人間はどうして仕事をするのか
『人間はどうして労働するのか』
人間だけが労働する。動物は当面の生存に必要な以上のものをその環境から取り出して作り置きをしたり、それを交換したりしない。ライオンはお腹がいっぱいになったら昼寝をする。横をトムソンガゼルの群れが通りかかっても、「この機会に二三頭、取り置きしておこうか」などとは考えない。「労働」とは生物学的に必要である以上のものを環境から取り出す活動のことであり、そういう余計なことをするのは人間だけである。
どうして人間だけがそんなことをするのか。それは「贈与する」ためである。ほかに理由は見当たらない。もし、腹一杯のライオンがそれでも獲物を狩ったとしたら、その獲物は誰かに(仲間のライオンかハイエナか禿鷲かあるいは地中の微生物か)「贈り物」として与える以外には用途がない。
「働く」ことの本質は「贈与すること」にあり、それは「親族を形成する」とか「言語を用いる」と同レベルの類的宿命であり、人間の人間性を形成する根源的な営みである。
労働の本質は「贈与すること」。日本語には「働く」ことを意味する労働よりももっと本質的な言葉があります。それはすなわち「仕事」。「仕事」とは“事に仕える”であり、“仕える”は奉仕であり、奉仕は贈与だと考えて差し支えないでしょう。
ですから、回答が“その本質は「贈与すること」だから”となるような問いには、“人間はどうして労働するのか?”よりも“人間はどうして仕事をするのか?”の方が相応しい。労働の言葉の意味は仕事よりも広く、仕事以外の行為も含みます。
では、仕事ではない労働を何というのか? 「稼ぎ」というのです。
私が暮らす群馬県上野村では昔日から、「仕事」と「稼ぎ」は違うものだと考えられてきた。村に暮らす人間がおこなわなければならない営みを、村人は「仕事」と呼んできた。それに対して「稼ぎ」とは、村の営みとしてはしなくてもよいのだけれど、生活のために、つまり稼ぐためにおこなう労働をさしている。「さて仕事に行くか」と、「これから稼ぎに行く」といった感じで、村ではこの二つの言葉が日常のなかで使い分けられてきた。
村人がいう「仕事」には、いろいろなものがある。畑仕事、山仕事。それらは自然や土とともに生きてきた村人にとっては、当然しなければいけないものと考えられてきた営みである。
「稼ぎ」は一軒一軒、一人ひとりのもの、つまり個人主義的なものである。しかも「稼ぎ」を効率よく実現させようとすれば、自然に敵対する行為も生じかねない。共同的な精神が失われれば、共同体が分解してしまう。おそらく、このような現実を経験していくうちに、生活を守るためには「稼ぎ」も大事だが「仕事」はもっと大事だという気風をつくりだしたのだろうと思う。
村という永遠の世界と結ばれているのが「仕事」であり、そのときどきによって変わっていくのが「稼ぎ」である。 ところで、このような労働に対する考え方は、農山村では多くの地域にあったらしい。かつては村を守ることに村人にとっての最大の価値があったのだから、言葉づかいは違っていても「仕事」と「稼ぎ」は同じ労働だとは考えられていなかったのである。
とすると、今日の一般的な労働の世界では、「仕事」と「稼ぎ」の違いが不明確になった理由もよくわかる。「仕事」を成立させていた、永遠の世界と結ばれていた人間の営みが私たちの日にみえなくなった。永遠の世界自体が感じられないものになったことが、その背景にはある。市場経済とはたえず新しさを競う経済、その意味では永遠性を喪失した経済である。
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再び内田樹『人間はどうして労働するのか』より
「働くとはどういうことですか?」と問うのは「人間であるとは、人間にとってどういう意味をもっているのですか?」という問いと同じようなトートロジーである。
けれども、そのような近代以前では決して口にされなかったであろう問いが今ではしばしば表明されるのには、それなりの歴史的文脈というものがある。
それは「働くことは自己利益を増大させるためである」という歪んだ労働観がひろく定着したせいである。
働くと、その程度に応じて、権力や威信や財貨や情報や文化資本が獲得される。だから働け、というのが近代固有の労働観である。
内田と内山の両氏は、表現は違うけれども示唆している同じであるように思います。内田氏が“人間の人間性を形成する根源的な営み”だといい、内山氏が“永遠の世界と結ばれていた”という「贈与のための労働=仕事」の労働観の揺り戻しです。
今年一年、政治経済を巡る動きには目まぐるしいものがありました。昨年から金融危機、不況、アメリカでも日本でも政権交代、そして政府による金融危機対策、経済対策などなど。危機がどのような原因で起き、その危機に対してどのような対策が打たれ、どのような効果があったのか、私などにはよく理解できません。ただわかるのは、世の中は不景気になったということだけ。危機は私たちの知らないところで起き、不況という結果だけが降りかかってきた。さまざまな対策もその効用もよく理解できないまま終わろうとしています。
『経済危機は資本主義の強さを証明した』といったような意見もあります。おそらくその意見は正しいのでしょう。しかし私が感じるのは、その意見を正しいとすることができる基盤そのものの揺らぎです。資本主義は貨幣を経由する等価交換原則によって駆動するシステムですが、そのシステムは人を幸せにしない。資本主義は、人間の人間性をかたちづくっている根源とは相容れない制度だということが強く感じられるようになった。そんな一年だったと思うのです。
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来年がどんな年になるのか? 資本主義経済はなんとか立ち直ってその強さを証明するのかもしれませんし、二番底といったものがやって来てまた再び危機に陥っていくのかもしれない。が、いずれにせよ、多くの人たちが資本主義に対して抱くようになった違和感は強まることはあっても、弱まることはないように思う。資本主義を底辺から支えている労働者たちの労働観の「揺らぎ」が収まることはないでしょう。
その「揺らぎ」が「揺り戻し」につながると私は期待しています。「揺り戻し」の芽はもうすでに至る所で顔を出しています。来年は、その芽が大きく成長する一年であって欲しいと願うのです。
コメント
初コメント
今年もよろしくお願いします
>やる気の失せている理由、それはきっと、「仕事=稼ぎ」もっと言えば「仕事=金」に洗脳され、洗脳されていることに気づかずにいたからでしょう。
やる気が失せているのが「揺らぎ」、洗脳に気が付いたのが「揺り戻し」なんでしょうね。
>今年は「仕事」として働くことにしようかな(笑)。ブログも「仕事」としてのエントリーを挙げれれば意味がありますね。
是非ともそうしましょう。庶民には「稼ぎ」としての労働は不可欠ですけれど、それが全てなんて貧しすぎます。ブログだってりっぱな「仕事」です。
このことはいずれエントリーとしてまとめるつもりですが、ブログエントリーは贈与なんです。
ブログを運営することが「稼ぎ」になるごく少数の人を除けば、エントリーをあげるという行為はブログ管理人の「持ち出し」です。自らの時間と労力を割いて、どこの誰かも知らない人に読んでもらおうとエントリーをアップする。強制されたわけでもなく、自らすすんで己の「内的基準」に従って持ち出すんですね。「持ち出し」は贈与であり、贈与のために時間と労力を割くことは「仕事」にほかなりません。
「仕事」のかたちはさまざまです。そう、過去のdr.stoneflyさんにとっては「活動」が「仕事」だったのだと思います。どういった経緯で「活動」に身を投じたのかは知りませんけど、たぶん、「内的基準」に従って「持ち出し」をしたいと思ったのでしょう。けれども、活動家として成長して行くにつれ「内的基準」が「外的基準」に変っていった。“〜したい”が“〜すべき”に変っていった...。
あ、すみません。勝手な想像をしてしまいまして。
今年も、こんな感じで手前勝手な妄想を書き綴っていくことになると思いますが、どうかよろしくお願いします。
内田樹といえば
http://blog.tatsuru.com/2009/12/28_1021.php
で言語化されて悔しかったですね(笑)。
私の体も技術も、道具も衣服も、家族も「他人」によってできている。
唯一、本の選びだけは「自分らしさ」であるけど、本こそまさに他者からの贈り物。それは、私の内圧の中でドロドロに溶かされ、私の体と技術と道具と衣服とを通じて、また別の他者へと還元されていく。いま、このコメントがそうであるように。
だから、まさに
>ブログエントリーは贈与なんです。
私は自分の書いたものがただしく読まれることを望まない。無断引用・剽窃・改ざん・悪意ある誤解・なり済まし、その一切をOKとしている。その間違い方が正しい事を私が保障する。
世に、自分の言動が正しく理解されるべき・それができぬは読者の愚昧、と考える主張家は多いです。
しかし、文は私の中から無尽蔵にわいてくるから、これは全て他者のもの。私一人の器におさまりきらないほどの収穫。なれば、その文をジャムにしようが燻製にしようが読者の勝手。その料理が上手ならば再度私の口に贈与されるし、下手ならば腐らせるだけ。読者が読み・考えるという行為も、私の贈与を受けての「仕事」。考える、その時点で仕事。
考えるということを大切にしたい一年です。
この辺は、学校秀才の悪弊なのかも知れません。
学校国語では、「正しく」読むための努力が奨励される。その努力は評定される。
文を読み書きするのは苦しい事であり、その対価として100点が与えられる。このイーブンな交換という概念が非教育的であるのは言を待たないでしょう。
しかし私は、苦しさも努力もなしに100点すなわち「正しさ」を手に入れたから、書くこと読むことに苦悩も労力も傾注しない。それは余分な力み。
※※※
「親の言葉」を正しく理解できる人が、どこかにいますか? それは、二十年三十年後の子に向けて贈与された言葉だから、正しく理解できるはずなんかない。私達は誤解していい。ただ、思慕すること考えることを止めなければ。
贈与の中でももっとも優れたものは、相手の人生の未来に向かって投げかけられる時限式だから。贈与に導かれて生きるしかない。
嬉しいですね
もちろん、人生アウトさんの言葉も届いています。仰るとおり、「正しく」届いたかどうかなど問題ではない。問題は美味か否か。
>世に、自分の言動が正しく理解されるべき・それができぬは読者の愚昧、と考える主張家は多いです。
この言葉である人を思い出しましたよ。よく家に招かれて手料理をご馳走になったんですけどね。かならず「どうだ、美味いだろう?」と訊ねてくるんですよ。確かに美味かったんですがね。不味いと答えると「オマエは味をわかっとらん!」と言われそうでね。「美味い」以外の選択肢はなかった。
もっとも人はそうして「美味い」のなんたるかを識るようにはなる。教育の入り口ではある。でも、ずっと「入り口」で留まっていても仕方がありませんよね。そこから先に進まなければ、ね。
脱線続くよどこまでも
それはすなわち、私なる固が六十億の他者への責任を負うということ。私の文が全世界への責任を負うということ。
そんなことできる人いますか? 私は出来ます。
ただしそれは、従来の「独立した個が一対一の対応において責任を負う×60億」という図式においてではない。
もし私が固体としての個人ならば、私は必ず自分以外全ての破滅を願う。私は私の責任において、あなたの不幸をお約束する。
あたりまえです。私は自分だけがかわいいのだから。他人を消費し尽くしたい。
そうではない。私は誤解するフリーハンドを「全世界」に向けて開いている。うっかり私を愛した親も、うっかり私を愛する女性も、うっかり私を殺したくなる人も、うっかり私の財布を盗る人も、OK。
その全てが私の「現実」だし、逃れられない。殴っても敵は死なないし、望んでも他者は所有できない。現実はただそこにある。
誰からも愛されたり、時折憎まれたりする私達は、大海に漂う小舟のようなもの。舟の上で孤独をかみしめる私達は、ただ波という巨大で気まぐれな他者の群れ全てを『私の現実』として贈与されるほかない。
その現実を無視して「私だけの力学」でやろうとしても、結局みんな「私だけの力学」で進もうとしてるから、同じぶつかり合いの繰り返しになる。破滅を願うしかなくなる。
重要なのは、「私と、他者の力学」という風に次元を一つ繰り上げること。第三者の目で将棋盤を見ること。
だから私は、自分の書いたものに一切責任を負わず、自分が読んだものに責任を負う。
私が書いたものは既に他者の内側にあるのであり、私の現実に影響を与えない。しかし、私が読んだものは私と他者の関係に強い影響を与えるのだから。
ああ今年一年分くらい脱線した!(笑)
バリアフリー住宅のつくり方
子どもに何かを教える時、
・自動車や電気の危険性は緊急に教え込まなければならない
・子の得意分野は自分でぐんぐん伸びていく
以外の、
・算数の苦手な子に分数を教える
ような時。
子はたくさん間違いをします。しかし、その無数の間違い方を見ていると、その子特有のある偏り――「なぜ間違うのか」が見えてくる。
その誤謬の根幹となる認識をほぐしてやるのが、(手間のかかる「仕事」でありながら)教育の重要な要素であると思われるのですが、
「どうだ美味いだろう」は、「どのように美味いのか」という偏り・傾向を見落としていて、味による認識のほぐしには至らないのが残念ですね。
人間の認識は偏っていて、同じ現象・同じ小説・同じ音楽・同じ戦争を前に違ったものを見る。
本多勝一風に考えれば、そこには無数の事実がただあり、そこから何をどう取捨選択するかが重要となるのでしょう。
そこに加えて、その人がもっている偏り方・間違い方をいかに崩したり再構築したり生かしたりするかといった芸「風」もまた、「私と、他者の力学」において重要になる。
相手が次に何を間違えるのか、あらかじめ知っておこうとする。その間違いを是とし、現実として受け入れた上で「私の」文章や建築や学校をつくる。そうすれば、もっと暮らしやすくなるのではないか。
「私が読んだもの」とはすなわち他者の偏り方であり、それに対し無責任であっては、私達の住める家は造れない。
今年もよろしくお願いします
<
人生アウトさんのこのコメントの「うっかり」がいいですねぇ♪
惚れました。
と、記事にノーコメントだと申し訳ないので。。。 (^_^;)
僕も愚樵さんの紹介で内山氏の『戦争という仕事』を読み、「仕事」と「稼ぎ」との違いに気がついて、大いに気が楽になった一人です。
ブログの記事をアップするのも、確かに「仕事」ですし「贈与」ですね。
すみません
上のコメントはわたくしアキラのものです。
よろしくどうぞ。
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どうも最近「仕事」をする気が失せているワタシにとっては、とてもいいエントリーとして拝読しました。解りやすいしね(笑)
やる気の失せている理由、それはきっと、「仕事=稼ぎ」もっと言えば「仕事=金」に洗脳され、洗脳されていることに気づかずにいたからでしょう。エントリーを読みながら振り返りました。
今年は「仕事」として働くことにしようかな(笑)。ブログも「仕事」としてのエントリーを挙げれれば意味がありますね。
さて、「登山家」としての「仕事」ですが、「稼ぎ」にならなくとも多数に夢やら希望を与えることができれば「仕事」になるのかな? 肌感覚としては、そう言い切れないところがある。というのは宗教やら水伝と繋がるような気がする、からかもしれません。
「仕事」...深いですね。