時間が「情」を育む
話題になっていた内田樹著『下流志向』をようやく読んだ。大変有意義な読書になったと同時に、「知の暴走」をますます感じさせられることになった。
〜消費とは本質的に無時間的な行為であり、消費者は無時間的な「幽霊」なのです。消費者は〜〜原理的には「変化しない主体」として措定されています。
もちろん、現実にはそんなことはありません。時間の中で変化しない人間なんかありえないからです。にもかかわらず、ひとたび消費主体として市場の出現してしまった人間は、「等価交換を行っている過程で、消費主体は決して変化してはならない。その価値観を変えてはならない。その交換レートを変えてはならない。その度量衡を変えてはならない」という厳重な禁則から逃れることができません。
学びの場に消費主体として登場してしまった子どもたちもそれと同じ禁則に縛られることになります。
(内田樹『下流志向』p.66)
「学びの場に消費主体として登場してしまった子どもたち」。こうした子どもたちは積極的に学ぶことを放棄してしまうのだが、この原因を内山さんは、子供たちが家庭内での労働を奪われてしまったことにあるという。そのことで子どもたちは労働主体よりもまず、消費主体として自らを認識することになり、その認識をもって学びの場に登場することになる、と。
無時間的な場で行われるのが「等価交換」であり、これは経済行為である。では、時間的な場で行われるのは労働なのか? 『下流志向』はそのような風に読めるのだけれど、かといってそう断言しているわけでもなさそうだ。?
時間の中で変化しない人間などいないにもかかわらず、人間はあたかも時間が止まっているかのような認識をもってしまう。時間をスキップしてしなう。内田さんは「理解できない情報をスキップする能力は人間知性の特徴」だというが、時間を理解できない人間なんているのだろうか? 子どもたちが学びの場に消費主体として登場するということは、学びの場を無時間的な場と子どもたちは認識しているということだが、そうした子どもたちは時間を理解できなくてスキップしているからそうとしか認識できないのか、時間的な場とは区別して認識しているのか?
私は区別して認識しているのだと思う。
では、時間的な場では何が起こるのか?
人間が時間的な場で時間を認識するためには、変化して変化しない他者との関係が必要だ。変化して変化しない関係なんてわけのわからない言い回しだが、要するに私達が普通に言う「人間関係」というやつだ。時間とともに変化しない人間はいない。人間は変化するが、関係性を結んでいるその相手は変化しない、置き換わらない。置き換わらない相手が時間の経過により変化していくことで、人間は時間を認識するのではないのだろうか。
時間的な場とは、ごく自然な人間関係の場。そんな場で育まれるのは「情」であろう。
夫婦関係というものを考えてみればいい。結婚という長期契約を交わすということは、時間を共有するということに他ならない。見知らぬもの同士が結ばれる見合いであったとしても(昔は見合いすらなかったというケースも多々あったという)、時間を共有すれば自然と育まれるのが「情」というものだ。「情」のない夫婦関係など、いくら外形的な契約が整っていようとも意味が無い。
時間的な場で育まれるのが「情」であるなら、無時間的な場で育まれるのが「知」である、ということになるのだろうか? だが、少し違うように感じる。「知」は無時間的な場で活躍するとは言るが、育むとまではいえそうに無い。むしろ逆に、無時間的な場は「知」を成長させないようだ。
無時間的な場で行われるのは経済行為であり、これは「知」であるということができる。だが「知」を育むはずの学びの場に、まず「知=経済原則」が入り込むと「知」が成長しなくなってしまう。「知」では「知」を成長させることができない。
しかし、これは当たり前の話だ。「情」であれ「知」であれ、成長するには時間が必要だからだ。時間が経過しない場で成長なんかできるはずがない。つまり学びの場が「知」を成長させる場であるためには、時間が経過する場でなければならない。そして、時間が経過する場では自然と「情」が育まれる。となればまた、時間は「情」を育むだけではなく、また「知」をも育むといえるのではないだろうか。そして、もう一歩踏むこんで「情」が「知」を成長させるということができはしないだろうか?
時間的な学びの場で起こるこれらのことは、学びから逃避している者たちを除けば、それぞれの経験と合致するものであると思う。同じ学びの場で過ごした恩師や同窓生への「情」。そして、高い学習効果のあった授業では、その教師への「情」もまた高かったという経験的事実。経験的にも「情」が「知」を育むと言っていいと思う。
内田さんはまた、こうも書いている。
「知性とは、詮ずるところ、自分自身を時間の流れの中に置いて、自分自身の変化を勘定に入れることです」
「知」というものについてまとめて見れば、以下のようになろうか。
「知」は理解できないものをスキップする。スキップするからこそ、暴走が起こる。「知」が成長し理解できないものが減る、スキップすることが少なくなると暴走の危険性も少なくなる。そして「知」の成長には時間と「情」が必要である、と。
また、「知の暴走」というものにも二つの側面があることになる。
ひとつは低成長の「知」がやたらとスキップしてしまうという側面。もうひとつは、「情」を育む場が縮小し、「知(=経済原則=無時間性)」が跋扈する場が広がってしまったということ。
なぜそんなことになってしまったのかについては改めて考えてみたいが、考えるヒントとして、もうひとつある本から文章を拝借して当エントリーの締めとしたい。
おそらく一定年齢以上のものなら、子供の頃に、貨幣=お金は汚いものと教えられた記憶を持っているのではないかと思う。戦後生まれの私でも同じことだった。お金を手にすることはもちろん、それを話題にすることも、子供達には許されていなかった。お年玉はそのまま母親に預けなければならなかったし、子供たちの前でお金を話題にした大人は、ひどく下品な人という評価を受けた。
ところが、そのようにして子供の世界からお金を遠ざけようとしていた大人たちはむろんのこと、当の子供たちもまた、現実の経済社会の中では貨幣が経済的な価値基準になっていることも、貨幣が一種の権力として振舞っていることも知っていたのである。
その意味では、貨幣ほど非友好的な必要財はなかった。人々の精神はある部分では貨幣に対して非友好的な態度をとりつづけ、現実の経済生活の中では貨幣を承認していた。
(内山節『貨幣の思想史』プロローグ冒頭より)
コメント
こりゃあ〜だめだ。
スキップされてしまいました
私の想像ですが、
>学びの場に消費主体として登場してしまった子どもたちもそれと同じ禁則に縛られることになります。
>こうした子どもたちは積極的に学ぶことを放棄してしまう<
>「知性とは、詮ずるところ、自分自身を時間の流れの中に置いて、自分自身の変化を勘定に入れることです」
>「理解できない情報をスキップする能力は人間知性の特徴」
自分自身の教育者としての能力の限界を感じての嘆き節にしか聞こえない。
部分を全体に、仮定を定理にに、予断を原則に、例外を標準に、何の脈絡も無く何の証明責任も無く断定して話を進めようとする。
例えば〜消費とは本質的に無時間的な行為
経済学の基礎知識を無視している。消費であれ何であれ時間と空間を無視してロ論じるようでは話にならない。単なる観念論で宗教信者でもない限り理解不能。
カルト信者に特有な無責任さ。門外漢のドイツ文学者が歴史や教育を論じ、数学者が国家や愛国心を論ずる。彼らが趣味で語るのは良いが素人の謙虚さは失って欲しくない。
今の子供たちは勉強のしすぎ。大昔の学習塾は勉強についていけない子供が通ったもので普通の子供は遊んでいた。
「下流志向」はまだ読みかけですが
生産あるいは労働が、時間を意識するものであることは明らかですが、現代の「消費者」が貨幣によって購入した他人の労働の生産物を消費するときに、そこに込められている労働と時間をはたして意識しているでしょうか。
現代における「消費」というのは、日常的な「蕩尽」のようなものかもしれませんね。
時間と無時間
情についても同じことが言えて,作用反作用,関係性,などがそれ自身により変化していきます.ただし,長ければいいというのではなく,長い間に憎しみがわいてくることもあります.
