愚慫空論

ベーシックインカムの難点

といったようなタイトルでエントリーをあげるとベーシックインカム反対派だと思われるかもしれませんが、それは違います。私は基本的にはベーシックインカムが目指す方向性には賛成です。
賛成なんですけれども、手放しというわけではない。ベーシックインカムには、見過ごせない難点があるように思う。今回はそこらあたりのことを話してみたいと思います。

私が感じるベーシックインカムの難点とは、ズバリいうと“隷属の二乗になる”ということです。
方々のベーシックインカム賛成派の議論を眺めてみて思うのは、この「隷属」についての視点が欠落しているように思うのです。

では、隷属とはいったいどういうことか?

その1は、「貨幣への隷属」です。
私たちが暮らしていくためにどうしても必要な経済は、現在の日本ではほぼ100%貨幣によって支配されています。私たちの労働は貨幣によって価値が測定され報酬が支払われる。報酬とした得た貨幣と交換で生活に必要なモノやサービスを入手する。また貨幣を蓄積して将来への備えとする。現在の私たちの暮らしは貨幣なしでは成り立たないといっても、少しも過言ではないでしょう。

このことがなぜ「貨幣への隷属」なのか? 

答えはカンタンです。“現在の私たちの暮らしは貨幣なしでは成り立たない”と考えているからです。

が、これでは答えになっていないと感じる方もおられるでしょう。このことを説明するには、まず「隷属」とはどういうことなのかというところから始める必要があります。

「隷属」は辞書で見てみると
れい‐ぞく【隷属】[名](スル)

1 他の支配を受けて、その言いなりになること。隷従。「本国に―する植民地」
(Yahoo!辞書より)
となっていますが、ここでいう「隷属」は辞書の意味とは少し意味合いが異なります。たんに“他の支配を受けて、その言いなりなる”なら、命令を受けてその命令に唯々諾々と従うことのようですが、そうではない。それをさらに越えて“命令を受けたわけでもないのに自発的に従う”、このことを指して「隷属」というのです。

私たちの暮らしは貨幣なしでは成り立たない。これは一見、疑いようのない事実であるように見えます。いえ、確かにこのことは事実ではあるのです。しかし、この「事実」は「真実」ではありません。つまり、貨幣がなくても人間は暮らしていける。歴史的な視点で眺めてみれば、人類は貨幣なしで暮らしてきた期間の方がずっと長かったというのが「事実」です。にもかかわらず、私たちは“貨幣なしでは暮らしていけない”と“自発的に”考えています。この“自発的な状態”を指して「隷属」というのです。


今現在、「貨幣への隷属」を最も端的に表わす言葉は“働かざる者食うべからず”でしょう。もともとこの言葉が用いられた文脈は現在のそれとは異なるのですが、現在では、二重の意味で「貨幣への隷属」を示す言葉になってしまっています。

まず“働かざる者”はほぼイコール“貨幣収入のない者”の意味で使われます。これはつまり、働くという行為が貨幣によって価値測定されることを前提にしているということであり、ここから貨幣によって無価値とされた労働は労働ではないという結論が導かれる。そして、貨幣を持たない者(←稼げない者ではないことに留意)は“食うべからず”とされてしまう。まことにおかしな倫理観ですが、「貨幣への隷属」にどっぷり嵌ってしまっている人はそのことになかなか気が付きません。いえ、気が付こうとしないのです。

ベーシックインカムがこの“働かざる者食うべからず”に対する反論という形で提示されることが多いのは、ベーシックインカムに関心のある方ならご存知のことでしょう。

この「ベーシック・インカム」という、「働かざるもの、食うべからず」と真っ向から対立する概念について、一番の疑問は、無条件でお金をもらえるとしたら、誰も働かなくなってしまうのでは? という点で、一番納得したのはこの部分。

