愚慫空論

近代的理性との訣別(3)

恥ずかしながら第三弾

本当は怖い“赤信号みんなで渡れば怖くない”

赤信号みんなで渡れば怖くない

悪いことも大人数がやっていれば自分一人だけ酷い目に遭わないだろうという甘え

(はてなキーワードより)

第2弾と話の方向性が違うように思われるかもしれませんが、このコトワザ(?)は他律的理性の在り方とよく似ています。今回は、そんなところから話を始めたいと思います。

第二弾で私は、他律的理性を“「私」を埒外に置く「私」の理性”だと言いました。“赤信号~”のコトワザが理性的かどうかはとりあえずおくとしても、構造としては他律的理性とこのコトワザは同じものを持っています。
その鍵になるのが「みんな」という言葉。日本語の「みんな」という言葉はたいへん微妙なもので、全員を指し示すよういて必ずしもそうではない。「みんな」という言葉は意味がブレる不思議な言葉なんですが、このコトワザはその微妙な意味のブレを上手く利用したものなんです。

具体的に見てみましょう。まず、このコトワザの前提には、赤信号を怖がる「私」があります。「私」は赤信号を怖がりつつ、それでも赤信号を無視したいという「期待」も持っている。そういった矛盾した「私」です。

この「私」の矛盾を想像することは難しくないはずです。例えば車でドライブしていたとして、目の前の信号が青から黄に変るのを見たとします。もうすぐ赤に変化することは間違いないので、車を減速させて停止の準備に入る。これが普通です。

が、中にはアクセルを踏んで逆に加速する人もいます。褒められた行為ではありませんが、その心理は車のドライバーならよく理解できるでしょう。誰だって快適に走っているところを赤信号で停止させられたくはない。大半の人は赤信号の恐怖(事故に遭うとか警察に捕まるとか)を怖れて停止しますが、無視したいという「期待」も同時に持っている。これは普通の人間のごく普通の心理でしょう。

“赤信号みんなで渡れば怖くない”の「みんな」には、この矛盾した「私」が入っていないようで入っている。もう少し詳しく言いますと、単に“みんな”というだけの時には「私」は入っていないのですが、“みんなで渡れば怖くない”と言ったときには「私」は入っているのです。“怖くない”のは「私」も怖くない。文章の途中で「みんな」の意味がブレたのです。

“「みんな」の意味が途中でブレる”ということが納得頂けなければ、次のように考えていただいても構いません。まず、赤信号を怖がる「私」がいる。当初、「みんな」は“恐怖する「私」”の集合でしかありません。ところが、いつの間にか“みんなで渡れば怖くない”になってしまう。“怖くない”というのは、赤信号を無視したいという「期待」が恐怖を上回ったことを意味しますから、“恐怖する「私」”は「みんな」を介して“期待する「私」”に変化したことになる。こちらの解釈では、「みんな」は“ブレる”言葉ではなくて“ブレさせる”言葉ということになりますが、“ブレる”でもブレさせる”でも「みんな」が微妙な言葉であることには変わりありませんし、“赤信号みんなで渡れば怖くない”が「みんな」の微妙さをうまく使ったコトワザであることにも間違いはありません。

“意味がブレる”“意味をブレさせる”の説明のうち、“「私」を埒外に置く「私」の理性”と同じ説明になっているのは前者の方です。まず「私」が入っていない(=「私」を埒外に置いた)「みんな」があり、それがいつの間にか「私」も入った「みんな」(=「私」の理性)になっている。後者の説明は“「私」の恐怖がいつの間にか「期待」置き換わった”ということですが、恐怖する「私」とは自律的理性により眺めた「私」ですが(正確には恐怖と期待を抱える矛盾した「私」)、それが「みんな」が外部基準となって他律的理性へ変化した時には「期待」のみが残ることになる。私はこの変化を「期待の合理化」と呼びたいと思います。