このような意味で,時間が重要なファクターだということには異論はありません.しかし,育むのは『情』だけではなく,『知』もそうだ,といえないでしょうか.
一方,『無時間的』ということは脳内で上に書いたような反応や作用が行われない,ことを意味すると解していいでしょうか.すると,無意識な,または機械的な活動,ということになります.すると『消費活動とは無意識的活動』となりますが,意識的な場面もあって,買い物を楽しむ,というのもあります.
いや例外を羅列しているのではなく,同じことは『労働』や『勉強』にもあるように思われます.すると,おっしゃりたいこと(内田氏?)がわからなくなるのです.
それにしても,『格差解消の要求は結局の所,もっとお金を,ということだ』という感性と『情を育む』,という話がどんな関係にあるのか,私にはさっぱり理解できないのです.この記事にどうして経済活動の話があるのだろう,ということも.
内田氏は武道をやっていたり、家事で体を動かして家を掃除することについて語ったりしておられて、一見無意味に見える反復行為の繰り返しの先に体得されるものの価値を重視している感じがします。そういう行為には謙虚な姿勢が必要ですよね。それが愚樵さんのおっしゃる「情」に相通ずるのかもしれませんけれども。
「学びが消費の場になる」とは生徒の側が「お客」になって受身になってふんぞり返ってる感じがしますよね。「消費とは本質的に無時間的な行為」というのは、お金を払ったら、いま、すぐその対価が手にできなかったら耐えられない、ということなんでしょうか。内田氏の論を自分でもじっくり読んで考えてみたくなりました。
内田さんは借用しただけです
布引さんの内田批判はわからなくはないのですが(最初私もかつさんのところに内田批判のコメントしましたし、今でもその感触が誤りだったとは思っていません)、内田批判がすべてのようなコメントには、正直なところ、落胆を禁じえません。
>部分を全体に、仮定を定理にに、予断を原則に、例外を標準に
というご批判は私の論への批判として受け止めさせていただきます。これも正直申し上げますが、私など、そうした方法でなければ何も論ずることができません。私は樵としての感覚を基にしていろいろと語りたいと思っていますが、もうすでにこの出発点からして「部分」であり「仮定」であり「予断」であり「例外」です。ですが、私はここから出発する以外にはありません。
>彼らが趣味で語るのは良いが素人の謙虚さは失って欲しくない
もちろん私にとってこのブログは趣味ですし、そうでないにしても、誰も趣味としか受け取ってくれませんから問題はありません。では内田さんの場合ですが、本の方を読む限り謙虚さを失っているという指摘はあたっていないと思います。『下流志向』の考えの中に私のオリジナルはほとんど無いとわざわざ断っていますし(そんなことは当たり前で、断るまでもないことですよね)、実際、「学びの場に消費主体として登場してしまった子どもたち」という認識も、諏訪哲二著『オレ様化する子供たち』から仕入れたもので、それも「過去十年間教育について読んできた言葉の中で、最も啓発的だった」と書いています。ちなみに諏訪哲二さんですが、この方は長く公立高校の教師をされていた現場の方だそうで、そうした方が
>自分自身の教育者としての能力の限界を感じて
からこそ洞察しえた認識が「学びの場に消費主体として登場してしまった子どもたち」というわけで、これを「予断」だなどと切り捨てるなど、私にはとうてい為しえる技ではありません。内田さんはこうした洞察を『下流志向』でより広く世間に知らしめたわけで、これは一定の役割を果たしたと素直に評価すべきだと思います。
これは私の予断と断った上で申し上げて起きますが、布引さんが内田さんに傲慢さを感じる所以はブログという発信方法にあるのではないでしょうか。内田さんは、ブログはあくまでプライベートな発信方法であり、パブリックな発信方法である書籍とは一線を画しているように私には受け取れました。
貨幣経済は「知の暴走」の象徴
このことは、私、本文で言及しています。当然のことながら「情」も「知」も、成長するのには時間が必要です。ただ、私が考えているのは「知」の成長には「情」による下地が必要なのではないかということです。というのも「知」には、どうしても時間の流れを止めてしまう作用があります。“これこれはこういうことだ”と断定してしまうと、思考停止に陥りますよね。これを再び揺り動かすのが「情」なのではないか、というのが私の考えなわけです。
>『無時間的』ということは脳内で上に書いたような反応や作用が行われない,ことを意味すると解していいでしょうか