 ベーシック・インカムに対する答えられるべき疑問として、無条件の所得給付は労働意欲を減退させるのではないか、という疑問をあげ、フロムは以下のように回答する。現行の世の中の仕組みは、飢餓への恐怖を煽って(一部のお金持ちを除き)「強制労働」に従事させるシステムである。こうした状況下では、人間は仕事から逃れようとしがちである。しかし一度仕事への強制や脅迫がなくなれば、「何もしないことを望むのは少数の病人だけになるだろう」という。働くことよりも怠惰を好む精神は、強制労働社会が生み出した「状態の病理」だとされる。


“働くことよりも怠惰を好む精神は、強制労働社会が生み出した「状態の病理」”。この意見には私も同感です。がしかし、それでも私はベーシックインカムは労働意欲を減退させることになると思う。それは、ベーシックインカムが「無条件の給付」ではないからです。

ここで留意しておくべきは、「無条件の給付」と「無条件の所得給付」の違いです。「無条件の給付」とは、すなわち贈与です。無条件に贈与を受ける人間は、「病人」でもない限り、自発的な労働を好むようになる。それは社会的な動物として生まれてくるヒトという生物種の本能でしょう。「無条件の給付」は無条件の贈与であり無条件の認知です。自発的に労働するに至らない子どもは無条件に贈与を受けることで社会的に認知されたと感じ、労働が可能な成人へと成長すると、こんどは社会的に認知されるために無条件の贈与を行うようになる。「無条件の給付=無条件の認知」を与えられなかった子どもは、長じても自発的に労働する大人とはなりません。

ですが「無条件の所得給付」は贈与ではありません。「所得給付」とは貨幣の分配ですが、貨幣は所詮は概念に過ぎません。人間は概念を操る生き物ですけれども、概念を給付されても無条件にそれを認知だとは感じません。無条件の概念の給付は「特権」として捉えられることになります。
(今日の日本の子どもたちが陥っている病理の根っこはここにあるのでしょう。子どもたちは無条件に貨幣という概念を給付され、その貨幣がモノと交換できることを学習して、自らが特権を有した存在だと勘違いをしてしまうようになります。)

ベーシックインカムがもたらすであろう害悪は、特権をバラ撒いてしまうことです。自らの特権があると考える人間が、自ら進んで労働をするとは考えられません。特権は人を怠惰へと導くことになるでしょう。
(特権を特権と捉えて自制する精神は、無条件の譲与から育まれます。ところがベーシックインカムが実現してしまうと、まず「無条件の概念給付」から始まってしまいますから、「無条件の贈与」を与えられる機会がスポイルされてしまいます。それはすなわち、「無条件の贈与」が労働によってもたらされることが学習できなくなるということです。)

ベーシックインカム賛成派が「無条件の贈与」と「無条件の所得給付」を混同してしまう原因は、「貨幣への隷属」です。「貨幣への隷属」に囚われてしまっているために貨幣が概念に過ぎないことを見落とし、その概念の給付を求めるようになる。これ「隷属」のその1です。


「隷属」その2は、「暴力への隷属」です。

「貨幣への隷属」に囚われると貨幣は概念に過ぎないことを見落とします。実際、貨幣経済では貨幣は財産としてモノと同等以上に扱われます。
財産を収奪するのは暴力です。ベーシックインカムには莫大な財源が必要ですが、その財源は暴力によって確保されなければなりません。国家が合法的に税として徴収するとはいっても、貨幣は財産だと認知されているわけですから進んで提供しようとする人は少ないはずです。もしそういう人がいるとすれば、それは「国家への隷属」に囚われているということになります。

しかし、ベーシックインカムが実現されるには暴力装置である「国家への隷属」が欠かせません。ベーシックインカムの給付を受ける人はすすんで「国家への隷属」に囚われていくでしょう。国家に隷属することでベーシックインカムという特権を享受できるからです。
逆に、ベーシックインカムのために多額の納税を強いられる人は反撥することになるでしょう。しかし、ことによると、その反撥には「国家への隷属」に囚わた者たちから“非国民”というレッテルが貼られることになるかもしれません。しかもベーシックインカムは合理的な仕組みではありますから、この“非国民”のレッテルは同時に“非合理な者たち”を意味することにもなります。