すなわち“「私」を埒外に置く「私」の理性”である他律的理性は「期待を合理化」させる”のです。

さて、ここで話を始めに戻しまして、“赤信号みんなで渡れば怖くない”は理性的ではないというところに触れてみたいと思います。

このコトワザが理性的でない理由は2つ。その1は、そうはいっても「私」は恐怖を捨てきれないからです。交通事故の恐怖、警察に捕まる恐怖、これらの恐怖は“赤信号みんなで渡れば怖くない”と言ってみても逃れられるものではありません。「みんな」は捕まらないかもしれない、「みんな」は事故に遭わないかもしれないが、「私」は捕まるかもしれない事故に遭うかもしれない。人間誰しもそう考えることからなかなか逃れられない。

その2は、本当は“赤信号みんなで渡れば怖くない”からです。もし本当に“赤信号みんなで渡れば怖くない”がまかり通ったらどのようなことになるか? 交通ルールは霧散して警察に捕まることはなくなるかもしれないが、安全に車を運転することが非常に難しくなる。交差点でいつ誰が飛び出してくるか予測を付けることが不可能になってしまい、車の運転はそれこそ命懸けのものになってしまいます。そんな状態は誰もが望まないでしょう。

以上2つの理由から、“赤信号みんなで渡れば怖くない”はパロディと捉えられるか、もしくは「甘え」と見なされる。つまり理性的ではないと判断されるのです。

ですが、このことは他律的理性による「期待の合理化」が起こらないということを意味しているわけではありません。恐怖などによる歯止めが掛からない場合には、「期待の合理化」は起こります。第2弾で示した供給曲線の話も「期待の合理化」の一例です。

次の第4弾では、「期待の合理化」が起こる別の例を示してみたいと思います。

コメント

赤信号 そこのけそこのけ 俺様通る

実に他律的な諺(?)ですよね。
どんなにみんながいいと言っても、リスクある行動には一定の確率でババがついて回る。そのババを自分が引いた時、代わりに引き受けてくれる人は誰もいない。

赤信号もシンナーも、「私こそが」やらなければならない。
他人がやろうが何しようが構わない。けど、私がやると決めたらどのような悪事でも確信をもって実行しなければならない。
そうでなければ、逸脱行為に伴うリスクの重さを背負いきれない。殴られる覚悟なしに人を殴ってはならない。

私は色々な所で、能力や善意は他者から贈与されたものだ…といったことを書きます。しかしそれは、能力や善意だからこそ「みんな」と共有すべきなのです。
悪や逸脱は、「みんな」に押しつけてはならない。それは社会の破壊だから。

>どんなにみんながいいと言っても、リスクある行動には一定の確率でババがついて回る。そのババを自分が引いた時、代わりに引き受けてくれる人は誰もいない。

それが当たり前の話のはずですが、その思考は近代社会では合理的とされないんですね。ババをなるべく他人に回すのが近代社会の合理性。欲望の肯定し、自己の利益を最大化することが合理性とされるのですから、「ババの転嫁」も当然合理的。そして恥知らずにも、「ババの転嫁」を自己責任という。

>悪や逸脱は、「みんな」に押しつけてはならない。それは社会の破壊だから。

今の社会は、悪や逸脱をみんなで共有しているのですね。なぜそうなるのか、その理由が「期待の合理化」。で、現状、社会はどんどん崩壊に向かいつつある、と。

>「期待の合理化」
みんなが得をしている時に、自分だけその恩恵に預かれないのはおかしい…という考え方なのでしょうね。
それがある意味、「三種の神器」や高度経済成長を支えもした。
日本人の大好きな行列も、この「期待」によるものでしょう。みんなと同じことをやっていれば、同じ結果に預かれる。

けれど成長は終わり、パイは収縮に入った。
でもこの「平等への期待」だけは強く残っているから、「在日特権許すまじ」「生活保護はずるい」となる。一文でも多く、他人が得するのは許せないという『期待』。

マネーゲームを支えるのはこの期待です。何も生産せずに、トランプのカードを回していればいつの間にか金が増えるという幻想。この幻想がバブルを崩壊させたのはもうずっと昔のはずなのですが……。

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