愚慫空論

「情」が分離された時代

ゲーテのベートーヴェンの音楽についてのエピソードを知ったのは、確か中学生の頃、小林秀雄の『モオツァルト』でだったと思う。神童メンデルスゾーンが老ゲーテを訪問した折に、俗に『運命』と呼ばれている例の「ジャジャジャジャーン」という音楽をピアノで弾くと、それまでは機嫌よくメンデルスゾーンのピアノに耳を傾けていたゲーテが突然不機嫌になり、「騒々しい、世界が崩れてしまいそうだ...」と言ったとか。
モーツァルトの音楽に慣れ親しんだゲーテの耳は、ベートーヴェンの斬新な音楽を受け付けなかったのだ、と小林秀雄は書いていた、いや、そうではあるまい、と書いていたのか、今となっては記憶は曖昧だ。

余談だけれど、メンデルスゾーンといえば、誰もが知っているのはシェイクスピアの喜劇『真夏の夜の夢』への付随音楽として作曲された中の、結婚行進曲。「パパパパーン、パパパパーン、パパパパン、パパパパン...」というやつだが、これは「ジャジャジャジャーン」からのパロディである。だって結婚は運命だから。
最近は『運命』を聴くこともめっきり少なくなってしまったが、聴くたびにこの音楽はなんとも「情」に欠けたものだと感想を持ったものだ。人間の精神作用には「知・情・意」の3つの方面があると言われるが、ベートーヴェンの第五交響曲はそのなかの「知」と「意」のみで組み立てられている。この意見はもちろん私のオリジナルではなくて、どこかで読んだものをそのまま借用しているだけである。その意見の妥当性は自分の耳で確認しているつもりだけれども。
芸術は為人の表現というけれど、第五交響曲がそうだからといってベートーヴェンその人に「情」が欠けていたということは全くなくて、同時に創作された第六交響曲『田園』は、それこそ「情」に満ち溢れた音楽になっている。ベートーヴェンは「知・情・意」を充分に兼ね備えた人物であったということがこのことから分かるのだが、敢えてその頃のベートーヴェンの人間性の問題を論うとすれば、「知・意」と「情」とが分離してしまっていた、つまり第五、第六交響曲として別々の作品として表れた、というところにあったのかも知れない。

今でこそベートーヴェンを「楽聖」などといった尊称で持ち上げることは少なくなったようだが、私の印象では、ベートーヴェンを「楽聖」に持ち上げる評価の基準になったのは、「知・情・意」三拍子揃ったというところにあったのではなくて、むしろ「知」に重きが置かれていたのではなかったか。もっとも、当のベートーヴェン自身は後の創作活動のなかでその「分離」の問題を解決していき、「知・情・意」の統合がどのような境地に至るのかを示していくことになるのだが、ベートーヴェンを評価する時代の精神は、ベートーヴェンほどの速さで進化することはできなかったようだ。音楽史区分ではベートーヴェンを出発点にロマン派という時代が始まるといった捉え方をするが、これなど「知」に重きをおいた評価に他ならない(若かりし頃は、ロマンといえば情熱、故にロマン派は「情」主体の創作活動と考えていたが、どうもそうではないらしい。「情」を「知」を通じて表現しようとするのがロマン派の潮流であったようだ。だから主体は「知」の方にあったわけである)。

こんな風に考えていくと、ゲーテが聴き取ったのは「知・意」と「情」の分離であったのかもしれない、との考えに行き着く。ゲーテは結局、ベートーヴェンが自分自身で蒔いた種をいかに刈り取っていくかというところまで聞くことが出来なかった。それができればゲーテのベートーヴェンへの評価もおそらく変わっていただろうが(こういう文章もたぶん『モオツァルト』にあったはずだ)、それは今ここでは関係ない。引っかかるのは「知・意」と「情」の分離が、騒々しいのは分かるにしても、世界が壊れてしまうほどのものか というところにある。

ところで、私は上で「時代の精神」という言葉を使ったけれども、今私たちが暮らしている現代という時代の「時代の精神」は、ますます「知」と「意」への偏重に拍車が掛かかり、「情」は分離されてしまっているのではあるまいか。そして、そういう「時代の精神」は、まさしく私たちの住む世界を崩壊に導こうとしている。とすれば、ゲーテが聴き取ったのは、単に一個の芸術作品に込められた「個の精神」に留まるのではなくて、一個の芸術作品がすくい上げた「時代の精神」の、その行く末をも聴き取ったのではあるまいか。