現在でも“非国民”なるレッテルはしばしば見かけます。このレッテルには、それを貼ろうとする者の方が“非合理”だという認識が今は一般的ですから救いがありますが、それが逆になってしまったとしたら恐ろしいことになります。もし“非国民”=“非合理”のレッテルが出来上がってしまうことになると、それに対抗するのは非常に困難なことになるでしょう。こうしたレッテルは、隠然とした暴力として機能することになります。


というようなわけで、私はベーシックインカムについては大きな懸念を抱いています。冒頭で述べたとおり、ベーシックインカムが目指す方向性には賛成ですが、実際に制度が導入されるとなると、賛成派が予期せぬような事態に陥ってしまうのではないかと懸念します。かつてのアメリカの禁酒法のように、合理的な結果を期待したのに大変に不合理な結果になるということになりはしないかと思うわけです。

もちろん、成功する可能性がないわけではありません。「貨幣への隷属」「暴力への隷属」が「隷属の二乗」にならずに「隷属のキャンセル」となる可能性はあると思います。ただ、その可能性が高いとは思えません。

ベーシックインカムが目指す方向性を実現するためには、まず「貨幣への隷属」から逃れる必要があるでしょう。そのための有力な手段が減価する貨幣であると私は考えています。

コメント

試行例がほしい

実際にやってみたらどうなるか。手ごろな自治体を特区にして試してみたいものです。
 国家に隷属の件は、ベーシックインカムだと国の裁量部分が小さくなって事務手続き機関に近くなりますが、それでもダメでしょうか。徴税の権力は「仲間意識」では無理でしょうか。

同感です

試行例が欲しいというのは同感です。

>国家に隷属の件は、ベーシックインカムだと国の裁量部分が小さくなって事務手続き機関に近くなります

はい。ベーシックインカムや負の所得税は、それだけとっても合理的なんですよね。ただ、私はそうした「合理性」がもうひとつ信用できない質でして...。

私も懸念が

隷属せずに済む条件は、生存できる最低限の物的手段を排他的に保有していることが最低限の条件であると思っています。心優しい人たちがBIに惹かれるのは理解できるのですが。。。

“排他的”のニュアンス

早雲さん

「生存できる最低限の物的手段の保有」はその通りでしょう。ただ“排他的”のニュアンスが気に掛かります。

“排他的”が単に他者からの干渉を受けないというだけの意味なら良いのですが、現在の常識では、それは所有権という概念に結びついてしまいます。所有権は排他的独占権ですが、現状ではその所有権が「生存できる最低限の物的手段の保有」を阻害していますよね。

排他的独占権を排除しつつ、「生存できる最低限の物的手段を排他的に保有」できる社会が必要でしょう。

補足

「生存できる最低限の物的手段を」排他的に保有です。所有の必要はありません、独占的使用権と捉えてもらえば良いと思います。最低限の生活で満足し、他と一切関わらないような生き方もありになります。社会を構成する他の家族との係わり方はそれぞれの家族が(生存条件に縛られることなく)選択し、築いてゆくことになります。

はじめまして

 「貨幣への隷属」というよりも、「物質への(精神の)隷属」の問題のように思われます。それが、存在する限り、「減価する貨幣」も物質と言う富に換えて蓄積されることになり、同じことの繰り返しになると思います。

 精神の自由を獲得し、精神が物質を支配するべきなのでしょうが、それは人間の物欲や不安を人間自身が制御できるのか?

 四季桜が、ベーシックインカムを導入するべきと思う理由の一つは、ベーシックインカムによって生存権を確保できると考えるからです。つまり、生存権を安定的に確保できることで、物欲(=物質への隷属)から解放される可能性を感じるからです。

 生意気な意見で申し訳ございません。

四季桜さん、ようこそ

>精神の自由を獲得し、精神が物質を支配するべきなのでしょうが、

ここのところは私とは見解が異なります。「貨幣への隷属」とは、精神が物質を支配できると錯覚するところから生じるのだと思っています。

一部の特殊な物質を除けば、モノは腐敗し摩耗するものです。そして私たちの身体は、腐敗し摩耗するモノによって支えられています。私たち人間は、思考する精神より先に腐敗し摩耗する生物なのです。

ところが、“精神が物質を支配するという精神”はそのことを失念してしまう。

ベーシックインカムによって生存権が確保されるというのはその通りだと思います。しかし、それはあくまで身体より精神を優先してしまう人間の都合です。そうした精神優位の考え方には、人間自身の身体が反逆を起すのではと懸念しています。

中年

思想も法学も解らない人間の的外れの意見にて恥ずかしい限りですが、120年前に侍社会が終わり、「300年間の棒給」の特権階級が無くなった逆の場面かと、、、「生存」の意義を自分に突きつけられる気がします。妄想ですが「生存意義を探し働くか?」「生活保護になるか?」の選択では?「戦争が無い現在に生きる権利」と同時に「生存の意義が見つけられないから死ぬ権利」も同時にあってもいいのではないかと思います。
普通の人間「この定義は曖昧ですが、、」は「生存の意義が感じられなければ消滅もあり」と考えるのはどうなんでしょうか、、、
それとも「働けない状況なんだ!オマエには解らない!生きる権利は平等だ!!」と、、そうなった人たちに責められねば理解はできないのだろうか?、、、、

国や行政が人を雇う形のBI

ベーシックインカムは新自由主義の考え方のひとつであるように理解されている側面がありますが、社会的公平性の維持という側面でも有効な考え方であると思います。個人の自由と社会の公平性は従来右と左の対比という形で語られることが多いのですが、ベーシックインカムでは両立ができる。おそらくこれは成熟した資本主義が新たな局面を迎えているサインだろうと思います。誰もが生きていくのに不安でない世界を実現するという命題から見れば、ベーシックインカムはまさにその始まり
とも言える考え方です。「働かざるもの食うべからず」は日本人が持っている昔の遺物観念です。

ベーシックインカムが導入されれば、労働と資産(金銭)に関する考え方が徐々に変わっていくでしょう。労働は生きるためというより、個人がより自由を得て自己実現の具体的手段に、金銭は貯めて節約し、生体の維持の基本的欲求を満たすという今重視されるものから、それ以上の高尚な欲求を満たすために(これも自己実現につながります)変化するでしょう。つまり、生きていく心配が無くなると、「自分が生きている間、何をしようか?」 という問いを個々人が始めるわけです。それによって、芸術、文学、科学、レジャーやスポーツ、発明・発見と言った、人間が探求し表現しうるものへ焦点が移るでしょう。娯楽やギャンブルへの関心は減るだろうと思います。教育への需要も高まるでしょう。
BIの問題点として、古代ローマの「パンとサーカス」を指摘がありましたが、現代の人間は古代ローマ人と比べて教育水準が高く、同じ問題には陥らないと思います。パンとサーカスだけで満足できるような人は、現代に残っているとは考えられません。

まずは実験ですね。わたしは行政がそのサービスを受ける方々を雇い、その対価としてベーシックインカム制度を適用してはどうかと考えます。本人の意思により、誰でも(准公務員?)として働き、死ぬまで雇ってもらえるような制度です。これは公務員を増やすようでもありますが、サービスの提供者と受け手がよりまとまることで、正しい行政の在り方に貢献し、市民も進んで政治に関わるようになる。これをローカルで始めて国家単位まで広げると民主主義の理想により近い形になると思います。

あるいはグローバルなところから始めるなら貨幣を使わずに衣食住に関連する資源の公平性を国連のような国際組織を通して国家間で確立する(だいぶ前になりますがブラントラント委員会のリポートでこれが論じられています)具体的にはこれは国家間の物々交換になると思います。もしこれが実現すれば戦争の火種も収まっていくでしょう。

私は楽観主義者です。こういう考え方を好まない方もいるかもしれません。しかし、我々の未来は試すことからしか始まりません。ベーシックインカムの議論がひととおり出されたのなら、次は実験のフェーズに早く移ることを期待します。

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