「無時間的」とは、“これこれはこういうことだ”と断定した状態だということです。貨幣を基準にして経済活動を行う時に、誰も“貨幣とはなんぞや?”などと考えながら行為したりしません。つまり、そういったことは「スキップ」するわけです。そんなことを考えたら等価交換などできない。変化しないことが大前提なんです。内田さんの問題提起は、そうした大前提(これはひょっとしたら道徳と言ってもいいかもしれません)が、財の交換(経済活動)だけではなくて、人間関係の中にも及んでいるのではないか、というもので、その問題提起は「知の暴走」を考える私にも共有できるものである、ということです。
>『格差解消の要求は結局の所,もっとお金を,ということだ』という感性と『情を育む』,という話がどんな関係にあるのか
それはわからないでしょう。私にもよくわかりません。というのも前半は内田さんの感性で、後半は私の感性だからです。当エントリーで内田さんの論理は参考にはさせてもらいましたが、感性はあくまで私の感性です。
蛇足で付け加えさせてもらいますが、前半は『格差社会って何だろう』という話題になった内田さんのエントリーについてですよね? これについては「数学屋のメガネ」さんの記事が大変参考になると思います(『格差は悪いことなのか』http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51173840.html)。
こちらの記事は要するに、内田樹なる人物は深読みに値するのか、そうでないのか、ということを問題にしているのだと思っていますが、「知」の成長という観点からすれば、深読みに値すると考えていた方が面白いと思いませんか? 最終結論(時間停止)をどのように下すにしても深読みしていろいろ思考してみた方が、早々と時間停止させてしまうよりは「知」の成長を望めるというものです。かなり多くの人間が深読みできると考えているようなので、ならば面白い方を採りましょうというのが、私のスタンスなんですが。
日常的な「蕩尽」!
最後に引用した内山さんの文章では“お金は汚いもの”という感覚について触れられています。そうした感覚があったがために祭りのような空間で散財・蕩尽することが“穢れ払い”になっていたのでしょうが、そうした感覚が抜け落ちてしまっている現代でも、なぜか「蕩尽」への感覚は生き残っているような感じがしますね。
食料品などの日常品の購入にはそれこそ一円でもケチるくせに、自分の道楽には惜しげもなくお金を注ぎ込む。「蕩尽」だと思います。
>経済学的に言う限り、生産(労働)と消費がつながっているのは常識
当然のことながら、内田さんもそうした常識には疑いのまなざしを持っていることでしょう。これは内田さんに限らず、社会学関係の人達には共通の認識のはずですよね。経済学の常識が時代の常識になってしまっている現代は、なにかおかしい。経済をとある一定の公理の上でしか考えない経済学ではなくて、その公理に疑いの目を向ける経済哲学こそ、いま必要なのだろうと思います。
それこそが「情」
ここまで含めて「情」と呼びたいと思うのです。反復行為のなかで感じられるのは時間です。それが人間であれ、自然であれ、物であれ、行為であれ、もしくは状態(たとえば社会的地位とか)であれ、長時間付き合うと内面に何らかの感情が沸き起こってきます。それが人間を含めた生物が機械とは大きく異なる点です。その感情が、感情を覚えた人間に好ましいものかどうかはあまり関係ありません。そうした感情を覚えるのだということを見据えて、「情」が私達の精神生活の中で果たしている役割を見極めることができたら、などと大それたことを考えています。そうした「情」はこれまでは大変低く見積もられていたように思いますので。
>お金を払ったら、いま、すぐその対価が手にできなかったら耐えられない
「お金」に限定されるのではなくより一般的に「対価」ですが、まったくその通りです。そうしたメンタリティーが学びや労働の意欲を奪ってしまうというのが『下流志向』で示されている論理です。ぜひ、ご一読ください。
真理、真実は単純明快
国家の品格の藤原氏の文章を読んで、西尾幹二等靖国文化人の文章を読んだ時感じたものと同じものを感じました。
一言で言うと『怒り』です。
ペテン師が甘言を弄して善良な読者を騙そうとしている。その様にしか読めません、何しろ性格が疑り深いもので。
ニッチ
ニッチ評論を私も急遽考えてみました.今の所護憲派,ということのようですので,『ロシアが攻めてきたら北海道を渡せばよい.領土問題はどうせお金の問題にすぎないのだ』.
怖いのはこういう人はある日突然,主張を変える可能性があることです.『実は韓国が最も危険なのだ』などといって,『いったん9条を改正しよう.その後また元に戻せばよい』.
なんか思い切り書いてしまいました.すみません.外れることを願っています.つづきがもう少しあります.
学びと消費
再び知と情
おそらく愚樵さんは社共の護憲派に,その知のフリーズ性を観ておられるのですね.そして恐らく嫌悪しておられる.私がしつこくコメントを差し上げるのもその点があるからなのです.その嫌悪感を婉曲に表現しようとなさっておられる.
ということは逆に内田氏のような「いい人ではない人」には恐らくシンパシーをお感じになるのでしょう.(皮肉に聞こえたらごめんなさい.でも現在の基本的な立ち位置を確認するために重要な点だと思います.)
最後にしますが,私の内田氏への思いと愚樵さんへの思いが入り混じった複雑なコメントになったことをお詫びします.
フリーズ性は近代政治思想の病理
社共の護憲派にだけ、ではありません。皇国史観を擁する右派にも同じフリーズ性を見ています。『“右”か“左”か』において、晴耕雨読さんのエントリーからお借りした
>右も左も「近代政治思想」
ということなのです。
いま、私とpapillon9999さんとはちょうど合わせ鏡のような状態になっているのではないでしょうか? 私の視点から眺めれば、papillon9999さんは逆に社共に対して「情」を感じておられるのではないでしょうか? その「情」がpapillon9999からして見れば愚樵という鏡に反射して、嫌悪しているように感じられるのではないか。そんな風に思います。
もう一つ推測ですが、私の論はおそらく“右”の方にも同じような現状を引き起こすのではないか。私にとって、たとえば皇国史観などというのは「地の暴走の上で肥大した情」ということになるのですが、こうした考えを“右”が認めるとは思えません。
たぶん私は、“右”も“左”も両方嫌っているのです。ですが、自分自身の「情」はなかなか自分ではわかりにくいものですから、あんまり確信はありません。左右の嫌い具合には差異はあるかもしれません。ただ思うのは、私の考えをどちらに理解してもらいたいかということを考えた時には、「まず“左”」というのは間違いない。リンク先を見ていただいてもお分かりになると思います。
公立と私立の違い
とは、いわば私立の学校ですよね。基本的に公費で学費が賄われる公立ではない。
ですから、私立では学習へのインセンティブが生まれ、公立では逆に奪われるという図式が成立します。この結果どういうことになるかと言うと、経済的格差が教育格差として固定されるということです。昔のように、貧しくても勉強さえできれば出世できる、というような夢を貧しい若者が抱かなくなってしまったということです。富める者はますます賢く豊かに、貧しい者はますます愚かに貧しく、という構図が生まれてしまっている。
当エントリーではそこまで書きませんでしたが、『下流志向』ではもちろん指摘されています。
それと、う〜ん、私と内田さんがどうも同類のような印象をもたれているような気もするのですが...。しかし、少なくとも経済的な境遇においては同類ではありません。そちらの方面では、むしろ布引さんやpapillon9999さんの方が内田さんに近いのではないかと?
まあ、どうでもよいことですが...
お久し振りです
ブログ再開おめでとうございます。
このところ「FC2」の方にまったくトラックバックが送れません。
「FC2」には何度かメールで改善をお願いしているのですが・・・。
なにはともあれ、今後ともよろしくお願いします〜!
コンピュータでいえば
少しだけ残る疑問をしつこいですがよろしいでしょうか.
1.知の『暴走』という評価は今の社共にも当てはまるのですか?フリーズしている状態を『暴走』と表現されているように感じるのですが,フリーズなんだから動いていないイメージですよね.もしこれ自体を『暴走状態』と表現されたのであれば,『暴走』のイメージをちょっと想像できないのも無理はないと思ってほしいのですが.それとも,社共は今フリーズしているので,これから暴走を始める恐れがあるのでしょうか?
2.よく市民と庶民とおっしゃっていましたが,市民とは単に左志向の(護憲という知でフリーズしている)人たちをほぼ指す(他にいるとしても),と考えていいのでしょうか.
以上二点です.しつこくてすみません.社共はそうですね,なんか肉親のような感じです.出来が悪くても息子は息子,親は親,でしょうか.立ち位置が確認できましたので,もどかしさは解消すると思います.私自身の知がフリーズしないために,これからも刺激をお願いします.
立ち位置の問題なんですよね...
1.について
>フリーズしている状態を『暴走』と表現
おっしゃることにほぼ間違いはありません。フリーズするのは「知」の成長です。成長をやめてしまった「知」が暴走するのです。いわば宗教の教義(ドグマ)のようなものでしょうか。“このようでなければならない”というやつです。無意識のうち私も良く使うのですが、“〜でなければならない”は内側に向けてはフリーズ、外に向けては暴走ですよね。その「知」そのものに疑いのまなざしがあればフリーズもしないし暴走もしない、ということでしょうか。
2.市民と庶民については以前からいろいろ言っているのですが、言う割には整理できていなかったと反省しています。そのことについては次回以降のエントリーで取り上げたいと思っていますが、ここで少しだけ書かせてもらえれば、市民=public志向、庶民=private志向 ということになります。この志向性は、第三者に相対する時の両者の性質の違いと言っていいのだと思うのですが、これだけだと余計に何がなんだか分からないでしょうね。申し訳ありません、次回以降をご覧になってください。
トラックバックやリンクを貼っていただいたり有り難うございました。
お礼をと思いながらお盆で実家に帰り、ネット環境にいなかったのでお返事遅くなり失礼しました。
さてさて今回のエントリーも実に興味深く拝見しました。
皆さんのコメントの盛り上がりとはちょっと無関係になるような感想ですが(空気を読まないせとです、、、)内田さんについてちょっとだけ思ったことを。
私は内田さんは経済学者でも社会学者でもなく評論家、エッセィストと思っているので、彼が経済や格差を書いたり講演する内容についてあまり「重き」をおいていません。
「あっ、内田さんはそう思うんだね」くらいで、その意図がどうのとか「内田さんが考えていることはこうに違いない」とか第三者が討論しても仕方がないのではと思っています。
ただ「誤解を与えるような表現」で経済や格差を論じて欲しくはないのですが、、、
彼はそもそも文学者だから「言葉をあそぶ」ところがあります。
文学や宗教に関しての彼の文章は、表現のマチの部分が実にユニークで鋭くて素敵です。
愚樵さんのテーマである「知の暴走」に関しても内田さんならプラトンの饗宴をもってくるかもしれません。
「「エロス(eros)とは、自らの悪・醜・無知に気付いた者が抱く、善・美・知への愛慕であり、知について言えば、無知から知への愛求(philosophia)にほかならぬ」 と、、、
「おじさん的思考より」
この問題、私も考えてみます。
では、、、またね
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一体全体何が言いたいのか。?
内田氏自身も皆目わからないはず。
普通の口語体に変換すれば、その内容の無さに呆れるばかり。
簡単な事実をわざと難しく言う。キャリア官僚の御役所仕事、役人顔負け。恐れ入りました。
難しい言葉使いを、もう一度元の普通の人が理解可能な口語体にすれば、内容の無い、如何にいい加減な主張をしているか誰にでも理解できるはず。
まさに『痴の暴走』といえる。