなったために害悪も大きくなっただけのこと。社会が大きいことは、それはそれでよいことなのです。

というのも、社会はそこの中で暮らす人間にとっては保険の役割を果たすものでもあるからです。現代のグローバル社会はその保険機能が機能不全に陥っているわけですけれども、保険機能がしっかり機能するのであれば、社会は大きい方がよいはずです。

保険が機能する社会を「暖かい社会」といってよいでしょう。現代の社会は大きいが「冷たい社会」です。冷たくなってしまったのは非属人的な等価交換が原因です。もし貨幣がなくなれば「暖かい社会」は復活するでしょう。貨幣なしの交換は属人的な贈与になり、“暖かさ”は属人性から出てきますから、その社会は必然的に「暖かい社会」になります。ただし、その社会は「小さな社会」でしかありえません。貨幣という媒体を介しない交換は、人と人とがリアルに出会う必要がある。つまり物理的な制約が大きいのです。

(概念の長所は、物理的な制約を超えられるということです。それは当たり前の話で、概念はリアルなモノではないからです。インターネットという技術が爆発的に進化しつつある今日では、リアルでない物理的な制約を超えた交換があちこちで見られるようになっています。私はその交換を基本的に贈与だと観ていますが、しかしまだその贈与が社会を構築するようになるところへは至っていない。現代社会の構築原理は未だに等価交換です。ですので、ネットの中の交換も基本的には“暖かい”贈与であるはずが、等価交換原則の“冷たさ”に引きずられたアンチ贈与(ハラスメント、もっというと「呪い」)が多く見られます。)

理想の未来社会とは、いうなれば「暖かく大きな社会」です。もう少し具体的にいうと、属人的な贈与交換が物理的制約を超えて行われる社会となります。そうした社会がいかにして実現できるか、そこを考えるのには、どうして貨幣の性質というところへ考えが及ばざるを得ません。

貨幣が概念であるという本質は、そこは本質ですからどうにも買えようがありません。が、貨幣が概念であるということが直ちに非属人的ということになるのか? もしそうなら私たちの選択肢は「大きくて冷たい社会」or「小さくて暖かな社会」のどちらかしかなくなるわけですが、そうではなくて、貨幣がその本質は概念でありつつ属人的であることができるなら、「大きくて暖かい社会」も選択肢の中に入ってくることになります。

結論を言ってしまえば、貨幣が非属人的になるのはそれが不変であるからです。貨幣には3つの機能、すなわち交換媒体・価値測定・価値保存の機能があるとされていますが、このうち価値測定・価値保存は貨幣の不変性から出てくるものです。不変な貨幣によって価値が測定されるから、モノあるいはサービスの価値は属人性から離れて客観的なものとして捉えられる。また貨幣そのものの価値が不変とされるから貨幣を保持しているだけで保険となり、社会の保険機能が機能しなくてよくなってしまう。「大きくて冷たい社会」は、実は貨幣の概念性から出てきているのではなくて、貨幣の不変性から出てきている。もちろん貨幣の不変性はその概念性なしでは成り立ちませんが、概念性が直ちに不変性というわけではない。概念性を保持しつつ不変性を破棄することはできる。その具体的な形が「減価する貨幣」ということになるのです。

「減価する貨幣」には、従来の貨幣がもつ価値測定・価値保存の機能がありません。そうするとどのようなことになるか? 不変な貨幣によって外部基準としての価値測定がなくなれば、人はその価値を自ら測定するほかなくなります。自ら価値を測定するということは、その価値測定が否応なく属人性を帯びるということです。そうすると、「減価する貨幣」を介しての交換は属人性を帯びた交換、つまり贈与の交換ということになり、「減価する貨幣」は「属人的な貨幣」ということになるのです。

