愚慫空論

内心について~「告白」と「正当化」

「内心」っていったい、何なんでしょうね? “困ったことになった”と自分自身に呟きつつ、困っていることを喜んでいる私がいまここにいます(苦笑)

「困る」と「喜ぶ」は言葉にしてしまうと相矛盾するようですけれども、でも、どちらも私の「内心」であることは間違いないんです。私の「内心」のなかでは“困っている”と“喜んでいる”は少しも矛盾しない。矛盾は「内心」にあるのではなくて、「内心」を表現しようとする行為のさなかに発生する――なんてことを内心で考えつつ、エントリーを書いています。

具体的に話をします。“困ったこと”になったのはdr.stoneflyさんのところで議論に首を突っ込んだからです。“喜んでいる”理由もまた同じ。

『「内心を語るな」…と、言われてもなぁ~ 』
『「内心を語れ」…と敢えて言いたいのだが』

いま、“議論に首を突っ込んだ”と書きましたけど、あそこでいろいろな方向に展開されている意見陳述にいちいち絡むつもりは毛頭ありません。dr.stoneflyさんの問題提起を自分でも考えてみようと思った。その結果がこのエントリーというわけです。

で、その問題提起とは何なのか? 私に与えられた(期待された?)のは「内心と民主主義」というテーマですが、ここでは一旦そこから離れて、「内心」が表現されるときの志向性――と書くと、またいつもの愚樵節になるのだなとお思いでしょうが――について考えてみたいと思います。

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この話は、まず私自身の過去のエントリーを参照することから始めます。

『【private】志向、【pubulic】志向』

この過去エントリーでは、次のような図を掲げました。

知情意

この図で示した【private】志向・【pubulic】志向は、当エントリーのタイトルで示した「告白」・「正当化」にそれぞれ対応します。そして、dr.stoneflyさんのところでコメントした「個」を【personal】、「公」を【pubulic】、また【private】を「私」として、図を少し修正します。

告白と正当化
(dr.stoneflyさんのところのコメントで表記した「個→個」は、ここでは「個→私」という表記に改めることにします。)

(「個」と「私」の区別が語彙からはつきにくいかと思いますが、「個」=個的領域・「私」=私的領域、と表現すれば少しは掴みやすいでしょうか? 「個」はあくまで個人ひとり、「私」は典型的な例として家族を思い浮かべてください。)

さて、「個」「私」「公」の三要素のうち、「内心」は「個」にあたります。そしてその志向性には、【private】志向(=「告白」)と【pubulic】志向(=「正当化」)の二種類があることになります。

この2つの志向性の違いの説明は、話を具体化した方が良いでしょう。dr.stoneflyさんのところでは、「過去に従軍慰安婦を強いられた女性の気持ちの激白」という例があげられていましたので、これをお借りすることにします。

この「激白」が“過去に従軍慰安婦を強いられた女性”という「個」からの「内心表現」であることに疑いはありません。問題は、それがどちらを志向していたか、「告白」であったか「正当化」であったか、ということになります。

「告白」「正当化」の違いもわかりにくいかもしれません。「激白」すなわち「告白」ではないのかと思われる方も多いでしょう。客観的に観察される現象としては、「激白」も「告白」も同じものです。その視点から見ればこの両者の違いは、現象を言語化したときに選択した語句のちがいでしかないということになります。ですが、私が「告白」「正当化」あるいは【private】志向【pubulic】志向と言っているときの視点は、そうではないのです。

ここで扱っている問題は「内心」です。「内心」を扱っているのに客観的に観察される現象を見ていても仕方がありません。視線はあくまで「内心」を発する「個」の内側に向けられなければならない。「告白」「正当化」とは、「内心表現」時の「個」の“姿勢”“構え”のことを言っているのです。

もう少し踏み込んでみましょう。例えば今、「あなた」の目の前に過去の酷い体験から心に傷を負った女性がいるとします。「あなた」はその女性の話を聞いている、つまり内心表現」を受け止めている。このときの女性の“構え”、あるいは「あなたの受け止め」の“構え”は、いついかなる状況においても同じでしょうか?

「あなた」と女性の二人だけという状況と、「あなた」は女性の話を聞いている不特定多数のひとりという状況とでは、「あなた」も女性も、“構え”は異なるはずです。私は前者の“構え”に「告白」、後者に「正当化」と言葉を当てはめてみたのです。

(二人だけなら必ず「告白」、不特定多数となら必ず「正当化」だといっているわけではありません。問題はあくまで「個」の“構え”ですから、一般的にはそういったことが言えるだろう、そこから「個」の“構え”を推測できるだろうということで、「例」を示しているに過ぎません。)

「告白」のとき、女性が「あなた」に対して示す“構え”あるいは“姿勢”は、“過去の体験で心に傷を負った私自身(=「告白」している女性)を受け入れて欲しい”というものでしょう。
(若い男女の間で単に「告白」というときは、こうした“構え”――心に傷を負ったか負わないかに関係なく「私自身」の受容を求める――を指すのが一般的なようです。つまり「愛の告白」ですね。)

