愚慫空論

「無垢なもの」は商品化される?

当エントリーもdr.stoneflyさんの問題提起からの派生エントリーですが、かなりとりとめなく別方向へ話が進みます。

今回はいきなり具体例から入ります。 取り上げるのは、あの光市母子殺害事件の、被害者遺族。名前は有名でいまさら隠すこともないのですけど、何となく気が引けるのでM氏としておきます。そのM氏の、もっとも衝撃的だった会見です。あれは確か、“私が殺す”と言い放ったものだったと記憶しています。

前エントリーでの見方に従えば、M氏のあの会見は、果たして「告白」であったのか、それとも「正当化」であったのか?

私は「告白」であったと思っています。しかし、極めて特殊な「告白」であったと思う。というのも、通常「告白」が行われにくい環境であるメディアに対しての記者会見の場で、誰にも「内心の受容」を期待せず“無垢のまま”の「内心」をさらけ出したものだったからです。「告白」であれ「正当化」であれ、通常、「受容」が期待されるからこそ人は“語る”わけですから、何の「受容」も期待しない最初期の会見は衝撃的であり、異常でもありました。

もちろん、M氏が異常な状態になるのは無理からぬことで、それは当然「受容」されるべきことだと思います。ただ、当時私は、あの異常な会見が報道されたことに非常な違和感を抱いたものでした。Yahoo!の掲示板にだったと思いますが“あんな会見は報道してはダメだ。それよりM氏にカウンセリングを”といった趣旨の投稿をした覚えもあります。(当時はまだブログはなかったか、あっても私は知りませんでした。)

dr.stoneflyさんの問題提起のおかげで、今になって改めてあの会見のことを考え直していたわけですが、その中で思い浮かんだ言葉が「商品化」というものでした。あの会見でのM氏の「内心告白」は、「告白」する当人は「受容」を期待していなかったにも関わらず、社会は「受容」した。では、その「受容」の仕方はどうだったのか? と考えると、出てきた答えが「商品化」だったのです。そう考えると、私の当時の違和感にも説明がつくというもの。おそらく私は、“無垢なまま”の「内心」がメディアによって「商品」として取り扱われたことに違和感を覚えたのでしょう。そしてそれは、“無垢”であったがゆえに、貴重な「商品」として社会に「受容」されていった。

ここで私は、同時に別のことも考えました。「内心」とは人間の精神ですから、「商品」となったのは精神だということになる。人間の精神が「商品」になることは珍しくもないことですが、では、精神の対極である身体が「商品」となることは? それも“無垢”であるがゆえに商品価値が高まるというようなことはあるのか? 

そう疑問を持つと、答えはすぐに思い浮かんできました。男である私にとって“無垢な身体”という言葉からすぐに思い浮かぶのは女性の裸体です。女性の裸体には高い商品価値があることに何の抵抗もなく同意すると同時に、その“無垢な身体”を「商品」として取り扱うことに違和感も感じる。この違和感は、M氏の会見のとき同じ種類のものです。

さらに考えを進めてみます。「内心の表現」すなわち精神的側面にある「告白」=【private】志向、「正当化」=【pubulic】志向と同様の志向性が身体にもあるのか? このことは、私自身の本能に問い合わせてみれば(?)答えはすぎに出てきます。“ある”です。

「無垢な身体」に「告白」を感じる状況。それは“「わたし」と「あなた」”という状況でしょう。逆に「無垢な身体」が「正当化」として受け止められる状況は、「わたし」は不特定多数の中のひとりであり、「無垢な身体」がその無垢性を強調しているような状況、つまり「無垢な身体」の持ち主が自身の身体を「商品」として取り扱っている状況。

このように考えていくと、精神でも身体でも「無垢なもの」は、それが不特定多数の前に曝されると、つまり「公」の場に出されると、どうしても「商品化」されてしまう傾向があるのではないかと考えられるようになります。(M氏の場合、彼自身は決して自身の「内心」が「商品」として取り扱われるとは思っていなかったでしょう。「商品」として取り扱われるか否かは、自身の意志とは関係がないようです。)

***************************************

とりとめなく話を進めてきてしまったので、今までの話と、それからもともとの発端であった民主主義の原則という話と、なんとなく関係がありそうな話を他所様からお借りして、当エントリーを締めたいと思います。お借りするのは毎度の、内田樹氏です。

