愚慫空論

キメラな労働観

力みかえったタイトルもなんだか恥ずかしくなってきたので(笑)...、少し別のタイトルで。

昨年末の『人間はどうして仕事をするのか』で私は、仕事と稼ぎの話をしました。そこで示したのは、日本人のもともとの労働観においては仕事と稼ぎは別次元のものである、ということでした。

しかし、現在の社会で支配的な近代的労働観では、仕事と稼ぎとは別次元のものではありません。近代的労働観においては、仕事は労働とほぼ同意語であり、労働と稼ぎは同一次元にあるものだと捉えられている。つまり、稼ぎ=(金銭的)収入は、仕事=労働に比例する、というのが近代的労働観だいえるでしょう。

収入=〈比例定数〉×労働

という図式です。そして〈比例定数〉にあたるのが資格だとかスキルだとか、あるいは正社員だとか派遣だとかという要素。ですから現代人は、この〈比例定数〉を大きなものにするために正社員として採用されることを渇望し、あるいは自己投資などと称してスキルアップに勤しむことになります。

以上を踏まえた上で、産経新聞のはなはだ品格の低い記事を取り上げてみます。

“ごね得”許した「派遣村の品格」 費用は6千万円大幅超の見込み

 「不平を言えば融通が利く。みんな“ごね得”だと気付いている」。4日閉所した東京都の「公設派遣村」を出た男性(34)は“村”での生活をこう皮肉った。派遣村では開所以来、行政側と入所者の衝突が絶え間なく続いた。職員の口のきき方への不満に始まり、昼食代の現金支給を求める入所者…。当初、目的だったはずの就職相談は不調に終わり、職員は最後まで入所者への対応に右往左往した。

就労相談わずか1割

 都は3日夜、この日退所した833人のうち住居を見つけられなかった685人のため、4日以降の新たな宿泊先に400人分のカプセルホテルを用意。残りの入所者には、都の臨時宿泊施設を割り振ることを決めた。

 だが、いざこざはここでも起きた。入所者の1人は冷笑を浮かべて言う。

 「その夜も『なぜ全員がホテルに入れないのか』と騒いだら泊まれることになった」

 入所者の抗議と厚労省などの後押しで、都は決定を覆す。抗議の数時間後にはカプセルホテルを追加で借り上げた。「騒ぎが大きくなったので…」と職員は言葉少なに語るのみだ。

この1週間で本来の目的の就労・住宅相談に訪れた入所者はわずか1割。「正月休みに相談しても仕方ない。派遣村では一時金がもらえるとのうわさもあった。それ目当てで入った人も多い」との声も漏れた。

一方で、自力で社会復帰への第一歩を踏み出した入所者も。退所を選んだ男性(67)は「入所中に友人の会社に就職が決まり、社宅に住めることになった。年末年始に泊めてもらって感謝している。食事もおいしかった」と語った。

 だが、この男性のように新たな職や住居が決まったのは少数だ。利用者数は当初の想定を超え、約6000万円と考えられていた費用も大幅に膨らむ見込み。費用はすべて国の負担で、都の幹部は「結局、政治のため」とぼやいた。

 http://sankei.jp.msn.com/economy/business/100104/biz1001042246045-n1.htm

派遣村に滞在した人たちは、上記の図式でいうと、〈比例定数〉が0となった人たちです。「派遣村」の名称は、“派遣切りに遭った人たちの村”ということですから、その意味通りに解釈するならば〈比例定数〉が0でよいはず。〈比例定数〉が0となってしまった結果、収入が0となり、派遣村へ駆け込む羽目に陥ってしまった、ということです。

ところがこの産経記事の目線は違います。この目線は〈比例定数〉=0ではなくて、労働=0と捉えるところから出てきています。労働が0だから収入が0であり、さらに労働をしない者は人間としての資格もないという目線。“働かざる者食うべからず”というわけですが、そこが根っこにあるからこそ“ごね得”などといった表現が出てくるのしょう。
(“ごねる”などという品格のない表現が使われていますが、“ごねる”というのは誰もが行う合理的な行動です。)

これはしかし、奇妙な労働観・人間観です。確かに日本では、“働かざるもの食うべからず”という感覚には根強いものがあります。この理由はもともとの日本人の労働観、仕事と稼ぎとを別次元で捉える労働観にあるわけで、「働く」というのは仕事のことです。仕事とは共同体を維持するための贈与のことであり、共同体成員からの贈与がないと共同体は維持できないという現実があった。なので、実は、この贈与は義務でもあったわけです。義務であるということは、幾度となく義務を果たす機会は提供されるわけで、かつての村落共同体では、そうした機会は幾らもあった。それでもその義務に違反する者は“食うべからず”、共同体の成員として認めないというのは当然の成り行きであり、また、稼ぎだけしかしない者が村八分の憂き目にあうだろうということは、現代の日本人でもなんとなく想像がつくことです。
(贈与が義務なのは、何も日本だけに限りません。多くの宗教で贈与は義務とされています。)

税金の無駄遣いを“心配”する心根には、国家を共同体だとみなす心情があるのでしょう。税金とは、見方によっては国家による搾取ですが、別の見方をすれば国家への国民からの贈与だともいえます。国家が国民からの贈与なしでは成り立たないという意味では、国家もまた共同体であることに間違いはない。ですが、共同体であるなら、成員に義務を果たす機会を提供する義務もまたあるのです。すなわち〈比例定数〉を0にしないよう、共同体である国家に義務がある。正月に就職相談なんて、それこそ政治的以外のなにものでもありません。誰が考えても非効率です(政治的理由により非効率な労働に勤しまなければならなかった都職員の方々は、気の毒です)。

〈比例定数〉ですら自己投資と称する労働の関数だとする考え方は、近代的労働観が行きすぎて歪んだものでしかありません。〈比例定数〉は社会的に定まるもので、当人の努力だけがその要因ではありませんし、ありえません。そうした歪みと、もともとの日本的労働観・人間観とが奇妙に結びついてしまったのが、上掲記事の目線の土台となったキメラな労働観でしょう。

コメント

ご無沙汰しています。

「稼ぎ=(金銭的)収入」の無い行為は「仕事=労働」ではない、という考えの人が本当に多いと実感します。

収入の伴なわない行為は「仕事」と呼んではいけない、「趣味」or「遊び」としてしか認めてくれないんです。

例えば私は私が学童保育所の役員としておこなう行為は「仕事」と主張しますが、「じゃあ給料もらえるの?」とよく返されますよ。
そして見返りの金銭的収入の無い行為は「趣味」or「遊び」なんだから、ヒマでそーゆうのが好きな人がやれば良い・・・という結論になっちゃう。

この国では〈比例定数〉が0の行為と、〈比例定数〉が0となった人は、無価値と判断されてるように感じます。

昨年も愚樵さんとこではいろいろ学ばせて頂きました。
本年も何卒よろしくお願いします。

こちらこそ、よろしくお願いします

>この国では〈比例定数〉が0の行為と、〈比例定数〉が0となった人は、無価値と判断されてるように感じます。

全くですね。

また私は、このことと日本人の“お上頼み”の気質は関連しているとも思っているんです。普通の人間がやると〈比例定数〉が0となるような行いでも、公務員がやると途端に〈比例定数〉が跳ね上がる。官と民の格差は「身分格差」ではないかと思うことも多いのですが、〈比例定数〉の違いをみるとまさに「身分」としか言いようがないようです。

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