対して「正当化」の時の“構え”は、“過去の体験で私が心に傷を負ったことは致し方ない、当然である”となるでしょう。そしてこのときには必ず「正当化」のための根拠が持ち出されてきます。現代ではそれは、民主主義が普遍的な思想となっていることから基本的人権となるか、あるいは科学思想から“科学的か否か”ということになるか、どちらかがほとんどでしょう。
(他にもその根拠なり得るのは、身分・性別・肌の色・民族・信仰する宗教etc、さまざまあります。)

コメント

TB感謝

骨を折らせてすみませんでした。
指向性ね。
内心について、多少は整理がついてきたような気がします。
まあ、志向に関わらず全ての内心は語っていいと思うのですが、受け手として整理されないと混乱はしそうです。
「政治が関わる」内心の吐露は、次のエントリーも合わせ具体例を挙げてもらうことで、それが「告白」であった場合、混乱させることになりそう、ということは解りました。今後は混乱しがちな内心の吐露について、愚樵さんの言うベクトル(「正当性」公or「告白」私)という視点も加味して睨んでみたいと思います。

「根拠」という点で、ずっと昔からワタシのブログは「運動的視点」と「哲学的視点」を行ったり来たりする(ときに混在する)、ダブスタブログだと言ってきたわけですが、まさに今回の件だと自覚しましたよ。
どうもワタシというヤツは考えているうちに意識がふと形而上へ飛んでしまう。
「運動的視点」は民主主義を根拠にしようとしているが、「哲学的視点」は真理を追求しようとしてる。混在すればどこかに矛盾がおきてくる。このあたりのちゃんとした自覚がないと、今回のような指摘に狼狽えることになる。(民主主義は真理じゃないですよね、笑)

あれあれ哲学的根拠の内心の吐露のベクトルはどっち回りになるのだろう? 「哲学的根拠の内心の吐露」って言葉自体おかしいのかな、爆!!

“構え”ときましたか

以前、「説得力・納得力」なる対比がありましたが、話す側の“構え”・聴く側の“構え”、なるほどです。
話す側の“構え”と聴く側の“構え”とが噛み合ってないと、それこそ“話”になりませんね。 (^_^;)

そして“構え”は強要できません

“構え”とはつまり「心構え」ですが、これこそが本当の意味での「良心の自由」ということではないのかなと思ったりもします。

また、「心構え」という精神の姿勢は、身体の在り方とも密接に関連しているだろうとも思ったり。
(ここらはアキラさんの得意分野ですよね?)

また、もし“構え”という要素において、精神と身体の間に何らかの相関性があるなら、“構え”は必ずしも個人個人の恣意性に委ねられるものではない、とも思ったり。

とにかく考えることはいっぱいあります(苦笑)

はじめまして。

実は大昔コメントさせて頂いたことがありますが、ハンドルネーム忘れましたしIPも変わってますので。

愚樵さまの説明、よくわかります。
「告白」に対するもう一つの構えは「説得」と表現しても良いかもしれません。
内心の発露も説得も、受け手が発話者の姿勢(構え)を予め想定できる場でないと、発露された内容に関係なく受容ができなくなり得ますよね。

逆に、極めて差別的な内心の発露を行ったとしても、受け手が「これは告白者の内面の一部であり、同意はしかねるが異を唱えるまでもない」と見なすこともあり得る。説得されずともある種の受容はすると。

結局は、受け手側に依存する問題では?

内心を語れ、ただし憎悪や差別を含む内心は何時如何なる場においても語るなかれ…というのも、内心まで選別され道徳や善意を強要されるようで息苦しいものがありますよ。

補足します。

つまらない誤解を招かぬよう補足します。

差別や憎悪そのものを肯定はしません。

内容を問わず既に内心において個人が抱えているものを、その内容次第により、これは出しても良い/これは不可といった具合に道徳的検閲を通さなければならない。
ごく私的な…内心の発露が予め許容されたコミュニケーションの空間にあっても。

道徳的には素晴らしいかも知れませんが、何となく無気味に感じるということです。

具体的に。

人格障害の肉親から長年虐待を受けてきた女性が、「あの人をころしたい」と何度か私に告白してきました。

その告白は、それ自体すべきものでも禁ずものでもないと、私は思います。
受け手次第で、受容されることも拒絶されることもある。それだけでしょう。

何だか幼稚な話を連投して、失礼しました。

最後に本村洋さんの「ころす」発言について。
彼はパブリックな空間ではあくまで常に論理的に話さねば、人々を説得できないといった旨の発言を同時期にしていました。
彼の「ころす」発言を、私は極めて戦略的な一手と受け取りました。

あれは内心の発露でなく、寧ろブラフではなかったかと私は考えます。

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