身体を丁寧に扱えない人に敬意は払われない

「誰にも迷惑かけてないんだから、ほっといてくれよ」と言って、売春したり、ドラッグをやったり、コンビニの前の道路にへたりこんでいる若者たちがいる。
 彼らは「人に迷惑をかけない」というのが「社会人として最低のライン」であり、それだけクリアーすれば、それで文句はないだろうというロジックをよく使う。
 なるほど、それもいいかもしれない。でも、自分自身に「社会人として最低のライン」しか要求しない人間は、当然だけれど、他人からも「社会人として最低の扱い」しか受けることができない。
 そのことはわきまえていた方がいいと思う。
 勘違いしている人が多いけれど、「敬意」というのは、他人から受け取る前に、まず自分から自分に贈るものだ。自分に敬意を払っていない人間は、他人からも敬意を受け取ることができない。
 こんなことを書くと間違える人がきっといるだろうが、「自分に敬意を払う」というのは「威張る」という意味ではない。
 自分に対して敬意を持つことは、まず自分の身体を丁寧に扱うことから始まる。
 そして、自分の身体を丁寧に扱う人は、すでにそれだけで、他人から丁寧に遇される条件をクリアーしているのである。
 こんなことを書くと間違える人がきっといるだろうが、「自分の身体を丁寧に扱う」というのは、別にエステに行ってお肌をぴかぴかにするとか、毎日シャンプーするとか、そういう意味ではない。
 自分の身体を丁寧に扱うということは、言い換えれば、自分の身体から発信される微細な「身体信号」に鋭敏に反応するということだ。
 例えば、「悪い場所」に近づくと人間の身体はその場所が発する「痛気」を感知する。そこに踏み込むと自分が汚れたり、損なわれたり、リスクが高いということが身体には分かる。
 しかし、自分の身体に敬意を持たない人間は、身体が危険信号をいくら送っても、それが感知でさない。感知しても無視する。
 病気になる人、特に精神的に苦しんでいる人の住居はたいてい「悪い場所」にある。
 不動産屋で部屋を探しているときに、駅から近くて、日当たりがよくて、買い物が便利で、家賃か安くて……だけど、「住みたくない家」というのにときどき出会うことがある。どこが気に入らないのかと問いつめられても、うまく答えられない。でも、「何だかいやな感じ」がする。こういう感じは、分かる人には分かるし、分からない人には分からない。
 こういうときに「家賃の安さ」が予期させる利便と、身体が感知している不快を比べて、後者を優先させる人が「身体を丁寧に扱う人」である。身体の判断を脳の判断よりも優先させる人、それが「身体を丁寧に扱う人」である。
 セックスやドラッグにどろどろはまりこむ人間のことを「身体的快楽に溺れて……」と形容する人がいるが、これは用法が間違っている。
 身体そのものは身体を傷つけたり、汚したりする行為を決して「快楽」としては感知することがない。身体殿損を「快楽」として享受するのは脳である。
 売春する少女たちも別にめくるめく身体的快楽を追求しているわけではない。彼女たちが求めているのは「お金」である。それも生計のための金ではなく、蕩尽するための金である。売春の代償で得た貨幣でブランド商品を購入して、それを快感として感知するのは身体ではない。脳である。
 冷たいコンクリートの地面にじかに座るのも、耳たぶや唇や舌にピアス穴を開けるのも、肌に針でタトゥーを入れるのも、身体的には不快な経験である。それが「快感」として感知されるのは、それらの身体操作を「ある種の美意識やイデオロギーの記号」として他人が解釈しているだろうと脳が想像しているからである。
 メディアが誤って「身体依存的なふるまい」に分類したがる若者たちの行為は、総じてすぐれて「脳依存的」なふるまいなのである。
 繰り返し言うが、自分に対する敬意というのは、第一に自分の身体に対する敬意というかたちをとる。
 それは身体が発信する微細な身体信号を丁寧に聴き取り、幻想的な快感を求める脳の干渉を礼儀正しく退けることから始まる。私はそういうふうに思っている(脳は徹底的に自己中心的な臓器であって、自分以外の臓器や身体部位の保全や健康をまったく斟酌しない)。
 自分の身体がほんとうにしたがっていることは何か(休息なのか、活動なのか、緊張なのか、弛緩なのか……)、身体が求めている食物は何か、姿勢は何か、音楽は何か、衣服は何か、装飾は何か……それを感じ取ることが自分に対する敬意の第一歩であると私は思う。
 身体感受性が鋭敏に働いている人は、他人の身体についても、同じように感受性を働かせることができる。どういう動作をしたがっているのか、どういう姿勢をしたいのか、どういう音質の声で語りかけられたがっているのか、何をされたいのか、何をされたくないのか……いっしょにいる人について、それが自然に分かり、求めるままに反応できる人は、「人の気持ちが分かる人」という社会的評価を受ける。そのようなささやかな積み重ねのうえに、社会的敬意というものは構築されるのである。
 自分の身体の発する身体信号を感知できない人は、他者の身体の発する身体信号をも感知できない。自分の身体を道具的に利用することをためらわない人は、他人の身体を道具的に利用することもためらわない。
 自分に敬意を払う、というのはそういうことである。
 よくテレビドラマで見るように、「何だ君は、失敬な! 私を誰だと思っているんだ!」と怒鳴り散らすことではない。
 私たちが「失敬」な態度をとるのは、自分で自分を軽んじ、自分に対する敬意を忘れて生きてきた人間に対してだけである。