ベートーヴェンの第五交響曲では、襲い掛かる運命に「知」と「意」をもって闘争し、勝利を収める。勝利は歓喜となって爆発するが、曲の終末に向って登りつめていく歓喜には狂気が孕むことになる。
狂気といえば、普通は「知・情・意」の「情」が暴走した状態を考える。だから理性を保てなどというのだが、ここでの狂気はそれとは違う。暴走しているのは「知」の方である。「知」と「意」の相乗効果による暴走が生み出す狂気。これが第五交響曲の終末であり、現代の「時代の精神」のありようではなかろうか。


飛躍するようだが、ここで私は日本国憲法9条のことを思う。9条成立がどのような「知」の陰謀によってなされたものであろうとも、「知」と「意」が人類社会において形となって表れた国家という存在の、その暴走であり狂気である戦争を放棄しようとする9条の精神は、逆説的に分離されてしまっている「情」をすくい上げるものとなっている。「知」と「意」によって暴走する「時代の精神」に「情」を加え、「知・情・意」の統合によって人類に平和をもたらそうとする精神。9条の精神の革新性はここにある。

ベートーヴェンは「知・意」と「情」の分離の種からの実りを収穫し、これもまた誰もが知る第九交響曲を創作した。知っての通り、第九交響曲は人類愛、平和を謳い上げたものだ。第九交響曲の演奏は日本においては年末好例の行事となっているが、このことと日本国民が平和憲法を受容したこととは、けっして無関係ではないと思う。

コメント

鼓腹撃壌その他

音楽にはまったくの門外漢なのですが、ゲーテがベートーベンにすら眉をひそめたとすれば、ワグナーなどを聞いたらいったいどんな顔をしたことでしょうね。(と思ったら、小林秀雄は、ちゃんとワグナーにも言及していました)
たまたま内田さんと精神科医の名越康文という方が対談した「14歳の子を持つ親たちへ」というのを古本屋で見つけて読んだのですけど、内田さんはこんなことを語っていました。

「最終的に人間の攻撃性をドライブしているのは身体じゃなくて脳なんですよ。身体っていうのは、どこかで抑制してるものです。・・・勘違いしてる人多いけど、身体が攻撃性の培地であって、理性がそれを統御しているというのは嘘なんです」

たしかに、自然の身体が抱えている攻撃性などは、たかがしれたものですね。巨大な暴力が発動されるのは、正義や大義、民族の伝統、国家の危機などといった様々な理屈によって脳が介入して身体を支配したときということがいえます。

ところで「鼓腹撃壌」という言葉は、東洋的なアナーキズムの理想を表した言葉のように思います。国家や政治よりも具体的な人間が生き死にする社会のほうが大事だということであるし、マルクスのヘーゲル批判でいうならば、国家が社会を規定するのではなく、社会が国家を規定しているのだということでしょう。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/32-4f8c058c

知・情・意の統合

「情」が分離された時代と言うエントリー名でブログ仲間(私が勝手に思っているんです

沖縄を感じるために~朗読劇「さとうきび畑の唄」

 沖縄の「今」を感じるために,沖縄の英雄瀬長亀次郎さんの過去の足跡を辿ることはとても,意義深いものがあると感じました。 それが,前回のエントリー(→こちらです)でした。 さきほど,全く面識のない沖縄弁護士

的外れかもしれないけど

 たぶん20年ぐらい前のことだと思う。正確な言葉は忘れてしまったし、どこで書いていたのかも覚えてないが、吉本隆明が、資本主義社会というのは、歴史の無意識が生んだ最高傑作だ、というようなことを言ったことがある。 とんちかんな左翼評論家の中には、この言葉をと..

郵政民営化政策について

>民営化されることによって、郵貯・簡保の巨大資金が運用先を求めて結局は外資系のファンドに流れることが、民営化推進派の本当の狙いでしょ?「民営化推進派の本当の狙い」が郵貯・簡保の資金が外資系のファンドに流れることにあるかどうかは脇に措いておきます。というの

8月6日広島被爆 8月9日長崎被爆

 被爆から62年、戦後政府はこの重みをどれほど感じてきたのか。 そして、私たちの多くは「平和ボケ」と言われてきたが、基地を抱えた沖縄、米軍・自衛隊戦闘機が飛び交う地域、米海軍の寄港地そして今も戦争状態にあるイラクにさえ他人事として見てきた。 この二度による

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード