愚慫空論

資本家は泥棒である

  renshiさんが「近代資本主義は公的泥棒だ!」と言っておられるが、近代社会において、資本家が何を盗んでいるかを示す文章に出会ったので、そのままお借りして掲示します。
純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)
(2009/11/10)
中沢 新一

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から『ゴダールとマルクス』

では、フィジオクラットが剰余価値の源泉として発見した「自然の贈与」にあたるものは、産業資本の世界では、どのような姿をとって、出現しているのか。マルクスは、それが「労働力」であることをみいだした。
 マルクスは労働力と労働をはっきりと見分けなければならない、と考えた。なぜなら、労働力は抽象的なピュシスの力をあらわしているのにたいして、労働はその労働力がピュシスの変態をとおして、物質性の世界に具体的ななにかの価値をつくりだす、そのプロセスのことをさしているからだ。労働者は、商品という形に物質化された労働を、資本家に売っているわけではなく、この抽象的なピュシスの力である労働力を売っている。ここに資本主義世界における、剰余価値発生の秘密が隠されているのだ。
 抽象的なピュシスの力である労働力は、けっして宙をさまよっているわけではなく、具体的な人間の身体をとおして、物質性の世界にあらわれる。そこで、労働力を商品としてとりあつかおうとする場合、その価値は、抽象的な力である労働力そのものではなく、ピュシスが物質性の世界にあらわれる足場をなすところの身体が、自分を再生産するのに必要な価値で計られることになる。私たちの世界の知性は、まだ抽象的な力であるピュシスの領域を描写できる、完全な数学をもちあわせていない。いまのところはせいぜい、多様体論や散逸理論や超弦理論が、そこに近づこうとしているぐらいだ。ピュシスは潜在的(ヴァーチャル)な能産性の場であるから、それを限られた物質的表現の形態の中に、とじこめてしまうわけにはいかないのである。
 マルクスによれば、資本家はそういう労働力を、ひとつの商品として購入し、それを労働として使用する権利を得る。多様な能産性を秘めた、抽象的なピュシスの力を購入して、その力が労働によって価値を生産できるような巨人なシステムとして、私たちの資本主義社会はつくられたのだ。資本家は、商品に物質化された労働を買うのではなく、能産性そのものを買った。しかも、その価格は、労働力そのものに対する価値づけではなく(そんなことを可能にする数学的方法を、まだ人類はもちあわせていない)、抽象的な労働力が物質的世界の中にもった、たったひとつの足場である、労働する身体を維持するのに必要な価値(これは労働時間で換算される)で計られるのだ。
 私たちの生きている資本主義社会でも、まぎれもない剰余価値の発生が、おこっているのである。それは、資本家が労働者から物質化された商品を買わないで、労働力自身を買うことから生まれる。労働力は、それが生産する物よりも、小さい価値しか持っていないからだ。なぜならそれは抽象的なピュシスの力として、またヴァーチャルな空間を生きているものであるから、その力が顕在化してつくりだす物よりも、この社会では、小さな価値づけしかあたえられないからである。資本家は、ヴァーチャルな力を価格どおりに買うことによって、物質に顕在化された世界に、剰余価値を発生させることに、成功したのである。等価交換という「ゲームの規則」を少しも侵害することなしに、しかも、豊穣な大地のあたえる「自然の贈与」なども必要としないで、それは実現されたのだ。
 しかし、マルクスにおいても、フィジオクラットの場合と同じように、問題なのは、「ピュシス」なのだ。資本主義社会では、人間の生命を生かし、またそれをとおしてあらわれるピュシスの力の抑圧の上に、富の増殖はおこなわれているのである。
 ピュシスの潜在力は、労働力として安く購入され、使用されて、より多くの物質的価値をつくりだしている。それはまず第一に知的に抑圧されている。私たちの世界には、まだ多様体としてのピュシスを表現する手段が欠けている。そのためにまず、労働力としてあらわれたピュシスは、均質空間を表現するための方法である時聞の長さでもって表現され、労働力の価値は、労働する身体を再生産するのに必要な生活費として、計算されたのである。
 経済活動における等価交換と、それをささえる思考法は、ことがピュシスの働きや贈与の精神にかかわるものごとの前では、転倒した観念として、現実(リアル)を抑圧する働きをするのだ。資本主義のシステムにおいて、剰余価値が発生する、まさにその現場で、転倒した観念と未発達な表現手段が、ピュシスを抑圧するのである。その観念的な転倒を破壊するための手段を、マルクスは「弁証法的唯物論」と命名した。『資本論』に書きつがれたマルクスの言葉の途絶えた先に出現すべきもの、それは、マルクス主義などでも、社会主義経済などでもない。その先に唯一出現すべきものは、私たちの存在を、無転倒な状態にある生命と存在のリアルに一体化させていくことをめざす、弁証法的唯物論の、終わりのない探究だけなのだ。