子どもは判ってくれない (文春文庫)子どもは判ってくれない (文春文庫)
(2006/06)
内田 樹

商品詳細を見る

コメント

はじめまして、深山あかねです

 おはようございます。
 志村さんのブログにコメントして愚樵さんのことを教えていただき初めて伺いました。
 よろしくお願いします。
 前の記事の、内心について~「告白」と「正当化」と併せて読ませていただきました。図式での説明はわかりやすく、ひろさちやさんの仏教解説を読んでいるような感じを受けました。
 私は低学年がほとんどの子どもとかかわる仕事をしているなかで、トラブルに接しては、「知・情・意」を意識して対応するようにしています。
 まず「どこか痛いところがあるの・びっくりしたね怖かったね悲しかったね・悔しいね」を順番に一つずつ対応していきます。
 「どこか痛いところがあるの」「いえ痛くはありません。」「びっくりしたの」「びっくりして・・・。」「そりゃびっくりして涙が出るよねそれで悔しかったのね」と引き寄せて抱いてやり、「うんん、悔しくはないです。」という具合です。「そう、びっくりして涙が出たんだって」と相手の子どもに報告して一件落着。
 子どもも、自分の涙の原因についてこちらの確認作業に応えながら冷静に事の次第を自己確認することがほとんどで長年この手法で仕事をしています。
 しかし、この記事によって又違った分析のやり方もあることに関心を持ちました。
 17日の記事では、自分の身体を酷使することに自己満足する傾向のある自分に気づかされ、他人にもそういったことを知らず知らず要求している自分があることにも自己反省いたしました。

無垢を商品化する商売

無垢を商品化する商売をマスコミといい、無垢な身体を商品化する商売を売春宿といいます。自分を丁寧に扱える人間は恵まれています。イスラエルの西岸とガザや、イラクやアフガンやソマリアなどに行かれたことのない人には、わからないと思いますが、いくら丁寧にしたくても、いきなりカラシニコフやM16に被弾する状況では無意味です。社会人として丁寧に扱おうが扱わなかろうが、偶然生まれた人種や宗教の違いで、理由なく死にます。そういう日常で、コカインだろうがタッウーだろうが、明日死ぬかもしれない人間にとって、感覚が麻痺しせつな的に生きてる人を説得する自身は、ありません。
どう思われますか?理不尽と不条理だけの世界が、現実にあるのです。安全で明日の食べものが確保されてる先生の意見は先進国の住人の奢りだと思います。

あかねさん、ようこそ。

志村さんのところからいらしてくださったんですね。ありがとうございます。

>私は低学年がほとんどの子どもとかかわる仕事をしているなかで、トラブルに接しては、「知・情・意」を意識して対応するようにしています。

私は子どもと接する機会がほとんどないので、そういったお話には興味があります。またそちらへもお邪魔させてもらいますので、よろしくお願いします

岩下さん

>自分を丁寧に扱える人間は恵まれています。

その通りだと思います。いま、私たちに問われているのは、その恵みを恵みとも思わないで、うち捨ててしまうような振る舞いをどうするか、ということなのでと思うのです。

>どう思われますか?理不尽と不条理だけの世界が、現実にあるのです。安全で明日の食べものが確保されてる先生の意見は先進国の住人の奢りだと思います。

私は奢りだとは思いません。恵みを恵みとして享受する姿勢を奢りだというのはおかしいと感じる。そういう姿勢はルサンチマンというのでしょう。

ただ、恵まれない人たちがいることは事実でしょう。そういった人たちとどう接すればよいか? 正直、私にはわかりません。

阿久根市長の件もそうですが、「無垢」な発言に喝采が叫ばれるのは、人びとが息苦しく思っていることへの救いだからでしょう。
タテマエに満ちた社会で、タテマエを着飾ることを強いられた人は、重いと感じている。もっと「自分らしく」言いたいと感じている。そこに、マスコミが「無垢」な言説を振りまいてくる。やったぞ、よくぞホンネを言ってくれた。自分ももっと「自由」でいいんだ、ヌード万歳!!