(「属人的な貨幣」を通じて交換がなされる場は「暖かい社会」となりますが、別の見方をするとそれは「市場」です。ただし、この「市場」の読みは“しじょう”ではなくて“いちば”と読みます。非属人的な減価しない貨幣による経済では、「マーケット」すなわち「市場(しじょう)」が架空のものでありながら現実的な機能をもつものとして想定されますが、「減価する貨幣」に経済では架空の「市場(しじょう)」は出現しません。ネット上のやりとりを介したバーチャルな取引であっても、それは取引する当人同士の属人性とは切り離されていない「市場(いちば)」です。「減価する貨幣」による経済では、単層で少数の「非属人的市場(しじょう)」の支配は成立しなくなり、替わりに無数で複層的な「属人的市場(いちば)」が社会を支えることになる。メカニカルな市場(しじょう)による社会支配から、市場(いちば)による有機的な社会維持へと構造が変化するのです。)

また「減価する貨幣」には貨幣自体に保険の機能がありませんから、人々はどうして保険機能を社会に求める以外になくなります。実はこのことが「減価する通貨」を導入するに当たっての最大の心理的障壁になります。しかし社会に保険機能を求めるなら、その社会の基本原理はどうしても属人性に基づいたものでなければなりません。「減価する貨幣」はそれ自体属人的ですから、「減価する貨幣」を導入しさえすれば、自然に社会は保険機能が機能する「暖かい社会」になるのです。

というようなことで、未来の理想社会に必要なのは「減価する貨幣」であるという結論になりました。ただ、途中でも述べたとおり、これが唯一の方法というわけではないでしょう。他にも良い方法はあろうかと思います。

コメント

減価する貨幣の実像

「減価する属人的な貨幣」がどのようなものか、もう少し具体像がわかるといいのですが。現物給付に近いイメージでしょうか。

“アンタならこの値段でいいよ”

志村さん

「減価する属人的な貨幣」としてしまうとイメージが湧きにくいですね。“減価する貨幣は属人的”です。

しかし、別に減価しない貨幣でも属人的ではあり得ます。現に人々はそういったお金の使い方をします。その使い方が“アンタならこの値段でいいよ”というものです。

確か志村さんのコメント欄で私は定価について触れたことがあると思います。“アンタならこの値段でいいよ”から連想するのは値引きですけども、値引きというからにはまず定価があって、そこから幾ばくかの金額を引く。その額は売り手と買い手の人間関係で決まったりします。そういったときの貨幣のことを「属人的な貨幣」と呼称したわけです。

私くらいの年代でも記憶がありますが、昔の人はそういった「属人的な貨幣」を遣ったものです。馴染みの店なんかで買い物をすると少し負けてくれたりおまけをくれたり。人々はこうしたわずかな値引きやおまけに、人間的な繋がりを感じていたはずで、それが「属人的」ということでもあります。

けれども、現在はそういった「属人的な貨幣」のやりとりはめっきり少なくなってしまいました。完全に消滅したわけではありませんが貨幣の取引で人間同士の繋がりを感じ取れる場面は随分と少なくなったはずです。その理由を私は、貨幣経済というシステムが生活の隅々にまで行き渡ってしまったためだと考えるわけです。

「減価する貨幣」では、定価がなくなるわけではないでしょうけれども、現在ほどの意味はなくなって、昔のように「参考価格」くらいの位置づけになるのではないか思うのですね。お金を抱えていても価値は目減りするわけですから、それよりも良好な人間関係を築いて良好な経済関係を構築しておいた方が得策になる。多少高い店でも、その店の人間との繋がりを感じられるなら、そちらを選ぶという選択がしやすくなる。貨幣による価値測定(マーケットメカニズム)よりも、貨幣を介した人間関係の方がより重要となるような圧力がかかるだろうと予想します。

もしそうなら、商店街が廃れて郊外の大型ショッピングセンターが流行るといった現在の流れは逆になるだろうと予測できます。「無縁社会」への圧力はなくなり「結縁社会」へと流れが大きく転換するのです。

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