「労働力と労働をはっきりと見分けなければならない」
ここでいう「労働」とは私が言う仕事とほぼ同義かもしれない。もしそうなら私はマルクスを誤読していたことになるが。しかし、それにしても、労働を時間に換算するという外部基準を導入したマルクスは、やはり近代的理性の枠からは抜け出せていなかったのではなかったか。

「資本家は、商品に物質化された労働を買うのではなく、能産性そのものを買った。」
物質化された労働=労働力、能産性=労働(=仕事)だろうが、資本家は労働力と労働の差異を盗むのである。この差異が「余剰価値」なのだろう。
(「余剰価値」という表現そのものが近代的だが)

「まず第一に知的に抑圧されている」
こういった考え方こそが、知的抑圧の第一歩であるように思う。私たちの理性では「多様体としてのピュシスの力」を明瞭な「外部基準」として把握することは不可能ではないのか。マルクスは、資本が「ピュシスの力」を抑圧するものだとしつつも、結局、労働を労働時間に換算することで別の「外部基準」を導入してしまった。そのことが資本主義とは別の抑圧を生んだのではなかったか。

「その観念的な転倒を破壊するための手段を、マルクスは「弁証法的唯物論」と命名した」
いかに飽くなき探求が続けられようとも、「弁証法的唯物論」は「外部基準」であろう。
「ピュシスの力」の発現である労働(=仕事)が、人間の自発的な意思から生まれるのだとすれば、「外部基準」を追い求める行為は必ずどこかで「転倒」を必要とする。そして、その「転倒」とは、唯一神への信仰とおなじものではないのか?

コメント

ビッグベン

イングランドに言わずとしれたビッグベンとういう時計台があります。産業革命華やかなりしころ、プロレタリアートはこの鐘音で目覚め、出勤し、労働し、家にかえりました。日の出日の入り、マイペースで「お仕事」していた牧歌的な封建社会を粉砕し、「時は金なり」という「外部基準」を導入したのは、他ならぬ資本家さんでありました。

マルクスはそんな資本家さんの所行を、じっくりと観察し、ただただ混じりっけのない”事実”を抽出したにすぎません。もちろん不条理と理不尽に塗り固められた「近代的理性」を乗り越えるために。

誠に僭越ながら言わせていただきますと、誤読ではないかとおもいます。とはいえ、中沢流の哲学的な言い回しは難しいですね。ドリンドリンで登場の「ピュシス」をキーワードに語られる氏の解釈は、実に難しいです。まあ、もともとが難解なので易しくしようがないともいえますが。そんなわけで、お馬鹿な私には資本論は何度読んでも新たな発見に満ちてますが。

それと、引用の部分をよませていただいて、中沢氏はスターリニズムによってねじまげられたマルクス主義、レーニン主義の復権を試みているように感じました。ちょっとご理解いただけないかもしれませんが、高度な共産主義での「能力に応じて働いて、必要に応じてとる」っていうのはブログ主さまの追求しておられる”贈与経済”と一致するようにおもわれてしかたがないのですが・・・ そのあたりのことを引用の終わりの部分の記述でおもいましたwa。

私もこの本を読んでみたいと思います。速攻とはいきませんが。 ご紹介いただきありがとがんした。

薩摩長州さん

>マルクスはそんな資本家さんの所行を、じっくりと観察し、ただただ混じりっけのない”事実”を抽出したにすぎません。もちろん不条理と理不尽に塗り固められた「近代的理性」を乗り越えるために。

ごめんなさい。私はこの見解には賛成できません。マルクスがただただ混じりけのない“事実”を抽出しようとしたことは、その通りかもしれません。またその“事実”から体系的な理論を組み上げたというのもそうでしょう。が、私がいう「近代的理性」というのは、そういった営みそのもの――“事実”を抽出しようとすること、体系的理論を組み上げようとすること――を指していますので、マルクスの営みはまさしく「近代的理性」そのものということになります。

またマルクスが批判した資本家たちの行いも、決して不条理と理不尽だとばかりはいえない。マルクスが生きていた時代は資本が希少資源だった時代であっただけのことだと思っています。資本=戦略物資を握った資本家が権勢を振るったのは理不尽だとはいえ、その理不尽を支えたのは労働者自身です。労働者は、自ら労働を労働力へと取捨したともいえる。現代は資本が余剰物となってしまった時代ですが、それでもなお資本への価値集中が収まらないのは、労働者自身が労働の取捨を止めないからでしょう。

私が夢想している贈与経済は、薩長さんが仰るように、「能力に応じて働いて、必要に応じてとる」が実現する高度な共産主義経済と同じものでしょう。それはつまり労働者が労働の取捨を止め、労働そのものを発現させる経済でもある。

ただ私が考えているのは、この労働そのものは、必ずしも労働を再生産させるとは限らないし、限る必要もないということ。「労働の再生産」という論理は正しいものだと思いますが、正しいがゆえに、正しくないものを抑圧する。労働そのものは、“正しいor誤り”を絶対的には判別不可能な「多様な能産性」なのです。

ご返事いただきありがとうございます

すみません、不躾ながら簡潔に書かせていただきます。

マルクスは資本家たちの「合理的」な機械制大工業を大きく評価していました。人が飢えや欠乏から自由になれるには、生産力の増大が不可欠の前提だからです。

しかし、機械の付属物のような長時間の労働と、僅かな賃金、機械化による首切りに労働者が黙っていたわけではありません。彼らは団結し闘い、はじめて工場法の制定勝ち取り、その後も闘い続けてまいりました。

マルクスが生きた時代はすでに、資本は希少ではありません。当時すでに周期的に訪れた経済恐慌は過剰な資本の暴力的な整理過程に他ならないからです。

「それはつまり労働者が労働の取捨を止め、労働そのものを発現させる経済でもある。」その通りです、私たちはそれを、人間解放の前提条件とよんでいます。

「労働の再生産」ではなくて労働能力の再生産は、人が生きてゆくために日々の生活の糧をえることです。これは不可欠なことです。制御されねばならないのは、無政府的な歯止めなき資本の”拡大再生産”です。

マルクスはそれらの”事実”を抽出し資本論に体系化しました。ご指摘の通りそれもまた、「近代的理性」であることは”事実”でしょう。だが、「毒をもって毒を制する」というのが弁証法であることも”事実”なのです。

私たちの圧倒的多くは日々の生活におわれ、貨幣で結ばれたネットワーク(転倒した観念、物象化)=マトリックスの中で生きているのではないでしょうか。そんなマトリックスにおしつぶされ、人が人らしく生き、そして死んでゆける社会=共同体へおもいが至らない、そんな状況が引用の「それはまず第一に知的に抑圧されている。」ということであると読みました。

私は、そんな贈与原理で機能する共同体と、それを指向してやまぬ情熱のほとばしりを”ピュシス”であると解しましたが、ブログ主さまはどう読まれたのでしょうか。ちょっと気になるところではあります。

明日にでも、amazonにお注をいれようとおもいます。失礼いたしました。

誤解だったらすみません。「労働を時間に換算するという外部基準」とは人間のもつ可能性(中沢さんの言う自然の贈与)の近代の形である「労働力」を資本家が購入しながら、しかし「労働力」の持ち主である人間への対価は、「時給いくら」といった商流の社会的な目安でしか支払わないことをマルクスが指摘しているのだと思います。自然なピュシスは近代では時間に換算されるものだと言っている(としたら近代謳歌ですが)のではなく、資本制度では自然なピュシス(生産の可能性)の本源を個人に期待してこきつかいながら、その成果は資本として独占され蓄積され、個人には今現在の流通の平均値を尺度にして、それが当然だという近代主義を押しつけている、とマルクスが書いたと読めます。ごちゃごちゃしてますね。他の方と重複しているかもしれませんが。

おてやわらかに

ちぷ さま、はじめまして。

ヘーゲル的にいえば、疎外。廣松的に言えば物象化ということになろうかと。

さて、中沢氏のいう”ピュシス”は氏の「はじまりのレーニン」にも登場していましたが、そこでの理解の線でいきますと「生産の可能性」というより、「人間がもっている無限の可能性」「わき上がる荒々しいほどの生命力」みたいなものだとおもっています。

ほか、まったく同意です。当方哲学音痴ですんで、おてやわらかにお願いいたします。

あ!ちょっとニュアンスが

ちょっとニュアンスがちがうかも。労働力と労働、労働力の価値=労働能力の社会的価値にかかわるちぷ さまの記述がちょっと。
>「労働力」の持ち主である人間への対価は、「時給いくら」といった商流の社会的な目安でしか支払わないことをマルクスが指摘しているのだと思います。

労働と支払いはかならずとも時間を基準にしているということもありません。時間の管理をおまかせする”請負”という形態をマルクスはあげています。

要は社会的生産としての抽象的労働はきっちり時間で計って”社会的価値”を商品に吹き込む、そして、たがいに異なった商品同士はその価値と使用価値をむかいあわせて価値を表現する。

労働力と労働につきましてはおてすうですが、TB「労働力の価値」をご参照くださいまし。

なお、この引用の記述は、商品の二重性、価値と使用価値の矛盾の展開である、抽象的労働と具体的労働の矛盾にかんするバックボーンがないと中沢氏の意はとりづらいかもしれません。でも、それって、神学のように難解なのですwa。

ブログ主さま、失礼しました。本はまだ買えてません。小遣いがピンチでして・・・

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