私はこれに対して、左派的な「やさしさ」で説諭しようとは思いません。「無垢」を好む人は、自分が優しくされたいのであって、そうした人に「やさしい社会」を説いても「じゃあ俺に優しくしてくれよ」となるからです。

そうではなく、私はマチズモの観点からこの「無垢」を否定します。人間は平等ではない、必ず強弱の関係が存在する。ならば、強いものはどんなに苦痛でも義務を背負わなければならない。「無垢」に逃げ込まず、タテマエを背負い込み、キレイゴトを腕づくで押し通すことができなければならない。私のようなナードが、映画コマンドーのシュワルツェネッガーにでも今すぐならなければならない。
だってそうしなければ、後から後から世代は変わりゆくのだから、私達は長老へと日々向かいつつあるのだから。出来ないではすまされない。結果を出さなければゴミ。嫌でもなんでも、責任はどんどん増やしていくしかない。もう、今さら無垢には戻れない。
大人の私達が無垢に戻ったら、いったい子供たちはどう振る舞えばいいのか? 大人が大人の役割を果たせない社会で、子どもが生きていける筈がない。嫌でもなんでも、私達は死ぬ。老いて死ぬ。絶対に死ぬ。だから、皺と汚れを引き受けると同時に、無垢なる童子に希望を残すしかない。

人間と人間がくっついた

内田氏の身体関係の話については、むしろ後段、

>身体感受性が鋭敏に働いている人は、他人の身体についても、同じように感受性を働かせることができる。

が本論かと思います。
私達はエスカレータに乗る時、後ろの気配に注視します。なぜなら、後ろに立つのが子供であった場合、ちょうどその子の顔の位置に自分の足があるのだから。
バイクに乗る時、前方の老婆を見た瞬間、自分の発する振動が彼女に与えるストレスを感じ取り、彼女の筋肉が覚える緊張を識り、やがては彼女を外出から遠ざけ、寝たきりへと向かわせることを自覚します。(しますよね?普通の人間なら誰でも)

頭でっかちな人は、しばしば自分の発言に責任を持ちます。あほくさ。
そうやって、自分と他人の言動を別個のものと考えている時点で、もう「身体を丁寧に扱えない人」なのです。
私達の一挙手一投足は、それが他に認識された瞬間、その人の中に入り込み、強い影響を与えているのです。言動は見られた瞬間、自他の境界をぶち破っているのです。エスカレータに乗る時、バイクに乗る時、私達の手足は他者の手足と一体化していなければならない。私の言葉は読まれた瞬間に、相手の人生を変えてしまっていなければならない。
責任をとる?冗談じゃない。「自分が」行動したり事故を起こしたりするから「自分が」謝罪を行うのだ、という発想自体がクラッシュの原因なのだ。最初から、自他の手足がくっついた一個の生命体として振る舞うことができなければ、それは「社会」人とは呼べない。
他人の体に、自分の体と同じような感受性を働かせるとは、そういうことではないでしょうか。

新「道徳」

「反帝反スタ」のお方に一票ですね。

さて、さすがもと真っ白にライン入りの内田先生、実にうまいことを言う。
巧みに社会的関係性を捨象して、「自分をもっと大切にしなさい」とは、「道徳教育」か、新手の「大脳生理学的自己責任論」か。

豊かすぎる社会から疎外された不良商品、あるいは廃棄されたもと商品、彼ら彼女らを商品としてしか実現しえない社会は”おかしいな”社会ではあるまいか。自暴自棄のもとは社会のありかたにあり。

後進国への帝国主義的支配が旧社会の共同体を解体し、分断と差別を持ち込こんだ。いがみ合う同胞同士の内戦で命を失い、傷つき、明日しれぬ今日をいきる人々に、「自分をもっと大切にしなさい」とうそぶく帝国主義本国で、おもいっきり恵みを恵みとして享受する小ブルインテリゲンチャは、その恵みの源泉が明日しれぬ今日を生きる者たちから奪い取ったものであることを実は知っているにちがいない。

Re:人間と人間がくっついた

>人生アウトさん

前の3458番のコメント読んで心が激しく動きました。

>私達の一挙手一投足は、・・・

涙が出そうでした。

この文章を私に与えてくれた、人生アウトさんに感謝。

人生アウトさんから、この表現を引き出した愚樵さんとこのエントリに感謝。

愚樵さんにこのエントリを上げさせた、dr.stoneflyさんに感謝。

m(__)m

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/338-c6d8769d

「語られる内心のベクトル」…と受け手の構え

 おそらく読んでくれてる方にもそろそろ飽きられているような気がしている。それでもまだ引っ張るか!? という思いもあるが、もうちょいだけ。  「内心を語る」について、コメント頂いたすもさんが言うように「その都度確認する」という手もあるが、私的に「内心を語る...

心のメモ

自分と他人の境目とは何か? そんな問いはだれもが一度は考えたことがあるのではないだろうか? そんな中、ちょっと難解だけど愛読してい...

 | HOME | 

 
プロフィール

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード